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街の記憶 / London

初めてロンドンを訪れたとき、
霧雨の降るハイドパークを歩いた。

霞んだ芝生はどこまでも続いていて、
雨に濡れた緑が、
柔らかく空気に溶け込むように広がっていた。
まるで一枚の絵画のようだった。

その芝生の上に、
遠くから白い鳥たちが音もなく舞い降りて、
翼を広げてゆっくりと着地する。
その動きはあまりにも静かで、
私の時間も止まったかのような気がした。

私は足を止め、ただその光景を見つめていた。

雨に包まれたその景色は、
言葉にできないほどの静けさを纏っていて、
空気さえも、その一瞬に集中しているように感じられた。

傘を持つ手に、
冷たい雨の感触がしみ込むように伝わり始め、
現実に引き戻される。
身体がすっかり冷えてしまっていたことに気づき、
名残惜しさを感じながらも公園を後にした。

公園を出て少し歩くと、
大きなデパートが見えてきた。

冷えた体を温めようとガラスの扉を押し開けると、
外の雨音が遠ざかり、暖かな空気に包まれる。
その瞬間、冷気に緊張していた心が、
ゆっくりと和らいでいくのが分かった。

緊張がほぐれると、
柔らかな照明が心地よい店内を見て回った。
どの売り場も目に楽しく、
ついつい足を止めてしまう。

最後にお菓子売り場へとやってくると、
整然と並べられたクッキー缶に目をうばわれる。
様々なデザインが並ぶ中、一つを手に取った。
ロンドンの街並みが描かれたその缶を眺めていると、
なぜだか家族や友人の顔が浮かんできたので、
そのクッキー缶を手土産にすることに決めた。

旅先でふらりと立ち寄った場所で、
こうした小さな出会いがあるのも、
旅の醍醐味だと感じながら、
私はデパートを後にした。
外は日が西に沈みかけ、
空はゆっくりと藍色に染まり始めていた。

その日の夜、なかなか寝付けない私は、
温かい紅茶を飲みながら、明日訪れる予定の、
ノッティングヒルのことを考えていた。

ついにあの場所を訪れることが出来るのかと思うと、
期待に胸が高鳴り、
結局いつまでもベッドに入ることが出来なかった。

翌朝、私は待ちきれない思いで、
ノッティングヒルへと向かった。
朝の空気はまだひんやりとしていて、
カフェから漂うコーヒーの香りや、
街を行き交う人々の足音が、
徐々に街を目覚めさせているのを感じた。

ノッティングヒルに着くと、
まっすぐに目的地を目指した。
ずんずん歩いてゆき、小さな通りを抜けると、
あの青いドアの書店が視界に入った。

胸の中で、穏やかな興奮が広がる。
何度も映画で見たあの風景が、
今、目の前にあると思うと、
自分がその一部になっているような、
不思議な感覚にとらわれた。

私は書店の前でしばし躊躇したのち、
映画の世界と現実が交差する瞬間を、
胸に味わいながらその扉を開けた。

店内は静かなざわめきに満ちていた。
観光客も地元の人たちも、
この場所が持つ特別な雰囲気を、
大切にしているようで嬉しくなる。

私は映画のワンシーンを思い出し、
本棚の背表紙を指でなぞりながら店内を歩いた。

一通りの棚を眺め終わった私は、
書店を訪れた記念にと、
著名な建築家のイラスト集を手にしてレジへ向かった。
「いい本ですね。」と、店員が微笑んで、
布袋に丁寧に本を入れてくれた。

書店を出てからは、行き先を決めずに街を散策した。
今度は、見過ごしていたパステルカラーの建物や、
街行く人々のファッションが目に入る。

映画で見た光景とは少し違ったけれど、
現実のノッティングヒルもどこか素朴で、
観光地の喧騒を感じさせない、
肩の力を抜いて歩ける街であることにほっとした。
そんなノスタルジーに浸りながら、
私は歩いた。

そろそろホテルに戻ろうかと駅へ向かう途中で、
ふらりと脇道に入ると、
カフェのショーウィンドウが目に入った。

そこには色鮮やかなケーキが並んでいて、
色とりどりのフルーツやクリームが、
陽の光を受けてやわらかく輝いていた。
その鮮やかさは、まるで、
私の高揚した気持ちそのものを見ているようで、
嬉しくなった。

ロンドンで過ごした数日間の思い出は、
特別な出来事こそなかったけれど、
心に残る瞬間がいくつも積み重なり、
今でもそっと胸の奥に生きている。

旅が終わり日常に戻れば、
忙しさに心が消耗する日もある。
それでも、その記憶はいつも、
私をあの街に連れ戻してくれるような気がしている。


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