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映画「岸辺の旅」 自殺したゴーストはかく語りき


「ドレミファ娘の血は騒ぐ」以来の黒沢清監督の作品鑑賞。

失踪した夫が、普通の人間のようなゴーストになって戻ってきた。そして、失踪していた3年間の軌跡を夫婦一緒にたどる。待ち受けていたものは…。

拠り所を失って虚ろに生きている妻(ミズキ)を演じる深津絵里がとても良い。この妻の目線から映画は展開していく。この世から逃げ出した夫(ユウスケ)を演じる浅野忠信も良い。ふたりともずっとエネルギーが薄い。裸電球くらいの灯火。

妻をこの世で守ってやらなかった夫が、冥界から「謝りたかったんだよ」とやってくるとは。「ふざけるな💢」という女性もたくさんいそう。

この世にまだ生きてるミズキもどこか虚ろで、ガス灯のようにぼんやりと映ってる。

岸辺を旅してるのだから合点がいく。水際は、あの世とこの世の境界線。きっとその場所は靄がかかったような景色なのだろう。

この映画への好悪は、このぼんやり感とでもいうものとの親和性によるのでは無かろうか、と愚考した。

人間とはたまたま生物が進化して結果として生じたものに過ぎず、形而上学的な意味はない。人は意味もなく生まれてきて、いずれあっという間に死ぬ生き物に過ぎない

こう言ってるのは、幸福学を研究する前野氏。

わたしたちは、進化の帰結として、いまたまたま生の幻想を一時的に感じているだけなのだ。無から宇宙ができて、有機物ができ、生命が誕生し人類が生まれた。そこから人類の歴史が始まり、その中のひとりとしてわたしたちの一人ひとりの身体が生を受け、それに伴い一体に一つの心なるものが生じて、今ここで一時的な幻想を手にしている。ただそれだけのこと。

と、続ける。ユウスケ先生が語るアインシュタインに呼応する。

しかしながら、見方を変えれば、幻想とはいえ生まれてきたこと自体極めて幸運なことである。

ユウスケがミズキに告げたかったのは、「生はどのみち幻想だし、いつか死ぬのだから慌てて死ぬことはないよ」ということだったのだろう。

自殺した人から云われてもなあ、と突っ込まれそうだけれど、自殺した人が言うからこそ説得力があるとも言える。

蛇足だけれど、この映画で生きるエネルギーが一番燃え上がるのが女同士の戦いの場面。ミズキがひとりで浮気相手の朋子に会いに行く。

ミズキ:一度朋子さんと会ってみたかった。朋子さんにはずいぶん励まされたので。
朋子:励ました?わたしが?
ミズキ:ええ。私が絶対先に優介のことを見つけてやるって朋子さんのことを思うと力が湧いてきたんです。おかしいですよね。
朋子:私はどちらかといえば、他の女に盗られるぐらいならいっそ死んでしまえって思うタイプです。

ミズキのような女子もライバルに敵意をむき出しにして戦う。エネルギーをガンガン燃やす。

けれども監督はきっとこの台詞を置きたかったのだと思う。

朋子:秋には子供も生まれますし、病院は来月で辞めることにしました。きっとこれから死ぬまで平凡な毎日が続くんでしょうね。でもそれ以上に何を求めることがあります?

それ以上に何を求めることあります?

生きるため、大きく言えば人類が生き延びるためには、これ以上何も求めることはないよね。

私のような人間は、このシーンを生きる意味を問うことを際立たせるために置いたと見てしまう。

もちろん、女性同士の業の場面としてみても良き。迫力満点ではある。

朋子のような人物像が、マジョリティなのだから、人類はどんな事があっても滅亡を選ばず、続かせようという意思のもとに行動するだろう。そういう世界はお任せしておこう。どのみち幻想なのだから。

ぼんやりさんは、無理に戦うことはない。ぼんやりと生きてゆけば良い。

「充分に素敵である」とユースケさんが言ってる。

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