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AIにはまだ書けない、コスパの悪い感想文

読書感想文が書きたくなりました。
レビューではありません。あくまで偏見にまみれた、わりと読むのが面倒くさいタイプの感想文。そんなものを少しづつ書くつもりですが、今日はひとまず、本を読むことや書くことについて。


そもそもですが、僕は本当に本が好きなのか正直わかりません。
「本好き」って何なんですかね。文芸作品の鑑賞が趣味だということでしょうか。
読書習慣はあります。だいたい3冊くらいを並行して読んでいて、読むものがないと落ち着かない性分です。でも別に本だけが特別な存在なわけではなくて、音楽を聴いたりネット動画を見るのとそんなに大きくは変わりないような気もしています。

出版不況と言われて久しいですが、一応メジャーなコンテンツとして(ジャンルにもよりますが)終わってはいないようで、本はいまだに巷に溢れ、本屋の平台には入れ替わり立ち替わり新刊が並び、部数や質はともかく刊行される書籍の数は増え続けているらしい。
考えれば「本」業界は不思議です。
たとえば、本という大雑把な括りで、純文学から、ライトノベルに代表されるようなエンタメ、実用書にいたるまで、性質の違うものが同様に扱われます。「本」という単位を、デザインや物質性までを含めたパッケージされたものだとするなら、そこからテキストだけを抽出した電子書籍は、何なんでしょうか。
また、ネット上に溢れる本の内容の要約や解説動画を見るのと、自分で読むことは何が違うのでしょう。

君は、なぜ本を読むのですか?
どうやって本を選びますか?
また、毎日たくさんの「#読書感想文」が投稿されていますが、何ゆえに君は、読んだ本の感想を好んで垂れ流すのでしょう?


僕たちは、快楽や刺激を求めて、日々、コンテンツを消費します。

自分が海のものとも山のものともわからないような頃、なんでも吸収しようとする時期、アンテナに引っかかった本とか映画とか音楽を片っ端からチェックするというような経験を、少なくともある世代以上の人ならしてきたかも知れません。
読んだり見たりしたものについて、ああだこうだと結論の出ない話をしたり、つまらないものも理解できないものも含め、とにかく大量の作品を通過させる体験を血肉として世界を広げてきたでしょう。
しかし、ある程度、自分が形成された後には、その世界の外のことに構わなくなります。大人になると、ただでさえ仕事とか家庭とかで忙しいですから、効率的に自分の世界を充実させてくれる物事だけを取り入れたい、と考えるのも仕方ありません。コスパよく、快楽や刺激を得ることが大事、というわけです。

現に、生活の中からどんどん無駄が省かれています。いろんな手続きがショートカットされて合理的になってきているし、日に日に賢くなるアルゴリズムが、好みに合った映画や本や音楽をおすすめしてくれる。わざわざ探さなくても、自分を気持ち良くさせてくれるものだけが、自動的に大量に流れてくるのだから非常に便利なものです。
むしろ与えらるものの総量が増えすぎて、タイパという概念が出てきたのは、若干、衝撃的ではありましたが。

コスパ、あるいはタイパを重視する態度の是非はともかく、いわゆる一般的に言われるコスパやタイパの評価はあまり信じない方がいいと僕は思います。何が無駄で何が必要かなんてそれぞれ違うし、だいたい生きていること自体がコスパやタイパの悪過い体験や周り道をすることなんです。
現代は情報過多には違いないので、精神衛生上も不要なノイズのカットは必要です。しかし、自分が欲するものだけにしか触れなければ視野狭窄になってしまいます。快楽への感度が麻痺し、いずれ与えられるものに飽き足らなくなり、タイパという名目でコンテンツを貪ることになってしまう。
世界を広げ、感度を落とさないためには、意識的に無駄や異分子を取り込んでゆく必要がある。適度にノイズを摂取する必要があるのです。

本屋に行くこと、読書することは、僕にとってノイズを摂取する方法のひとつとなっています。
もちろん、現実逃避や快楽を期待して本を手に取ることもあります。情報や知識を得る目的の時もあります。
しかし、それ以上に、僕が本に求めているのは、「読む体験」で得られる微細なノイズなわけです。他の誰かのアウトプットに含まれる自分の中にはない成分、未知のものというノイズに触れること。そして、その先にあるであろう、何らかの解答や糸口を求めて本を読むのです。

未知のものや異分子はストレスです。拒否反応を起こすかも知れない。しかし、そのストレスが、世界を広げ、成長や進化を促す因子なのです。
極端なことを言ってしまえば、内容はどうでもいい。純文学でもラノベでもいいんです。大事なことは、そこから自分が何を発見できるかです。発見は感動です。

そういった体験へと導くひとつの回路として、個人の偏った感想などがあるのかも知れません。ネット上に張り巡らされた、他人のフィルターを通してアレンジされた無数の回路。
誰かの主観が過剰に混ざった文章は、帯に書かれた著名人の推薦文よりも、中立を装ったレビューよりもよほどのインパクトがあって、時として、人を予想もしないところへ連れてゆく力がある。
リスク回避はほどほどに、たまには頭のおかしい誰かの戯言に騙されてみる。そんなことが結構重要なんです。


まあ、そんなように思うわけですが、感想文を書くときには注意しなければならなことがあります。
うっかりするとやってしまいがちなので、自戒を込めて書きます。
決まった立ち位置で内容を判断したり、褒めたりケチをつけたりしないこと。評価なんかはどうでもいい。君や僕のすることじゃない。
それよりも、君が何を発見したのか、何に感動したのか、作品を通過させた前後にどんな変化か起こったかを書く。
肯定的なものじゃなくても構わない。どんなつまらない本にだって必ず何かしらあるものです。何もない(と、感じる)のは自分の責任で本のせいじゃない。書くに値しないなら書かなけりゃいい、それだけです。

動画とは違って、本は余白が多いメディアです。文章は文字という記号の羅列でしかなく、実はとても曖昧なもの。
ゆえに拡張性が高く、受け取り方の自由度が高いとも言えるのです。だからこそ、本や文章はおもしろく、受け取り手の創造性を触発するものだと思います。

内容の要約ならchatGPTが書いてくれます。
しかし、その本が君の中にどんな種を落としたか、その種が、君がそれまで蓄積してきたものとどう繋がったか、ということは、君にしか書けない。(将来、膨大なデータをもとに君の神経回路や思考を再現したAIが、それに近いようなことをするようになるかも知れませんが。)
種がどう発酵し、何が芽生えたかを語ることは、君だけが他人に与えうるノイズなのであり、そのノイズが、誰かの世界に風穴を開けるのです。

見える世界を広げ続けること。
見えている世界が広いほどより多くの面白いことがある。そして、自らもノイズを発して種をばら撒き続けることで、世界に面白いことが増えるのです。
それこそ、コスパは最高じゃないでしょうか。



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