ドラペトマニアの休日
閏日の生まれなので、四年に一度しか歳をとらないんですよ。そう彼女は言った。だから人より子供っぽいんですと。近頃はそれこそ年に三回も四回も誕生日のある女としか話してなかったからか彼女の話は新鮮だった。カレーを持ち帰りにするとナンは一枚だけ、けどお店だともう一枚おかわりできるから、私はここで食べるんですと、指先でやんわりと折り曲げたナンの谷に大事そうにカレーを掬うと屈託なく頬張っていく。
以前仕事で一緒だったことがあり顔見知りだった。今もオフィスが集まるこの界隈を派遣で転々としている様子で、冬までは近くの製薬会社で働いているそうだ。先々月だったか、お互い一人でランチをとっていた時に偶然隣の席に座ったことで再会して、そこからはどちらからというわけでもなくカレー屋で会えばご一緒しましょうという流れになり、そのうち取り留めのない会話を楽しめるくらいには打ち解けた。いつも上機嫌な人だった。どうぞなみなみ注がしておくれ、花に嵐のたとえもあるぞ。と、おどけてコップに水を注いでくれる。
彼女に初めて会ったのはたしか一昨年の今頃で、仕事が立て込んでいたときに半月くらいの契約でスポットの派遣としてオフィスに入ってきた。化粧っ気がないのは今と変わらないが、その時は思い切りのいいベリーショートで、両頬を赤く火照らせながら同僚たちに挨拶をして回る様子が、さながら職場見学にでもきた男子中学生のようでずいぶん浮いていた。ハラスメント気質で不機嫌な空間にはどうも似つかわない人だと思っていた。
彼女が働き始めてすぐに私が入館証の手配をすることになり、顔の写真を撮るので背景としてよさそうな白い壁のところまで付いてきてくれるよう声をかけた。「よろしくお願いします。契約期間が延長することもあるでしょうし、あるとあちこち解錠できて出入りも楽なので作りましょう。今週中には発行できますから、そうしたら今首にかけているテンポラリーカードは返却してください」と、歩きながら手短に説明をしたが、それに対して彼女は、はい、とだけ少し思い詰めたような返事をした。
ただそんなふうに口数の少ない人なのかと思っていたら白い壁に沿わせて背筋を少し伸ばすと、なぜか早口でこう言った。「最上階だけあって見晴らしがいいですよね。生まれてこの方本当にこんな湿度のコントロールされた快適なオフィスとかセキュリティとか、それと貴方みたいにスーツを着て働く人もなんだか映画の世界のことでした」と。突拍子もなく言うので戸惑ったが、ただその言い回しはどこか演技じみていたし、既視感というか、以前読んだ本の中にそんな台詞があったような気がして、それがなんだったか思い出せないまま「そうですか」と、いぶかしくシャッターを押した。
彼女は職場では任されていた契約書の整理を黙々と行なっていた。没入するようにテキパキとこなす横顔は印象的だった。その後一区切りつくとすぐに別の部署に行ってしまったので結局ほとんど会話することもなかったが、契約を延長することになったらしく、入館証の権限を3ヶ月追加するように指示があったので、会社にいるのは分かっていたし、経理関連の業務をやっている様子だったがフロアが違うこともあり、実際に見かけることはなかった。ただそのうち同僚づてに裏でユニークなあだ名を付けられていることを知った。彼女は「魔女」なのだとささやかれていたのだ。「言うことをきかない数字を統率し、男の人生をたやすく狂わせる」そういうタイプの魔女なのだという。
そんな噂は話半分で聞いていたし、時間も経っていたのでカレー屋で会うようになってから、頭の片隅にはあったもののあえて話題にすることもなかった。しかしある日、彼女の婚約者の話を聞いてからは立ち入ってはいけない境界の向こう側に踏み込み過ぎてしまったような違和感を覚えた。秘密があるのだと感じた。
そこからは紡がれる言葉の襞に言い知れない何かが塗り込まれていて、まんまと足を取られたとしか思えない程に彼女の情話にはまり込んでいく。昼休みのすぐあとに設けた会議の開始時間も素通りするように手を差し伸べなくなり、それでも頭の片隅では理性が働いているので会議室の椅子まで、それこそナビのように誘導しようとするのに、私の現在地は太線表示の経路から奇妙なほどに外れてしまい、その都度、更新を繰り返すも、やがて穴にでも落下したみたいに痙攣するだけになった。スーツに入れていた携帯の電源ボタンをそっと指先で押しこむことに、なにか小さな生き物の息の根を止めるような背徳感がこみ上げてきたが、その様子を眺めている彼女は穏やかな顔をしていた。この日常に魔女がしれっと潜んでいたのだ。
彼女は婚約者にはずいぶん会っていないという。彼はずっと電車に乗ってるからと。妙なことを平気で口にする。銀河鉄道でもあるまいし。とどのつまり別れたということなのかと尋ねたが、どうもそうではないらしい。やけに焦れた。苛立った。じゃあさシートに浅く座って千ページもある時刻表にむっつり突っ伏してダイヤグラムに耽っているのかと呆れて舌打ちをすると、そうかもしれないけれど、強いて言えば物を運んでいるのだと神妙な顔をした。
もう一年くらいは駅から出ていないはず、かわいそうな人。大事でないことすらスケジュール立てて時間をかけて細かく口に出すようなところがあったから。そこで彼女は声を少し詰まらせると俯いて、テーブルに涙をぽたぽたと落とした。そしてそのしずくたちを中指の先で隠して線を引くように繋ぎながら左右に繰り返し伸ばすと、さらに語調が怪しくなった。
往路と復路をこうまるで同じ話を何度も巻き戻すみたいにね、いくつものダイヤをなぞって終点まで行ってもやっぱりそこには何もない。終わりにすることもできずに気の遠くなるような言い訳を、繰り返し流れていく街並みに当て擦るんだろうな。
あまりに冗長にふざけた事を言うのでうんざりして、もうとっくに降りたんじゃないかな、そもそもなぜ電車に乗り続けていると断言できるんだと問いただした。すると彼女は、電話で、という。彼は電話にでる。そして、今電車だから切るね。またね。と、いつもそう言って切ってしまう。最近はすっかりかけたりしなくなったけど。あとあの人は詩が好きだったから、あちこちの駅に詩を落書きしているみたいで、実際にいくつか見つけたことがある。と、瞳にわずかな高揚を浮かべた。
そんな稚拙な軽犯罪を、と皮肉で返すと、それは内容によって判断してほしいという。彼女はそそくさと手帳を取り出して、これが駅の伝言板に書かれていたのだとメモをみせてくれた。タイトルのところには小さな一匹の魚の絵。その詩から察するに、群泳するイワシの密集に紛れつつ、追い立てるクジラの悪意の分析もきっちりと済ませていながらも、熟知した路線を1㎜すら変えることもできずに逃げ続けている煮え切らない男の話が綴られているようだった。
思わず、あなたから逃げている?と、さすがに辟易して手帳を閉じて突き返した。いえ、そうじゃなくて。そうなんですよ、と、強引にやりこめることで、ようやく呪術を振り払うことができたように感じられた。だってそうじゃないですか。携帯の電源を入れる。
私はその男のことをドラペトマニア(熱狂的逃亡者)と呼ぶことにした。そして、彼女からドラペトマニアの番号を聞き出した。意外とすんなり教えてくれたので拍子抜けしたが、メモ代わりにワン切りだけすると、間髪入れず同僚からの着信が電源を切っていた間にあったことが通知される。もし、その人を電車で見つけたとして、ホームに引きずり出したらどうすればいいのかと、椅子から立ち上がり、勢い余って捨て台詞を投げつけた。
すると黙りこくると思いきや、あちこちに行ける定期をもっているので、それを取り上げられたらもうあんな生活は続けられるはずがないと思う。と彼女はどこかすがるように言った。その表情に腹が立った。なんて愚かな時間を過ごしてしまったんだ。彼女の連絡先を聞き出そうとしたはずなのに、得体のしれないドラペトマニアの番号を手に入れてその場を去る事になってしまった。
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いつの頃からだったか、私はすっかり酔いどれてしまっている。それはふいに自らの淪落を自嘲する瞬間があるという類のものではなく、この人生が足すらまともに立たないほどに破綻しかけている痛切な実感があるのだ。
そんな私に容赦もなく酒を注ぐ跳ねっ返り者の正体については付き合いも長いわけでよく分かっている。それは青臭い信念だ。これをいっそそこらの川に流すことができればいいのだろうけれど、頑なに付き纏っては幼稚な問いかけを飽きることなく続けてくる。
だからこちらも正当な言い分を飲み込ませるために暴力で痛めつけることになる。例えばガムテープで場当たり的に自由を奪っていくように。それはある意味で修繕であり手当だと言ってもいい。この日課ともいえる行為の最中に感じられるしつこい粘着こそが私の生活と信念の間でのやり取りとして明確に存在しているのである。
そして今夜、東京駅の上に浮かんだオレンジ色に潤む半月の美しさに、まんまと一杯食わされてしまった。頬擦りしても酒瓶のなかに浮き輪が投げ込まれることはない。それが人生。甘えをみせればただ溺れていくだけだ。だから弱りきった胃に勢いをつけて流し込む。この液体は私を教育してくれる。瓶の底に佇んでいるガラス細工のサボテンをみつめる。
可哀想に、ぼんやりしてる隙に武則天にはめられたのだ。組織のなかで生きるという事がこういうことだとしても、こっちは今のところサボテンと話すばかりの髭犬なんかになるつもりはさらさらない。
それでも上からの嫌がらせを下にいなして振り込まれるような金を、なんの葛藤もなく建設的に使うことのほうがよっぽど間違いで、むしろ風呂にざぶんとつかって垢を落とすように手放してしまいたいのだ。酷吏にも良心というものがある。明日は休みだからと飲み続けて気がつくと店にキープしていたはずのポルフィディオを片手に地下鉄のホームにひっそりと倒れていた。こんなことは秋までだ。こんなことは続けられない。
なんとか自動販売機に背中を預けて、熱病に近い度数でとどめを刺す。締めの儀礼で口に含むつもりだったがどうも入れ過ぎた。もはやとても帰れないだろう。その液体はぬるぬると喉を焼きながら流れていった。そしてふと数ヶ月前にオフィスの隣のシマから消えていった男のことを思い出させた。
その男は指示を受ける度に付箋をデスクにペタペタと貼り付ける癖があった。詩を落書きするというドラペトマニアもそんなふうに湿っぽく働くだろうかと、どこかその男の印象を見知らぬドラペトマニアに重ねて描写してみる。
なんにしても男はタスクの優先度を生真面目に色分けして並べているらしかったが、すぐに追いつかなくなってモニターの枠まで付箋だらけになり雑然と混色していき、私はいつしかその色合いに引き込まれていった。
並びが乱れるほどに、なにか一廉のアーティストのような心持ちになって、その筆致に情熱を傾けはじめると、すぐにその絵の完成を急ぐようになっていた。かけるストレスの緩急は発色に反映されていく。
いつしか筆はおれてしまったが、結果的には粗悪なその品質を見抜いたことを評価された。オーダー通りだった。ただそれを上に伝える電話を手短に切り上げた。そんなことよりも気になっていたところに色を運べずに焦れてたまらなかったのだ。私は自席に貼られていた付箋を一枚剥がして噛んでいたガムを包んで捨てると、もう一枚新しい付箋をペリッと摘んで、辞めていった男のデスクに静かに近づいていって、慎重にそっと貼り付けると大きく息を吸い込んでみた。
これがなんとも清々しい気持ちにさせてくれる。口に残るミントが鼻からゆっくり抜けていく。つまりこれは主題となる中途半端な粘着が非常に心地よく感じられるからだろう。しかしその高揚も束の間、私が出したいくつもの指示が走り書きとして並んでいる中に埋もれた一枚の付箋に強い違和感を覚えた。そこには一匹の魚が描かれていた。これはなんだ。触ろうとすると身を翻して付箋の下に潜り込み、そのままカラフルに浮かぶ睡蓮の裏っかわをスイスイ泳いでいく。
その魚を掴もうとした手のひらの冷たい感触に目を覚ました。喉が焼けるほど渇いているのに体が自由に動かせず、背中越しに鈴なりに整頓されている飲料にどうしても手が届かないまま、すっかり意識が遠のいていたはずだったのに、どういうわけかそれこそ言葉どおり喉から手が出るほどに求めていたものが、酒瓶の代わりにペットボトルに入ったミネラルウォーターが握らされていた。
その冷えた気配は救いそのものとしか形容できないほどだった。口からでも鼻からでも流し込みさえすれば世界を洗ってしまえるような、そんな期待をたたえている。
しかしもう片方の手で握った携帯をみると、そこにはドラペトマニアの番号に何度も発信を繰り返した履歴が残っていた。そしてたしかに彼は電話に出た様子だった。ぐってり泥酔した頭でも一瞬背筋を凍らせる。まさか無意識のうちにここに来るよう呼びだしてしまって、それに応じてドラペトマニアが現れて、ペットボトルを手に握らせたのだろうか。
もしそうならこの液体を口にしてしまうのはもちろんのこと、開封することすら非常に危険なことのように思えた。これはすべて閏日生まれの魔女があつらえた落とし穴なのではないかと警戒心が働いた。いつの間にかその誘導にのせられていたのであればゾッとする。ピンを立てられたとするなら、あのオフィスにいた頃か。写真を撮った際の彼女の表情が薄ら浮かんだ。
しかし苦しくてどうしようもない。ビニール袋を頭に被せられたみたいに一寸先の空気を失っているのだ。悪い予感が指をかすかに震わせるが構いはしない。ざまあみろ。この街にも冷めないほとぼりを。そんな嫌悪感にも押されてキャップをぐりっと回す。封が切れる音。線路を伝ってくる振動。
「私の誕生日を今まで通りお祝いしてくれる人もいれば、憎むようになる人もいる。でもその方がやっぱり嬉しいですよ。そうなってほしいんです」
そうだ。彼女がいつか呟いた謎かけのような一言が、するりと解けた。いまだに地下鉄は水没したままなのだ。舞台は複雑な網状流路のいたるところに発生し得る。その暗い水中を誰にも気づかれずに泳いでいけるのならなおさらだ。ペットボトルの口を貪るように咥えて飲み干すとミネラルウォーターは体の隅々にまで行き渡っていった。そしてふいに小さな魚が一匹、私の体にも紛れ込んだように感じられた。
ちょうどホームの左右どちらにも電車が滑り込んでくる。パラパラと乗り降りをしていく人波は、あまりに何食わぬ顔で通り過ぎていくので、スクリーンに映し出される映画のようにみえた。彼らの足音はこの心拍に比べれば乱れているわけでもなく、また弛緩した瞬きのようにもたつくこともなく消えていく。
閉まるドア。考えすぎだった。脳漿にまで入り込んだアルコールが思考を飛躍させたに違いない。
しかし車内からドアのガラス越しにこちらを眺めている一人の男の視線が妙に気になった。
ああ、あんたが点と線を自由に泳ぐからといって、溺れる私を得意げに憐れんでいるのか。それなら次に見つけたときは非常停止ボタンを押してやる。ドアコックを捻ってそこから引きずり出してやる。
信じるもののためにすべてを絶え間なく犠牲にしても、その美しい日々の訴えに対して、もはやわずかな救いですら問屋が卸さないことを分からせてやるのだ。
なんてことはない。ドラペトマニアにだって休日があってもいいはずだ。