鎌倉散歩 覚園寺~今泉不動「今度は今度、今は今」
歴史の真実はいつだって藪の中だけれど、北条義時を救った犬神将も祀られているのが、ここ覚園寺。樹齢800年の犬槇(イヌマキ)もあり犬と縁が深い。昔は大倉に含まれていたそうであるが、今は二階堂。後方には鷲峯山(じゅぶさん)が聳えている。寺で行われる黒地蔵縁日は、毎年8月10日の午前零時から翌日の正午まで行われる。黒地蔵は「火焚き地蔵」とも言われ、地獄に落ちた罪人を苦しみから助けようと、極卒に代わって火を焚いたため黒く煤けてしまったんだそう。そう言えば円応寺で聞いた話では、あの閻魔大王は、亡者の魂を裁いて生前犯した罪の重さに対してどの地獄に送るかを決めているだけではなく、その亡者を裁くという罪を背負ってもいるようだ。その罪たるや他の亡者の責め苦よりも辛い仕打ちである。一日に三度も熱せられてドロドロに溶けた銅を、罪と同じ分量飲まされるというのだ。なんか地蔵様も閻魔様も良い人(人ではないが)に思えてくる。
前置きが長くなってしまったが、これまで訪れた事が無く楽しみである。
今日は薄曇り。10時から開門、ちょっと早く着き過ぎた。
鎌倉と言えば古戦場。鎌倉には横穴式のお墓であるやぐらが3000~4000基あるという。血塗られた歴史を紐解けば鬱蒼とした山の中に怨念が未だに彷徨っているような気持になり怖い気もする。この覚園寺の裏には有名な百八やぐらもある。今では非公開のようだ。
芭蕉の「夏草や兵どもが夢の跡」が思い浮かぶ。この世は無常であり、目にあったものが同じ姿であることはあり得ない。なんて思いながら覚園寺の奥に入っていくと怖さは薄れて清々とした気分になってくる。なんでだろ?と思っていると、樹齢何年だろうという巨木もあり、虫は飛び、リスは時々結構なスピードで駆け抜ける。と思ったら鳥がさえずり、山間にこだまする。一陣の風も吹いている、無数の命を知らず知らずのうちに感じていつの間にか、気が、エネルギーが補填されていると感じるからかな、とぼんやり思う。
薬師堂の前にいた寺僧さんに聞いたら、その巨木はメタセコイア(曙杉)。戦後あちこちに植えられたそうだ。そういえばメタセコイアは新宿御苑にもたくさん植えられているのを見たことがあったのを思い出した。今頃は紅葉で真っ赤になっているはず。さらにその謂れを丁寧にご説明下さった。第2次世界大戦が終わった1945年、不足した木材資源を確保するため日本の研究者が、中国・四川省の奥地で樹高35m、直径2.3mという未知の大木を発見した。この大木が絶滅していたと思われていたメタセコイア。育苗が始まり、その翌1949年、皇居内に発芽2年目の苗木が植栽された。(昭和天皇が生物学者であったこともあり贈答された)なんとその皇居に植栽されたメタセコイアの生育はもの凄く早く、当初の樹高は37㎝、翌年は1.3m、7年後(1956年)には樹高7.2m、幹周囲36cmにまで生育したそうだ。そして、戦後復興の象徴としての意味も含めて、この地にも植樹されて75年経ったそう。そう、まだ樹齢75年の大木だった。撮影禁止なのが残念。綺麗なグリーンの葉っぱ。(葉は羽状複葉と呼ばれるタイプのもので、長さ1~3センチ、幅1~2ミリの線形の小葉が対になって二列に並ぶ。葉の表面は青味がかった緑色、裏面は淡い緑色で、新葉は特に柔らかく、触れるとサラサラしている。)
薬師堂の正面に立つと、薬師堂の頭からメタセコイアのとんがりがちょうど真ん中から覗く。それが光背に見えるから不思議。日差しも強くなってきて日光が眩しい。
薬師堂前には、樹齢800年の犬槇(イヌマキ)の木もある。これも大変立派な巨木だ。パワーを感じる。
宋建築茅葺屋根の薬師堂の中には、向かって右に日光菩薩、左に月光菩薩を脇侍に従えた本尊の薬師如来座像がおわす。そしてその左右には、干支にちなんだ神将軍12体が険しい表情で各々の武具を持ち外敵からご本尊様を守っている。病気に罹らないこととご祈祷をすることしか病気に対抗する手段がなかった時代では大切な場所であったことが伺える。
大倉薬師堂が前身であった薬師堂は火災で焼失し足利尊氏の時代に修理されている。天井の棟上には尊氏の直筆も残っている。
私の守り神の午神将は満月の神様であるらしい。今日は満月、ビーバームーン。夜も楽しみになる。
愛染堂、地蔵堂、旧内海家、やぐら、薬師堂と覚園寺をゆっくりと見学して寺を後にする。今年の紅葉は12月中旬から17時からライトアップもするようなのでまた来たくなった。
帰り道で出会った花たち。
ちょっと寄り道。鎌倉宮までの途中で見つけたサンアートギャラリー。オーナーの栗原督氏の作品が並べられている。とにかく楽しい絵。
次は大船エリアの称名寺(今泉不動)にGO。
称名寺(浄土宗)は、弘法大師の開山で「今泉不動」の名で知られる寺院。
この地は、峰口がいくつも重なる谷戸ということで、九十九谷(つくもだに)と呼ばれている。
確かに谷戸があちこちにあり、坂だらけである。車で走ったけれど随分と上がって来た。
かつては、八宗兼学の寺で名も「円宗寺」といった。鎌倉時代には将軍も参詣に来たといわれるが、その後すっかり衰微してしまっていたのを、1684年(貞享元年)に直誉蓮入が再興した。江戸時代に増上寺の貞誉大僧正から山号寺号を請け、浄土宗寺院としての基礎が確立され、「称名寺」と改称されている。
きれいに整ったお顔と真っすぐに育った心。
不動明王様にたどり着くまでは幽玄な道のり。六地蔵様にお出迎えされ彼の世への入り口の風情。
左右にも門番が。
お不動様に会うにはたくさんの番人の許可が必要。
さあ、あがりましょ。
先ずは伝説の陰陽滝へ。
☆ 今泉男滝女滝の伝説
諸国を遍歴していた空海(弘法大師)は、今泉の地に辿り着いた。すると男女の仙人が現れ、不動明王を彫ることを空海に命じた。空海は不動明王と大黒天を彫り上げ、村人とともに祈りを捧げていたところへ再び仙人が現れ「人々が水に困っている。不動明王にお願いせよ」と告げる。大師は肌に二つの穴を穿ち、三日間祈祷をすると、二つの穴から水が湧き出し、2本の滝になったという。それが男滝(おたき)と女滝(めたき)。今泉の奥には、金仙山(こんせんざん)という山があり、水が湧き出たことで金仙を今泉(こんせん)と書くようになり、さらに「いまいずみ」と読むようになったと伝わる。
そして最後は鎖の張ってある苔むした急な石段を気をつけながら登っていく。すでに息切れして、はあはあとなる。大日如来さまを拝んで今日のお参りは終わるので頑張ろう。
お不動様についた。不動明王が祀られている不動堂の中は薄暗くほとんど見えない。裏手に回ると右手に石造の大日如来と三十六童子像が置かれていた。これもはっきりは見えないが、その分謎めいていてありがたみが増す。大日如来は不動明王のもうひとつの姿であり、童子は菩薩に従う人々を表したものといわれている。
インドで起こり、中国を経て日本に伝わった不動明王。その軌跡を考えると今日お会いしたのも何かのご縁だ。
コスパ、タイパという言葉が跋扈する日本。寺を訪ねるという行為が何になるのかと考えてみる。特別な信仰があるわけでもなく日々のストレスを解消する手立てのひとつのような参詣。鎌倉検定受けようと思ってるので来たということもあるが、とにかく気持ちが良いのが嬉しい。鎌倉も場所と時間を選べば人波と出会うこともなく清々しい空気を吸うことができる。数多の古の人々が立ち寄った場所へ文明の利器を駆使しながら訪れ、心を遊ばせることができる。遊戯三昧の境地までには至らずともその時を最大限楽しむことができる。なにせ、近場に住んでいるというのも縁。しっかり結んでおこう。
仏教では良く過去と未来にとらわれず今という瞬間に新鮮に向き合えということが言われる。今日は今日、明日は明日。それぞれが新しい良い日だと言える。あの日日是好日(にちにちこれこうにち)だ。ヴェンダースの映画『PERFECT DAYS』パーフェクトデイズのセリフ「今度は今度。今は今」これも日日是好日を言ってたんだといまさらながら気づいた。一日を終えた後もこうやって遊べるのが寺社巡りを続ける意味かもと思う。