日本にキリスト教は馴染まない?天照大御神vsヤハウェ
先日、マーティンスコセッシ監督の『沈黙』を見ました。
この物語は、1600年代のキリスト教弾圧が題材になってます。ポルトガルから宣教師がやってきて、日本にキリスト教を布教する。結果的に、キリスト教が敗北して、仏教が勝利するわけですね。史実通りです。
その中にあって、印象に残った言葉が、
『日本にキリスト教は馴染まない』
です。
なぜ、馴染まないのか。ちょっと考えてみました。
そもそも日本には合わない?
大きくふたつに分けて、説明してみます。
入信の前提が違う
まず、思ったのは、キリスト教圏と日本における、宗教の入り方は、前提が異なるんじゃないかということです。
日本は入信のきっかけが、ふた通りある気がします。ひとつが「真理追求」。もうひとつが「弱者救済」。
例えば、オウム真理教は、「真理追求」な気がします。信者は理工学系の優等生が多かったそうです。バリバリの理系ですから、証明できない事象については、興味なさそうに思ってしまいますが、不思議なものです。
でも、証明できないからこそ、のめり込んでしまう。頭で解決できないからこそ「知りたい」という知的好奇心が激しく刺激される。超左脳的な人が急に右脳的な超自然現象に興味を持つ。自然な気もしますね。
もうひとつの「弱者救済」。すなわち1600年代のキリシタンは完全にこちらの部類でしょう。生きた心地のない苦役や年貢に苦しむ農民に「天国」の概念は見事にマッチしたわけですね。でもこれって付け焼き刃ともとれます。
今の現状を打開したい。だから、それを変えてくれそうな何かにすがってしまう。例えば、政治の世界で、橋下徹さんみたいな、一風変わった人が出てきた時に、支持率が急激に上がる。「この人なら今の現状を変えてくれそうな気がする」といった思惑。
キリシタンは、完全にこれと同じ構造な気がします。
だから、本場でのキリスト教信者とは本質的に、入信前提が違うんじゃないか、と思うんですね。だから、浸透しづらかった。
現に当時は弱者が結託して、一揆を起こす懸念が蔓延していました。キリスト教を手段に使っているだけなんじゃないか、とも思われていたんじゃないかとも思います。
天照大御神vsヤハウェ
もうひとつ。日本とキリスト教の神は相容れないってこと。
日本の至高神は「天照大御神」であり、キリスト教は、「ヤハウェ」です(この二つを同一視する説がありますが、それは置いておきます)。
ポイントは、日本は「最高神」、キリスト教は、「唯一神」として扱っている。
「唯一神」は、一神教であり、「ヤハウェ」以外認めません。つまり、キリシタンは、「ヤハウェ」を信仰することになりますね。それは、同時に日本の最高神「天照大御神」を否定することになります。
「天照大御神」を否定するってことは、すなわち、万世一系の子孫である「天皇」を否定するってことです。
であれば、キリシタンは、日本の権威を否定する人たちです。
その頃は武家社会ですが、封建制度の上に立つ者は、天皇からのお墨付きとして、冠位をもらっている。「天皇」の後ろ盾があったわけです。
このことからも、役人たちが、キリシタンを弾圧することは自然であり、浸透するはずがないんですね。
ちなみに、当時、仏教が盛り上がっていたわけですが、キリスト教も仏教も外来です。でも、仏教は馴染んでいる。なぜなんでしょう。
それは、仏教には「神がいない」からだと思います。早い段階で、東大寺を建立したりして、神道とは別にして、安定した国を作りを目指していましたね。
まぁ、神が仏の姿をしているのか。または、仏が神の姿をしているのか、など色々押し問答はありました。が、結局は馴染みはしていたわけですね。根本的には「神がいない」からだと思います。
最後に
「信仰」の持つ超自然的な力とはすごいものです。人類が「想像」する力を持ったがゆえの賜物です。
生きる糧にもなれば、一方で、危うさをも兼ね備えている。
全くもって、「信仰」とは深いテーマだなーと思います。
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