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シロクマ文芸部エッセイ「にゃあ」【詩と暮らす】


詩と暮らしている。
大体「にゃあ」としか言わない。

薄紅色の朝の日差しを共に眺めていると、どこからかバケツを地面に置く乾いた音が明け方の街へ響いた。
詩は僕の傍らにて目を細め、何やら感慨深っているが、二羽の小鳥が窓を横切ると焦ったように目を見開き、鳥の飛んだ先を睨んだ。
それから僕の顔をちらりと覗き、
小さく「にゃあ」と鳴く。
僕はそれに微笑み
「なんて言ったの?」
と問うてみるが、やはり少し瞬きをするだけで、またすぐに窓の外へ目をやった。


常夜灯の橙色に包まれた部屋の一室にて、
本を読む僕の前のテーブルへ飛び乗った詩は、じっと僕を見つめた。
冷蔵庫の稼働する音が薄暗い夜の中を這うように唸っている。
詩はテーブルに散らばった紙の上に足踏みをし、その肉球をもって何度もペタペタといった音を奏でた。
僕は本を片目にその様子を眺めていると、それに気付いた詩が「にゃあ」と言った。
「ごめん。あんまり見ちゃ駄目だね。」
僕はすぐにそう謝ったが、詩はキョトンとした表情を浮かべ再び「にゃあ」と鳴く。
まるで僕の答えが間違っていたかのように。
ならば一体正解は何だったのか、
勿論テーブルの上で前足を枕にして眠る詩は答えてくれない。


詩と暮らす生活において、大抵の「にゃあ」はご飯、遊ぶ、撫でろなど要求のものが多いから、すぐ理解できる。
しかし時に、突拍子もない、時系列や前後の文脈を無視して発せられる「にゃあ」も確かに存在するのだ。
僕はその「にゃあ」に物語を強く感じる。
詩が僕の脳に一滴の「にゃあ」を落とすと、忽ち僕はそのことで頭が一杯に満たされる。熟考したとしても答えなど分かることはないのに。
それでも、だからこそ僕はその俄な「にゃあ」について、考えることを止めないのだ。


詩はいつでも僕に語りかけ、またその真意を求めることもしない。
ただ感じたまま、裸になった剥き出しの感情は僕の受け止め方一つで変化するものだ。
そしてその受け止め方に正解など存在しないのだろう。

「にゃあ」
今日も詩は
まっさらな本のページの上にそう鳴いた。




#シロクマ文芸部


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