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閑話休題の前に~note執筆から見た「光る君へ」の特性~

はじめに

 7/7は「光る君へ」放送休止です。全48回(予定)の半分を越え、話は後半戦、個人的には、さすがに疲れてきたところもあり、丁度良いリフレッシュの週です。また、大河ドラマの撮影は過密スケジュールであることはよく知られるところ。こうした休止は、キャストやスタッフにとっても、作品のクオリティにも重要でしょう。しかし、SNSなど巷にあふれるのは、ロスの声、声、声…まあ、第26回が、あのオチで2週間待たせるのは酷かもしれませんね(苦笑)

 ですから、今回は閑話休題として暇潰しネタを提供できたらと思い、筆を執りました。まあ、本編に勝る代替物なぞありませんし、元がペラペラの私では話せるネタもそうありませんので、今回、お話するのは、「何故、私の「光る君へ」のnote記事は長いのか」という自虐かつ自爆ネタのようなものです(苦笑)

 「どうする家康」から読んでいる方、「光る君へ」からの読者と言う方、つい最近、発見したという方、さまざまな方がいらっしゃいますが、私のnote記事を読んで総じて感じるだろうと思われるのは、「長い」「ボリュームありすぎ」ということでしょう。大体、たかが正味43分程度のドラマです。その一考察記事に過ぎない私のnoteを読むほうが、ドラマを観るより時間が取られるというのは本末転倒です。吉高由里子さんがX(旧Twitter)での決め台詞「あなたの1時間私にください」どころではありません(笑)

 幸い、食いついてくれる読者に恵まれていますが、やはり一部の方にはもう少し減らしてほしいとの声もいただいています。その声に応えたい、私ももう少し楽に書きたい…とは思いつつ、そうできなくなっているのが現状です。何故、そうなったのか、そこには「光る君へ」特有の構成の仕方があるように思われます。そこで、今回は、私の言い訳から、「光る君へ」という作品の構成について、ごく簡単に考えてみましょう。


1.note分量を減らす予定だったはずが…

 「どうする家康」のnoteは、それなりに常連読者がついたようで、一部の方から「光る君へ」もという声を頂きました。残念なことに、「どうする家康」noteは1話から始めてはおらず途中からでした。ですから、「光る君へ」で1年きちんとやるのもよいだろうと考えました。

 しかし、ネックになるのは、当初、7千字程度だったのが膨れ上がり、2万2千字強がデフォルトになってしまっていた記事の分量。この分量だと、どうしても時間が削がれるため、連載のためには負担が大きすぎます。収益化が目的ではありませんから、負担が大きい割に得るものは薄いのですね。
 また、そもそも、読者にとっても長すぎる文章はそれだけで読む気が失せる…それが、読者が一気に増えない理由でしょう。一般に推奨される「通勤時間にスマホでさらりと読める2000~3000字」は無理でも、もう少し減らせれば、書く側にも読む側にもよいかと思われます。


 そこで今年は、昨年とやり方を少しだけ変えることにしました。 「どうする家康」はあらすじに合わせた流れで考察しました。つまり、物語の強度を活用した形で全体を余すことなく考察するのです。愚直であまりカッコよくないやり方ですが、文章を書くことが苦手な私にはやりやすい方法でした。とはいえ、「全体を余すことなく考察」は文章か長くなる原因です。

 ですから、今回は毎回、その回の切り口及びテーマを決め、その切り口に必要な要素のみを考察してまとめるという形に調整しました。こうすれば必然的に書かない箇所も出てくるため、自然と量も減ると考えたのです。実際、テーマ優先で書いているので、放映時に見て、面白かった部分、あるいは人気だろうと思われる部分をカットすることは、「光る君へ」のnote記事ではたびたびやっています。


 例えば、直近の第26回。この回では、清少納言が、定子を政治利用しようとして高圧的な伊周に「私にとって中宮さまは太陽でございます。軽々しくお近づきになりますと火傷されますよ」と牽制するのが、なかなか魅力的です。前回、定子との絆「枕草子」を政治利用されたばかりですから、見事な意趣返し。少納言の言葉、そしてそれに呼応して朗らかに笑う定子…二人の様子に怯む伊周に溜飲が下がった視聴者の方もいらっしゃったのではないでしょうか。
 非常に印象的な場面ですが、前回、私が設定した「夫婦の価値観の齟齬」という切り口には上手くはめられず泣く泣く割愛と相成りました(私の力不足かもしれませんが)。他にも乙丸や百舌彦ら従者ズの活躍も本筋に強くかかわらない限り、最低限だったかと思います。


 このようにテーマ縛りの考察で分量を減らす作戦で「光る君へ」へ臨み、初回は7000字程度とまずまずのスタート、以降、第4回までは順調でした。第5回で1万4千字になってしまったときは、油断したな、情報量が一気に増えた…かな?ぐらいに思っていたのですが、以降、減らすことができず、第10回で2万字を超え、元の木阿弥になりました。
 つまり、分量を減らせないのは、私の力不足だけでなく、作品の特性によるところも大きいと気づいたときには、後の祭り…あれよあれよといううちに3万字前後がデフォルト。第24、25回は4万字を超えるという有様になりました…


2.画面に揺蕩う感情たち

(1)実質、二人主人公体制

 それでは、note記事が長くなる原因を「光る君へ」の構成から探ってみましょう。まず、一つは本作が、実質的にまひろが主人公ではなく、まひろと道長の二人が主人公だということです。そもそも、恋愛の名手、大石静さんが脚本なのですから、そうなる可能性は高かったのです。しかし、愚かにも始まる前までは、7、8割はまひろとその周辺のドラマ、2割が道長と政治ぐらいの比重だろうと踏んでいたのです。しかし、実態はほぼ50/50、寧ろ、政治にかかわる道長の比重のが高い回も散見されるほどです。

 でも、よくよく考えて見れば、初の平安時代の都が舞台の大河ドラマです。平安時代を舞台にしたドラマはNHKでも「風と雲と虹と」(1976)、「陰陽師」(2001)、「火怨・北の英雄 アテルイ伝」(2013)と少なく、歴史に馴染みが薄い。ですから、時代をマクロな視点で語る政治史を背景としてきちんと描いておく必要があるのは当然で、道長サイドはその役割を担わざるを得ないのですよね。


 さて、まひろと道長、それぞれの物語は、今のところ、生きる世界の違うまひろと道長は、その人生が重なることが少なく、それぞれが、それぞれの場所で苦悩し、行動していくことになります。場合によっては、二人の人生が、間接的にもまったく干渉し合わない回もあります。したがって、note記事は、毎回、毎回、まひろサイドの話、道長サイドの話をまとめることになります。つまり、1つの物語の中から、二つの別の平行世界の物語を描き出すことになるのです。これが、note記事が長くなる理由の一つと思われます。
 更に1クールの間は、政に関する牽引役を務めたのは道長の父、兼家でした。道長サイドの物語は兼家を中心に描き、そのリアクションで道長が描かれる形になっています。道長が能動的ではない分、兼家の描写への考察が長くなる傾向があったように思われます。

 ただ、後半戦、まひろが紫式部として彰子に出仕するようになると、二人の物語は重なり一つになるでしょう。今は、noteの分量を増やす二人主人公体制は別の側面を見せるかもしれません。


(2)本音を直接語らない貴族たち

 もう一点、難しいのは、本作のキャラクターたちは直接、心情を語ることが少ないということです。ただ、見つめるというだけのシーンで、多くの意味が含まれている、あるいは複雑な心情を表すということが多いのが「光る君へ」の特徴です。しかも、レイアウトやナメなどの画面構成はあるものの、「どうする家康」の演出陣ほど画面自体は強く主張せず、役者の表情や芝居をライティングで際立たせる形が多いように思われます。

 つまり、脚本を役者たちがどう解釈しているのか、その解釈と表現の仕方に委ねている脚本と撮影現場なのだろうと察せられます。理詰めによって視聴者を理解させることよりも、視聴者の感情に訴える共感性のほうが優先されているのでしょう。そして、吉高由里子さんにせよ、柄本佑くんにせよ、そうした微妙なニュアンスを巧みに演じているのは、心揺さぶられている視聴者の皆さんがよくご存じでしょう。

 彼らの芝居と表情は、台詞よりも多弁で秀逸です。しかし、それを余すことなく読み取り、言語化するのは至難の業です。正直、感覚的に言えば、「一文もないのに行間だけが存在している」という矛盾した状態が、「光る君へ」という作品です。言葉のない世界にある行間にあるものを、文字起こしすることが、私の考察の場合は求められます。しかも、感情に訴えられているそれをわざわざ言葉にすることは、一見して野暮になることが避けられませんから、注意深く、余計に言葉を連ねることになるのです。また、さまざまな解釈の可能性があります。ですから、その可能性についても一々、言及することになります。自然と分量は増えますね(苦笑)


 さらに兼家と晴明に代表されるように、貴族たちは本音を口にしません。「都人は心を顔には出さぬ」(第24回)とは宣孝の弁ですが、まさにこのことです。ですから、会話は額面通りだけではないことも多く、会話自体の意味がよくわからない、または真意がわかりにくいということが起きます。

 例えば、直近の第26回、道長の「彰子は入内して幸せになれるであろうか…」と問われた晴明は「私の使命は、一国の命運を見定めること、人一人の幸せなぞは預かり知らぬことでございます」と答えるのですが、その直後の道長の台詞は「わかった…!中宮さまが子をお産みになる月に彰子の入内ぶつけよう」です。
 額面通りに会話をつなげると「入内した娘、幸せになれる?」→「興味ないから知らん」→「よし、入内を出産にぶつけよう」となりますが、つながっていませんよね。大体、晴明の台詞から「何がわかったんだよ?」と道長に疑問符が飛んだ方もいらっしゃったのではないでしょうか。でも、この会話でかわされた彼らの思考のやり取りは、つながっているのです。決して、おかしくなっているわけではありません。
 したがって、こうした腹芸の説明、足りない言葉の補足というのを、私の考察では入れていきます。また、何げない台詞が、伏線になっていることもあるので、注意深く見る必要が出てきます。

 このように、物語の脚本、演出的にも、劇中の彼らの人物像としても、本音を直接語り合わず、その思いが画面に揺蕩っているのが「光る君へ」という作品なのです、これを言語化するために余計な言葉を連ねているのが、私の考察ということになるでしょう。非凡な才があれば、もっと的確な言葉で上手くやれるのかもしれませんが、今の私の実力ではこうなってしまうということでもあります。


おわりに

 つらつらと「光る君へ」のnote記事が長くなる言い訳を続けてきましたが、こんなことからでも「光る君へ」という作品の特性、興味深さは見えてくるのではないでしょうか。最後にもう一点、文章が長くなることとは別に気をつけていることを一つあげておきます。

 本作が、女性の生き方に焦点をあてた作品であることは言うまでもありませんが、同時にここに出てくる人物たちを単なる善人、悪人として描いていません。池波正太郎「鬼平犯科帳」でよく語られる「人間とは善をなしながら、悪をなすもの」ということ、つまり、大石静さんは人間そのものを書きながら、女性の生き方ということを考えようとしているように見受けられます。

 ですから、特定の人物の言動を一面的に称賛、あるいは罵倒してしまう(まあ、庇いようにない人物もいますが)と、作品が見えにくくなります。それどころか、それによって視聴者自身の持っている差別意識やジェンダー観が炙り出されてくるようなところがあります。例えば、最近の宣孝の言動に対する評価は、かなりそういう面があるだろうと思われます。
 視聴者の人間性も炙り出す作品というのも、「光る君へ」の面白いところだろうと思われます。実は、この点は2024年7月現在放映中の「虎に翼」にも共通しているので、興味深いですね。

 まあ、私なぞは、性自認男性、性的指向はヘテロですから、男性性の塊のようなもの。この点をきちんと意識しながら、それでもなるべく公正に、公平にキャラクターと物語を見るよう努力を続けています…まあ、失敗だらけという面は否めないので、今後も気を引き締めたいところです。


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