メンタルは、身体のどこにある?
あなたはメンタルが強い人ですか?
現代はたいへんストレスの多い社会です。日本では、実に5人に1人の割合で、生涯を通じてこころの病気にかかるとも言われています。
しかし、ケガや風邪などと違って、メンタルの不調はなかなか気付きにくいもの。ましてやメンタルを強くするなど、いったいどうやったらできるのでしょうか。
元プロサッカー選手・内田篤人さんのエッセイ集『ウチダメンタル 心の幹を太くする術』では、そもそもメンタルは「強弱」ではなく、「上下の振れ幅」と指摘します。
サッカーとメンタルと言えば、以前、うつ病で自死の道を選んだサッカー選手について書いたことがあります(こちら)。プロスポーツの世界の重圧に苛まれる選手たちの姿から、正常な精神状態でいることは、かくも難しいことなのだと痛感させられました。
現役時代の内田選手は海外の名門クラブに所属し、ワールドカップにも出場した選手でした。それにもかかわらず、どこか飄々とした、しなやかなイメージがあります。本書でも、体育会系のマッチョイズムとは一線を画した彼の考え方が追体験できます。
中でも、印象に残ったのがこんなエピソードでした。
驚いたことに、内田選手とチームメイトは全く違う部位を指さしました。そして、この違いこそが「メンタルの上下の振れ幅」を抑える秘訣でもあったのです。
メンタルは、心か頭か
メンタルが身体のどこにあるか。内田さんは「心」、外国人選手は「頭」だと言います。僕なりの解釈では、心とは「感情」、頭とは「思考」だと捉えました。
では、感情と思考の違いは何なのか。
それは、ある物事に対し、感情は受動であり、思考は能動だということです。
たとえば、仕事で何かミスをしてしまった時。感情はミスという事実に反応します。落ち込んだり、悔しくなったり、情けない気持ちになったりして、パフォーマンスに影響を与えます。
一方で、思考はミスという事実から「起こった原因」「挽回できる方策」「繰り返さないための対策」などを生み出し、次の行動を形成します。
受け入れるか、コントロールするか
メンタルの定義について、内田さんは感情、外国人選手は思考と捉えています。この違いをもう少し掘り下げていくと、東洋と西洋の外部環境に対するスタンスの違いが浮かび上がってきます。
自然や運命は、東洋ではあるがままに受け入れる思想が発達してきたのに対し、西洋では「どうにかしてコントロールできないか」を考える対象でした。西洋において自然科学が発達したのも、「人間を取り巻く環境は数式で表せる」という前提がありました。数式で表せるとは、つまり「コントロールできる対象」と見なしているということです。
元来、外部環境とは移ろいやすく、不確実性の高いものです。ただ「自然は神様が創造した」前提に立てば、作られたものですから、コントロールするための何らか手段があると考えてもおかしくはありません。
このスタンスは自然だけでなく、人々が生きる社会に対しても当てはまります。とりわけ日本では、自分自身は社会の構成員である意識が強く、「他人に迷惑をかけない」意識が徹底されています。
対して西洋では、かつてホッブズが「人は自然状態では闘争的」と喝破し、国家なり法なりの手段により秩序がもたらされるとしています。自分の周りで予期せぬ変化や脅威が起きたとき、状況をコントロールする手段を持つ思想が歴史的に培われてきたと言えます。
まず自分がいて、その周りに色々いる
とはいえ、外部環境を自由自在にコントロールできるのであれば苦労はしません。『ウチダメンタル』では、ドイツでのチームメイトが自分のミスで失点したのに、周りの選手を叱責したエピソードが記されていました。
このとき、この選手にとっての「状況のコントロール」とは、いかに自分が訴追されないか、評価を落とさないかを考えてふるまうことだったのでしょう。悪く言ってしまえば、責任転嫁…というか逆ギレですね。あまり褒められた行為には思えません。
ただ、僕はこうした行為も悪いことばかりではないと思うのです。失敗の責任を過度に背負って感情を反応させるぐらいなら、自分への影響を抑制する図々しさも必要ではないでしょうか。
先に社会があって自分の居場所を分け与えられているわけではなく、まず自分がいて、周りに色々いるぐらいに社会を捉えてみる。そして、何がコントロールできるのかを考えてみる。これこそ、内田さんが身に付けたメンタルの上下の波を抑える秘訣なのかも知れません。
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