「どうする家康」第17回「三方ヶ原合戦」 家康と瀬名のすれ違いと信玄の軍略から見える過酷な未来
はじめに
第17回は、家康三大危機の一つ、三方ヶ原の戦いへ家康がどう引きずり出されていったかを最近の学説も使いながら描いたものでした。
刻一刻と悪化していく戦況に対する緊迫感、それに連れて高まる家臣団の結束、織田勢との同盟による作戦立案、戦国大名の成長も垣間見える家康の言動など「どうする家康」にしては珍しく、戦国ものならではの展開が見どころでした。それだけに魚鱗の陣を敷き盤石の構えで迎え撃つ武田軍を見た家康たちの絶望感も際立ちました。
こうした戦場の臨場感を全開にした展開の中で違和感のように挿入されるのが、築山での瀬名との語らいの場面です。築山だけが戦争などないかのように穏やかな時間が流れています。
愛しい恋女房に一目でも会いたいという家康の心情自体は理解できますが、一方で、いつ武田軍が来るか分からない戦況の中、築山に寄り、瀬名と語らうのは呑気過ぎるきらいもあります。それでも、家康は敢えてここに寄った、寄らざるを得なかった。
その心情はどういったものだったのでしょうか。それは、言い換えるなら、築山での瀬名との語らいの場面がわざわざ挿入されたのは何故なのかということです。ここに、三方ヶ原合戦以降の家康の変化、そのターニングポイントがあるように思われます。
そこで、今回は信玄の策略と家康と瀬名の互いへの想い、その関係をひもときながら、今後の「どうする家康」の展開を考えてみましょう。
1.合戦を前にした女性たちの悲壮な想い
冒頭では、陣触れ(前回の幕引き場面)前の家臣らの様子が描かれます。わざとよろめき於大の方に甘える久松勝俊(リリー・フランキーさんだからこそ許されますね)、冗談めかし妻を抱き寄せる酒井忠次、死に花を咲かそうとする叔父を気遣う本多忠勝とそれぞれの悲壮な決意が窺えます。
その中でも、勝俊、忠勝の旅立ちについては、当人たちよりも彼らを笑顔で送るその妻たちに焦点が当たっていることは注意したいところです。
例えば、於大は一国の主たる家康を叱咤するときとは違い、歳だから無理せぬように勝俊に伝えます。武功よりも御身を大切にして無事帰ってきてほしい…母でもなく、領主の内儀でもなく、ただの妻の顔になるのですね。態度に一貫性がない於大ですが、状況に応じて様々な面を見せる正直さと融通無碍さが彼女の魅力でしょう。だからこそ、ふざけ合う中でも勝俊を案じるその想いに真実が宿ります。
そして、忠次の妻、登与は、夫一人のためだけに握り飯をこさえています。既に一城の主である忠次に直接、食事を作ることがあるのかはわかりません。しかし、敢えて昔のように握り飯を作ろうとする姿に、妻としての彼女の想いが凝縮されています。男たちだけではない、銃後(戦国時代には合わない表現ですが)の女性たちも、笑顔の裏で悲壮な覚悟をし、生き延びることを願って、そして、まさに戦っているのです。
だからこそ、次の岡崎城の場面でも女性たちの描写が目立ちます。戦況から岡崎城も臨戦態勢に入らざるを得ないことが平岩親吉から語られます。今回から細田佳央太くんになり成人した信康になりましたが、ちゃんと松平姓ですね。これは、件の徳川姓への改名が、家康一人に許されたものだったからですが、一方で信康が嫡男とはいえども徳川姓を名乗れない未熟さでもあります。
そんな信康も三河の危機を前に、父のために戦う決意をしますが、妹の亀姫には「虫も殺せぬ兄上」と心配される始末。この設定は面白いですね。通説では武辺ものだが、それゆえに乱暴で粗雑な性格で描かれる信康が、本作の家康の優しい気質を受け継いだ人物とされているからです。これには「戦は嫌なんじゃ」とたびたび語る瀬名の意向も反映されていそうで興味深いところ。
この心優しき性格が戦場に出たことで変貌するのか、それとも三方ヶ原合戦を機に戦国武将らしく変わっていく偉大な父に対するコンプレックスとなっていくのか、どちらであるにせよ、彼の運命に大きく関わる人物設定となりそうです。
そして、そんな信康の決意に勇猛さを望むのが妻の五徳です。一見、夫唱婦随にも見えますが、少女時代から父:信長への憧れの念が強く、プライドが高い彼女の発破は、単に自分の理想の男性像を信康に押し付けているだけの可能性もあります。
「叩きのめしてやりなされ」な言葉には、於大や登与からは滲み出た「相手の身を案ずる」という繊細さは見られません。夫婦関係の問題ではなく、単に五徳は他人を慮ることをしないまま育った女性ということかもしれません。そうなると、「虫も殺せぬ」信康とはいずれ反りが合わなくなり、通説どおりの不仲が予見されてきます。
だからこそ、今は頼もしく育ったかのような若夫婦を見つめる瀬名の憂いのこもった複雑な表情が一層、際立ちます。徳川家一同が一丸とならねばならないときに、表面上は亀姫を窘める瀬名だけが、明確に不安な表情を見せるのです。
彼女の抱える本心は、中盤の築山の場面まで待たねばなりません。
2.信長との契りが意味するもの
さて、家臣たちの結束を頼りに信玄との戦いを進めていく家康ですが、予想を遥かに上回る武田軍の破竹の勢いは止められません。「孫子四如の旗」の風林火山が示す、疾きこと風の如し、侵略すること火の如し、これを実感させられています。
この際、最終防衛ラインに近い高天神城の重要性について説明され、その名前が強調されていますが、これは信玄死後、織田・徳川軍VS勝頼軍の戦いの鍵を握るのが、高天神城攻略戦になるためです。因みに武田に攻め落とされて以降の高天神城を守るのは氏真亡命以降、武田に降ったあの岡部元信です。
さて、そのあまりの速さに恐れ、狼狽える家康と家臣団の様子に武田軍の強さが表れていますね。家臣団は勿論、家康の表情にも驚きと狼狽が目立ちます。冒頭の悲壮な決意が現実となっていく、その焦燥感が伝わります。
この焦燥感に止めを刺すのが、武田最強、山県の赤備えと直接戦った本多忠勝が血まみれで帰ってくることです。忠勝は生涯、戦場で傷を負わなかったとされており、一応、今回も「返り血だ」と言い張っています。実は逸話は言い張っただけかもということかもしれませんね。真偽はともかく、それでも疲労困憊だけは隠しきれません。あの忠勝がここまで押し込まれ戻ってくる、これだけで十分、徳川家には衝撃でしょう。
とはいえ、曲がりなりにも多くの修羅場をくぐった家康と家臣団です。
前回の記事で「家臣団の熱い絆の真価は、彼らの知恵でどこまで勝率を上げられるか、どこを最低防衛ラインとするかにかかっています」と話しましたが、状況的に負け続けているこの戦いも決して無策ではなかったことが、この後に明らかになります。
そして、その鍵となるのが、同盟者、信長からの援軍です。つれない返書をもらった家康は、使者である伯父水野信元を脅し、信長を鷹狩(という名の会談)に連れ出すよう要請します。命がけの戦いの中で、彼は同盟が対等であることを武器に苦手な信長すら自ら交渉しようと試みるのです。強面なだけで実は信長の顔を伺う風見鶏に過ぎない信元を脅すなど訳もない。この激昂は、あくまで一国の主として最善の判断と言動の一環、ハッタリです。だから信元を脅す家康に家臣も動じることはありません。こういうことができる家康へ成長していることを彼らはもう知っているのでしょうね。
さて、そんな家康を「俺を呼び出す奴は珍しい」と半ば嬉しそうに信長はやってきます(笑)信長は追い詰められたときの家康のポテンシャルを知っています。今までのツラい当たり方や脅しも、実は彼なりの家康への期待であることは、以前の記事「パワハラ信長のまめまめしい親切」で書いたとおりです。
ここで家康は信玄の狙いは信長であることを告げ、彼をこの戦いに引きずり出します。対する信長は皆まで聞かず「策は?」と単刀直入です。その後の「桶狭間」、「餌は?」、「家康」という短いやり取りが、即決即断の信長に合わせた駆け引きになっていて小気味いいですね。
そして、前回の「我らが桶狭間を成すときぞ」という言葉が、単なるキャッチフレーズではなく、本当に軍略であったことが明かされます。元々、持っている家康の頭の良さと修羅場をくぐり抜けて得た覚悟(これは金ヶ崎などでも見せていますね)が、自分(と浜松城)を餌にした中期的な奇襲作戦を提案させたのです。
家康自身を駒として信長に信玄の首級を取らせようとするこの策は、夏目広次の「この一同で力を合わせ、知恵を出し合えば~」の結果でしょう。そして、この自分を犠牲にする軍略を採用するところに家康の家臣への信頼が見えます。武田家襲来という危機は、家康と家臣団との熱い絆を急速に成長させたようです。
そして、その成長をへっぽこさを見せ続けた鷹狩で、信長の前で見せた演出も巧い。度々の狼狽する鷹狩は、このためにあったのですね。当然、「それしかない」と信長の判断とも一致しています。だからこその援軍です。信長は徹底的に家康に甘いですが、それは大局という現実との落としどころがあってこそ。役に立たないものに投資はしないのです。
ところで、この援軍について、希望の5千ではなく3千しか援軍を送ってくれないことに不満を垂れる家康ですが、当時の信長は浅井・朝倉だけでなく本願寺蜂起、長島一向一揆など俗に言う信長包囲網に囲まれている状態です。つまり方々に問題を抱えていて余裕がありません。今回の鷹狩に秀吉がいないのも、出世した彼を投入しなければならない戦局の厳しさの表れです。だから、同盟とはいえ、家康に3千もの援軍を出したのは破格の対応なのです。
しかも、家康の厳しい状況を察して、浅井・朝倉の殲滅を1ヵ月で終えると宣言しています。これも信長の心遣いというものです。そして、諸説ありますが、本作では筆頭家老の佐久間信盛を寄越しています。信長が、現実的な問題としても、清州同盟を重視していたと言えるでしょう。
それでもなお渋面の家康に対して、信長はしゃがんで家康と目線を同じくして向かい合い真摯な目で「俺とお前は一心同体。ずっとそう思っておる」と励まします。というか、ツンデレ信長も金ヶ崎の「分からん」(家康)の教訓から、ようやく気持ちは相手に正直にちゃんと伝えなきゃダメなんだと学んだようですね。まあ、彼にとってはおそらく初めての経験なので、距離感が取れていません。近すぎです。
なんでスキンシップ込みなんだよ、とツッコミを入れたいとことですが、あろうことか、その真心を受けた家康は、半歩進んで信長ににじり寄り、膝を着きます。わずかに信長より視線が低くなるこの瞬間こそ、家康が心から信長の弟になることを選んだときです。ここを見逃してはいけません。
何故なら、第4回「清州でどうする」で形だけは結ばれた清州同盟が真に成立した瞬間だからです。金ヶ崎で起きた兄弟げんかが終わり、二人は本当の意味で同盟者となったのです。まあ、二人が不器用過ぎて随分、長いことかかったので、家臣たちは結構迷惑だと思いますが。
ただ、家康が信長の真の同盟者となったことは、優しかった家康がまた一歩、そして確実に戦国大名たちの弱肉強食の論理へと呑み込まれたことを意味しています。その意味では、単純に喜べるものではありません。
更に、信長はこの際に家康に「楽しめ!一世一代の大舞台を」とアドバイスをします。「この世は地獄」と嘯く信長らしい享楽に満ちたこの言葉は「乱世は思うようにできるから面白き世」だというお市の言葉とも重なっていますが、目の前のことに必死に生きてきただけの家康にとっては実は重大な意味を持っているとも言えそうです。
目の前のことに必死な人は近視眼的になり、自分の置かれた状況が見えにくくなります。しかし、自分の置かれた状況を「楽しもう」とする人間は、状況やその先を俯瞰して観ることができる。これまでの回で指摘されてきた家康に足りない大局的な視点、広い視野の持ち方を信長は教えてくれたのです。信長がどこまで意図したかはわかりませんが、こういうアドバイスをしてしまうとは実に弟に甘い男ですね。
しかし、戦や状況を楽しむということは、そこで苦しむ人、死んでいく人に共感せず、彼らを駒として見なければならないことも示唆しています。家康に求められていることは、今の自分の優しさと引き換えなのかもしれません。そして、家康は、否応なしにその決断を迫られているとも言えるでしょう。
3.想い合いながらすれ違う家康と瀬名
信長からの援軍を取り付けた今、一刻も早く浜松に戻り準備を進めなければならない家康は、何故か瀬名に会いに築山に行きます。
そして髪を梳いてもらいながら、「信康もしばらく見ぬ前に頼もしくなったものじゃ」と役者が変わって「成長著しい」(「鎌倉殿の13人」)状態に触れているのが可笑しいですが、その中で瀬名は「寂しい」と冒頭の岡崎城で見せた表情に込められた想いを吐露します。心優しい息子が戦場で戦う武将になっていく姿、それを寂しいと言うのですが、そこで「殿のように」と添えます。
つまり、息子の変化に家康を重ね、息子のこと以上に家康がどんどん武将として変わっていくことを危惧しているのですね。息子ではなく家康自体のことについて言っているのです。冒頭の家臣たちの妻の様子と響き合ってきます。このために挿入されていたのですね。瀬名を始めとする妻の想い、これが出陣する男たちの想いとは全く違うのではないか、冒頭の家臣の妻たちの姿と重ね合わせ、戦国を支配する弱肉強食の論理に問いかけています。
また、瀬名の想いが、「哀しい」ではなく「寂しい」なのが重要です。奥向きを担当する正室である瀬名はそれが仕方のないことだと悟っています。だから、周りには息子の成長を喜んでいると述べ、皆が活躍できるようにと表向きは鼓舞して役割を果たしています。しかし、だからこそ、瀬名の大好きな家康から遠くなっていき、変わらぬ自分を置いていくようであることが寂しい。
一国の正室である彼女の誰にも相談できぬ孤独がそこにあります。家族とはいえ、嫡男という立場の息子には言えず、気の強い五徳は否定するでしょうし、亀姫は不安になるだけですから。出来ることはただただ、家康の背に頬を寄せて、彼のぬくもりを直接感じようとすることだけ…
「どうして戦はなくならぬのでしょう。誰も殺し合いなどしたくないのに」という戦を止めることのできない言葉が空しく響きます。
しかし、目の前の武田軍に心を囚われている家康は、瀬名の想いを知ってか知らずか(向き合っていないという画面の構図からすると彼らはお互いの本心が見えていないでしょう)、「この乱世、弱さは害悪じゃ」と今の瀬名には最も残酷な言葉を吐露してしまいます。
各城が落とされるのは自分の想定の範囲内とはいえ、着実に迫ってくる信玄の恐ろしさ、予想を超えた侵攻の速さ、それは戦局に狼狽した表情が証明していますね。じわじわと彼の精神は信玄に削られています(家康の精神的疲弊も信玄の狙いのうちでしょう)。そうした中で思わず発したのは、信玄の「弱き主君は害悪なり」です。前回、それでも弱い姿を家臣に見せて結束を固め、違う方向を示した家康ですが、絶望的な戦局は信玄の正しさを認めざるを得なくなっています。
軍略的にはまだ負けていない家康ですが、既に信玄の論理に呑まれてしまっています。そして信長との義兄弟の同盟関係を再確認し、自分を含めた大きな犠牲を払う非情の戦場へ突き進もうとしていることもまた少なからず影響しています。強くなければ生き残れない、その目の前の現実だけが彼の心を占めています。
自分が思っていた以上に家康が追い詰められ、変わりつつあることを悟った瀬名がはっとして背に預けていた顔をあげるのが切ないですね。
このようなやり取りの後、木彫りの白兎を自分の弱さとして瀬名に預けていくと告げます。そして瀬名に「何があっても強く生きてくれ」と伝えます。家康は死を覚悟して、自分の本然である弱さ…それは優しさでもあり他者への慈しみでもあるそれを置いていくのです。自分が死んでも、その想いは側にいる…そんな想いだったと分かります。
しかし、それは瀬名にとっては、家康が無慈悲で非情な戦国武将へと変化していくことに他なりません。それを受け止めるしかなく、また戦況からして彼を止めることはできません。変わっていく彼を止められない絶望的な想いが目にうっすら浮かべた涙に表れています(有村架純さんの繊細な演技が光っています、やはり彼女は巧いですね)。二人は互いを想い合っているのに、どこまでもズレていく、溝が出来ていきます。
そして、死を覚悟する家康は、築山には「指一本触れさせない」…改めて瀬名を護る決意を固めます。その悲壮な決意に瀬名は、いつかこの弱さを取りに戻ってほしいと語りかけます。瀬名は、弱き心こそが家康の優しさであり本当の姿、それに戻ってほしいのだとかき口説いているのです。ただし、今は叶わぬ夢であることも自覚するがゆえに「瀬名はその日をお待ち申しております」と哀しげな笑顔で静かに添えます。
家康は、そんな瀬名の言葉に後ろ髪を引かれつつ、強くなって戦うという決意が揺らぐことを恐れるあまり、ついぞその本心の顔(耐えきろうとする松本潤くんの表情が良い)を見せず、瀬名を振り返らずに築山を去っていきます。最後まで二人の想いは向き合いきることなく、どこかずれたまま終わっていきます。
築山の風景にインしてくる戦いの音楽の不穏なイントロを背景にして去っていく図が、二人の決定的なすれ違いと断絶を予期させますね。その後の二人の顛末を知る人ならば、二人の終わりの始まりを感じることでしょう。
しかし、何故、二人は想い合いながらすれ違ってしまうのでしょうか。それは、見ようとしているビジョンが違うからだと思われます。
生き延びるための過酷な修羅場に身を置き、命の危険にさらされ続ける家康は、兎に角、目の前の出来事を処理することに必死です。現実を見ていますが、その先が見えていません。これは、姉川の戦いでも数正らに指摘されたとおりです。
一方、瀬名は戦のない世の中を夢見ています。三河一向一揆編で瀬名は家康が「厭離穢土欣求浄土」を実現できる気が「なんとなく」すると言っています。冗談めかしていますが、彼の優しさがいつかみんなを救ってくれるに違いないと信じたい瀬名の切実な願いがそこにはある。
言うなれば、瀬名はその救われる未来のために、現実を生きているのでしょう。現実に四苦八苦する家康と未来に希望を持とうとする瀬名、二人の見ているものは哀しいことにズレてしまっているのです。
因みに瀬名に預けていった家康の「弱き心」(=優しさ、慈しみ)を取りに瀬名の元へ戻る「その日」は…彼女の存命中には訪れないでしょう。家康が瀬名の墓前へそれを取り戻しに来る日が描かれることがあるのか…それとも取り戻すことなく変貌してしまうのか。予断を許さない乱世です。
家康は何故、三方ヶ原に引きずり出されたのか~家康の優しさが決定的な短所に~
(1)軍略を外された家康の絶望感とその後の高揚感
さて、援軍を取り付けた後の軍議は、信長側と台詞まで同期させて彼らにとっての最善の策が整えられていく高揚感の演出が素晴らしいですね。家康の「想定通り」、家臣団の「籠城あるのみ」、「浜松城を落とすには一か月はかかる」という意の言葉から、以前から彼らが準備を整えていたことが分かります。籠城戦は兵糧や水の備蓄が重要であり、それを揃えておくのは単なる思いつきでは出来ません。
家臣たちが台詞を割って、この軍略の要を説明していくという演出で家臣団の結束の高さ、入念な準備、徳川勢の知恵と勇気を結集したことを表現しています。自身たちの籠城戦を長引かせることで信玄の背後をつく…まさに肉を切らせて骨を断つ苦肉の策を進めていきます。信長側の動きが連動することで、この軍略が確かなものへと仕上がっていくことも感じられますね。
ところで、そんな高揚感の中でも秀吉が存在感を出していましたね。彼は任された攻略に3ヶ月かかると言いながら、信長の希望が1ヶ月と知るとニヤリとしながらさっさと動きました。この表情、金ヶ崎、姉川での彼の言動からして、そもそも1ヶ月で出来ることを3ヶ月と盛って進言したのではないかと想像できます。つまり、信長には、3ヶ月を1ヶ月にするため死ぬほど苦労したと演出する腹積もりがあっただろうと。抜け目のなさを、家康側の高揚感の中で出してくるあたりが、彼のキャラクターの強さであり、油断のならない恐ろしさです。
さて、結局、この軍略は、対峙した信玄が浜松城を無視して西へ進軍したことで瓦解します。一度は対峙しながら、わざと見せつけるように避けていくのは、明らかに誘いなのですが、一世一代の覚悟を決め、これまで精神的に削れていくことに耐えに耐えてきた家康にとっては信じがたいことです。そして、自分に援軍を送ってくれた信長への義理立てすら出来ません。絶叫するのも無理はありませんが、このこと自体が既に信玄に呑まれている、心理的に負けていることを示唆しています。
家臣たちに「どうする」と問われて、判断を決める際に様々なことが走馬灯のように家康の頭を巡りますが、そのときも信玄の言葉が大きく響いています。三方ヶ原出陣の流れを作る判断は、信玄に急かされたようなものです。
とはいえ、いたくプライドを傷つけられた家康が血気に逸り一部家臣の反対を押し切り、無謀な賭け城外へ出陣するという通説は踏みません。家康は、「弱く賢い」(信玄)ですし、また家臣団も宿将、忠次が「落ち着いて考えましょう」と進言し、血の気の多い忠勝すら直接槍を交えた経験から策なく直接対決をすべきではないと言うほどです。武田軍に吞まれているとはいえ、愚か者ではありません。
地の利だけは信玄より有利であるという家康の言葉から希望を見出す彼ら。ここでそれを使った三方ヶ原への奇襲作戦を進言するのは、あの夏目広次です。いや、もう前回から立てている死亡フラグを更に折れにくく補強するのは止めてください…と言いたくなるような活躍です。
こうして、今度こそ、桶狭間のごとき奇襲を自ら行うことになった家康は家臣一同の賛同を得て、全軍で三方ヶ原に向かいます。寡兵である彼らは兵の出し惜しみは出来ませんから当然の判断です。
各武将の高揚した表情を次々と映し出しながら、バックに流れるメインテーマ…彼らの心情を体現した選曲としては大正解なのですが、三方ヶ原合戦の結末を知る視聴者には、これ以上ない絶望と皮肉です。大河史上、最も残酷なメインテーマの使い方と言えるでしょう。徳川家、主君から家臣一同の心が一つになり「我らが桶狭間」を確信する最高潮から眼前に広がる悠然と陣を構える武田軍を観た絶望へと一気に叩き落とします。
しかし、これこそが、勝利のカタルシスをとことん嫌う「どうする家康」の真骨頂と言えます。お見事と言うしかありません。
(2)古典を熟知した武田信玄の軍略の正体
しかし、何故、家康たちはここまで徹底的に負けたのでしょうか。史実だからというのは、簡単ですが、彼らが構えた軍略は寡兵をもってしながらも理に適ったものでした。信長も「それしかない」と断言しています。にもかかわらず、完全な敗北を喫したのです。ここで、考えるべきは信玄が家康に仕掛けた軍略はなんだったのかということです。
ここで、三方ヶ原出陣の前の軍議を少し振り返ってみましょう。そもそも、家康は何故、出陣を決めたのでしょうか。水野信元、佐久間信盛は信長の命令通りの籠城を主張します。榊原康政が「岐阜まで素通りさせたら問題なのでは?」と牽制し、その後の知将の片鱗をほのめかしていますが、風見鶏たちはどこ吹く風です。
一方で、ここで出陣しなければ臆病者のレッテルを貼られ、遠江の領民の支持は得られないという現実問題も出てきました。信玄はこの点も重々承知しており、家康の臆病振りの流言を望月千代女に任せています。刻一刻と出陣へと追い込まれているのですが、家康の出陣の決定打にはなりませんでした。
それよりも、このまま西へ進めば三河、岡崎へ向かうと察した数正の「信玄はたやすく岡崎を落としましょう」という言葉に家康は、はっとします。ここで中盤の築山での瀬名との語らいが効いてきますね。彼は築山で改めて「瀬名と子どもたちのいる」岡崎を護りたい、そのために非情に徹して戦うのだと決意しました。
その決意に、数正の言葉は響きます。そこに鳥居元忠の「わしらの岡崎を守らねば」という言葉が畳みかけます。実は元忠の父、忠吉(イッセー尾形)は、この年の春に亡くなっています。亡父が守ってきた岡崎を彼に代わって守りたい気持ちを一番強く感じていたであろう時期だと察せられます。台詞を言う面子の選択が巧妙です。そして、冒頭で妻たちと別れを済ませてきた忠次、勝俊もまた同じ思いであるのは言うまでもありません。
かくして彼は城を出て戦う判断をするのです。つまり、家康は妻子への想いから、三方ヶ原への出陣を決めたのです。この心情は、家康の人物造形からするととても自然です。本作では瀬名とは両想いからのほとんど恋愛結婚ともいうべき婚姻でした。そして、三河一向一揆編で本多正信に私戦であると喝破された瀬名奪回作戦は多くの家臣を犠牲にしてまで行ったものです。側室の元へ行く許可もわざわざ瀬名に取りにいきます(これは瀬名に対して無神経ですが)。
物事の大小にかかわらず、彼の行動原理に瀬名が欠かせないのです。そのことが、この17回までずっと描写され続け、今回もわざわざそのことを押さえました。
問題は、その家康の瀬名への想いを信玄が知り尽くしているということです。ここで思い出されるのが、第11回「信玄との密約」です。このとき、信玄は家康と会う前に、瀬名の好みである栗を全部拾い回収しておき、会談の最後で「奥方に」と渡します。これは記事でも触れましたが、この行為は「瀬名が好きな家康が彼女のために栗を拾う」という心情を読み切られたことを意味しています。
つまり、この時点で家康の弱点が、瀬名たち妻子への愛情と優しさだと見抜いていたのですね。それを、この西上作戦で使ってきたのです。
「三国志演義」で諸葛亮が南征をしたとき。その行き詰まりに際して、部下の馬謖(泣いて馬謖を斬るの故事の人です)は「そもそも用兵の道は、心を攻めることを上策とし、城を攻めることを下策とします。丞相殿は、武器による戦いよりも、敵の心を屈服させる戦いをなさいませ」と、相手の心理を攻める献策をしました。結果的にこの進言が、南征の成功と蜀の後背地の安定に寄与することになります。堅牢な城と人間の心、どちらが脆く崩れやすいか、言われてみれば当たり前のことですね。
信玄にとっての浜松城攻略も全くこの故事に倣ったものです。「孫子」を引用して「孫子四如の旗」を作った信玄は、教養人です。「三国志演義」の逸話もよく知っていたことでしょう。
そもそも武田軍は籠城戦が不得意でした。地政学的に交易が難しいため、攻城戦に必要な鉄砲の弾薬や火薬を十二分に用意することが出来なかったと言われています。武田軍が軍制を騎馬軍団に頼ったこともこのこととかかわります。当然、家康側はそうした事情を察して籠城戦を決意したのでしょうが、信玄は最初から籠城戦などする気はなく、いかに彼を自分の有利な野戦に持ち込むかにあったのです。
落としやすい各城を攻め落とし、心理的に疲弊させたうえでその「優しさ」を刺激する挑発すれば、家康側が乗ってくる、そういう必勝の策と入念な準備と諜報活動で算段が完全に立ってから、彼は行動を起こしていたのです。そして、その準備は、あの第11回の会談から既に始まっていたのですから、何年もかけた遠大な計画だったと言えます。「弱くて賢い」三河の小童を信玄がいかに危険視していたのか。ここに来て、あの会談の真の意味が分かるというシナリオも秀逸ですね。
ともかく、目の前の事態に対処療法的に軍略を整えていた家康とは次元が違ったと言うべきでしょう。大局的な視点と視野の広さ、その恐ろしさが決定打として、家康の眼前に広がったのが、三方ヶ原という地なのです。
だからこそ、「孫子」の「勝兵は先ず勝ちて而る後に戦いを求め、敗兵は先ず戦いて而る後に勝を求む」を引用した「戦は勝ってから始めるものじゃ」という信玄の発言が、リフレインして家康の脳内にまで響いてくる演出が実に効いています。
「兵は詭道なり」という序文で始まる「孫子」の兵法は、実は好戦的な内容ではなく、「可能であるなら外交によって戦争を回避すべき」という教えです。つまり、信玄が引用した勝利の見通しもないのに一か八かで戦うなというこの至言は、彼の教養の高さと慎重さであり、調略こそが戦の基本という信念となって彼を長年支え続けたのです。
だからこそ徹底的に敗北した家康は、信玄を師として軍制を整えます。そして、家康は、この三方ヶ原の苦渋の経験を活かして、相手側の仲間を調略で切り崩し、相手側の城を素通りして大阪に行くと見せかけ、野戦に引きずり出し、戦う前から勝利を収めるという戦いを行います。そう、関ケ原の戦いです。戦いという面においては、古典に学んだ信玄は間違いなく正しいのですね。
おわりに
家康の心理を攻めた信玄の軍略は、家康の弱点がその「優しさ」にあると突き付けました。これは、言い換えるなら、家康の行動原理である瀬名の存在自体が、家康の弱点ということです。これまでの家康と瀬名の恋愛関係は、それが信玄に否定されるために描かれてきたのだとするなら、とても残酷なことをするものですね。
今回、家康の脳裏に響く信玄の「勝ってから」の言葉は、非情に徹して弱肉強食を勝ち抜いた者だけが、夢や希望や愛などの理想を語る資格があるという意味です。これまで、妻子のために戦うそのワガママと甘さを指摘されることはありましたが、信玄はその考え方そのものを否定してきました。徹底的にリアリストである信玄の言葉は一定の強度を持っており、重たいものです。
それが、あれほど脳裏に響いた以上、信玄の言葉は今後の家康を大きく変化させるでしょう。特に三方ヶ原以降の家康が、瀬名と嫡男である信康を大局のために切り捨てる決断をする、その布石が打たれた可能性は拭えません。平行して、瀬名とのすれ違いまで描かれていますからね。
一方で、彼の唱える弱肉強食の論理は、多くの弱き民や女性たち弱者には到底受け入れられることはありません。だからこそ、彼らの論理の埒外にある女性たちの願いが瀬名を中心に節々でアンチテーゼのように語られています。
また、三方ヶ原合戦終了に駆け付けた虎松の様子が印象的です。前回、家康に「遠江の民の姿」とされた彼は民たちの代表としてこの場にいます。千代女の調略に多くの者が乗せられる中、彼だけが騙されることなく、その目で真実を見ようとします。
そして、そこに多く転がる骸の数々は信玄の弱肉強食がもたらした悲惨な結果です。更に自分の命を助けてくれた家康の死体らしきものが見えたとき、彼は一筋の涙を流します。あれだけ悪しざまに罵倒した家康の死、過酷な戦の現実、信玄の行う先には何の救いもないことを虎松は幼いながらも感じたのではないでしょうか。彼の変化はここから始まりそうですね。
このように、信玄の論理の問題点も弱者たちの様子で示されています。だからこそ、家康が何を選択し、何を捨てて、どこへ向かおうとするのか。彼の大局的な視点、広い視野はどう獲得されていくのかが問われています。その動機が、次回多くのものを失った真実の物語「真・三方ヶ原合戦」で描かれるもので見えてくるかもしれません。
最後に、瀬名については孤独である寂しさを指摘しましたが、その点で気になるのは、望月千代女です。今回は、浜松にて暗躍し、民を扇動した彼女は、こうした活動を嬉々として行っています。そのことは、早く収束してしまった三河一向一揆もっと混乱させたかったと嘯く姿からも顕著です。彼女は信玄の配下として命に従ってはいますが、天下統一のようなお題目に興味はなく、今の世の中をかき乱すことだけに腐心しているのではないでしょうか。
ですから、信玄にも心酔せず、寧ろ、男たちの野心を愚かと斜に見ているように察せられます。自分の扇動に気づいた虎松を始末するでもなく、笑みをたたえて見逃していますね。もしかして、大鼠を殺さずに帰したのも彼女の気まぐれかもしれません。
そうなると、望月千代女には世を斜に構えてかき回す動機がいります。彼女には、男たちの弱肉強食の論理に虐げられ、大切なものを失った過去があるのかもしれませんね。
そんな彼女の哀しみと瀬名の寂しさが呼応することがあれば、家康の哀しい決断を更に加速させるかもしれません。いずれにせよ。自身が守りたいと思ったものを切り捨てていく、その思いはあの優しい家康からどうやって生まれてくるのかは気になりますね。