【詩】星霜
定年退職後 故郷の陋屋に帰り初めての冬
夕暮れ時 老母に一言告げて
近隣の商店街にある縄のれんをくぐる
厚い木の板のカウンターに座り
壁にづらりと貼られた黄色い品札に
しばし見とれる
きんぴら牛蒡のお通しに続き
焼き茄子 湯豆腐
蕪の漬け物 焼きおにぎり
熱燗三合
二時間弱 三千百五十円
次来るときは
秋刀魚の塩焼きにしようなどと思いつつ
酔歩十分ほどの家路
立ち止まり
寒気に酔いの醒めてゆく顔を上げれば
南の夜空に
オリオン 肩幅の広いギリシアの狩人は
腰に三つの星をまとい
シリウス その愛犬は
鼻先に灼熱の金剛石を輝かせている
* *
小学生のとき
母が手編みした
青と白の太い毛糸のセーターのうえに
ジャンパーをひっかけ
父とともに
土管の置かれた原っぱで夜空を見上げ
凍えて その大人の指先を追いながら
満天に散りばめられた星に
見入ったことがあった
そう言えば
世に青春と言われている季節に入ってからは
闇にまたたく多くの点を直線で結んでゆくと
不思議な物語が顕われてくる
冬の夜空の星座のように
深い意味に充ちた数学の定理に
驚嘆し息を呑んだこともあった
もちろん
流星のように現れた女子学生を追いかけ
徒労に終わったこともあったが
源平争乱期 恋人を失った後仏門に入り
「星の夜のふかきあはれ」を歌った
女流詩人の語りに感嘆したこともあった
* *
しかしその後は
まるで
周転円を使い星の動きを調べる学者に仕え
末端で手計算する中世の学徒達のように
いや違う
そのまた末端で彼等に使われ
雑役に一日のほとんどの時間を費やす作業者
そういう時間がえんえん三十年以上も続いた
光陰矢のごとし
記憶は億光年の彼方に
消えるにまかせよ
でもこれからは
太陽系というメンバーズ・クラブの会員証を
突然剥奪された冥王星のような
自由と孤独と誇りを持って
最も遠く最も大きな楕円を描きながら
この天空を生きよ
(参考文献)
山本健吉編「日本詩歌集 古典編」(講談社)所収
「月をこそながめなれしか星の夜のふかきあはれを今宵知りぬる」
建礼門院右京大夫
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