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芸術が教えてくれること

夏休み、お盆シーズン。行楽地はどこも人がいっぱいで、人混みに気が滅入ってしまいますね。

今こそ日常から離れて、芸術に触れてみませんか。

オシャレして美術館に出掛けるのも良いですし、のんびりと芸術祭を散歩するのも素敵ですね(あいちトリエンナーレは物議を醸してますが…)。いやいや、展示に限らずとも、まちには芸術を味わえる建築や公園があったりするんですよ。

芸術って何だかよく分からない…という方、大丈夫です。頻繁に美術館を覗く僕も分かっていませんし、そもそも分かる必要もありません。それぞれが勝手な解釈で、勝手に楽しむことができる、それが芸術の魅力です。

芸術祭、美術館、まち…僕が勝手に楽しんだ記録を書き散らかしたので、覗いてみて下さい。

見えないものが見える|そらあみ(瀬戸内国際芸術祭2019)

まずは、瀬戸内国際芸術祭の作品のひとつ、五十嵐靖晃さんの「そらあみ」です。各集落でのワークショップで編まれた色とりどりの漁網が、海と空の青に映えて美しい風景を演出しています。

この風景だけでも十分に芸術的ですね。海風が心地よくて、気が付けば数十分もボンヤリと眺めていました。人々の手によって丁寧に編まれた漁網が、風に吹かれるたびに膨らみ、また元に戻る。この一連の繰り返しを眺めているうちに、ふと気付いたのです。

僕たちはこの網のはためきで、目に見えない「風」が見えているのではないか、と。

波の音、潮の香り、肌を焦がす陽射し、吹き抜ける風、それらは可視化されません。海の風景写真では再現できない、削ぎ落された情報です。ですが、「そらあみ」の膨らみは、風がどの方向へ、どのぐらいの強さで吹いているのか、肉眼で捉えることを可能にしています。

本来見えないものが、何らかの媒介を通すことで見えるようになる。その「何らかの媒介」がなければ、僕たちは永遠に見えないままの物事があるのではないか。日常にパラフレーズすると、そんな風に思えてきます。

社会や人生には、沢山の問題があります。特に現代は、いかに正解に近付くかという問いから、参照すべき正解自体が消失しつつある時代です。問題の解決を探す以前に、そもそも何が問題なのかさえ、僕たちにはよく見えません。日本の問題は何ですか?あなたの人生の問題は何ですか?そう問われて即答できる人は多くはないでしょう。見えない物事を見えるようにしてくれる存在、それ自体に大きな価値がある。「そらあみ」はそんなことを考えさせてくれます。

僕たちが置き去りにしたもの|さいごのウエポン(THE ドラえもん展 OSAKA 2019)

続いて、大阪にて開催中のドラえもん展から、増田セバスチャンさんの作品「最後のウエポン」です。世界中から集めたビーズやプラスチックで巨大なドラえもんを再現しています。増田さんといえば、日本の kawaii カルチャーの第一人者。本作品もサイズこそ大きいものの、ポップで愛らしい kawaii カルチャーの正当な系譜に乗ったアートです。

ドラえもん展の中でも抜群にフォトジェニックな作品であり、色合いの鮮やかさから一見するとポジティブなメッセージに思えるかも知れません。ただ、僕にはどこか寂しげな表情と恰好のように見えてきます。まるで、どこかに置き去りにされたぬいぐるみのように。

作品を近くでみると、パーツの一つひとつが小さな子どもが夢中になりそうな、軽くてキラキラとしたマテリアルなのが分かります。一方、それは大人からすればガラクタ同然です。ここに、アイロニカルな表現を感じます。

ドラえもんは誰もが子どもの頃に魅了され、大人になるにつれて通り過ぎていった存在です。かつて夢中になり、忘れていた存在が大人の身長を上回るサイズで目の前に再び現れたのです。しかも、その体は大人が歯牙にもかけないガラクタでできています。

僕がこの作品の初見で感じたのは「価値のない素材で組み立てられた大きなドラえもん」でした。一方で、偶然その場に居合わせた子どもたちは、「大きなドラえもん」と、それを構成する「無数の宝物」に目を輝かせていました。この時点で、作品の有する価値を僕よりも子どもたちの方がより多く、より広く捉えています。ドラえもんは無数の子どもの夢でできているはずが、大人の僕にはそれが見えない。そんなメッセージにも感じられてドキッとしました。

時々思います。僕たちは子どもたちに大上段から物事を教えられるほど立派な存在なのでしょうか。大人になり、沢山のことを学び、賢くなったはずです。一方で、かつて夢中になっていた価値を感じられないほど創造性は鈍り、世界にあったはずの無数の輝きをガラクタで埋め立てているような気がします。

世間をつまらないと感じたとすれば、それは世間ではなく、その人自身がつまらなくなっているのでしょう。社会や学問、ビジネス、生活の知識は確かに大切です。しかし、大人が真に学ぶべき対象は子どもです。身の回りにある価値に気付けなくなっていることに自覚的になり、遠い昔に置き去りにしたものを取り戻さなくてはなりません。振り返ると、置き去りにしたものがドラえもんのように舌を出して、こっちを見ているかも知れませんね。

「人間の弱さ」に続く、まっすぐの道|広島平和記念公園

最後は、広島の平和記念公園です。「公園が芸術なの?」と疑問に思われるかも知れません。僕は、表現者と鑑賞者の相互影響により何らかの意味性を獲得できる作品は全て「芸術」と見なしています。広島平和記念公園は建築であり、都市計画ですが、芸術と呼ぶに相応しい作品です。

広島平和記念公園の成り立ちからお話ししましょう。この公園は終戦から 4年後の1949年に設計コンペが開催されました。戦争と、なにより原爆投下という悲惨な歴史からの復興を遂げ、恒久の平和を実現する象徴を作ることが建築家に求められました。多くの建築家が提案したコンペ案は公園の中心に象徴的な建物を置く、美しい計画でした。

しかし、ひとりの建築家が異質の案を作ります。建物を公園の中心ではなく南端に寄せて、公園の中心には南北にまっすぐの道だけを書いたのです。その理由は、より高くから平和記念公園を見れば分かります。

公園の敷地から川を挟んだ北の対岸には、産業奨励館が立地していました。現在の「原爆ドーム」です。原爆ドームが平和記念公園内にあると勘違いされている方もいますが、実際には全く別の敷地です。この公園のプランは原爆ドームの方向へ道を通し、「平和の象徴」を新たに作るのではなく、まちの中に見出すという思想に基づいているのです。

この計画は丹下健三という建築家によって構想されました。丹下は戦後日本を代表する建築家で、彼の作品は一貫して周辺の都市文脈との融合を模索し、敷地内外に新たな意味性を生んでいます。

戦後当時、原爆ドームは取り壊しの可能性もあったといいます。無理もありません。美しいネオ・バロックの建築の変わり果てた姿は、前後を知る人々にとって悲痛な記憶です。しかし、丹下は公園に力強い軸線を引くことで、この悲痛な姿に「世代を越えて歴史を伝承する」意味を持たせました。

恒久の平和とは、未来を向くために戦争の痛みを忘れることではありません。見たくないものから目を背けるのではなく、起きたことをありのまま後世に伝えていく。丹下は広島平和記念公園を「平和を作る工場」と表現しています。もう存命でないためその真意を知る術はありませんが、僕はこう解釈しています。

原爆ドームが訴えているのは「人間の弱さ」です。僕たちは過ちを犯します。誰一人として死にたいとも、人の命を奪いたいとも思っていなかったはずなのに、間違ってしまう。平和とは、普通に生きていれば当然帰結する「自然な状態」ではなく、自分を律する懸命な努力で得られる「強い力が掛かった状態」なのです。

公園の軸線に立つと、慰霊碑の向こうに「人間の弱さ」が見えます。そこに立った人々は「人間の弱さ」をまっすぐに見つめ、そこに吸い寄せられない強さを持てと、丹下は伝えたかったのではないでしょうか。

そこから振り返ると、モダニズム建築の傑作・広島平和記念資料館が僕たちを迎えてくれます。まるで力強く両手を広げているような佇まいですね。

余計な装飾のないストイックなファサードと、建物全体を空中に持ち上げたピロティは、丹下が敬愛したル・コルビュジエの作風そのものです。権威からの自由、精神の開放。そして「人間の弱さ」から続く軸線がピロティを通り抜け、緩やかにまちへ繋がっていきます。それでも人生は続いていく、そんな声が聞こえてくるようです。

芸術は問いを投げかけている

近年では、世界のビジネスエリートがビジネススクールではなく、アートスクールに通っているといいます。取得する学位も MBA(経営学修士)から、MFA(美術学修士)を選ぶ人が増えているのだとか。アートとビジネス、繋がらなさそうな二つの間には、実は密接な関係があるといいます。

『なぜ、世界のエリートはどんなに忙しくても美術館に行くのか?』では、芸術に触れることで身に付く素養を次のように紹介しています。

作品が投げかけてくる「問い」に唯一の答えはありません。こうした作品を見ることで、「正解のない問題に取り組む力」を磨くことができるのです。
さらに、作品から自ら問いを立てる力と自分なりの答えを導き出す力、つまり、「問題発見能力」と「問題解決能力」も伸ばすことができます。
アート作品は、比喩の宝庫です。何かの象徴や主張であり、ときには概念を意味することもあります。奥深い意味を読み解くには、「論理的かつ体系的な思考力」を駆使することが求められます。
アート作品はときとして、見る人を写す「鏡」になります。
たとえば、「この作品いいな」と思ったとします。
より正確な言い方をすれば「この作品をいいと思う、私がいる」ということです。
私たちが「アート作品を見ている」ときに見ているものは、「自分自身の価値観」でもあるのです。
そのことから、「自己理解と他社理解」が進みます。

その他にも、観察力、批判的思考能力、言語能力などが挙げられています。おお…、こんなにも沢山の能力が開発されるとは、芸術って何とおトクなんでしょうか。確かに、僕は「仕事のために芸術に触れようと思った」ことはありませんが、芸術に触れたことが仕事に活かされている実感はあります。

ただ、あまり即物的なものを求めず、単純に面白い絵、美しい風景、絵画でも写真でも彫刻でも、まずは見たままを楽しむのが一番です。「芸術」という響きは何だか高尚に思えますが、ただの娯楽であり、「楽しい体験」に過ぎません。では、他の「楽しい体験」とは何が違うのか。

普段、僕たちが接する「楽しい体験」はこれまでの経験や説明を通じ、最初から「何が楽しいか」が既知のものです。芸術はここが違います。展覧会に行くと導入や説明はそこそこに作品が表れ、後は鑑賞者に投げっぱなしです。つまり「何が楽しいか」は自分で見つけていくことになります。

芸術は僕たちに「問い」を投げかけます。

僕は鑑賞にあたり、作者の意図など全く気に留めませんし、解説も大して読みません。沢山の作品を全部見ることさえしません。ひとつの作品を数秒で流し、何か心に引っ掛かるまで見て回ります。そこで一つでも気になる作品に出会えたなら、しめたもの。あとは「どこに魅力を感じるのだろう」「自分は何を読み取っているのだろう」と考え、言語化を図ります。

時には「どんな気持ちでこの作品を作ったのだろう」という風に、作者との対話のような思いが巡ったりもします。もちろん答えは返ってきません。でも、それで良いのです。分からないものを短時間で雑な理解により蓋をするぐらいなら、分からないまま考え続ける時間が大切なのです。

そういえば、国語の授業で文中から作者の意図を読み取らせる問題がありましたね。あれを芸術鑑賞に当て嵌めると、全然楽しくないでしょう。国語の授業は「文中に書いてあること以外、勝手に解釈しない」ことが主眼です。時々、書いてある以外のことを勝手に読み取り、感情を作動させる人がいます。行間を読む能力でも何でもなく、ただの認知のエラーです。こうした問題を生まないよう、トレーニングしているわけです。

芸術の鑑賞方法は全く異なります。作者の意図など関係ないし、そもそも意図などない作品もあります。ひたすら作品の中の要素から「解釈」を積み重ね、自分にとっての意味を構築します。解釈は自身の経験に基づいて行われるもので、ある種の錯覚を伴う「思考のクセ」でもあります。作品の解釈を他者と共有すれば、自身の「思考のクセ」に気付くこともできます。

アートの語源はラテン語で「ars(アルス)=生きる術」です。
アートを通して得られるものは、究極的にいうと生きる力、仕事に活かせるだけでなく、日常や人生にも影響を与える学びです。

慌ただしく過ぎていく毎日の中でふと足を止めて、芸術が教えてくれることに耳を傾けてみませんか。

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