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「光る君へ」第38回 「まぶしき闇」 最早、後戻りできないまひろと道長

はじめに
 若い頃、30代とは随分、大人に思えたものですが、実際に20代から30代になってみると、三十路に突入した感慨はあるものの、そんなに年寄りになってしまった気はしないという経験はあるでしょうか。30歳は人生の転機、修正する最後の機会ではあるのですが、一方で体力はまだありますし、また経験を積み、物事がある程度見えるようになってきた頃でもあります。
 ある種の自信がありますから、お肌について以外は、それほど気にならないのかもしれません。実際、性別問わず、人間が魅力的に見えるのは30代からとも思われます。「光る君へ」も30代の溌溂とした俳優陣が、作品の中核を担っていますしね。

 一方、30代から40代に移るときは、20代から30代のそれとはまったく違う変化…平たく言えば、老化を感じ始める人も結構いそうです。40代も半ばを過ぎれば、体力、瞬発力は明らかに落ちますし、物覚えも目に見えて悪くなります。身体に何らかの疾患を抱える人も圧倒的に増えますし、そもそも老眼が始まります…書いていて哀しくなってきましたが、肉体面の変化が大きいのが40代へ突入するということでしょう。

 ただ、それは単に老化というだけではないと思われます。睡眠時間を削って仕事に打ち込んだ、オールナイトで遊び倒した、浴びるように酒を呑んだ、食い気に負けて食べまくった、身体を鍛え過ぎた…などとかく若い頃は無茶を重ねるやすいものですよね。あるいは、まだ時間があるから大丈夫と怠惰を決め込んで、ダラダラと過ごしたといこともあるかもしれません。どれもが、若者の特権だと信じていたのです。

 しかし、実はそうではありません。人生をトータルで見た場合、若い頃に積んだものが、40代になったときにすべて返ってくるだけなのですね。それはプラスの面もマイナスの面もあります。若いときに、地道に身体を鍛える、アンチエイジングに勤しめば、肉体をキープできるでしょう。また、勉学に励んでいれば、蓄積した知識と教養は思考と共に練られて、人生を豊かにすることになるでしょう。反対に若い頃に重ねた不摂生は、成人病として返ってくるということも珍しくありません。

 言い換えるなら、40代以降の人生とは、それまでの過去に積み上げた貯金を切り崩す、あるいは負債を返す側面から逃げられないということです。だから、歳を取ると修正が効かない、選択肢が減る、後戻りができなくなるのです。その精神的な焦燥感と肉体の老化が、人に「歳を取ったな」と感じさせるのかもしれませんね。

 「光る君へ」の登場人物たちも、そうした流れには抗えません。第38回の時点で、まひろは30代後半、道長は40代前半…二人とも確実にアラフォーになりました。若い頃からの苦労と苦悩が、彼らにある程度の成功をもたらしました。しかし、残念ながら、その一方でその成功の反動か、多くの不穏の種が撒かれてもいるというのが、前回までに描かれています。さらに、彼らが中年期に入り、新しい若者たちの物語も始まり、彼らとどう付き合っていくのかという新たな課題も、まひろと道長にはあるようです。
 そこで今回はアラフォーになったまひろと道長が、この先をどう歩もうとしているのか、その悩みと言動について考えてみましょう。

1.出仕して「物語」を書く意味
(1)ききょうの賛辞
 冒頭は、前回の引きであった藤壺を訪れたききょうとまひろの再会です。これは誰もが一度は見てみたかった、そしてこういう形では見たくなかった清少納言と藤式部(紫式部)との邂逅です。いきなり、少納言の顔を真正面から捉えた極端なクローズアップで「光る君の物語…読みました」との挑発的な言葉から始まりますからインパクト大です。
 正対するまひろもまた同じ真正面からの極端なクローズアップで映され、その表情は戸惑いと緊張があり、嫌が応でも二人の間の緊張が高まるかのように演出されます。もっとも、まひろの側にはききょうへのわだかまりはありませんから、学才豊かなききょうからの評価が気になり、神妙になってしまうだけですが。

 さて、こうして高められた緊張は、アップのままの少納言の「引き込まれましたぁ…」との褒め言葉と紅潮したような表情で一端ほどけます。少納言ではなく、ききょうとしての表情に、ほっとして笑うまひろと共に視聴者も一瞬、安堵された方もいたのではないでしょうか。ここからは、通常の切り返しショットになりますが、口さがないききょうは相変わらず無遠慮で「あんなことを、お一人でじっとりとお考えになっていたかとたまげましたわ。まひろさまは根がお暗い」と褒めているんだか、けなしているんだかわからないような物言いをします。
 「じっとり」「根暗」との表現には、たぶんに嫌味も入っているのでしょうが、聞いているまひろからすれば、この程度の過激さはいつものききょうでしかありません。寧ろ、小気味よく世の中を批判してみせるのが彼女の本領と思っていますから、まひろは本音を聞けて嬉しいくらいでしょう。ですから、「根が暗いのは、弁えております」と笑って応じます。

 さて、その後は「物語」評を語りながら渡りを進むききょうの後ろをまひろが付いていくという形で進みます。ききょうは、時折、まひろを振り返るものの、まともに向き合いません。この話し方に、ききょうのまひろへの複雑な心境があるかもしれません。
 とはいえ、彼女の「物語」の解釈は、「光る君は、傍にいたら一言言ってやりたいような困った男でございますわね」と辛辣ながらも的確です。「玉鬘の君に言い寄るところのしつこい嫌らしさなぞ呆れ果てました」と空を見上げるように具体例をあげていくあたり、かなり読み込んでいたと察せられます。竹三条宮で、「物語」を読んでいたときに見せた怒りにも似た感情は、露ほども見せずに、「物語」を味わったものとしての感想を述べていきます。

 因みに玉鬘は、生霊に取り憑かれて亡くなった夕顔の娘ですが、彼女もまた美しさゆえに運命に翻弄される女性です。後ろ盾のなかった彼女は、光源氏の養女になります。ただ、光源氏が彼女を養女にしたのは「好き者どもの心尽くさするくさはひにて、いといたうもてなさむ(意訳:好色者たちに気をもませる種として、たいそう大切にお世話しよう)」と、他人を弄ぶ下卑た楽しみでした。
 こんな光源氏ですから、世間には「玉鬘の父」を標榜しながら、血のつながらない養女へ欲情するのも平気です。しつこく言い寄るだけでなく、服を脱いで玉鬘に添い寝までする始末。玉鬘は怯えて、涙を流し、身体を震わせます。ききょうは、こうした中年男の気持ち悪い勘違い場面を指して、批判しているのですね。

 ききょうは「されど、そういう困った男を物語の主になさって、男のうつけぶりを笑いのめすところなぞ真にまひろさまらしくって」と、まひろが敢えてそういう男を中心に据え描いた理由を、彼女なりに掘り下げていきます。その指摘は、これまでの劇中人物がしてこなかったことです。ききょうの指摘に笑うまひろは、「物語」に込めた男中心の社会への批判をききょうが読み取ってくれたことを、さすがはききょうと思い、また嬉しいのでしょう。

 「それだけではございません」と続く、ききょうの「物語」の称賛は「まひろさまの漢籍の知識の深さ、この世の出来事を物語へ移し変える巧みさ、どれもお見事でございますわ」と、内容面ではなく、それを支える彼女の教養の高さとそれを生かす作品の構成力にまで及びます。ききょうは自身の学才を頼み、学問と教養を信念の礎にしてきた人です。ですから、いかなる感情が胸の内を吹き荒れようと、それによって客観的な評価を歪めることはしません。自らの信念と自制心で、学問と教養を裏切ることなく、まひろの「物語」を批評してみせたのですね。

 ききょうの内心の葛藤に気づかないまひろは、単純に彼女の行き届いた激賞に「手厳しいききょうさまからそのようにお褒めいただいて、嬉しゅうございます」と照れくささそうはにかみながら喜びと謝意を述べます。まひろの言葉に「私…手厳しいでしょうか?」と呆気に取られたききょう、まひろの言葉にわずかに毒気が抜かれたようです。

 まひろは思い出し笑いするように「以前、左大臣さまのことを人気もやる気もない方と仰せになっておりました」と昔話を持ち出します。ききょうが道長を恨む気持ちがあることをまひろは知っていたはずですから、ここで道長を例に出すのは地雷だと思うのですが…(苦笑)悪気がないことをわかっているききょうは「真に見る目がございませんでした」と冗談めかし、大人の対応で返し、二人は穏やかな空気になります。

 もしかすると…ききょうは内心に吹き荒れる怒りと哀しみ、まひろにあれこれ問い質したい疑念を抑え、学才豊かな旧友の作品をきちんと評価するだけに留めようと思っていたのかもしれません。彼女もまた友達の多いタイプではなく、何かあると思わずまひろのもとへ行っていましたし、「枕草子」を書くことを後押ししてくれたことの感謝も決して忘れていないと思われるからです。特に定子への一途な想いが強い、情深い本作の清少納言であれば、まひろへの情も決して浅いものではないでしょう。

 それだけに、旧友に会え、褒められて浮かれたまひろの「ききょうさまのように才気溢れる方が藤壺にいらしたら、もっと華やかになりますのに…」との言葉は、本心からの思いであっても、絶妙な自制心でこの場にいるききょうの心を逆なでする軽口だったというしかないでしょう。

 要らぬ一言にピクリと反応したききょう、振り向き様に「それはお断りいたします」と冷たく応じると。清少納言へ戻った彼女は「私は亡き皇后定子さまのお身内をお支えする…ために、生きております」と「ために」を強調すると「今も竹三条宮で修子内親王さまのお世話をしておりますし、今日は敦康親王さまのご様子を窺いに参りました」と、藤壺へ訪れた目的も語ります。もっとも、ここへ来たの主は、まひろに一言申すことのだったような気がしますが…何にせよ、今なお強い定子への思いを聞き、自分の発言が迂闊であったと気づくまひろでしたが「そうでございましたか」と答える以外に取り繕いようがありません。

 こうなっては、清少納言は、心に秘めた疑念を言わずにはおれません。彼女は藤壺の藤式部に「中宮さまがご自身の皇子さまをお産みになった後もまだ敦康さまを藤壺にお置きになるのは、何故なのでございましょう」と、彰子の存念を問います。まひろは「中宮さまが敦康さまを敦成さまと同様に大切にお思いになっているからでございましょう?」と、事もなげに答えます。まひろは、彰子と敦康の関係をよく知っており、また彰子が出産後もとても大切に扱っていることも目の当たりにしています。何より敦康が藤壺を離れたくはないのです。

 しかし、清少納言の聞きたいことは、そういう個人的なことではなく、中宮彰子の政治的な存念です。ですから、「そのような綺麗ごと、「源氏の物語」をお書きになったまひろさまとも思えません」と、彼女の答えを卑怯な答えと揶揄します。漢籍を引用した「物語」は、政治小説の側面も持っています。それが書けるまひろが、内裏の政治を理解できないはずがないというのですが、その言葉の裏にあるのは、そもそも「物語」は道長の政治の道具だろうとの疑念です。
 とはいえ、嘘をついてはないないまひろは「中宮さまはそういうお方なのです」と返すと「帝も中宮さまをお信じになって敦康さまをお託しになっていると存じます」と、帝の彰子への信頼を根拠として示します。

 少納言は「そうですか…」とまったく信用していない白々しい表情をし、まひろに背を向けたまま、少し歩き立ち止まります。その顔に陰が入るようなライティングがなされ、今、ききょうが建前を捨て、本当の心を表に出したことが窺えます。彼女の陰に宿るのは、哀しみ、寂しさ、怒り、虚無…などさまざまな負の感情でしょう。
 まひろの「帝の彰子への信頼」という言葉が、彼女の疑念をさらに深めます。そもそも、彰子を信頼するように帝を誘導したのは「物語」ではないのか…このことです。勿論、彼女にとっては要領を得ないまひろの答え、これに対する苛立ちもあるでしょう。

 ききょうは、努めて落ち着いた声で「私はいかなる世となろうとも、皇后・定子様という灯を守り続けてまいります。私の命はそのためにあると思っておりますゆえ」と、まず、己の忠誠心と今なお、そして未来永劫、竹三条宮にて宮仕えを続ける覚悟を語ります。自分の政治的立場と覚悟を改めて語ったのは、ききょうなりの誠意でしょう。
 その上で「ところで、まひろさまは何故、「源氏の物語」をお書きになったのですか」と最も彼女がまひろに聞きたかったことを口にします。そこで半身振り返ると「もしかして左大臣さまにお頼まれになったのですか」と核心をつき、その瞳に涙を溜めながら、「帝の御心から枕草子を消してくれと」と問い質します。その様子と言葉に、まひろはききょうが、どんな思いで「物語」を読んでいたのかにようやく気づいたのでしょう。親友を深く傷つけたことに、固まってしまいます。そして、ききょうは、「亡き定子さまの輝きを、亡きものとするために」、「物語」を書いたのではないかと耐え難い思いを、まひろに訴えます。

 ききょうは、まひろに対して、亡き定子の輝かしき姿を遺したいとの一念を伝え、「まひろさまも騙されてはなりませんよ。左大臣は恐ろしき人にございます」と真剣に諭しもしました(第29回)。にもかかわらず、まひろは、左大臣の依頼で「枕草子」の存在を打ち消すような「物語」を書いた。しかも、それは、ききょうをしても褒めたたえざるを得ない出来だったのです。友と信じた女性に自分の想いを踏みにじられたききょうの心はいかばかりでしょうか。
 せめて、定子のために生きる自分の覚悟に対して、まひろはどんな覚悟で、書き手として何を志して、どういう政治的スタンスで「物語」を書いたのか、それを詰問したくなるのは人情でしょう。ききょうは、まひろの書き手としての姿勢そのものを糾弾しているのです。

 しかし、まひろには、ききょうの切実な問いに答えを持ちません。何故なら、ききょうの覚悟に類するもの、あるいは信念があったわけでもありません。道長の役に立ちたい思いはあれども、それは道長が自分を信頼してくれた思いに応えたいというようなものです。政治的なものは薄い。まひろは、自分のなかに畳み込まれ、渦巻く、自分の知識と教養、出会い見聞きした人々の想い、それを形にする機会を待っている状態でした。そこに、たまたま縁あって、道長から機会を与えれれたのです。平たく言えば、書けたから、自分の思うまま筆を執り、忖度もなく「物語」を書いた。敢えて言うなら、それが書いた理由です。

 ただ、それが明快で自覚的な動機と言えるかは、難しいでしょう。ですから、まひろは「帝のお心を捉えるような物語を書きたいとは思いました」と依頼されたときの、初期の方向性を答えるくらいしかできません。真顔でききょうの顔を見返したのが、まひろの精一杯の誠意でしょう。頭のよいききょうです。この返答で、まひろが大した覚悟も志もなく、ただ人々の心が動き、味わってくれる「物語」を書こうとした。ある種の無邪気さで書いたことを悟ったような気がします。

 しかし、それはききょうが望んだ答えではありません。ききょうへの対抗意識、道長の政に加担する政治的スタンス、彼女自身の目指すなんらかの志か目的意識…そうしたものがあるのであれば、敵として、悪意として理解でき、ある種の納得ができます。自分と同じ土俵で戦っている結果だからです。

 ところが、彼女にそんなものはない。ただ、魅力的な「物語」を生み出そうとしただけ。ききょうの嘆きと哀しみと怒りのやり場がありません。横目でまひろを見たききょうが、わずかに微笑んだのは、まひろの悪意のなさに「やはり」と感じたかもしれません。同時にその非凡な才と書き上げる努力を認める気持ちも湧いたのかもしれません。
 それだけに、あんなに素晴らしい物語を、政治的覚悟もなく、その後の周りへの影響も考えずに書き上げ、結果、自身が精魂を傾けた「枕草子」と敬愛する定子の輝きを打ち消したなど許しがたい。しかも、自分も面白く読んでしまった。すぐに怒りに満ちた表情へと転じたききょうは、「私は腹を立てておりますのよ、まひろさまに!」と声を荒立てると、まひろに詰め寄り「「源氏の物語」を恨んでおりますの!」と詰ります。

 しかし、ききょうは思い違いをしていますね。一条帝は、定子との思い出に生きていたいと思うほどに哀しみに暮れていましたが、一方で帝として責任を果たし政も行いたい気持ちもありました。だから、相反する気持ちを抱え、主上であるがゆえに誰にも相談できず、苦しみ葛藤していたのです。どこかで過去に囚われてばかりではいけないと思っていたのです。まひろの「物語」は、そんな帝の苦しみに寄り添い、癒し、彼の前に進みたい思いを、ほんの少し後押ししただけです。

 ただ、まひろの「物語」がその力を発揮できたのは、「枕草子」によって定子への想いを改めて深くしていたからです。深くなったその定子への想いと哀しみと葛藤…そこへ「物語」が染み入っていったのです。謂わば、「枕草子」が誘い、「源氏物語」が解いていく、結果的に二つがあったからこそ、再び一条帝は政にかかわっているのです。ですから、帝のなかで「枕草子」も定子も消し去られていません。帝の一部として大切に畳み込まれています。

 また、彰子の成長、一条帝と彰子の結びつきにも「物語」は大きく作用しています。しかし。まひろが「私は何もしておりませね。帝のお心をつかまれたのは、中宮さまご自身でございます」(第35回)で答えたように、彼らのなかに変化したい思い、変化の兆しが既に芽吹いていたことが、彼らの今になった一番の理由です。やはりここでも「物語」は、あくまで彼らの想いの手助けをしただけです。

 一条帝も彰子も、清少納言の知らないところで、彼女の知らない時間を過ごしているのですから、当然のことなのですね。時間は巻き戻らないのですから。しかも、彰子は亡き定子から敦康親王を預かったという意識もあってか、定子の中宮としてのあり方を学び、それを愛した帝の想いに添えるよう、ずっと心がけてきました。
 つまり、ききょうは何もわかっていませんが、他ならぬ中宮彰子こそが、直接会ったことのない亡き定子を忘れていないのです。おそらく、少納言も直接、彰子と話し、曇りのない目で彼女を見ればそのことに気づけるはずですが…それを知る機会は永遠に訪れなさそうですね。

 ただ、納得できる答えを得られなかったききょうの「何故なのよ、まひろさま。どうしてこんなことを」…」と言わんばかりの恨みと怒りの言葉は、皮肉なことに「物語」に対する彼女の最大の賛辞になっていますね。誰よりも彼女の「物語」の優れたところを掘り下げて分析し、的確に批評している彼女だからこそ、その非凡さが持つ無邪気さが許せないのですね。
 かつての親友な辛辣な糾弾は、まひろにとって、物語の書き手としての姿勢を問うものとして、突き刺さったことでしょう。今までは「物語」の批評は数あれど、ただ楽しんだ、癒しや救いとなったなどプラスの評価が多かったでしょう。しかし、ききょうは、彼女の手練手管の技巧を褒め、それがゆえに深く傷ついた。「物語」が時に人へ向けた刃になることを目の当たりにした瞬間でもあったはずです。言葉や表現とは暴力なのですね。

 また、「物語」が持つ政治的な意味も改めて、提示されました。それは、藤壺で「物語」を書くという行為は、道長の政を無条件に支えるものになるということです。それはまひろの「物語」の純粋性、独立性を阻害することになります。まひろは、藤壺で宮仕えしながら「物語」を書くこととは何なのかを改めて考えなければならない。それを。ききょうから突き付けられたのです。袂を別つようなことになりましたが、まひろにとってききょうは今なお大切な学問の友なのでしょう。その言葉と思いは無視できるものではない。まひろは、真摯に受け止め、悩むことになります。
 まひろとききょう、藤式部と清少納言、二人ともが非凡な才を持ち、認め合うからこそ、袂を別たざるを得なくなります。二人の運命が再び邂逅、結び直されることはあるでしょうか。

(2)宮の宣旨からの金言
 ある夜、月を見上げ、思いを巡らすまひろ。その脳裏に響くのは「私はいかなる世となろうとも、皇后・定子様という灯を守り続けてまいります。私の命はそのためにあると思っておりますゆえ」という、ききょうの清少納言としての覚悟です。藤壺の奥ゆかしすぎてマイペースな女房たちからは感じられない鬼気迫る主への思いと一生を捧げる信念。
 その言葉は、結局、彼女の「物語」を書く姿勢を糾弾するものとなりました。ですから、おそらくまひろは、月を見上げながら、自分自身にききょうが納得するような書く動機があるのか、自問自答していると思われます。

定 子の死から7年が経ち、より強くなったききょうの定子への想いはよく言えば一途、悪く言えば視野狭窄という、危ういものです。ただ、その覚悟があればこそ、「枕草子」は美しく輝き、後の世へ残る強度を持ち得てもいます。全身全霊を打ち込んだ作品…言い換えるなら、宮仕えにおける信念の強さが作品の強度なのですね。

 対して、まひろはどうか。まひろが藤壺に戻ったきっかけの一つは、里下がりの折、彰子の本当の心を垣間見、それを知りたいと思ったことでした(第33回)。つまり、個人的な興味関心です。野次馬根性と言われても反論しきれない気がします。今でこそまひろは、彰子を敬愛し、大切に思っていますが、その気持ちがききょうの定子への思いに比肩し得るかと問われれば、実際はともかく、まひろは自信がないでしょう。それは、娘の賢子との関係を犠牲にしてまでの宮仕えに意義があるのかという問題にもつながっていきます。

 また、「物語」を書いた理由についても、敬愛する定子を救う、あるいは定子の輝きを残すというききょうの気高い志と比べれば、その動機は不純。道長の命に「私は物語を書くのが好きでございましたので、光栄なことだと存じ、お引き受けいたしました」(第33回)と、まひろは帝に正直に答えています。才を生かしたかったという利己的な動機があったのです。

 無論、「帝の御心を捉える」目的もあって、「書いているうちに私は帝のお悲しみを肌で感じるようになりました」(第34回)と、まひろ自身が帝の心へ寄り添った面もありました。以前のnote記事でも触れたように、たしかにまひろの「物語」には、帝の哀しみへの共感と理解が欠かせません。
 しかし、それは、帝の哀しみを自分の哀しみと重ねて、自分事にしていくことで「物語」を書いていく過程のなかの話です。実は、動機の主とはなっていません。だから「帝のお心を捉えるような物語を書きたい「とは」」と限定的な表現に留まる答えになったのですね。

 それでは、誰のため、何のためか。「何のため」という点は今だ明らかにされていませんが、「誰の」という点においては、まひろはいとに「書きたいものがどんどん湧き上がってくるの。帝の御為より何より、今は私のために書いているの」(第32回)と答えています。帝の御ためは建前で、創作意欲に突き動かされているのが本音です。利他的なききょうと比べれば、利己的な動機と言えるでしょう。
 そうして書き上げたものが、ときに人の心を癒し、救うこともあれば、ききょうのように深く傷つくものもいれば、政治的な意味を持つこともある…彼女のエゴで生まれた「物語」は、自分の手を離れ、さまざまな影響を周りに及ぼしています。

 そう考えると、ききょうの「何故、「源氏の物語」をお書きになったのですか」という質問は、まひろの人間性を抉るものとして刺さったことでしょう。高尚な理由もなく、ただチャンスがあったから書きたいように書いた。気楽にあんなものを書いて…!とききょうが詰るのも無理はありません。道長の野心に荷担していると言われるのも、返す言葉はないでしょう。

 しかも、娘との関係を犠牲にしてまで宮仕えに固執して、書いたのです。前回の賢子からの「大嫌い」は、かなりのダメージでしたから、それも思い返さざるを得ません。それゆえにまひろは、改めて、藤壺に出仕して「物語」を書いているのは何故か。自身の初心が何だったのかを、問い質す心境になってしまうのでしょう。まひろとききょうは、袂を別ったのかもしれませんが、誰よりも互いを認めてもいます。ききょうの言葉は、まひろの指針になるのです。

 そこへ「藤式部はいつも月を見ておるのう」と声をかけてきたのは、女房らの筆頭、宮の宣旨です。「いつも」と言ったあたりに、彼女の人間性が出ていますね。まひろは彰子の信頼が厚い反面、藤壺では浮きがちで悪目立ちするところもあります。そういうまひろを上司として、いつも目を配っているからこそ、その習い癖を指摘できるのですね。普段は、役目柄ゆえに個人的に話す機会はあまりないでしょうが、今宵は時間も遅く、周りに人もいません。だから、今夜はよい機会、気安く声をかけたのでしょう。

 一目で夜更けまで働いていると察した「お役目ご苦労様に存じます」と恐縮するまひろに、宮の宣旨は「何を思っておるのだ?」と問います。単刀直入な質問にまひろは「その時々でございますけれど、今は皆さまはどういうお気持ちで宮仕えをなさっているのかと考えておりました」と、素直に応じます。

 その答えには、まひろの宮仕えへの迷いが見えますが、宮の宣旨は「そうか」とだけ答えると、自らも月を見上げ、まひろと同じものを見ようとします。さりげなく、まひろの目線に立とうとする彼女の気遣いが感じられますね。そして「そなたは何のためにここにおる?」と静かに問います。声のトーンからして、宮の宣旨は、まずはまひろの思うところを聞こうとしたと思われますが、上司にこう聞かれた場合、詰問と捉えてしまいがちです。
 とはいえ、まひろの「帝の御ため、中宮さまの御ためにございます」という杓子定規な答えは歯痒いですね。上司に対する優等生的な回答ですが、五十日の宴にて即興で和歌を詠んだ藤式部としては芸がなさ過ぎます。

 通り一辺倒の答えに笑う宮の宣旨は、逆にまひろの宮仕えでの逡巡を見て取ったようです。「生きるためであろう?」と、下世話で現実的な理由を優しく告げるます。お見通しゆえ正直に申せ、というわけです。宮の宣旨の勘のよさ、懐の深さに軽く驚くまひろに、宮の宣旨は「「物語」を書くなら里でも書ける。ここで書くのは暮らしのためだと思っておった」と、当初より事情を察していたことと理由を話します。

 不思議なことに、いつも厳しい宮の宣旨が、それを責めてはいません。人はそれぞれ、生活のためでも構わないということです。何しろ生きていけなければ、何事も始まりませんし、それは人間の本念というものでしょう。生活にあくせくすることも、それを宮仕えの理由にすることも卑下することではない。高尚な志や忠誠心である必要はないと、宮の宣旨は言ってくれているのでしょう。まあ、左衛門の内侍や馬中将の君を見れば、わかりそうなものですが、根が生真面目で硬いまひろですから(笑)

 鷹揚にして、捌けている宮の宣旨を前にしては、藤式部も貫禄違い(笑)まひろも観念したように「はい、父には官職はございませんし、弟もまだ六位の蔵人で…」と素直に白状します。惟規のくだりで、ちょっとだけ「やれやれ」という本音が混ざるあたりに彼の将来を心配する思いも感じられますね。
 その口調に宿るやりきれない気持ちを汲んだ宮の宣旨は「藤式部には子もおったな。上手くいっておらぬのか」とスバリ指摘します。宮仕えについてあれこれ思いを巡らせながらも、まひろが敢えて口に出さないようにしていた、それでいて、まひろの心の底で澱んでいた娘との関係性を喝破してみせます。「何故おわかりになるのですか」と目を見張るまひろに「お前のような物語は書けぬが、私もそれなりに世のことは学んできたゆえ」と、ささやかな苦さを含む笑みを称えながら、月を見上げます。

 彼女が勤める宣旨女房は、女房らを統括するだけでなく、中宮大夫を始め、外の人間との折衝も務める、謂わば、中宮の秘書官です。教養と機転が求められる要職。約10年近く務めた彼女の苦労、失敗、葛藤、重責は、計り知れないものだったでしょう。帝の関心が藤壺に向かないことに心痛めたのは、道長×倫子夫妻、衛門だけではないでしょう。そう考えると、第35回に帝の藤壺へのお渡りが叶った際、宮の宣旨が一際、嬉しそうに準備をしていたのも納得ですね。

 また、宣旨女房である彼女からすれば、30~40人もいる女房ら全員が真面目な理由で藤壺にいないことも、忠誠を求めても詮無いこともよくよくわかっていると思われます。とはいえ、外側の男どもは口やかましく、内側の女たちは姦しい…ではやりきれない。もしかすると、流れそうな涙を堪え、月を見たことも幾度かあったかもしれません。だからこそ、月を眺めるまひろを気にかけたのかも…

 まひろは、宮の宣旨の言葉の裏にあるさまざまな想い、そして、それゆえのまひろへの気遣いを察し、はっとなります。頑なな自分の振る舞いを自覚した面もあるかもしれませんね。彼女が、胸襟を開くように「子を思う気持ちはなかなか届かぬようにございます」と宮の宣旨に悩みを吐露するのも自然ですね。
 すると、宮の宣旨は「夫婦であっても親子であっても真に分かり合うことは出来ぬのではなかろうか」と、その人生経験から得た達観を口にします。すれ違い、拗れは、避けようがない、人に期待し過ぎてもいけない、そう思わなければ、多くの女房を扱い、外部と折衝する宣旨女房の務めをこなせなかったのでしょう。ですから、分かり合えないのが当たり前と構えているくらいでよいだろうと言うわけです。

 ただ、「寂しいことだが…」と笑う宮の宣旨からは、その処世術を割り切り、納得しているというわけではないようです。前回、紙選びの際に、ふと漏らした「このような美しい紙に書かれた文をもらいたいものでございます」には、分かり合える人を求めたい切々とした本音があるように思われます。もしかすると、彼女は宮仕えにやりがいを感じながらも、人と深くつながる機会を犠牲にしてしまったのかもしれませんね。

 無論、「真に分かり合えない」からこそ、人は相手を思いやり、相手を知ろうとする楽しみや喜びがあることは、第27回note記事でも触れたとおりです。全部わかってしまったら面白くない、そう考える方もいらっしゃるでしょうね。また、人はそれぞれ違うからこそ、互いを想い、補完しあいます。ただ、「分かり合えない」ことをポジティブに捉えていけるようになるには、相手との関係がある程度深く、信頼関係が築けていることが大前提です。ですから、多くはそこまでの信頼を築けず「分かり合えない」ことに思い悩むのではないでしょうか。

 まひろと賢子の場合、彼女の成長期という大事なときに、その信頼を築く時間を持てていません。彼女が藤壺で「物語」を執筆することに専念したためです。彼女は、賢子を務めの犠牲にしており、それをよくわかっています。久々の帰宅での賢子に対するぎこちない態度にも表れています。だから、ききょうから突き付けられた何故、「物語」を藤壺で書くのか、という問いかけは、余計にまひろの心を穿ったのです。

 こうして月を見上げたまま、宮の宣旨は「今日もよく働いた。早く休もう」と力強く言うと、その場を去ります。彼女は、毎晩こうして自分を鼓舞してきたと思いますが、今日は藤式部と共に月を見て、ささやかなつながりがあった。その満足はありそうです。別れ際の言葉は、自分に向けてであると同時に、まひろへの労いと励ましでもあったのでしょう。

 宮の宣旨が去った後、まひろは彼女の言葉に再び思索の表情になります。生きるため…は恥じなくてよい。わかっていたことを再び教えられ、皆がさまざまに思い悩みながら宮仕えをしていることも感じました。自分はやはり、今のままあるしかないし、「物語」を書き続けるしかないくらいは思えたでしょうか。ききょうからの問いは、今後も自ら問い続け、悩むことになるでしょう。ただ、それは「物語」を書き続ける先にあるように思われます。

(3)それでも「物語」を書く以外にないまひろ
 ある日、まひろは自身の局で「宿命、密通、不義、幸、不幸、出家」と不穏としか思えない言葉を書きつけて、それを眺めながら、「物語」の構想に思索を巡らせ、没頭しています。出仕当初は藤壺の喧騒では書けないと言ったまひろですが、「物語」への集中力は、そうしたものへ気を取られる雑念すらなくなったようですね。書き手としての彼女も、日々、進化しているのかもしれません。因みに紙に書きつけた不穏な語群は、「源氏物語」の第二部を彩るキーワードで、前回から書き始めている女三宮を巡る諸事ともかかわってきます。

 そこへ道長がふらふら表れますが、構想を練り上げることに専念しているまひろを見て、声をかけることを躊躇します。この場面、あかねの出仕が決まるせいで重要な案件があったかのように見えますが、実は道長、何の用事もないのに、まひろの局を訪れているんですよね。これだから、後宮で「ひたひた」と噂され、左衛門の内侍に告げ口され、赤染衛門のまひろが釘を刺されるのです。

 彼らの関係は、遠い為時宅でも疑われています。道長の計らいで、3月の臨時除目で左少弁へ任官された為時たちは、8年ぶりの任官をまひろのおかげであると察しています。いとは「内裏でも、土御門でもずーーっと一緒ですものね。再びアレなんでございましょうか」などと、男女関係の復活を邪推しています(「アレって何?」と聞きつけた賢子がニコニコやってきて、焦る為時といとが最高でしたね)。上から下まで、関係を疑われている…道長の脇の甘さには、何とも言えない気持ちにさせられます。しかも、場面的には、倫子から共白髪になるまで一緒にいたいと言われた場面の直後ですから、元カノに言い訳に来たみたいな構成なんですよね(苦笑)


 結局、まひろが気づいてくれたおかげでバツが悪そうに局に入る道長。まひろは早速「父に官職をお授けくださり、ありがとうございました」と礼を述べます。このときの「ああ、空きが出たゆえ」と大したことはない…と返すときの…いやいや…といった感じの笑い方がちょっと得意げなのが笑えますね。好きな女にちょっといいことしてやったという満足感が滲む表情を柄本佑くんが上手く演じています。

 道長は唐突に「お前の娘はいくつになった?」と問います。まひろは努めて冷静に「11にございます」と応じますが「敦康さまと同じか~、間も無く裳着であるな」と雑談するような返答…こいつ…まだまひろの不義の子、その父が自分だと気づいていないのかもしれません。
 道長が、「二人の娘」ではなく「まひろの娘」の話をしているだけだと感じたのかまひろは、やや安堵しますが、それゆえにふと思いついたように「娘の裳着に、左大臣さまから何か一ついただけないでしょうか」と珍しくおねだりをします。左大臣との子であることは公言する気はありませんが、娘の実父に成人を祝ってもらいたい…父のいない不憫な賢子への親心が真顔の奥に覗きます。

 請われた道長は、それは思いつかなかったと言うように「ん?ああ…」と、一瞬、不思議な顔をしますが、他ならぬまひろのおねだり、「わかった、考えておく」と快諾します。その場にいなくとも、賢子の裳着には実父の贈り物がある…密かな喜びがまひろを包みます。


 すると、道長は閃いたとばかりに「あ、裳着を終えたら、お前の娘も藤壺に呼んではどうだ?お前の娘だ、さぞかし聡明であろう?」と提案します。道長の提案は気軽なものですが、現在、絶賛、娘とこじれまくり中のまひろは、曖昧な表情をすることしか出来ません。里下がりの際、「一体、何しに帰って来られたのですか?」と詰る賢子は、「内裏や土御門殿での暮らしを自慢するため?」とも言いました。そこには、母が藤壺へ出仕していること自体への反感を窺わせます。
 この有り様では、賢子が出仕を受け入れるはずもないですし、出仕の結果、ますます親子関係が拗れないとも限りません。まひろが逡巡するのは当たり前でしょう。

 母子の事情を知らない道長は、乗り気ではないまひろに「人気の女房になるかもしれん。亡き定子さまの登華殿のような」とさらにかき口説きます。これは完全な邪推ですが、道長が賢子の出仕を閃いたとき、「これだ!」と思ったような気がしなくもありません。前回、まひろの里下がりに憮然とした道長です。まひろを里下がりさせない方法として、娘の出仕は良い手だと思っていそうです(苦笑)
 幸い、老いた父も任官させ、憂いを減らしていますしね…もしまひろを藤壺に縛るために、ペラペラと話しているとしたら…赤染衛門に通報案件ですね(笑)

 なおも色好い顔をしないまひろに、道長は何を勘違いしたのか、「お前に人気がないと言うわけではないぞ」とフォローにならないフォローをします。この言葉にムッとしたまひろ、「私は、私の「物語」に人気があれば、よろしいのです」と、抗議します。
 まひろの言葉は、現代の小説家を始めとした作り手の思いに重なるものですが、まひろの書き手としての初心、その軸が変わっていないことを示すものです。道長が、「あ…うん」と妙に嬉しげに「そうだな」と納得するのも、まひろが昔のまま、いつものままであることが確認できたからでしょう。

 そんな道長の感慨を他所に、まひろは、道長の話から、ふと「藤壺の人気者になりそうな女房でしたらいい人がおりますわよ」と思いつきます。ききょうに「ききょうさまのように才気溢れる方が藤壺にいらしたら、もっと華やかになりますのに…」との言葉を漏らしたのは、まひろの本音です。ですから、道長の「人気の女房」に反応したのでしょう。それが四条宮の学びの会にいた、あかねです。彼女はききょうのような才気溢れるタイプではありませんが、口ずさむように和歌を詠む文才に富み、場の空気を持っていってしまう華やかな女性です。

 早速、召し出されたあかねは、宮の宣旨より「和泉式部」の名を与えられますが、相変わらずマイペースなあかねは「え?別れた夫の官職は嫌でございます」と口答えすると「宮式部でお願いいたします。私の亡き想い人は親王さまでございますので」とうそぶき、斉信以下を驚かせます。こういう人を食ったところが、彼女の面白みです。
 とはいえ、女房を統括する側の宮の宣旨としては、最初が肝心。ここは引けません。「文句を言うでない、今日からそなたは和泉式部だ」とねじ伏せます。宮の宣旨からすれば、まひろに続き、また一筋縄ではいかない者が入ってきた…藤壺が華やかなになるのは良いことだけれど…と嘆息する思いでしょう。個性的な面々ばかりでお疲れ様です…と労いたいところですね(笑)

 破天荒なあかねが、まひろの紹介で藤壺に加わったことに、「才があるのを二人でひけらかすのよ」と、ますます自分の立場が無くなり、影が薄くなることを危惧する左衛門の内侍、馬中将の君のような人たちもいましたが、恋多き女、あかねは人の機微に長けていたようです。帝と中宮彰子の御前、藤壺で行われた貝覆い。自分の番が回ってきたあかねは、隣の頼通に「お先に」と譲り、彼に正解をさせ、場を盛り上げます。
 あかねは、自分の才をひけらかさず、若い貴族たちに華を持たせて盛り上げ役に徹したのですね。この如才なさは、才気で敵を作るききょうや、空気の読めなさで敵を作るまひろにはないものです。あかねの存在は、まひろの目論見どおり、藤壺を穏やかなサロンとして華やいだものにし、若い貴族たちの出入りする場へと変えていきます。


 ところで、まひろにとって、あかねが藤壺の一員になったことで嬉しいことが一つありました。あかねは、まひろの助言に従って「敦道親王との思い出を綴ってみました」と冊子を一つ、まひろへ献じました。「和泉式部日記」と後世に伝わるものです。「お書きになったのね、」と破顔するまひろに「書くことで己の哀しみを救う…まひろさまのあのお言葉がなければ、私は死んでいたやもしれません」と、心の底からの礼を述べます。兼家の妾、寧子が石山寺で語った「私は日記を書くことで、己の哀しみを救いました」(第15回)との思いは、まひろを媒介にし、時を経て再び、別の女性によって引き継がれました。

 しかも、あかねは「これを書いているうちに、まだ生きていたいと思うようになりました。書くことで命が再び息づいて参ったのです」と、書くことは哀しみを救うだけではなく、生きることそのものへ繋がるという新たな気づきとその体験を語ります。言うなれば、あかねの恋愛における心情がありありと描かれた「和泉式部日記」とは、その生き生きとした有り様によって生命の再生が歌われているということなのでしょう。
 あかねの思いを聞いたまひろは、その冊子を愛おしげに手にすると「あかねさまの命が、このなかに息づいているのですね」と感動の余り、声を震わせる(吉高由里子さん圧巻の芝居)と、「胸が踊ります」と心から嬉しそうにします。

 そんなまひろの感動をあかねが不思議そうに感じるのは、彼女も同じではないのかと思うからです。ですから、「まひろさまも「源氏の物語」を書くことで、ご自分の悲しみを救われたのでございましょう?」と問い掛けます。しかし、まひろは「そのような思い出はありません。頼まれて書き出した物語ですので。」とあっさりとした答えを返します。これは本心を隠そうとか、嘘をついたということではないでしょう。

 まひろには、寧子の一人の男を妾として深く愛した一途さも、ききょうの一生をかけた忠誠心も、あかねの死を思うほどに濃密で激しい愛情も、持ち合わせてはいません。まひろは、自分など何もかも中途半端と思っているのではないでしょうか。道長への思いも貫けず、志は足踏み、宋への思いも挫け、夫に対しては不義を働き、娘への愛情も半端で拗れる始末…自分の抱えたさまざまな悩みなど、彼女たちの「そのような思い出」とは違う取るに足らない塵芥…。ネガティブな彼女であれば、そう自虐していると思われます。視聴者から見れば、こんな波乱万丈の人生もないように見えますけどね(笑)

 ただ、「されど書いておれば、諸々の憂さは忘れます」と、そこだけは似ているかもと笑います。そんなまひろに、あかねは「お仕事なのですね」と冗談めかし、まひろも曖昧に笑ってその場は収められます。あかねは、まひろの複雑な心中を察して、それ以上、聞かなかったのかもしれませんね。
 それにしても、「書いておれば、諸々の憂さは忘れます」とは至言かもしれません。何故、まひろが「物語」を書くのか。ここで、「物語」が生まれた瞬間、まひろが垣間見た彼女の心象風景(第31回)を思い出しましょう。彼女の心象は、さまざまな学びと知識、そして自身の経験と思い、見聞きした人々の思いが、言の葉となって、脈絡なく舞い続け、降り積もっているようなそんな風景でした。

 「物語」を書く前のまひろの半生は、何事かを成したことはありません。さまざまなことに、思いを抱き、それを自問自答することを繰り返し、自分の心のなかへ畳み込んできました。やがて、それは感情の瘧(おこり)として重なり、憂いとなっていったことでしょう。その膨れ上がる憂いは、吐き出す場所を待っていたのではないでしょうか。彼女の心を整理するものとして。それが、「カササギ語り」から始まる物語を書くという行為だったようにも思われます。そうして、憂さを忘れられるからこそ、物語は彼女の生き甲斐、つまり生きる力となったのかもしれません。

 だとすれば、まひろの「物語」を書く行為も、まさにあかねの体験そのものであり、「物語」にもさまざまな命が息づいていると言えるでしょう。また、「物語」は、まひろのなかにある形になり切らない言の葉たちが組み合わさって形となったものです。謂わば、言の葉たちは新たな命を吹き込まれ、「物語」となり、あるいは中の登場人物となったのです。そして、生き生きとしたそのさまが、読む人の心を揺さぶっていることは、これまでに描かれてきましたね。
 「物語は生きておりますゆえ」(第31回)と言ったのはまひろ自身ですが、「物語」には命があり、そしてそれを書くことが書き手の命を紡いでいるとするならば、あかねの気づきは、「物語」を書く意味に悩むまひろに、それでよいのだと見つめなおさせることになるような気がします。


 彼女は、己の内側から溢れ出すものを形にする喜びを得ました。また「物語」が人の心を動かすことへの思いも強くあります。何のために書くか、ではなく、書く以外に生きる術を知らない。書かなければ生きていけない業を背負ってしまっているのです。目的があって書くのではなく、書くことそのものが彼女の目的なのでしょう。
 最早、後戻りなどできません。誰にどう言われることになろうと、まひろは粛々と「物語」を書くしかないのでしょう。その是非は、「物語」の評価が連れていくことになると思われます。こうして、あかねが加わり、帝も楽しむ、華やかなサロンとなった藤壺の麗らかな日々のなか、まひろは「物語」の第二部をひたすらに綴っていきます。

 

2.道長の理想に巻き込まれていく頼通

(1)志と野心は紙一重

 今回、比較的フォーカスされた一人が頼通です。ある夜、道長は嫡男頼通を呼び寄せ、二人きり相対すると「これより俺とお前がなさねばならぬことはなんだ?」と問いかけます。つまり、我が「家」の目標を聞いたのです。氏長者の左大臣道長、かつての兼家を彷彿させる息子へ問いかけです。唐突な父の質問に「え…」と戸惑う頼通ですが「それは帝のお力となり、朝廷の繁栄と安寧を計ることにございます」と慎重に答えます。

  優等生足らんとする若者らしい気負いが窺えますが、その答えにはまだ彼の政への信念は育っていません。善くも悪くも土御門殿でのびのびと育った彼には屈託が少ないからです。道長が抱える直秀の死、それに連なるまひろとの約束といった核になるものはありません。しかし、ねじ曲がることなく、真っ直ぐ育ったことはそれだけ伸びしろがあるということです。父親の圧迫を受けて育った伊周の息子、道雅の反抗的な様子とは対照的です。

  そんな頼通を真顔で見返す道長をカメラは真正面のクローズアップで捉えます。冒頭のききょうとまひろと同じ構図ですが、ここでは頼通の主観、父に品定めされる頼通の緊張が表されていると思われます。ただ、道長にすれば、頼通の答えは予想の範疇でしょう。ですから、それには特に触れず、「我らがなすことは、敦成さまを次の東宮になし奉ること。そして一刻も早くご即位いただくことだ」といきなり本題を切り出します。
 切り返しショットの頼通が目を開くのが印象的ですね。帝を支えてきたはずの父が当代及び即位もしていない次代の帝の譲位を狙う不敬を口にしたのです。おそらく頼通にとっての道長とは、公明正大、国のためを第一に考える立派な政治家としての父でしょう。尊敬できる父の役に立ちたいからこそ危険な御嶽詣でにも自ら同道しました(禁欲生活を聞かされ躊躇しましが)。ですから、自身の幼い孫を帝位に据えるといういかにも利己的な言動をしたことには、驚きを隠せなかったのではないでしょうか。

 頼通の戸惑いも予測済みの道長は、息子の反応に「本来、お支えする者がしっかりしておれば、帝がどのようなお人でも構わぬ」と、自分にはいたずらな野心はないと言い添えます。この言葉自体に嘘はないでしょう。何故なら、彼はやる気のない三男坊の頃、父兼家に「自分の考えはないのか」と問われたとき、「私は帝がどなたであろうと変わらぬと考えております。大事なのは、帝をお支えする者が誰かということかと」(第5回)と答え、兼家を感心させています。

 結局、行政の実務を担当するのは、官僚である貴族たちです。ですから、帝がどんなに高い志を持とうと、官僚機構が機能していなければ何事もなせません。逆に帝が暗愚であっても、官僚機構さえしっかりしていれば政は滞りなく行われ、その治世は名君と称えられるでしょう。したがって、特に政に携わる公卿ら上流貴族が私欲に溺れることなく、民のための政に勤しめば、自然とよき政がなせるというのが、若い頃からの道長の信念だったのです。


 ですから、道長は、長兄道隆の専横、その二の轍を踏まぬよう、陣定による公卿らの合議制を重視し、帝の意を尊重することで、自身の権力を抑制し、公明正大な政を目指しました。その初心は、内覧右大臣に就任時に帝に述べた「意見を述べる者の顔を見、声を聞き、共に考えとうございます。彼らの思い、彼らの思惑を見抜くことができねば、お上の補佐役は務まりませぬ」(第19回)に表れています。しかし、現実は甘くはありませんでした。

 「家」の繁栄という価値観にある貴族たちは、道長が率先垂範した無私の心がけに従いはしませんでした。自身の信念が理想論とわかっている道長は、あれこれと心を砕き、バランスを取ってきましたが、結局、権力闘争は無くなりはしませんでした。無論、「左大臣は己のために生きておらぬ(中略)道長には叶わぬ」(第26回)と述べた公任、それに賛同した行成、俊賢のように、道長に協力的な者もいますし、実資のように実直勤勉を貫く者もいますが、それだけでは何ともなりませんでした。


 というのも、中関白家の皇后定子の存在が、この10数年、道長の頭を悩ませてきたからです。定子自身は、それほど野心的な人物ではありませんが、当時、中宮であった彼女の地位を背景に伊周たちは虎視眈々と権勢を窺い、事あるごとに無用の対立を煽ってきました。最終的に、詮子や他の貴族の思惑もあって、伊周たちは長徳の変で自滅しますが、中宮定子へ執着強い帝は、彼女の処遇を巡って冷静な判断を失っていきます。

 その結果、道長ら公卿らと帝との間にできてしまった深い溝は、政の停滞を招き、大水の大災害により、多くの人命を失うに至ります。道長が辞表を出してまで帝を諫めることにもなったこの一件は、道長にとっては痛恨事でした。その後も、出家した中宮定子の処遇、彼女に執着する帝の姿勢は、延々と道長を悩ませ、彼が本当に成したかった民のための政は、遅々として進んでいないのです。聡明な一条帝は、当初、政について道長と志を同じくしていたはずなのに、です。


 因みに道長の目指す民のための政は、彼の想い人、まひろとの約束です。理不尽な直秀の死に二人で直面したことが原因のその約束は、道長自身の政への理想でもあり、まひろへの愛情の形でもあります。この場面で道長は「民のために良き政を行うこと」を口にすることを考えると、その純粋で一途な想いは未だ貫かれていると思われます。ただ、いつまで経っても叶わぬそれには、長年にわたり堆積してきた無力感、焦燥感、徒労感などが伴っています。本作の劇中、時折、道長が一人でいるときに見せる虚無感漂う表情は、精神的な疲労かもしれません。

 ですから、「されど、帝のお心をいたずらに揺さぶるような輩が出てくると朝廷は混乱をきたす」という頼通への説明には、これまでの帝と道長の間にあった緊張関係の原因、定子とその一族に悩まされ、政がままならなかった自身の不甲斐なさ、良心ゆえの弱さへの忸怩たる気持ちがあります。もっと抜本的、積極的な手を講じるべきではなかったのか、ということです。

  また、この「帝のお心をいたずらに揺さぶるような輩」は、中関白家の当主、伊周の近々の言動も指しているでしょう。前回、正二位に任じられ帝に拝謁した際、伊周は、暗に敦康親王を東宮にと進言、その後見である自分こそが権勢の頂に相応しいと道長を挑発しました。道長は、挑発に乗る愚は犯しませんでしたが、わざわざ次の東宮位の問題を顕在化し波風を立てたこと自体は危惧しています。既に公任が、隆家の懐柔に出たのも、旧友として道長の意を察したからでしょう。

 問題はそれだけではありません。帝です。彼は伊周の発言を無視しましたが、本心は敦康親王を東宮にする意向を新たにしたかもしれません。まったく伊周は、余計なことをしてくれたのです。このように考えると、元々、中関白家とのつながりが精神的に強い一条帝は、道長と手を携え、政に邁進してはくれないという問題を常に抱えていることになります。一方、次代の帝である居貞親王も、自身の権勢に執心で、民のための政への関心は低い。一条帝以上に難物です。だからこそ、「いかなる時も我々を信頼してくださる帝であってほしい。それは敦成様だ」と力強く、頼通に宣言するのです。


 ここで、かつて、入内が決まった折の彰子の盛大な裳着の儀(第26回)で流れた荘厳なパイプオルガンのBGMが流れます。あのときは堅気から冷酷無比のマフィアのボスになった「ゴッドファーザー」(1972)のマイケルよろしく、清廉潔白、公明正大であった道長が、いよいよ自らの絶対政権を作り上げていくその入口を象徴するものとして使われました。
 今回は、道長の政の理想が、悲願として息子へと継承される瞬間を演出しました。これは道長は、己が理想の実現のために、自分自身、既に入内させた生贄の彰子は勿論のこと、嫡男頼通を始め、自分の一族のすべてを投入することを意味しています。道長は家族を犠牲に、理想の政という一大事業を行おうとしているのですね。

 兼家の政争の具として利用され、円融帝の思いを踏みにじられた姉詮子の哀しみを知る道長は、かつて娘彰子の入内も政治的にその方法しかないと分かっていても、兼家と同じ手法を取ることになるため躊躇しました。姉の「道長もついに血を流すときが来たということよ」と、目的のためならば汚れ役も厭うなと諭されて観念したのですね。また、帝や定子の踏みにじり、権勢欲を露わにするような一帝二后も、敦康親王を人質を取ることも良心の呵責を見せていました。
 しかし、今や家族のすべてを、彼らの意思を確認することなく、自らの政のなかへ組み込んでいくことに、道長は迷いがありません。いや…実際は孤独な葛藤はあるのでしょうが、清濁を併せ呑むことが政だという諦観を長年の失敗と苦悩から身に着けた彼は、周囲に見せる言動には躊躇のないところを見せます。

 おそらく、あの日、彰子入内を決意したとき、道長は、まひろが愛し、詮子がかわいがった「心優しい三郎」の一線を越えてしまったのですが、それができたのには、道長の三つの性質が関わっています。一つは効率のよい手段を選ぶ賢明さ、二つはまひろとの約束を守り続ける一途さ、そして、最後に目的のためならば自分を投げ捨てる利他的な精神です。
 どれも本来は美徳されるものですが、人間の長所は短所です。賢明さも一途さも利他的な精神も、それ以外の価値を認めない硬直、目的のためならば手段を選ばない非情さへと転じます。殊に利他性は、他人が感じる痛みにも鈍磨になりやすくなり、他人にも自己犠牲を当然のように要求するところがあります。

 勿論、道長の目的は「民のための政」です。「政=家の存続」という兼家の理屈には、一貫して否定的です。ですから、ともすれば私利私欲に見える権勢を握るための不敬な計画について、「家の繁栄のため…ではないぞ」と、頼通に念押します。そして、立ち上がり圧迫するように頼通の傍へしゃがむと、「なすべきは、揺るぎない力をもって、民のために良き政を行うことだ。お前もこれからはそのことを胸に刻んで動け」と、変わらぬ自分の志を嫡男へつなごうとします。
 あくまで、敦成を帝に据えるのは良き政の手段でしかない。当然、敦成が帝になることによって得られる権勢もまたそのために使われるべきであり、権勢そのものを目的化してはならないと強い自制を頼通に促したのです。言い換えるなら、我が「家」のすべては、良き政の礎になることである。道長はそう説いたのです。言い切った後の決意に満ちた表情は、頼通に言いながら、自身を鼓舞するものであったことが窺えます。

 しかし、これは詭弁です。たしかに「民を救う良き政」は気高い志です。政治的な方向性としては間違いではないでしょう。ただ、それに固執する道長の思いは、まひろとの約束を守るというたった一つの一途な彼の私欲だと言えます。大義のオブラートに包まれた私欲のために、彼は他者の気持ちや願いを踏みにじり、家族を犠牲にして、邪魔なものを排除して、目的へと突き進もうとしています。その姿は、かつての兼家を彷彿とさせます。

 道長は、「お前が守るべきは民ではない」(第13回)「民に阿っていては思いきった政はできん」(第3回)と民を思わない兼家の政治スタンスも、家族や周りを踏みにじる兼家の強引な非情さにも反発してきました。長兄道隆の専横の末路を見て、陣定を自らの政治基盤としてきたことは、その表れです。
 その一方で道長は、「上を目指すことは、我が一族の宿命である」(第3回)と、家族はおろか、自らをも権力奪取のための犠牲にする兼家の強固な意思と生きざまを見てきました。善悪はともかく、実資すら「好きではないが」認めるという、その一貫した姿勢と政の手腕には、感心していました。兼家は、政治的手法と意思の強さとしては目標の一つだった面があります。

 ですから、道長が、己の政治の行き詰まりを感じるなか、優しさと良心を失わないまでも、ある程度封印し、非情な政治家として最適化されていくことは避けられないことだったのかもしれません。ただ、「民のための政」という大義を笠に己の私欲を正当化する道長は、己の成す悪に自覚的であり、その恨まれる宿命を受け入れた兼家の豪胆さよりも悪質かもしれません。
   道長は、己の志にどこか酔っているところがあるような危うさがあるような気がします。何故なら、多くの人の心を汲み、救う「民のための政」と、道長の行おうとしている邪魔を遠ざけ、周りの心を踏みにじって権勢を求める非情さ相反するものと思われるからです。勿論、権勢を得なければ、「民のための政」を進められないのも事実でしょう。それゆえに、いかにして自身の自己矛盾と向き合うかが鍵になるでしょう。果たして道長はどこまで自覚的か、これからの展開で見えてきそうです。

 ともあれ、決断した道長の動きは迅速です。1009年3月4日の臨時の除目では、実資が大納言、公任、斉信は権大納言、行成と頼通は権中納言となります。既に中納言である俊賢と、公任、斉信、行成を合わせて、後世で言われる「一条朝の四納言(寛弘の四納言)」が誕生します。4人が奥からゆっくり歩いてくる演出は、彼らが道長政権の幹部であることを改めて印象付けるためです。ナレーションでも言及されましたが、この除目はすべてが道長の意向に沿うもの。

 道長は、敦成親王を東宮に据え、いずれは帝にするための地盤固めを、伊周を参内停止の一か月後に行っています。除目の際に、帝のどことなく憮然とした表情が挿入されるのは、左大臣の権勢と用意周到さに抗しきれない現状への憂いというところでしょう。因みに頼通の権中納言昇進は、彼を公卿として鍛えると同時に、自身が倒れたときの保険の意味合いもあると思われます。後事の備えも進めているのですね。

 さて、当の頼通は、大納言に任じられ、ほくほくしている実資を、わざわざ追ってまでして呼び止めると、「父の話を聞くにつけ、私は実資さまをご尊敬申しあげておりました」と、褒めそやします。この実資への挨拶が、道長の指導か、自らの意思かはわかりませんが、陣定の重鎮、小野宮流の当主である実資へ知遇を得ようとした頼通の行動力と先見の明は買ってよいでしょう。
 あからさまな人脈作りのための追従とわかっていても、あの道長が自分を認めていて、その息子から敬意を示されたら嬉しくなるものです。「え?そうなの?」と鼻を膨らます実資が笑えますね。すかさず「力を尽くしますゆえ、どうぞ、諸事、御指南くださいませ」と謙虚とやる気で実資の懐に飛び込む頼通もなかなかの人たらしですね。ただ、詰めが甘い(笑)

 実資が鼻を膨らませたところで、尊敬しているの一言が予想以上の効果を出していることに気づけなかったようです。実資は、嬉しさの余り、頼通の「御指南ください」というただの挨拶を若者の気概と受け取ったようです。「そうか、指南されたいか~」と勝手に得心すると「ならば、駒引きの承継の次第を指南いたそうか、あるいは射礼(じゃらい)の承継を指南いたそうか…どれも一からやれば大変だ」と、矢継ぎ早に提案すると「今からやるか!」と、やる気満々で興奮してしまいます(笑)

 因みに、駒引きは天皇に馬を見せることで、正月に宮中で行われる弓競技のことです。どれも宮中での大事な実務。ですから、実資は心底、頼通の申し出に感心し、親切心から若者の指導を申し出ているのですね。この人の生真面目さは、情熱とセットなのですよね。ですから、乗せるには注意か、あるいは覚悟が必要なのです。予想外の面倒くさい事態に頼通、まごまごし始めると「おいおい、お願いいたします」と中途半端な答えをしてしまい、「指南とはおいおいするものではない!」と叱責されてしまいます。

 実資はぷりぷりと怒って去っていきますが、それでも「精進されよ」と声をかけ、いつでも指南することを約束します。かつて若き日の道長が、経験値の少なさゆえに正論だけを口にして陣定で上手くいかなかったとき(第13回)、実資は「精進、精進」と励ましたことがありました。そのことが思い出されますね。実資は、いつもやる気のある若者の見方です。今の頼通は、道長に比べれば、まだ中途半端で不甲斐ないボンボンですが、実資に指南を申し出なければという行動力、そして、誤魔化し嘘をつくことがあまり得意でない素朴さ、などの美点があります。実資は、頼通の人柄を気に入ったのだと思われます。

 因みに史実でも実資は頼通をかわいがり、頼通も実資への敬意を忘れなかったと言われます。実資に至っては、夢で烏帽子を取ったまま、頼通と抱き合う夢を見て欲情してしまい恥ずかしい思いをしたと書き遺しています(笑)


(2)頼通の嫡男としての運命の裏で

 頼通に自らの存念を語り、そして権中納言まで昇進させた道長は、頼通を一人前とすべく、婿入り先についても進めることにします。早速、道長は「頼通の婿入り先であるが、具平(ともひら)親王の一の姫、隆姫(たかひめ)女王はどうだ?そなたに異存がなければ進めたい」と相談します。具平親王は、村上帝の息子で一条帝の時代では最も優秀な文人でさまざまな学術に精通していた人です。為時とも交流がありましたし、ある論戦で公任を論破するほどでした。道長は、血統も人物も優れた具平親王の娘を縁談の相手に選んだのです。


 話を聞き「私より、頼通の気持ちを聞いてやってくださいませ」と答える倫子は、子どもに好きなことをさせてのびのび育てただけあり、まずは子どもの意思が大切と思っているのですね。しかし、道長は「あいつの気持ちはよい。妻は己の気持ちで決めるものではない」と即答します。

かつて公任の「俺たちにとって大事なのは、恋とか愛とかじゃないんだ」「女こそ家柄が大事だ。そうでなければ意味がない」(共に第7回)という言葉に、その場しのぎの曖昧な返事しか返せなかった道長が、変わったものですね。因みに「栄花物語」によれば、この縁談について道長は「男は妻がらなり(意訳:男は、妻の家柄によって良くも悪くもなる)」と歓迎したとされます。公任の台詞の元ネタは、そもそも史実の道長だとすれば、「光る君へ」の道長は、少しずつ私たちがよく知る藤原道長に近づいているのかもしれません。

 さて、この言葉に「まあ!殿もそういうおつもりでうちに婿入りされましたの?」と倫子はやや詰る調子を忍ばせながら問い質します。文もなく、和歌もなく、突然忍んできた道長と結ばれたのが、倫子と道長の始まりでした。当時は惚れた男が忍んできたことを喜びましたが、後々、他の女の文(まひろの漢詩)を見つけたことから、そうした心情のやり取りがなかったことが不審となっていました。勿論、上流貴族の婚姻が打算込みであることも承知はしていますが、果たして道長は私をどう思っていたのかは気になるところです。

 ですから、この質問は聞きたくても聞けなかったことを遂に聞くというところがあるのですが、さすがは倫子。嫌味にならぬよう、それでいて夫をヒヤリとさせるよう真剣さも混じる絶妙な匙加減で聞いていますね。最近は、まひろとの関係を危ぶみながら過ごす彼女は、深く傷ついているはずです。冗談めかした聞き方の奥に、彼女のさまざまな心情を考えると何とも言えない気持ちになってしまいますね。

 倫子の質問に、ついつい、不味いことを言ったと悟る道長ですが、嘘をつくのも不誠実、正直に言うのも不誠実です。自業自得かと自虐的な笑みをふっと浮かべると、努めて悪戯っぽく「そうだ(笑)」と答えます。茶化すような夫の仕草の奥にある真意を見ようとする倫子の表情は真剣です。それを知ってか知らずか、今度は真面目に「男の行く末は妻で決まるとも申す」と切り出し「やる気のない末っ子の俺が、今日あるは、そなたのおかげである」と明言、これまでの日々に対しての感謝を述べます。この言葉に嘘はありません。

 実際、道長の望むままに援助をし、彼の政を物心ともに支えたのは、倫子です。また、土御門殿のことはすべて取り仕切り、詮子すらもタジタジにさせる家内での裁量は、道長の適うところではありません。おかげで道長は、安心して政務に専念できたのです。道長も感謝するゆえに、妾である高松殿を上に扱うことはせず、そのことは対抗意識を燃やす明子にも明言しています。また、実は倫子は、この前年に敦康誕生の功により従一位に叙せられ、道長より位階な上です。道長自身は辞退して、妻子の叙勲に心を砕いたのも、彼女への謝意があったかもしれませんね。


 この答えに「ウフフフ…」といつものコロコロした笑いを漏らす倫子。道長の答えは、決して倫子の望むものでもなければ、満足のいくものでもなかったはずです。それでも、笑って事を収めようとしたのは、彼の言葉に真心があったこと、そして何より、この約20年の夫婦生活という事実を彼が蔑ろにすることなく、自らの根本として大切にしていることが感じられたからでしょう。

 結局、彼を妻として支え、共に生活したのは倫子であり、長く仲が拗れた時期もあったものの、夫婦としての務めをずっと果たしてきました。そして、今告げられた道長の感謝は、これからも頼むという意を含んでいます。他の女に懸想することがあっても、20年間の夫婦生活という年月と事実の重みは打ち消すことはできません。つまり、道長の答えは、改めて倫子は嫡妻の強みを思い出せたということになるでしょうか。

 倫子の笑いにほっとした道長は「隆姫女王も、そなたのような妻であることを祈ろう」と、感謝と賛辞を込めた言葉を連ね、頼通の縁談を進めることにします。すると、再びコロコロ笑った倫子は、「殿…」と切ない声を漏らすと、その肩にそっと寄り添い「子どもたちの相手を早めに決めて、その後は殿とゆっくり過ごしとうございます」と、ずっと言いたかった今も胸に募る彼への深い恋慕を告げます。

 入内した彰子を巡って、意見が割れ、長年の不満が爆発し、夫婦の会話もまともになくなったときもありました。しかし、それでも倫子は、目だけは道長を追っていましたね。「殿はいつも私の気持ちはお分かりになりませぬゆえ」(第30回)と、言いたくない言葉を絞り出さざると得なかったのも、道長への愛情の裏返しです。

 ただ一人の殿方への一途な想いを今も抱く倫子にとって、先の道長の言葉は、一方で傷つくものでもあったはずです。何故なら道長の言葉は「妻としては完璧であるが、惚れてはおらぬ」という意味も含むからです。しかし、彼の謝意からは、この先も嫡妻として彼と歩むことも再確認されました。となれば、まだ彼の心を自分に向けさせるチャンスはあるということです。夫婦だけの時間をゆっくり過ごし、関係を深めていくなかで必ず自分に振り向かせてみせる。
 つまり「殿とゆっくり過ごしとうございます」とは、倫子から道長へ向けたある種の宣戦布告だとも言えますね。ですから、彼女は、その老後の生活を「二人きっりで…」と強調し笑うのです。いやはや…何とも強い女性ですよね。

 倫子の言葉に込められた覚悟に鈍い道長が気づいたかはわかりませんが、言葉の表面にあるかわいさに思わず笑います。そして、「そうか…されどまだ嬉子は3歳であるが?」と、だいぶ先になりそうだがよいのかと冗談めかします。倫子は笑うと「年があけたら妍子は裳着ですわ」と応じ、あっという間ですわよと返します。

 「早いもんだな…」と返す道長にも、ようやく彼女と夫婦として過ごした20年間が実感できたようです。ようやく夫婦として見解の一致を見た倫子、にっこり微笑みます。まひろがどんなに道長を引きつけようと、この共感だけは倫子だけしか味わえないものです。
 完全ではないものの、倫子のなかにあった藤式部問題は、一端、峠を越えたように思われます。それは、第二子出産のため再び、土御門殿に里下がりをした彰子を出迎えたときの充実した笑みから察せられます(隣にいる衛門はまだ不安そうですが)。


 ともあれ、夫婦仲の修復のダシにされる形で、頼通の縁談は決まり、彼の預かり知らぬところで道長の後継者としての道が固まっていくことになりました。道長の権勢が盤石になっていく過程とは、一方で次代の訪れの予兆でもあるということでしょう。

 そして、そのことに敏感なのは、道長×倫子夫妻ではなく、道長の妾妻である高松殿の明子です。頼通と高松殿の頼宗は、母親同士の確執とは関係なく、良好な関係を築き、共に藤壺サロンに出入りし、貝覆いを楽しむほどです。
 そういう関係であることもあり、頼通はある夜、高松殿へ招かれ、快くそれを受けます。高松殿では、彼を上座に置いて、俊賢、明子、頼宗が歓待します。


 「いや~、見事な飲みっぷりでごさいます」と頼通を称賛する俊賢が「良かったな、明子。頼通さまが高松殿にお越しくださって」と振るのは、明子の倫子の対抗意識の激しさで、土御門殿と高松殿との関係が拗れることを懸念していたからです。こうして息子同士が争わず、行き来できることは、道長の意に添うことでもあり、まずは安堵といったところでしょう。
 俊賢に話を振られた明子は、以前「土御門には負けられませぬ」(第36回)で息巻いていたのが嘘のように、「真に」と答え、ただただ微笑みます。褒められた頼通は、如才なく「頼宗は頼もしい弟ですゆえ」と答え、彼を立てた上で招きに応じるのは当然ですと答えます。

 この答えに「良かったわね、頼宗」と言う明子ですが、これを俊賢は「いやいや、いやいや、頼通さまは金峯山でも凛々しきお姿であった。頼宗は遠く及ばぬ」と、わざと甥を下げるような発言をします。頼宗…というよりは、明子に分を弁えろと釘を刺したということでしょう。彼は妹の土御門殿への対抗意識の強さをよくよく理解していますから、その強情を警戒しているのですね。
 それを知らぬ頼宗が、一瞬、気後れしたようになるのは少し可哀想ですね。しかし、頼宗もまた如才なく、「兄上は藤壺でも大層な人気でした」と兄を立てる話題へと転じ、場を盛り下げません。「それは内裏でも噂になっております」いう俊賢に「女房たちも熱い眼差しを」と調子を合わせる頼宗。さすがに照れ臭くなった頼通は「余計なことを申すな」と苦笑いします。

 こうして頼通の人柄が褒めそやされ縁も酣(たけなわ)というところで、明子は急に「どうかこれからも頼宗をお引き立てくださいますよう、お願い申し上げます」と慇懃に願い出ます。偉大な父を持つ頼通は褒められても、調子に乗るタイプでありません。ごく真面目に「それは父上におっしゃってください。私にそのような力はありません」と返します。
 しかし、明子は笑みを崩すことなく「これからは頼通さまの時代でございましょう」と煽るようなことを言い出します。もう道長の時代は終わりと言わんばかりの妹の言葉に、何を考えているのかと俊賢は訝る様子を見せます。

 呆気に取られる頼通に、明子はなおも「道長さまがお若い頃から道綱さまを大事にされておりますように、どうぞ頼通さまも頼宗を引き立ててやってくださいませ」と、巧みに道長の美徳を褒め、頼通が尊敬する父の真似をなさるだけでよいのですよ、と誘導します。そして、とどめを刺すように艶やかな笑みと浮かべ、頼通に酒を注ぎます。

 「殿の言いなりにはなりません」(第36回)と高笑いをした明子の次なる策は、若い頼通を懐柔することです。道長が口説き落とせないのであれば、純朴で与しやすい頼通を利用しようというわけです。俊賢の頼宗を下げる物言いに、明子が何も言い返さなかったのは「弱い立場の者を助けてください」と媚びを売る腹づもりがあったからでしょう。そして、頼通を懐柔、利用し、あわよくば出し抜くことで、土御門殿に勝ってみせるつもりなのかもしれません。

 まだまだ子どもの頼通、手練手管に長けた明子女王に圧倒され目を白黒させていますが、明子の所業は、道長の後継者になるとは、さまざまな思惑を持つ者たちが自分を利用しようろ集まってくるということを端的に示しています。覚悟も定まらぬまま、道長の掲げる民のための政という大義に巻き込まれていくことになった頼通は、この先、多くの試練が待っているようです。


3.敦康親王の元服を巡るそれぞれの思惑

(1)道長の呪詛への対処

 さて、道長が敦成親王を東宮にするためには、避けて通れないのは、亡き定子の遺児にして帝の長子、敦康親王の処遇です。伊周の挑発という憂慮すべき事態はありますが、なるべく穏便に済ませようというのが道長の意向と思われます。敦康の元服は、自分たちとの関係を自然に切る丁度のよい機会にするつもりであったと察せられますが、これは後述しましょう。

 穏便に事を進めたい道長の元に無視できない由々しき事態が飛び込んできます。それは、左大臣道長、中宮彰子、そして敦康親王を呪詛した証が、寝所の縁の下から見つかったとの報せです。真っ赤な夕日に染まった道長が思わずよろけるというショットには、彼の絶対権力を手にしていくこの先の多くの人に恨まれる人生が凝縮されているようにも思われます。


 調べの結果、浮かび上がったのが円能という法師陰陽師です(第5回の為時宅にこの職業の人物が来ていますね)。検非違使の厳しい尋問の末、円能は、首謀者が伊周の叔母、高階光子、伊周の妻幾子の兄、源方理だと白状します。前回、伊周邸で「このままでは敦康親王は左大臣に追いやられてしまいます、どうなさるのです」と伊周に詰め寄った二人です。時を待つべきと答えた伊周に「このままじっとしてはおられませぬ!」と言っていましたが、結局、呪詛という伊周と同じところへ帰結したところに、覆しようのない情勢への彼らの焦燥感が窺えます。


 こうなっては捨て置けませんから、道長は陣定にかけることになります。道長に意見を求めれた面々のうち、行成は「中宮さま、若宮さま、左大臣さまを呪詛したる者は死罪が相当と思われますが、まずは明法博士に調べさせるべきと存じます」と神妙に努めて冷静な意見を述べます。あの穏やかな行成から「死罪」の言葉が出てしまうところに事の重大さが窺えます。これを受けた公任が「円能も還俗させた上で同じ罪に問うべきであろうと存じます」と徹底的な厳罰を主張するのは、これを機に伊周の野心を挫いておこうということでしょう。

 続いて、伊周の弟、隆家。さすがに叔母と兄嫁の父の捕縛に苦渋に満ちた表情を浮かべていますが。「明法博士の勘申に従うべきと存じます」と、答えます。私情があるだけに、逆に法に従うことを主張します。法に照らし合わせた結果の死罪であれば、隆家も他の誰かを恨む気持ちも抱かずに済みます。この意見の妥当性に、実資を始め、道綱、公季、顕光共々「同じく」と応じ、大勢は決します。
 次は伊周の処遇についてです。公任が目を向けた隆家の苦渋に満ちた表情で、この場面は閉じられますが、その表情はこの先の陣定が隆家にとって針の筵であったことは想像に難くありません。

 陣定を取りまとめ、明法博士に勘申させた道長は、帝へ奏上に参ります。道長は「明法博士の勘申によれば、呪詛の首謀者、実行者は律の規定によって死罪…とあります」と、まず法に照らし合わせた結果のみ伝えます。存外、重い罪であったことに御簾の奥で目を丸くする帝ですが、道長は、「されど、私は冠位剥奪が相当と考えます」と、法に従うべしという陣定の総意を覆した意見を進言します。
 温情措置に「そなたが呪詛されたというのに寛大なことだ」と帝が返したのは、寛大さに感心したわけではありません。呪詛であっても感情的な判断をしないのが道長です。それを承知しているからこそ、法に添わない判断の真意を問うたのです。


 道長は「私はともかく、中宮さま、敦成親王さまが呪詛されたことは許しがたいことに存じます。されど、厳しい罰を与えることで、これ以上、恨みを買うようなことは避けたく存じます」と、臣下である自分に対してはともかく、帝の后と親王を呪った不敬な振る舞いのみを問題とし、私情を挟むべきでないことを述べます。あくまで国の安寧をどう維持するのかということだというわけです。呪詛は、今の政に対する反対意見の表れとも言えます。また、いかに善政を敷いても、その反動が起こることは長徳の変などで帝も道長も経験済みです。


 呪詛の首謀者たちに対する温情措置に次いで道長は「伊周については、参内停止が相当と存じます」と進言。これに帝は「伊周は呪詛には関わっておらぬが」と、処分そのものを疑問視します。道長が、これを機に敦康親王の伯父である伊周を内裏から遠ざけようとしていないかを問う意図もあると思われます。これに対し道長は「公卿たちから白い目で見られるなか、参内するのはかえって酷」と暗に陣定での伊周への非難が相当であったことを仄めかすと、「伊周のためでございます」と強調し、自分に他意はないと主張します。

 首謀者すら温情措置、その彼らよりも伊周は軽い処分です。陣定や明法博士の勘申よりも重い処分を道長がしたとは考えにくい。また、プライドの高い伊周の子どもじみた挑発や言動は、これまでにも散見され、公卿らの蔑視に耐えられないだろうということは、帝も頷くしかないでしょう。道長の筋は通っています。致し方なし…というところで、1009年2月20日、伊周は参内停止となります。かの正二位の昇進と挑発から、約1ヵ月後にこの有り様です。

 この呪詛の一件は、穏当な処分で終結しました。自滅による自業自得ですが、結果的には道長が、勢いを増そうとする伊周の出鼻を挫く、あるいは調子に乗ったところを一時的にとはいえ灸をすえるということになりました。見ようによっては、温情措置を装い、相手の自滅を利用したようにも見えなくもありません。

 そのせいか、この参内停止は、帝や道長の寛大にもかかわらず、伊周の心をさらに追い詰め、高まった恨みは人目も憚らず、日中呪詛を繰り返す狂気へと駆り立てるに至ります。凶にして狂とも言うべき鬼のような形相、声をかけられても呪詛しか口にせず、道長を刻んだ人形代を噛み砕く…変わり果てたかつての貴公子伊周のさまは、鬼気迫るものがあります。
 ただ、伊周よりも駆けつけて兄の無残な姿を見てしまった隆家の痛ましそうに眼差しのが、より居たたまれないですね。前回、公任に「左大臣さまを煽るような兄に、最早まともな心はありませぬ」と言ったのは、隆家ですが、まさかここまでとは思っていなかったでしょう。

(2)中宮彰子の決意

 ある夜の藤壺の閨、彰子と臥所を共にする帝は「伊周は何故、朕を悩ませるのであろうか」と漏らします。帝は、登華殿の雅やかな日々を共に楽しみ、定子を失った悲しみを共有できる義兄を、個人的には大切に思っています。また、敦康を支える伯父となることを期待して、公卿らの不興を覚悟で伊周を復位及び昇進もさせ、息子の道雅も蔵人にし、心を配ってきました。

 そこには左大臣道長への牽制という政治的意図もありますが、定子の遺児たちを守ることが主であり、道長と表立って事を構える、対立を深めるつもりはありません。道長が敦成を穏便に東宮にしたいように、一条帝もまた敦康を波風立てずに東宮にしたいのです。目的は違えど、現状、互いが必要であることを一条帝も道長も認識しているということです。

 平たく言えば、東宮位を巡る一件は、帝と道長の政治的駆け引きであり、伊周はその駒でしかありません。隆家は立場をわきまえ、道長優位の状況を鑑み、そのなかで自分の成したいことを叶えようとバランスを取っていますね。対して、伊周は先日の正二位昇進時、御前での道長への挑発行為など相変わらず、自らが権勢の頂へ登ること、中関白家の再興だけを夢見ています。あの挑発は帝もスルーしていましたから、内心、嘆息する思いだったでしょう。

このような状況下で起きた今回の呪詛。敦康を東宮につけるため、彰子や敦成を呪うなど、彼の本意を逸脱した、まさに私利私欲の所業でしかありません。伊周がそれをした証拠はないものの、その縁者が起こした以上、中関白家の当主として監督不行き届きを指摘されるのも連座も致し方ないでしょう。
 道長から「伊周のため」と体よく政から遠ざけられた感もなくもありませんが、病的に権力に固執する伊周を見れば道長の言葉には一理あります。この処断は致し方なく、寧ろ道長の温情措置に感謝するしかなくなっています。つくづく伊周は、帝の期待を裏切る残念な子と言うわけです。

 「そなたと敦成は大事ないか」との気遣いに「何事もございませぬ」との気丈な答えを返す彰子。体を起こした帝は思いきって「そなたは敦康がおるゆえに敦成が狙われておると思うか」と問います。背景にあるのは東宮位を巡る争いと見ての質問ですが、敦成の母である彼女の立ち位置を見極めようとする踏み込んだ厳しいものです。ただ、こういう質問を話せる、という点では、いささか逆説的ですが帝は彰子を信頼しています。

 彰子はまず「わかりませぬ」と答えます。敦康の親族が自分たちを呪詛したとはいえ、その真意も背景はわかりません。また敦康も敦成も慈しむ彰子にすれば、二人を仲違いさせる発想もありません。軽々に答えることはできないとする彼女の答えは、思慮深さゆえでしょう。
 とはいえ、帝の問いには、敦康への思い、心配があることはわかります。ですから「されど、私の敦康さまへの思いは変わりませぬ」と、自身の真心を素直に答えます。


 帝からすれば、彰子が敦康を邪険にするとは思えませんが、それでも我が子のがかわいくなるのは人情です。多少の変化はやむを得ないと諦めていたでしょう。しかし、彰子の答えは、敦康をこれからも今までどおり慈しむ…というもの。その意外な答えに、帝は思わず「真か?」と振り返ります。ここで穏やかなBGMが入り、二人の心が通っていくさまを彩ります。

 彰子は静かに「藤壺で寂しく過ごしておりました頃から、私にとって敦康さまは闇を照らす光でございました」と敦康への思いを語ります。前回、彰子は「敦康さまは大事な敦康さまでございますから」と言い、敦康を喜ばせましたが、あの言葉は敦康と過ごした日々を大切にしているからこそ。二人は互いの孤独な境遇を励まし合うことで絆を深め、それを頼りに生きてきたのです。
 産みの親より育ての親とはよく言いますが、それは逆も然り。疑似母子として過ごした敦康との日々、そしてそれに心を救われた事実は、彰子の財産であり変わることはありません。我が子敦成とのことは、全く別にこれから築くものです。ですから、彰子も身体を起こすと帝と向き合い、その目を見て「その思いは、敦成が生まれましょうとも変わりませぬ」と断言するのです。

 彰子の真心に帝は、伏し目がちに「朕は敦康も敦成も愛おしく思っておる」と半ば自虐的に笑います。東宮位を巡る争いを危惧するゆえに、帝は敦成を複雑な思いで見るところがあります。しかし、それは敦康を愛おしむからだけではなく、敦成も愛おしく感じるからです。

 ただ、「だんだん定子に似てきたな…」(第30回)と感じる敦康には、どうしても亡き定子を投影してしまいます。その上、敦康には後ろ楯がありません。せめて自分が力になり東宮にしてやらねば不憫であり、愛した定子に申し訳なくも感じてしまうのです。ですから、言い訳がましいが、敦康を東宮にして、二人が争うことなく成長してほしい気持ちをわかってほしいと言うのですね。

 また、彰子の敦康が光であったとの話には嬉しい反面、申し訳ない気持ちも湧いたと思われます。彼女を寂しく過ごさせたのは、他ならぬ自分です。女御宣下のときから言外に「私に期待せず他の楽しみを探せ」とほのめかし、通うことはなかったのですから。その帝の不義理を息子の敦康が補い、そして救われた彰子が帝と敦康を想う…不思議な因果に、わずかとはいえ彰子の存念を問い質した自分を恥じたかもしれません。こうした様々が、彼を伏し目がちにしていると思われます。

 しかし、彰子は、そんな弱気な物言いの帝へ「私はお上の心と共にありたいと願っております」と決意を述べ、励まします。彰子が入内したときから、一条帝の心には定子がいました。その存在は死してなお一層に帝のなかで輝いています。もはや定子は帝の一部です。

 そして彰子は、そういう帝に恋心を抱きました。心のなかの定子ごと帝を愛したのです。ですから、定子に対しても対抗意識はなく、帝の妻としての指針としているように思われます。「新楽府」を学ぼうとまひろに相談したときも、定子に近づこうとしていましたね。彼女は中宮としてどうあるべきかを定子を参考に考えてきたのですね。

 ただ、帝の心ははかり知れず、また自分も定子の代わりになれるなどとは思ってはいません。。「共にある」と言い切らずに、「ありたいと願って」いると希望と努力に留めています。この謙虚さと細やかさに、相手の心に寄り添う彰子の真心の本質があるのではないでしょうか。

 彼女は、もともと人や周りをよく観察し、彼らの望むとおりに振る舞うところがありました。その「人に合わせる」性質は、当初、自分の意思がない(ように見える)、コミュニケーション不全を起こす、など悪い意味の奥ゆかしさとして描かれていました。しかし、帝への恋慕を経て、中宮としてのあり方を自覚していくなかで、他者に寄り添い癒す慈愛へと転じたようです。

 そして「私はお上の心と共にありたい」との一言は、彼女の政治的立ち位置の表明になってもいることが秀逸です。彰子は、「敦康を東宮にしたい」という帝の意向に従うというのです。彰子にそこまでの自覚があったのかはわかりませんが、この場面、彼女は我が「家」を優位し敦成を取るか、あるいは定石と慣例に従い敦康を取るかの選択を迫られていました。
 しかし、彰子はこの二択で「家」を選びませんでした。つまり、私欲に走らず、帝の意を汲み取り、それが叶うようお支えする。それが、国の安寧にもなることを、彰子は体現したのですね。


 常に帝を第一に思うことが国の安寧。これは定子が出来そうで出来なかったことです。長徳の変のとき、精神的に追い詰められた定子は衝動的に落飾してしまいました。その出家という決断が、後々まで帝を苦しめ、政治的な混乱を招くことになったことは、劇中で描かれたことです。定子は自ら傾国の美女となったのですね。
 後に彼女は、このことについて「父が死に、母が死に、兄と弟が身を貶すなか、私は我が家のことばかり考えておりました。お上のお苦しみよりも、己の苦しみに心が囚われておりました」(第28回)と、己の罪として語っています。

  あれほど帝を深く愛し、慕いながら、肝心なときに我が「家」から離れられず、帝へ寄り添えなかったことを定子は恥じています。「家」を優先したことは、道隆や伊周が皇子を産めと圧迫された後ろめたさが作用していると思われます。とはいえ、后として失格であったことを誰よりも彼女がわかっていたのでしょう。明朗快活で華やかな定子は、帝との愛と逃れ得ぬ「家」の宿命に葛藤し翻弄されたと言えるでしょう。

  このように考えると、彰子は定子を指針としながらも帝への愛情、彼を第一に思うことを貫き、中宮という座に相応しい女性として急速に成長していると言えそうですね。彼女は国母としての立場を自覚していくことになるのでしょう。そこには、まひろから学んだ「新楽府」の影響も出てくるでしょう。

 彰子の決意と寛容を知った帝は感激の余り、自ら彰子の手に手を重ねると、深々と抱き締めます。定子との運命的な愛は熱く激しいものでしたが、彰子と育む愛情は慈しみと優しさが染み入る心地よさなのではないでしょうか。微笑み、抱き返す彰子の幸せな顔が印象的ですね。

 しかし、彰子の決断は、彰子は我が「家」のために働くと信じ込む道長の想定外です。道長は人質として彰子に敦康を預けましたが、寂しい二人が互いを必要として情を深めていく姿を藤壺に通いながら、まったく理解していなかったということです。結局、「民を救う政」という大義に囚われた道長は、娘のささやかな情を踏みにじることになりそうです。

(3)敦康親王の憂鬱

 ある日、孫の敦成を見に藤壺を訪れた道長、敦成を抱きながら、日に日に成長していく孫の様子に目を細めていたのですが、ふと渡りの向こうを見ると、敦康親王が鈴を持ってくるくる回転して舞っていますが、やがて目が回ったのか、ぱたーんと彰子の膝元に倒れ込みます。「お許しくださいませ~」と謝っていますが、まったく悪びれる様子はなく、ただただその膝で甘えることが目的だったことが窺えます。

完全に倒れ込むことを最初から狙ったそれは。無邪気を装った確信犯ということです(笑)数え歳11歳にして策士です。中年男性がやったらいやらしいセクハラ、ティーンズ前の美少年がやったら可愛い甘え…世の男性陣が見たら「うらやま…いや、けしからん」という案件です。倒れ込まれたときはビックリした彰子ですが、その甘えた態度に笑いながら、「お立ちくださいませ」と敦康を抱えて立たせようとします。しかし、とことん甘えたがる敦康はしなだれかかって、なかなか立てないふりをして甘え続けています。


 この様子に敦成をあやす手もそこそこになって、目を剥いたのは道長です。彰子の態度は子どもをあやすそれですが、間もなく元服を迎えようという思春期の敦康が、彰子へ向ける甘えは度が過ぎたもの…女性への恋慕と見えたようです。

 おそらく道長の脳裏には、「私は元服なぞ望まぬ」と敦康が言っていたという行成からの報告が頭をよぎったでしょう。それを聞いた行成は驚き困り、彰子に救いの目を向けたものです。敦康が元服を拒否する理由は「元服したら、この藤壺を出てゆかねばならぬではないか」、このことです。
 困り果てる行成を助けることも兼ねて、彰子は「私は敦康さまのご元服されたお姿を見とうございます。ゆくゆくは帝になられます敦康さまですゆえ」「ご元服されないまま帝にはなることはできませんでしょ」と諭すのですが、敦康は訴えるような眼差しを向け「されど、まだ…嫌でございます」と頑な態度を変えようとしませんでした。

 それは、藤壺以外の新しい世界へ行くことの恐れ、大人になりたくないという子どもっぽい甘えではありません。ひたすらに、彰子と共にいられなくなることが嫌なのです。究極的には元服も帝になることも望まず、ただ彰子に息子の一人としてずっとかわいがってほしいのでしょう。
 彰子の「私にとって敦康さまは闇を照らす光でございました」は、「敦康さま」を「中宮さま」に差し替えれば、敦康の想いそのものです。母を失った敦康もまた甘える先を失った幼子でしたから、自分を慈しんでくれる彰子は救いとなったでしょう。二人は、互いが特別な存在となっていったのです。その絆は余人が入り込めるものではなかったはずです。

 しかし、彰子懐妊で、聡明な敦康は、自分が彰子の子でないことを思い知り、やがてはこの関係が終わるものであると知りました。里下がりの前に「真の子がお生まれになれば、その子のほうが愛おしくなるのは道理です」と、彰子を困らせないよう気丈に振る舞いましたが、その裏側には彰子の愛情が自分に向けられなくなることへの恐れと不安がありました。そして、それは思春期の少年に、彰子への思慕の念をより自覚させ、強いものにさせたのでしょう。

 幸い、彰子は敦成を産んでも、敦康を慈しんでくれました。彼もまた彰子のために、敦成をかわいがり、楽しい日々が再び始まりました。しかし、元服という現実は、否応なしに彼にこの関係の終焉を迫っています。それが避けられないという道理がわかる敦康ですが、まだ感情面が追いついていません。募る不安と恐れは、ますます彰子への思慕を強め、そして過度な甘え方となって表れてしまうのです。

 しかし、道長はそうした敦康の繊細な想いをまったくわかっていませんし、敦成を東宮にすることしか眼中にない今ならば尚更です。そして、男女の機微に疎い道長が、直感的に不味いと感じたのは、二人の関係に既視感を覚えたからです。それは、まひろの書いた「物語」の、光源氏と藤壺中宮との関係です。彼は「物語」の「光る君は幼心にもささやかな花や紅葉に添えて藤壺をお慕いする心をお見せになります」という該当箇所を読み、ますます疑念と危惧を深めていきます。

 ただでさえ、敦康の元服を機に彰子と切り離し、敦成を東宮にするための流れを確実なものにしておきたいのが道長の腹づもりです。また敦成が東宮となれば、彰子は国母です。スキャンダルなどで瑕がつくことは避けるべきです。となれば、敦康の強烈な思慕の念は、早急に切り離しておかないと危険に見えるのでしょう。

 それにしても、ここで道長が「物語」に頼って、物事に判断材料にしたのは興味深いですね。たしかに紫式部の洞察力は相当なもので、現実に起きることを予見しているかのような記述が「源氏物語」にはあります。本作のまひろも深く人の心を追求しようとする節があります。また、彼女の見聞きした多くの人の人生が、作品に取り込まれてもいます。ですから、「物語」は真に迫り、登場人物たちの様子に、読者は自分や周りや境遇を重ね、一喜一憂するのです。

 しかし、「物語」架空の人物が織り成す架空の物語です。どこまでいっても事実を伴う真実ではありません。あくまで「物語」で描かれたことは、真実ではなく「真実の影」です。にもかかわらず、フィクションと現実が重なったように感じてしまった道長、いささか行き過ぎに見えなくもありません。ある意味では、道長は、まひろの「物語」に翻弄されているとも言えますが、これが今回だけの一時的なものであるか否かで、政と「物語」の関係性はまた変化していくことになるでしょう。
 さて、「物語」と読み、敦康親王の中宮彰子への執着に危険を感じた道長は、行成を呼び出し「敦康さまの元服の日取りを急ぎ陰陽寮に決めさせよ。日取りが出たら、帝にすぐ奏上する」と明示、敦康親王の元服を急ぎます。彰子を政治的に守り、敦成を速やかに東宮にするには、敦康親王の強すぎる思慕の念は危険すぎる。道長の強い語調には、焦りが滲みます。

 6月、彰子が第二子を懐妊し、再び土御門殿へ里下がりする前日あたり、しばらく彰子と会えなくなる敦康親王は「帝に元服の延期をお願いしてみます。中宮さまがお戻りのとき、ここでお迎えできますように」と言い出します。健気な物言いの裏にあるのは、もう二度と会えなくなるのではないかという恐れです。
 敦康の「まだ嫌だ」という思いに反して、迅速に決められていった元服の日取り。聡い敦康は、そこに左大臣道長の彰子と自分を引き離そうとする意思を嗅ぎ付けたのでしょう。おそらく、道長は、かつては頻繁にしていたであろう敦康へのご機嫌取りもぱったりしなくなったのではないでしょうか(笑って謀をする兼家ならこういうとき気取られないのですが、道長は脇が甘いですね)。こうなるとまだ少年の敦康の力では何ともなりません。一方で無理に引き離されるという恐れは、敦康の彰子への思慕の念をさらに高めます。皮肉にも、二人を引き離そうとする道長が、敦康の思いをより強くしているのです。

 そう考えると、左大臣のいる前で彰子に「帝に元服を願い出る」と言い出すのは、延期を半ば公認させられる唯一の策、敦康親王が捻り出した知恵かもしれません。無邪気を装う確信犯ですから。案の定、道長は憮然としていますが、中宮彰子の手前、まずは静観するしかありません。
 しかし、敦康の期待に反し、彰子は「元服なさっても、ここにいらしてくださってよろしいのですよ?」と答え、元服しても私との絆は無くならないのだから大丈夫よと諭します。彰子にすれば、当然の返答でしょう。敦康の成長を見届けたいという親心、立派な帝に育てるという使命感、加えて「お上の心と共にありたい」という帝への誓いから来るものだからです。自身の出産で、元服が滞るのは本意ではありません。

 彰子の正論も理解できる敦康は万事休す。落胆の色をかくせません。敦康の落胆を単純な寂しさと見た彰子は、また会えますよとばかりに「明るいお顔でお見送りくださいませ」と励まします。彰子を困らせる気は毛頭なく、またしばらく会えなくなる彰子には自分の一番の笑顔を覚えてもらいたいものです。敦康は、内心の不安と恐れを押し隠し、頑張って明るい顔を作ると「はい、中宮さま、どうぞお健やかに。元気な子をお産みください」と殊勝な気遣いを見せます。

 敦康の彰子への思慕は極めて一途ですが、同時に幼心にも彼女を決して困らせてはいけないという思い遣りを忘れません。まだ甘えたい盛りの年頃でありながら、小さなその身に思慕と理性を同居させる敦康、その抑制的な姿は、まひろへの感情駄々漏れで周囲を困惑させている道長とは比べ物にならないほど、大人で聡明です。彼が、光源氏と藤壺中宮みたく一線を越える可能性は薄いでしょう。それだけにその健気さがいじらしく、また可哀想ですね。
 ところで、まひろはこのやり取りを妙な顔をして見ていましたが、何か気づいたのでしょうか。

 こうして彰子は土御門殿へ、敦康の元服も進められ、道長の思惑どおり彰子と敦康の引き離しに成功しかけましたが、ここで思わぬ横槍が入ります。一条帝より「中宮が子を産むまで、敦康の元服は延期せよ」との沙汰が下りたからです。「既に支度は進んでおりますが…」と驚く道長に「中宮の出産と重なっては都合が悪かろう」と、左大臣の激務を気遣ってのことだとします。
 「どちらも無事に進むよう意を用いております」と食い下がる道長に「左大臣、これは朕の願いである」と明言します。「命」とは言わず「願い」と頼んだところに、帝の左大臣への配慮が窺えますが、裏を返せば、そうしてまでも延期したい強い意向があるということです。

 彰子より遥かに政治的な帝は、道長が敦康の元服を急ぐのは、敦成を東宮にする布石と見ているでしょう。この流れで特に憂慮すべきは、彰子の第二子出産で敦康親王の元服が霞んでしまうことでしょう。かつて、定子の出産に合わせて彰子入内を仕掛けた道長ですから、帝が疑うのは杞憂とは言えません。帝にしてみれば、華やかな元服で敦康を後継者と印象づけたいと思われます。
 こうまで言われては道長も「承知つかまつりました。改めて日時を陰陽師に図ります」と引き下がるしかありません。ただし、彰子と敦康を引き離すと一番の目的は譲れません。「ご元服後のご在所につきましてもお任せくださいませ」と進言し、引き離しの算段をつけます。帝も、道長の意図は察したかもしれませんが、臣下の善意の体を取り、理に適う進言ですから受け入れるしかありません。こうして、東宮位を巡る駆け引きは静かに進んでいきます。

 帝の意向で元服は延期、藤壺に残れることになった敦康ですが、その藤壺で失火があったため、結局は藤壺を一時的に退避することになります。彼は、姉の修子内親王と共に伊周邸へと移ります。修子がいるということは、少納言もついてきています。
 当主の伊周は、彰子懐妊を機にこれを機に参内停止を解かれました。彰子が無事出産を願い、伊周の怨みを緩和しようというのが帝の狙いですが、伊周は参内していません。その理由は、敦康らの前に現れた伊周の見る影もないやつれ果てた姿にありました。咳き込み、よろよろと足元もおぼつかないまま挨拶する伊周は、心だけでなく身体も相当に悪い様子、参内できる体調ではなかったことがまずあるでしょう。もっとも、これは呪詛ばかりしていた心の病が、身体にまで及んできたということかもしれません。その豹変した姿で倒れ込むように座る姿を目の当たりにした少納言も驚きを隠せません。

 敦康もさすがに心配しますが「お気遣いなく、私は大丈夫でごさいます」との言葉に多少安堵したのか「近頃、左大臣は私のことを 邪魔にしている。中宮様に皇子が生まれたゆえ致し方がないが…」と、藤壺では言えなかった不満をつい吐露します。意に染まない元服を進め、藤壺から追いやろうとする道長のやりようには不満があるのは当然ですが、敦成が生まれたから仕方ないとその変心を慮る様子も見せるところに敦康親王の優しさがあります。かつては自分をかわいがり、自分も慕ったことを忘れてはいないのでしょう。

 ただ、心身共に病み尽くし伊周には、そうした微妙なニュアンスまで汲む余裕はなく「左大臣は私のことを 邪魔にしている」という、自身が道長を怨む理由と重なるところのみを聞いたようで「敦康さまは私がお守りいたしますゆえどうかご安心くださいませ」と、道長への怨みを募らせます。
 ここで、藤壺の小火も中宮と敦康ための仕業かと道雅が邪推しますが、これが伊周の執念の火に油を注ぎます。あるいは道雅は、心身病み果ててなお怨みに生きる父を嘲笑うために揶揄したのかもしれません。

 ともあれ、居ても立ってもいられなくなった伊周は病身をおして、土御門殿を訪問、道長にひれ伏しながら「敦康さまを帝からお引き離しするのはやめていただきたい」と道長の敦康への理不尽な扱いをやめてもらうよう懇願します。どんなに強がろうとも、これが今の伊周に出来る唯一です。
 またこの道長の処遇が敦成を東宮にする謀の一環であることは明らかです。ですから、続けて「先例から考えても、次の東宮は帝の第一の皇子・敦康親王様であるべきです。それを帝もお望みのはずでございます」と理屈を並べると「どうか帝のご意思を踏みにじらないでくださいませ」と訴えます。

 この伊周の発言は一々、正論です。彼の野心、嫉妬、怨恨から述べたとしても、その理屈に間違いはありません。「民のための政」という大義名分で、帝の希望を無視し、慣例を破り、権力を己のもとに集中させようとしているのは道長です。かつて専横を極めた伊周の父、道隆に正論を説いたのは道長です。時は移ろい、皮肉にも逆転していますね。

 ただ、正論は正論というだけでは、通じないのが政の世界。根回しやロビー活動など正論を通す工夫が要ります。かつて道長も正論だけを解き、失敗しています。したがって、内裏でも陣定でもない土御門殿でただ正論を唱えても、何の意味もない。それすらわからなくなっている伊周は、その点では既に様子がおかしいのです。
 ですから、道長が、伊周の正論に答えず、「帝の思し召しで参内が許されたに関わらず、何故内裏に参らなかった?」と言うのは、単純に心配した気遣いもあるでしょうが、正論を主張するなら手順を踏まえるべきだし、場所も違う。そもそも、お前は敦康親王のために今まで何をしてきたか?と問う面もあったかもしれません。

 道長の意図が何であるにせよ、彼の言葉は、伊周の訴えをはぐらかし、とりあわないのですから、伊周の怨みの炎に燃料投下するようなものです。しかも、伊周に精神的に大きなダメージを与えた参内停止の話を持ち出したのですから、道長は不用意だったかもしれません。
 遂に伊周はひれ伏したまま「…お前のせいだ…」と絞り出します。ぼそぼそした物言いを聞き返す道長に鬼のような形相を見せると「何もかも…お前のせいだ!」と、絶叫すると懐に大量に忍ばせていた、呪符を撒き散らします。笑い、怒り、ひたすら「八剣や 花の刃のこの剣 向かう道長を薙ぎ払うなり」と呪詛を繰り返し暴れる伊周。隆家があの日、見た通り、参内停止の時点で、伊周は正気を失っていたのですね。

 その剣幕に色をなした道長は思わず立ち上がり「今後、お前が政に関わることはない。さがって養生いたせ」と、退散を命じます。彰子が皇子を産んだそのときから、道長は自らの権勢を盤石にするため、万難を排し、孫を帝にする決意をしました。それこそが、自らの理想を叶える最短コースと考えたのでしょう。そのためであれば、あらゆる手段に手を染める覚悟も決めていたはずです。
 しかし、その人の思いを踏みにじり、政敵を徹底的に排する覇道は、多くの敵を作り、その反動と代償は大きいものです。道長は早速、自身の非情の政の反動がどのようなものかを目の当たりにして戦慄することとなりました。

おわりに
 呪詛を撒き散らし、荒れ狂う伊周は、土御門殿の家人たちに渡りへと引きずり出されます。丁度、向いの渡りを歩いていたまひろは、その光景を目にします。尋常でないその様子、続いて部屋の奥から出てきたのは、伊周の狂気が心配な道長です。まひろは、その瞬間、相手の男(伊周)が、道長を怨み、呪っていることを察します。今まで見えていなかった道長の政の暗部を見てしまったことを意味します。

公明正大、民を救うべく善政を敷こうとしているはずの道長は、その裏では人々の怨みを買い、苦悩し、孤独に苦しんでいる…あるいは非情なことをせざるを得ない葛藤をしている…そうした彼が一人抱えているものが一気にまひろの脳裏に駆け巡ったのではないでしょうか。為政者の哀しみと苦しみ…しかも、それは自分との約束とのせいかもしれない…そのことも思ったかもしれません…まひろの瞳にはみるみる涙が溜まってきます。

 一方、道長も向こうの渡りから、この惨状をまひろが見ていることに気づき、愕然とした表情になります。今、彼はまひろとの約束を叶えるため、進んで覇道を進み、政敵を排し、非情に徹しようとしています。謂わば、彼の政の暗黒面です。決して彼女に知られたくなかったものを見られてしまった衝撃に、伊周の呪詛以上に道長は狼狽えている。その呆然とした顔つきには、取り返しのつかないことをしたという思いが窺えます。

 まひろのいる渡りと道長のいる渡りとの間にある庭に風が吹き抜けていますが、もどかしいまでの二人の立ち位置の違いを表しているのかもしれません。それでも、道長は、この道を進むしかありませんし、「物語」と「書くこと」の宿業に生きるまひろは、今見た道長の暗黒面すら、やがて「物語」の材としていくのでしょう。後戻りのできない二人の新たな物語が始まる予感がしますね。



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