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介護と暮らし

 昨日、母の入居しているグループホームに行った。母はアルツハイマー型認知症で2022年5月から市内のグループホームで生活をしている。


母の異変から


 12月で78歳になる母の様子に異変を感じ始めたのは父が他界した2014年以降。今から10年前になる。2015年6月頃に初めて母は、精神科を受診した。その時は認知症という診断ではなく、同居の祖母との確執による精神的ダメージ、と。回避するには祖母と物理的に離れることが一番、といった医師のアドバイスがあった。でも、当時は現実的にそれは無理だと判断した。

 2014年7月に父が肺がんで他界し、9月から私は地元の幼稚園で障がいのあるお子さんの支援の仕事に就いた。そして、2015年4月から福祉系の通信制大学に編入学し、働きながら保育士・幼稚園教諭等の資格を取得するための生活を送るようになっていた。

 その当時は、85歳の祖母と68歳の母、3歳年下の末の妹と40歳だった私の4人暮らし。祖母と母の確執は祖父が他界した2008年以降から加速してきたが、父がいたことで少しは違った。しかし、父の他界後は衝突が増え、私が仲介することが増えた。そして、2016年にも母の精神状態を私が心配し、脳外科を受診。そこでも認知症とは診断されず、精神科受診を勧められた。知り合いから勧められた心療内科のドクターは初老で、母に「年配者を敬うことが大事」とある意味我慢を強いるような助言をした。そして、私も母に我慢を強いるようなことを口にしていた。

 そんなこんなしているうちに、2016年8月に次女の妹ファミリーが4人で中国から移住して、私たちと同居することになった。1歳下の妹、中国人の義弟、幼稚園年長(6歳)と年少(3歳)の姪がやってきて8人家族に。一方、末の妹は当時付き合っていた彼と入籍の話が進んでいた。

 次女の妹は1時間以上かけて都内勤務で、義弟は当時無職。姪2人のサポートにもかかわることになり、私は母と祖母のことより姪たちの方に一生懸命になっていった。また、文化の違いによる妹夫妻と私の衝突も度々あり、母にかかるストレスも大きかったのではないかと思う。そんな中で、母の状態もほんとうに悪くなっていってしまった。

 そして歳月の経過とともに、私は大学の学びや定期的に入る幼稚園の仕事をしつつ、姪2人のサポートと母と祖母の介護に追われる日々を送るようになっていた。そんな中で「かいていきたい」と思うようになった。

 2024年10月末現在、母は市内のグループホームに入居しており、祖母は市内のケアハウスに入居している。入居に至るまでの道は、いろいろとありすぎて、その過程は少しずつ記していきたい。介護に悩む人はたくさんいるだろう。私自身の経験が介護にかかわる誰かの参考になれば、とnoteで介護体験も投稿していきたい。

 今日は、みんな一緒に暮らすのが一番だと思っていた当時の私が記したエッセイをお届けしたい。


2021年2月23日                      
エッセイ「暮らし」


 母と祖母の「物忘れ」が進みどのくらいになるだろうか? その物忘れからくる様々な現象に、神経を尖らせ、介護の負担に悩んだり、苦しんだりしてきたと思い込んできた私。2人を自分の思うようにコントロールしようとしていたから悩みや苦しみが生じていたのではないか、と思うようになっている。父が他界してから6年半余り、難病ではあるが、病状が安定してくれていた。責任もできたが、自由を手にし、自分のやりたいことを優先してきた。気がつくと、我利我利亡者と化していた。
 
 そもそも「(自分が使ってきた)介護」って上から目線なようにも思えてきた。母や祖母にかかわる私自身の心の持ちようを変えるべきではないか、と。そのことを友人に伝えると、彼女は「『介護』という言葉はあまり使ってこなかった気がするし、極端な話、育児という言葉もあまり気に入ってない。そこには暮らしがあるだけで、年を取った人と暮らしている、小さな人と暮らしている…気のもちようではなく、そこにはどんな人と一緒に暮らしているかという現実があるだけ。」と語ってくれた。
 
 誰かと暮らす現実。それは、日常。そこに善し悪しはない。日常のなかの出来事に一喜一憂して暮らしているのは私の問題。土井善晴がこんなことを本で述べていた。

 イチロー選手など世界で活躍する一流のスポーツ選手は、ヒットを打っても打たなくても、一喜一憂することはありません。日常は常に冷静でいることが望ましい。だから、次の打席で繰り返しヒットが打てる。彼は日常を高めるという、総合的な質を大事に考えられているのだと思います。それによって、ヒットを打つ確率や偶然を取り組む直観力を意識的に磨いているのでしょう。

 でも私はイチローにはなれないから、逆手にとって、一緒に暮らす人と味わう一喜一憂を大切にし、日常を高めたい。誰かと一緒に喜んだり、誰かと一緒に悲しみを共有したり。時には、喧嘩をしたり、労わりあったりする暮らし。そうやって誰かと一緒の暮らしに彩を加えていけば、自然と愛が育っていくのではないかと思うからだ。一緒に暮らしている母や祖母、妹や義弟、そして可愛い二人の姪。一緒に暮らしていなくても私の中で一緒に生きている人たち。その人たちも私の暮らしの一部。誰かを想いながらの暮らしが私の日常だ。一人ひとり違う人間が一緒に暮らす日常は、無常でもある。いつまで一緒に暮らせるかも分からない。だから、今の暮らしを丁寧に送りたいと思う。


2024年10月29日

 「一緒に暮らすことが一番」と思っていた私だが、それから1年半も経たないうちに、離れて暮らす選択をすることになった。そして、今、母も祖母も離れてはいるが、一緒に暮らしていた頃より穏やかに生活を送っている。

 そして、物理的に離れたことで、程よい距離感でお互いを思い合え、以前より関係がよくなったと今は感じる。

 泣きはらした顔が続いた母は笑顔が増えたし、怒ってばかりいた祖母は労いの言葉が増えた。環境は人を変える。

 母のアルツハイマー型認知症は確実に進行している。3姉妹で医療機関や施設の職員と話し合いを重ね、母が安心して暮らせる環境づくりを行うように努めている。

 介護だけでなく、さまざまな状況下で苦しんでいる人がたくさんいると思う。そこから抜け出すきっかけは千差万別だとも思う。私が苦しみから逃れるきっかけになったのは、家族以外の他者(特に彼)とつながってきたことが大きかった。

 どうか一人で抱え込まないで、と伝えたい。

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