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私たちは、体の呪縛?
『哀れなるものたち』という映画を、遅ればせながら鑑賞した。
まずは、あらすじをご紹介しよう。
「エマ・ストーン演じる貴族らしき主人公は、子供を孕んだまま身投げし瀕死状態で天才外科医ゴッドウィン・バクスターに発見された。
同じく天才外科医の父のもとで、自らが「生ける臨床体」とされ父に人道を逸した仕打ちを受け続けたゴッドは、老父と化した今もツギハギだらけの体は好奇の目に晒され、もはや傷つく心を失うほどに疲弊していた。
そこで瀕死状態の主人公に出会い、腹の中の子供の脳を彼女に移植することで実験台として生き返らせ、「ベラ」と名付け自宅に監禁・観察していくことになる。
息を吹き返したベラは、成熟した体に反し精神は幼児の未熟さであり、その常軌を逸した言動は社会的に到底認められるものではない。そもそもこの移植自体大問題である。
ゴッドは大学で解剖の講義を受け持つ中で、彼を「天才」と慕うある学生マックス・マッキャンドルスを見込んで、彼もこの陰謀に参加させることに。
ゴッドの自宅で出会ったベラを一眼で惚れ込んだマックスは、彼女への愛情のもと観察・教育にのめり込んでいく。
一方、日進月歩の勢いで成長を見せるベラは、自らが外出を禁じられていることに我慢ができなくなり、マックス・ゴッド・ベラの三人で少しずつ外の世界へ冒険に出る。
自我を持ち始めるベラに対し、観察の継続困難性を感じたゴッドは、マックスの恋心を利用し二人を結婚というなの監禁状態に同意させた。この関係を偽の法律書類により正当化するため、ゴッドの家に弁護士ダンカン・ウェダバーンがやってくることに。しかし彼はこの書類の違法性を感じ取り、そこまでしてゴッドが守る女性の正体をしりたがる。そしてベラとの接触に成功した彼は、彼女に芽生え始めた性的欲求を開花させるべく旅に連れ出してしまう。
物語は、ベラがダンカンと共に世界を冒険する中で、彼女の無垢な欲求と目まぐるしい成長を遂げ、ひとりの人間として自立するまでを描く。
事前情報なしに鑑賞した感想としては、まず性的描写の多さとリアルさに衝撃を受けた。ただ同時に、ここまで映像の主幹を性描写が構成するということは、そこには性的な美ではなく、隠れたメッセージがあるに違いない、とも推測できた。
そしてそのメッセージこそ、「体の呪縛から解き放て」というものではないかと思うのだ。
ベラには常識や社会的ルールといった判断基準はなく、全ての言動は彼女のうちなる欲求から起こる。よって「性的快感」といった、人間の本能的な大きな快感を自制せず、その欲望を解消することに忠実なため、旅行中のダンカンとの終わりなき逢瀬、さらに放浪先のパリで娼婦として働くことも、彼女にとっては至って真っ当な行動でしかない。
ベラの目を見張る生き方を前に、ふと自身の視点に引き返してみると、現代人の身体美への価値の異常な高さを自覚する。
私たちは街ですれ違う他人である異性に対して、どのような視線を向けているだろうか。背が高い、服が素敵、清潔、美しい顔、美しい体、、他者を前にした現代人の尺度は、パーソナリティという内実をないものとした肉体に対するジャッジメントになってはいないか?体が美しくないから、他者との関わりに恐怖を抱いたり、納得のいく造形へ作り変えたり、わたしたちのパーソナリティは体によってえぐられてはいないだろうか?
もしわたしたちが体の呪縛から自身を、他者を自由にできたなら、本当に心が求める欲動のままに生きていけるのではないだろうか。
私にとって、あまりに自明だったカラダというもの。しかし同時に、無意識の階層で私自身の純粋な欲求を削ぎ制限していたその存在が、この作品を通じて初めて自覚された。
この鑑賞体験に興味を持った人は、是が非でも見ていただきたい作品だ。そして、自分の目に映る映像だけでなく、その裏にあるメッセージを自分の頭で考えてみてもらいたい。
このベラとの出会いを、私はどう活かして生きていこうか