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縛られ、工夫し、創造する -中村桃子『「自分らしさ」と日本語』

 この連載では、ある添削士が新書の中高生向けレーベルから毎回1冊を取り上げ紹介します。中高生の読者に向けて書いていますが、知的好奇心の強い小学生、学び直したい大学生や大人の方々が読んでくださるのも大歓迎です。

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「ぼくは望んで妊娠しています」
 価値観の多様化と医療技術の進歩により、ついにヒトのオスも妊娠できるようになった…わけではない。上の一節は、タレントの最上もがさんが2020年11月、第1子を妊娠したことに関連して自身のSNSにつづったことばである。
 このことばに関し、言語学者の中村桃子は次のように述べる。

 右の見出しを見て、いよいよ男性も妊娠できる時代になったのかと考えた人は、「『ぼく』は男性の自称詞だ」という考えに凝り固まっているのかもしれない。 

中村桃子『「自分らしさ」と日本語』(ちくまプリマー新書、2021年)p.96

 私の考えは凝り固まっていたようだ。この記事を読んでいるあなたは、どうだろう。
 一人称を使うことに性別は関係ないはずである。だが、私たちはある一人称を特定の性別と結びつけて考えてしまいがちだ。同じ「男性の自称詞」でも、「僕」と「俺」とではイメージする男性像が異なる。ことばとアイデンティティ(「自分らしさ」)は強く結びついている。
 中村桃子『「自分らしさ」と日本語』(ちくまプリマー新書、2021年)は、ことばとアイデンティティ(「自分らしさ」)の関係を考えるための一冊である。分野としては、ことばを研究する言語学の中でも、ことばと社会の関係について考える「社会言語学」に分類される。

 筆者はこの本のねらいを次のように述べる。

 このように本書では、アイデンティティを表現する材料としてのことばの大切さを指摘すると同時に、それでも、ことばでアイデンティティを表現するには制限があること。それにもかかわらず、私たちは、ことばを工夫して使うことで、何とか表現したいアイデンティティを創造しようとしていることを明らかにしていく。制限があるからこそ創造が生まれるのだ。

中村桃子『「自分らしさ」と日本語』p.9

 筆者はこの目的のもと、「名前」「呼称」「敬語」「方言」「女ことば」といった身近なトピックから、ことばとアイデンティティについて考察している。例えば、冒頭にもふれた「呼称」については第3章で取り上げている。

 第3章 呼称 では、女性が一人称に「ぼく・おれ・うち」を使う、という話が出てくる。一人の男性(この記事を書いている人)からすれば、「うち」は不思議な一人称である。小学生の頃、クラスの女子たちが使っていた。そしていま、塾の先生として接する小中学生の女子たちも、一部は「うち」を使っている。誰が引き継ぎをしたわけでもなく、自然に「うち」は受け継がれている。女性が「うち」を使うことには、年代を超えた意味合いがありそうだ。
 筆者は、女性が「ぼく・おれ・うち」を使うことの意味を次のように述べる。

 少女が「ぼく・おれ・うち」を使うのは、決して男のようになりたいからではなく、そもそも日本語には「〇〇ちゃん」から「わたし」へと突然「大人の女になる」自称詞しか用意されておらず、〈子ども〉でも〈女〉でもないアイデンティティを表現する言葉がないからなのだ。
 このことに気づくと少女の用いる「ぼく・おれ・うち」は、むしろ新しい〈少女性〉の創造であることがわかる。この意味で、少女の言葉遣いは、言葉の不足を超越した創造的な行為だといえる。自分たちにぴったりのことばがない以上、これからも少女たちは様々な自称詞を創造し続けるだろう。

中村桃子『「自分らしさ」と日本語』p.93-94

 一人称は、私たちが普段よく使うことばのひとつである。だが、その何気なく使うことばが、私たちのアイデンティティの表れなのだとしたら。ことばとアイデンティティの関係を示す部分を再度引用しよう。

 このように本書では、アイデンティティを表現する材料としてのことばの大切さを指摘すると同時に、それでも、ことばでアイデンティティを表現するには制限があること。それにもかかわらず、私たちは、ことばを工夫して使うことで、何とか表現したいアイデンティティを創造しようとしていることを明らかにしていく。制限があるからこそ創造が生まれるのだ。

中村桃子『「自分らしさ」と日本語』p.9

 ことばは、私たちのアイデンティティを縛るものであり、しかし同時に、それをどう使うかによって、アイデンティティを創造できるものでもある。女性が「ぼく・おれ・うち」を使う現象には、ことばとアイデンティティの関係の複雑さがよく現れている。

 普段何気なく使っていることばも、学問の知見を借りれば見方が変わる。今まで誰も知らなかった新しいものごとを発見するだけが学問ではない。当たり前のように存在し気にも留めないものごとについて、新たな見方を提示することもまた、学問である。それが文系、特に「人文系」と呼ばれる研究分野の存在意義だ。

(藤崎尊文)


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