【映画考】”物語”の魔力 〜『フュリオサ』と『ジョーカー』2部作〜
以下の作品のネタバレをしています。
鑑賞後にお読みください。
物語を紡ぐもの/物語を解くもの
スクリーンでは、今日も物語が描かれる。2024年に公開されたある2本の映画は、対照的なアプローチで”物語”を眼差していた。
現在進行の神話
『マッドマックス 怒りのデスロード』の前日譚である『マッドマックス:フュリオサ』では、『怒りのデスロード』で登場した戦士・フュリオサの若き日を描いている。『フュリオサ』で最も重要なシークエンスは、終盤、フュリオサが宿敵のディメンタスを処刑する場面だ。
フュリオサがディメンタスに復讐を果たしたとき、どのように達成されたのか。明確に描かれてはいない。頭を撃ったのかもしれないし、磔にしたのかもしれない。はっきりとした真実を知るものは存在しない。
ただそこに存在するのは、フュリオサがディメンタスを殺害したと語る、語り部だけだ。
該当のシークエンスから登場した語り部は、『怒りのデスロード』に連なる場面までを語り、映画は終わる。そこで観客は「この映画は、語り部が語っていた物語に過ぎなかった」と思い知らされるのだ。
ジョージ・ミラーほど、"物語"および"語り部の存在"を意識している映画監督はいない。彼の作品群を観ると、一貫して"物語"を"語り部"によって紡ごうとしている。
その妄執的とも言える思いが結実した作品が『アラビアンナイト 三千年の願い』である。これはジョージ・ミラーの物語論そのものが、一本の映画として析出した作品であった。
孤独だが充実した日々を過ごす学者・アリシアは、物語論の講演のため訪れたトルコのバザールにて、小さなガラス瓶を購入する。ホテルで瓶を磨いていると、中から魔人が現れる。
ジンはアリシアに「願いを3つかなえよう」と申し出るが、日々の生活に満足しているアリシアは固辞。するとジンは、3000年ものあいだ瓶に閉じ込められていた顛末を語りだす。
というのが基本的な筋立てだ。
『アラビアンナイト』では、神の視点≒第三者的に描かれる描写はない。ジンは徹底して自ら語る。あくまで、ジンもしくはアリシアの肉体から紡がれたものだけで構成された映画が『アラビアンナイト 三千年の願い』だ
物語のもつ力
『アラビアンナイト』で示された問いは、「高度に科学技術が発達した現代において、物語は存在価値を持つか」であった。
古代、人々は「雷」は神の怒りだという神話を当然のようにもっていた。
科学技術が進歩するとともに、「雷」は神の怒りではなく、雲の摩擦によって発生する静電気へと変容し、神話はその力を失った。
これは、現在作劇を生業とするジョージ・ミラーの存在そのものにかかわる問題である。
だからジョージ・ミラーは、語り部によって物語を紡ぐことにこだわる。すなわち、それはストーリーではなくナラティブであるということだ。
ストーリーには力が無く、ナラティブにこそ力がある。とジョージ・ミラーは考えているのではないか。語り部の存在がある物語、肉体性を伴った物語こそ、次の神話を編み出すのだ。
『マッドマックス:フュリオサ』には、大きく分けて2つの勢力がある。ディメンタス率いる勢力と、イモータン・ジョー率いる勢力だ。作中ではリーダーの統率力が対照的に描かれる。
イモータン・ジョーは、彼のために命を投げ出すウォー・ボーイを多数抱える。
ディメンタスは、部下の暴走を止められずに内部崩壊を引き起こす。
2人の支配者の違いは、"物語"をもつかどうかだ。
ウォー・ボーイたちは「イモータン・ジョーに殉じれば、英雄の館へ行ける」という物語を信じている。が、ディメンタスの部下たちはそのような物語をもっておらず、単に資源を奪い、権力者になることだけを目的としている。
物語の力は恐ろしく、強大だ。現実の戦争においても、士気を高揚させるのは往々にして物語である。「約束の地を奪還する」「我が民族は不当に抑圧されている」「我らの神の正当性を世界に知らしめる」という物語の下、今現在も数多くの犠牲者が出ている。
あらゆる超越の真相が白日の下に晒される昨今。信じられる物語、自らを委嘱できる物語こそ人々が求めているのではないか。
ジョージ・ミラーは、フュリオサの神話を作ろうとして『フュリオサ』を撮った。
それは大きく2つの理由がある。
1つは、"物語"がジョージ・ミラーの生涯のテーマであるから。
そしてもう1つは、イモータン・ジョー亡き『怒りのデスロード』以降の世界で、フュリオサが新しい指導者となるためには、それに代わる物語が必要であるからだ。『フュリオサ』を語り部が語っているのは『怒りのデスロード』以降である可能性を否定できない。
スクリーンの内側と外側で、物語を紡ぐ必要があるからして『フュリオサ』は制作された。
物語のもつ力。それを信じ、突き詰めるジョージ・ミラーと対照的な作品が公開された。
トッド・フィリップス監督の『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』だ。
正義は我らに在り
『ジョーカー』以降、ジョーカーというキャラクターは、圧倒的な悪のカリスマではなく、社会に抑圧されたものの象徴へと変容した。
トゥレット症をもつ貧しいピエロのアーサー・フレックは、徹底的に社会から受容されない。同僚のピエロから疎まれ、街では他人に絡まれ、隣人と交流できず、ジョークは嘲笑される。バスの中で赤ん坊にみせた優しさは、いとも簡単に無碍にされる。
どんなことをしても、認めてくれる人がいない。たった一つ、エリート証券マンを殺害した時を除いて。
アーサーの激情は、ゴッサムシティを巻き込むムーブメントとなった。社会に不満をもつ人々はピエロの仮面をつけ、資産家、政治家など"上"の人間を攻撃しはじめた。「KILL THE RICH」と叫ぶ群衆は、偉そうなトークショーのホストを殺害したジョーカーを支持した。
そうしてジョーカーは、ただとこに存在する悪ではなく、人々の思いから作りあげられてゆく。抑圧された、私たちの代弁者として。
映画は現実世界にも影響を及ぼした。
世界中でジョーカーのメイク・仮面をつけた若者が行動を起こし始めたのだ。レバノン、香港、イラク、チリでは、反政府デモの参加者の多くがジョーカーに扮していたことは報道のとおりである。
日本でも、ジョーカーに扮した若者が電車に火をつけ、乗客を切りつけたことは記憶に新しい。
ジョーカーに扮することは、抑圧への反抗や、反社会的行動へのステップなのだろうか。いや、そうではない。根源的にいえば、「いま、わたしはここにいる」という存在証明の叫びだったのではないか。
社会から取り残された(もしくは、取り残されたと感じている)人々の心にある叫び。それを『ジョーカー』のジョーカーは掬い上げたのだ。
しかし本当にそうだろうか?
『ジョーカー』のジョーカーは、最後に「ジョークを思いついた」と言い、しかもそれを「理解できないさ」と嗤う。
アーサーの真意はなんだったのか。ジョークとはなんだったのか。
仮に、『ジョーカー』で描かれたアーサーの物語が、すべて精神病院にいるジョーカーの作り出した虚構だったとしたら? アーサーへの抑圧も、不幸も、すべてジョーカーの作り出したジョークなのかもしれない。
もしそうならば、人々が扇動されたジョーカーという男は、いったいどこにいるのだろうか。
信じる者だけが救われる
前述のとおり、物語の力は恐ろしく、強大だ。そして人々は、自己を委嘱できる物語に溺れたい欲求がある。
と同時に、人々は見たいものだけを見て、見たくないものは見ない。自分にとって都合がいいように、物語を歪めてしまう。だから『ジョーカー』でのラストの問いには目をつむり、否応なく現れる厳しい現実へのカウンターとしてのみ、ジョーカーを機能させてしまうのだ。
すでに刃はこちらを向いていたのに。
続編の『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』では、ジョーカーに憧れる人々の姿を、リーというキャラクターに投影させている。
リーとアーサーはアーカム州立病院で出会い、恋に落ちる。しかしリーはジョーカーの熱狂的なファンであって、アーサーを求めてはいなかった。
シーザー・ロメロ、ジャック・ニコルソン、ヒース・レジャー、ジャレット・レトが演じたジョーカーは、圧倒的な悪のカリスマとして存在していた。特異点たるジョーカーは、社会の構成員たる人間であることを拒否している。それは大富豪として社会にコミットしながら、夜にはヒーローとして戦うバットマンと対照的な存在だった。
しかし、『ジョーカー』にバットマンはいない。バットマンという具体的な相手を欠いたジョーカーが対峙するのは、「金持ち」や「上流階級」などの抽象的な概念だ。つまり、アーサーはただそこにいる人々の怨念を請け負う役割=ジョーカーを背負わされただけにすぎない。
リーはアーサーにメイクを施し、「本当のあなたを見せて」と迫る。"本当のあなた"とは、子どもを見かければ変な顔であやし、ハンディのある同僚に優しくし、病気の母とつつましく生きるアーサーなのに。リーはそれを認めようとしない。ジョーカーであること以外に、アーサーを愛する理由が無いからだ。
そうしてアーサーは、アーサーとジョーカーとの間で引き裂かれていく。
アーサーは、リーの理想に近づこうと努力する。今まで誰も自分に見向きもしなかった。しかしリーだけは違った。こんな自分を愛してくれる。
だからアーサーを捨て、ジョーカーとして振舞った。弁護士を解雇し、派手なメイクをしてパフォーマンスに務めた。
しかしそれは、アーサーの首を絞めることだった。
裁判の状況はますます悪化。ジョーカーを担わされたか弱い男には、あまりにも重すぎる荷だった。
最終弁論。ついにアーサーは、ジョーカーから降りる。
「ジョーカーはここにはいない。いるのは僕だ」
ジョーカー支持者の爆弾テロがあり、外へ逃げ出したアーサーを待っていたのは、ジョーカーであることを求める若者と、アーサーに幻滅したリーだった。そこにアーサーの居場所はなかった。
『フォリ・ア・ドゥ』は、アーサーからジョーカーを引きはがす目的で創られた。
アーサーは単なる殺人者である。それを"ジョーカー"として祀り上げたのは、アーサーの物語を信じた人々であった。それは映画を超え、現実世界にも影響を与えてしまった。だから、高く上がったジョーカーを、元居た場所まで墜としたのだ。
考えてみれば残酷な話である。もともとアーサーは誰からも愛されなかった男だ。その男がジョーカーという役割を背負うことで、ようやく他人から受容されるようになったのに。結局それは、また別の歪みを生んでしまった。
愛されない男は、身の丈に合わない愛される努力をするより、ただ死んでいった方が良い。アーサーは終ぞジョーカーになれなかった。ジョーカーを信じることができなかった男は、アーカム州立病院の廊下で敗北した。
信じられないのは当たり前だ。ジョーカーの物語を、誰もアーサーに語らなかったからだ。
そして神話はつづく
こうしてアーサー・フレックの物語は解体された。破壊の免罪符となった『ジョーカー』の神話は、もうどこにも存在しない。
片や『マッドマックス』の神話は続く。ジョージ・ミラーの次回作として予定されているのは『Mad Max: The Wasteland』である。これは、マックスが『怒りのデスロード』に至るまでの前日譚。主演のトム・ハーディが乗り気ではないとの報道が出ているが、それは問題ではないだろう。
『フュリオサ』でフュリオサ役がシャーリーズ・セロンからアニャ・テイラー=ジョイに変更になったように、マックスもまた、キャスト変更すればよいのだ(制作実現には監督の高齢とか『フュリオサ』の興行的不振などほかの要素の方が困難な道となっているが……)。
神話学者のジョセフ・キャンベルは著書『千の顔を持つ英雄』で「あらゆる神話は同一の構造をもつ」と記した。言うなれば、誰が演じても、神話の骨子は揺るがない。メル・ギブソンであろうと、トム・ハーディであろうと、マックスの神話性は揺るがないのだ。
同時にそれは『フォリ・ア・ドゥ』にも言える。
廊下でアーサーを刺した名もなき若い囚人は、自らの口を切り裂いた。街にはジョーカーの恰好をした人が山のようにいる。彼らは未だ、ジョーカーが存在することを望んでいる。
トッド・フィリップスの『ジョーカー』2部作において、ジョーカーとは神話を担う入れ物に過ぎないことが示された。アーサーが退場しても、また新たな人物がジョーカーを背負うだけだ。
事実、SNS上では理想のジョーカー像を表明する声が上がっている。いくらトッド・フィリップスが『ジョーカー』で積み上げた神話を『フォリ・ア・ドゥ』で打ち壊しても、それでもジョーカーの信奉者は存在する。
だから物語は恐ろしい。だから物語は面白い。
ジョージ・ミラーを強く惹きつけ、トッド・フィリップスに危機感をもたせた魔力が、スクリーンには存在する。
(おわり)