「どうする家康」第42回「天下分け目」 願いが紡がれ、布石となっていく徳川勢の強さ
はじめに
今回は関ヶ原の戦いの前哨戦を描く緊迫感のあるものでした。世に名高い小山評定(ナレーション)、伏見城の壮烈な戦い、徳川本軍を翻弄する真田勢など多くの見せ場がありましたね。
ただ、これら派手な見せ場の軸にあるのは、家康と三成、互いが見えない二人の諜報戦です。
戦いは結局のところ、実働出来る戦力をどれだけ整えるかに尽きます。まして全国を巻き込む大乱ともなれば、その戦力の元は各地に数多あるわけで、これらをどう扱うかで勝敗は決するのです。
次回描かれる関ヶ原の戦いが意外に短い時間で終わったのも既に家康が諜報戦を制していたからでしょう。
さて、諜報戦を軸にすると今回の出来事は全て数珠つなぎになりますが、意外にもその多くは三成の思惑どおりに進んでいます。特に秀忠たち徳川本軍の未到着は致命的なものと言えるでしょう。つまり単純に表面的に状況だけを見れば、家康たちは危機的なのです。
にもかかわらず、家康たちは慌てる様子、動揺を見せることはありませんでした。粛々と成すべきことを成しており、安心感すら漂わせていたことは印象的です。それは伏見城で絶望的な防戦を強いられ、壮烈に散っていく鳥居元忠たちも同様です。悲壮感はまったくありません。
そもそも、三成挙兵で逆臣にまで落とされかけた家康が何とか対等に近い形で対決せる体制に整えられたこと自体が、家康たちの底力とも言えるでしょう。つまり、徳川勢という歴戦の勇士たちの芯の強さが描かれたのです。
そこで今回は、家康たちの言動を確かめながら徳川勢を支える信念の強さとは何かを考えてみましょう。それは、一見、順調に見える三成たち西軍の屋台骨には無いもの。必然的に西軍の不穏な空気も示すことにもなります。
旧Twitterの某石田治部アカウントやその支持者が語る「今年こそは西軍が勝つ」という幻想は、「どうする家康」では万が一にも起こらないのです(笑)
1.逆襲の家康
(1)わずかな勝機を見出すまで~
オープニングアニメーションの碁石は、関ヶ原の戦いの本戦に至るまでの頭脳戦が勝敗の鍵であることを象徴しています。本編では敵味方の状況などを地図上に示すことに碁石をつかっていましたが、家康と三成はまさに日ノ本という盤上で碁をさしているのです。一方で真田昌幸を始め、各地の大名たちも自分たちの死活をかけて動きます。これもまた碁をさしていると言えますね(描かれませんでしたが、この時期の黒田官兵衛の動きなどは典型的でしょう)。
さて、上杉征伐のため下野小山まで軍を進めていた家康の元へ、三成挙兵にかかわる諸将の状況が次々入ってきます。家康をを断罪する書状、毛利、宇喜多だけでなく、小西、大谷刑部、三奉行が敵に回っていること、大阪城は乗っ取られたことなど家康にとって不利な状況が、家臣たちの割台詞で語られます。政権で政務を担当する大名たちの大半が出来に回ったこと、また大阪城を押さえられたことは中央の政治を掌握されたことを意味しています。更に大阪城は秀頼の居城です。つまり、秀頼という生きた大義名分も三成の掌中にあるということです。
家康は、自分が握っていた物理的な政治機能と大義名分を失ったのです。「既に大阪城は乗っ取られた」という表現は、こうした状況の全てをひっくるめた言葉として言い得て妙ですね。
そして、正信が、この危機的状況に拍車をかけるように「これで前田利長、小早川秀秋あたりが敵に回ればもうお手上げ。成す術はありませんが?」と家康に方策を問いかけます。この上、更に石高の多い大大名が三成方に付けば、戦力差は歴然となるというのです。
まさに絶体絶命といってよい状況です。
対して、家康は「徳川家康、天下を治るに能わず、多くの者がそう申しておる」と諸大名の動きを評し「民の声、天の声かもしれんな」と、意図せず大乱を巻き起こす結果となった自身の不甲斐なさを自虐的に語りますが、顔つきは真逆で事態の打開を図るための思案する評定になっています。ですから、この場で最も経験値の低い秀忠の「父上、弱気なことを申されますな」と慰めの一言よりも、正信の「大阪を押さえられたということは阿茶さまを始め諸将の妻子を人質に取られたということ、彦殿も危うい」との冷静な状況分析のほうが意味を持ちます。正信は判断にかけている時間の猶予がないと言っているのです。
秀忠の語る心情論など状況の打開にはなりませんし、また家康と家臣団はいつも危機的状況に心を痛めつつも、その一方でできるべきことは何かを模索し実行してきました。それによって、彼らはこの戦国の世を生き延びてきました。そして、こういうときに大きく間違った判断をしてこなかった家康を古くからの家臣たちは知っています。だから、騒ぐでもなく、ただ家康を信頼して、その判断を待っています。彼らの家康評価は、第37回の小田原で語られましたが、その言葉がお世辞ではないことがこうした態度に表れていますね。
そこへ京より阿茶から書状が届きます。前回、大阪で捉えられたように見えた阿茶が京から書状を送ってきたことは、事態が少し変わっていることを示唆しています。果たして、阿茶は「殿、数多の軍勢が入り乱れ、大乱の様相。なれど徳川のお味方もおわしまする」と厳しい状況の中、豊臣家の大きな存在である北政所(寧々)に救われたことを伝えてきました。
それにしても、三成らの動きを察知し、それよりも早く自らの手勢を使って阿茶を脱出させる彼女の情報収集能力と手慣れた手配り、流石は秀吉のパートナーと言うべきですね。また、北政所は家康に信を置き、天下を取るよう促していましたから、この動きもごく自然です。呼び寄せた阿茶に茶を勧めながら「内府殿から上方の留守をよろしく頼むと任されておりましたでな」と語る寧々の様子からして、前回、note記事で察したとおり、家康の西の丸入城の時点で家康と寧々の間には示し合せたことがあったようですね。
この阿茶救出の一件を見ると、三成は、北政所を西の丸から追い出したと家康を断罪しながら、その寧々に対しては何ら心配りをしなかったようです。政治的に価値がないと見くびったのかもしれませんが、だとすれば三成は人を見る目がありませんね。結局、その気配りの無さで阿茶を人質にすることが出来ませんでした。それは茶々も同じで、秀頼を擁する自身の立場への自信から、北政所を政治的には歯牙にもかけなかったのでしょう。
寧々は、家康を信頼する秀吉の内心を知り、また自身も旭姫を大切に扱うことから家康の心根を見て取りました。つまり、家康は自身の人間性で寧々という人間の信頼を勝ち得、北政所として敵陣に打つ布石としたのです。しかも、この石は家康の人徳によるものですから、決して三成に取られることがない活きた石になっています。
更に、大阪城で留守を任された阿茶は、万が一、三成らの人質となっていた場合、完全に捨て石になっていたはずです。北政所という石が、阿茶という石を死んだ石から活きた石に変化させたのです。このことは、関ヶ原の戦いの中で阿茶が大きな役割を果たすことになりそうな気配を感じますね。
北政所による阿茶救出に家康は「ありがたいことじゃ」と心からの安堵と感謝の表情を見せた家康は、決意を新たにすると「わしの心は決まっておる」と断言します。元より、前回、茶々からの書状が届いた時点で、どういう状況であっても死中に活を求める以外の方法がないことを悟ったような様子があの笑いからは窺えました。その胸中を言葉にできたのは、死中に活となる糸口、一縷の望みがあることを、北政所の言動と阿茶の書状から感じ取れたからです。
三成との対局は始まったばかりなのです。家康は秀忠に「難題は、今はわれらと共にある福島、黒田、藤堂たちじゃ。真田も危ういと見る。三成憎しといえども豊臣臣下。我らに従うかどうか…」と今の戦局を打開するには、今、自軍の陣にある敵をなりかねない石をどう処置するかであると語ります。わざわざ、秀忠に語るのは、帝王教育も兼ねているからでしょう。そして、そのことは陣触れで秀忠に徳川家本軍の総大将を任せることにも表れてきます。
家康がやるべきことを示唆すると、すかさず正信は「それがしにおまかせを。連中の誰か一人、褒美をちらつかせ引き込みましょう」と調略を買って出ます。白い碁石をいじりながら「情に厚いのがよいのう…」と嘯くのが良いですね。彼もまた家康と同じく、この戦いの要が敵の石を取り、自軍の石に置き換えていく調略であることを察しているのです。
北政所が阿茶という石を活かしたように、一つの石が他の石を自分の石に変えてくれます。だからこそ、欲が深いだけでなく、情に流されやすく、皆を扇動するような熱い男が都合がよいのです。
そして請け負った正信は自身の調略に自信を見せ、家康には「殿は皆を一つにしてくだされ」と大名たちを前に一芝居打つことを願います。かつての家康ならいざしらず、このタヌキーズは芝居が得意ですからね。家康も「あいわかった…明朝、諸将を集めよ」と二つ返事で引き受けます。
このように、家康は、状況こそ絶望的でありながらも、確実に自分の味方を自軍のみならず、敵陣にも持っているのです。だとすれば、それを広げていくことが天下への詰み筋になっていくだけです。打つ手がないという状況ではないことが、悲壮感を和らげています。
(2)稲姫という布石~女性たちの絆が生きるとき~
さて、その夜、家臣団は秀忠を交えて、会津への対応について協議しています。三成への対応が今後の中心になるにせよ、本来の征伐対象であった上杉も手の抜ける相手ではないからです。そういう中だからこそ、眠そうにして、うつらうつらし始めている秀忠の呑気さは1カットしか挿入されなくても、少し悪目立ちしています(笑)
「問題はいつ上杉が来るかじゃ」という忠勝に「左様、景勝は気が短いと聞く、早々に攻めてくるじゃろ」と直政は危機感を募らせます。そんな歴戦の猛者たる二人に「さしずめ狙うは下野、宇都宮。稲刈りの前か後か…」と結城秀康(家康の次男)が的確に口を挟めるのは、彼が14歳の頃に九州征伐で初陣を飾って以降、武勇の器量について周りもよく認めるところだからです。慌てて何か言おうにも言えない秀忠は、優秀か否か以前に経験圧倒的に足りません。
そこへようやく遅れて参陣してきたのが、真田昌幸の長男、信幸です。生来の呑気さを見せる秀忠は「よう来てくれた、信じておったぞ!」と破顔一笑しますが、忠勝は肝心の真田昌幸が来ていないことを問い質します。信幸は、次男信繁と共に信濃に引き上げた旨を告げ、正直に昌幸と信繁が三成方に付くことを告げます。この真田親子の関ヶ原の戦い直前の別れは「犬伏の別れ」と呼ばれ、「真田太平記」でも「真田丸」でも名シーンとして描かれているものです。
三成の書状という死活問題に対して昌幸が、どちらに付いても真田家が生き残れるよう三成側の昌幸と信繁、徳川方に信幸という形に泣く泣く別れました。というのも、信幸の義父が忠勝であるように、信繁の義父は大谷刑部だったからです。
謂わば、真田家にすれば命がけの選択だったわけですが、それはあくまで真田の事情。昌幸を警戒する忠勝は「婿どのよ、お主も気を使わんでよいんじゃぞ。わしの娘を捨てたければ捨てろ」と恫喝し、また続く直政も「真田と上杉が組めば取り囲まれるぞ」と信幸に迫ります。忠勝は後々の上田攻めで積極的に働き、誠意を見せるよう釘を刺しましたが、徳川勢にしてみれば、真田家の動きは胡乱なものでしかありません。昌幸の心底が見えない以上、真田信幸が獅子身中の虫をならぬよう手を打つしかないのです。
さて、息子信幸が徳川へ参陣する中、真田昌幸は上田城の帰りに沼田城へ寄ろうとします。守りの固い沼田城に「わしじゃ、昌幸じゃ」「信繁でござる」と声をかけると城内からは太鼓をが打ち鳴らされ、物々しい雰囲気で具足姿の稲が表れます。その威容に呆気に取られた昌幸ですが、「石田三成が何か仕出かしたようでな。真田も一丸となって当たらねばならぬ。入るぞ」と事もなげに返し、馬を進めようとします。
しかし、稲は「この城の主は我が夫、真田信幸と存じます」と言うや否や、城兵たちは鉄砲を彼らに向けます。「わしを信用できんのか!」と驚く昌幸に涼しい顔で「ここから一歩も通しませぬ!」と本多家伝来の大見得を切ります。いや、真田家に嫁げば、昌幸がろくでもないことを考えていることは、様々な場面で見聞きしていることでしょう。それだけに、昌幸の「わしを信用できんのか!」とは、どの口が言うかと呆れますね…いや、いけしゃあしゃあとそれが言えるところが彼らしいと言うべきですかね。
あの秀吉から「表裏比興の者」とまで言われた老獪は昌幸が、嫁に計略を見抜かれた揚句に一杯食わされたのです。流石の彼も「流石は本多忠勝の娘じゃ、この城を乗っ取るのはやめじゃ」と苦笑いしながら、捨て台詞を言うしかありません。ひとしきり褒めると「孫たちの顔を見せてくれ、少しでいい」と懇願します。そこは情にほだされた稲は子どもらを門越しに引き合わせますが、「降りてはなりませぬ!」と昌幸に下馬を許さず、あくまで警戒を解きません。
この女丈夫、小松姫(稲)の逸話は有名で「真田丸」でも描かれましたが、今回はの場合は嫁ぐことを決めたときの「私が真田に入り込んで、真田を操ればようございます」「夫婦をなすのもおなごの戦と思い知りました。真田家、私の戦場に申し分なし!」との言葉を見事に果たしました形になりましたね。彼女は本多忠勝の娘であると同時に家康の養女です。つまり、徳川と真田をつなぐパイプとなり、両家を友好関係のまま存続させるのが彼女の役割です。ですから、夫を徳川家の味方とするだけでなく、その立場を完全に確保することも当然のことなのです。ましてや、「犬伏の別れ」の目的が、真田家存続にあるのであれば、尚更、徳川方の人間として振る舞うのは理に適っているわけです。
そして、彼女の行為で沼田城が取られなかったことで、昌幸は戦略を変えざるを得なくなり、それは家康たちにもわずかながら優位な状況を生み出してもいます。
勿論、真田親子によって、秀忠は関ヶ原の戦いの遅延という致命的な失態を招くのですが、信幸も敵で沼田城も押さえられていたら、もっと悲惨な結末もあり得たかもしれません。そう考えると、稲は最大限、徳川家の役に立ったとい言えるのではないでしょうか。
一方、昌幸は嫁にしてやられたことで、家康が勝った場合でもこの嫁であれば、真田家を存続させられると思ったことでしょう。非常時に敢然とした態度を取ることが出来る一方で、情の無い人間でもない、稲のこのバランス感覚こそが真田のような弱小大名が生き残るために必要な要素なのでしょう。現に稲は去っていく昌幸に「戦が終わりましたら会いにきてくださいませ」と呟いており、真田家家中でも上手くやってきたことが窺えます。
つまり、本作においての、あのときの両家の婚姻は、当初の想定とはだいぶ変わりましたが、今になって真田家存続の布石として生き、その真田家の生存戦略によって、家康たち自身にも真田家の完全な裏切りを防いだ益はあったと言えるでしょう。そして、稲に真田家へ嫁ぐ決意をさせたのは、於愛や千代といった女性たちです。となれば、徳川家を守る布石を打ってくれたのは女性たちと言えるでしょう。
このように逆臣の汚名という絶対的な危機の中、これまで家康がつないできた多くの人々との関係性が回り回って、家康を助けようとしているのです。それは、急場しのぎで作る一朝一夕でできるものではありません。長年積み上げることで作られたつながりの強さこそが、家康の財産です。彼のやってきたことは決して間違いではないということです。
2.家康のパフォーマンスが光る小山評定
オープニング後は、集められた諸将の前で、正信に「殿は皆を一つにしてくだされ」と依頼された演説をぶちあげます。家康、実は結構、事あるごとに演説をぶちかましているんですが、少しずつスキルが上がっていくように演出されています。小牧長久手の出陣前のアジテーションは、最高潮に達しましたが、あれはあくまで味方向けのパフォーマンス。今回は、敵になるかもしれない連中を味方に引き入れなければならないという点でハードルが高いものを要求されています。
それでは、そのテクニックを細かく見ていきましょう。
出だしは、「長く続いた戦乱の世は信長様、太閤殿下によってようやく鎮められた」と天下一統の世が誰によって作られたかを語ります。豊臣恩顧の武将たちの前で、信長から秀吉までの流れを正統なものとして評価した上で秀吉をきちんと持ち上げていますね。家康は秀吉との最後の対話で、秀吉が信長を継いだことを認めていますから、この言葉には嘘がないというのもポイントです。
その上で「それを乱そうとする者がおる。皆も聞いてのとおり。石田三成が挙兵した。これより上杉討伐を取り止め西へ引き返す」と続けます。三成を秀吉の築いたものを破壊する反逆の徒であると明確化した上で、自身の方針を決定するのです。最初に論理的でわかりやすい大義名分と方針を定めるのは常套手段ですね。
しかし、これだけでは、前回の三成の挙兵時の文言と大差はありません。寧ろ、抽象的です。ここで家康は、自らの明快な論理に進むのではなく「が、ここにいる多くの者は大阪に妻子を囚われていよう」と、彼らの懸案事項に敢えて触れます。そして「このような事となり、誠に申し訳なく思っておる」と静かに詫びるのです。自分に力がなかったから、三成の挙兵を許し、そして皆に迷惑をかけてしまったと自らの非を自分から語っておくのです。この家康の言葉は嘘ばかりではありません。前回のラストの複雑な笑いには、自身の政が大乱を招いたという皮肉な事態への慙愧の思いがありましたから。
ただ、現状を包み隠さず語り、その上で自分から非を認めておくことは、後から一々突っ込まれないためにも重要です。ですから、極めて戦略的に話題を振っています。しかも、皆に恐れられるあの徳川家康が自ら、皆のために詫びて頭を下げるのですから、効果絶大です。現在では、まともに謝罪もできず、謝罪をすることは負けだとすら思っている愚かな企業のトップや政治家がごまんといますが、彼らは謝罪の持つポジティブな効果をまったくわかっていないですね(笑)
当然、家康の謝罪に諸将らは驚きを隠せません。更に彼は、自身が招いた諸将の妻子人質であるがゆえに「無理強いはせぬ。わしに従えぬ者は出ていってもよい」と言い切り、少し間をおいて周りを見渡します。これは、彼らに選択権を与えたかのように見せ、見渡すようにすることで皆の気持ちは分かるよ受け止めるよという鷹揚な態度も見せ、自らの器を大きく見せるパフォーマンスですね。書いていて、その狡猾な手口が嫌になってきましたが、ここからが真骨頂です。
諸将の動揺を見届けた家康は、一人一人に語りかけるよう諸将の間を歩き回りながら、突如、持論を展開し始めます。謝罪関係のことは諸将の動揺を誘い、その心の隙に持論を効果的に刻むためなのです。
このとき吹き込む家康の持論が巧いのは「だが、考えてもみられよ、皆の留守に屋敷に押し入り、妻子に刃を突きつけるような男に天下を任せられようか!」と彼らの自尊心をくすぐる方向へ持っていっていることです。ただでさえ、三成憎しの面々が多い会津征伐です。憎い男に家中に踏み込まれた揚句に妻子を人質に取られ、彼の意向に屈したとあっては武士の名折れというものです。ですから、ざわめきが広がり「そうじゃ」「たしかに」の声があがり始めます。
そして、三成への憎しみが上がりつつあるこのときを狙って「戦に乗じて私腹を肥やさんとする輩を野放しにできようか!」ととっておきの一言を一同に叩き込みます。このとき、カメラが評定の場を後方からロングショットで捉えることで、一瞬にして家康が場の空気をつかんだことを演出します。他の西軍勢はともかく、少なくとも三成は「戦に乗じて私腹を肥やさんとする輩」ではありませんが、ここは一同の義侠心に訴えるため、家康は三成の人間性を貶めます。
その効果が大きかったことは、それぞれに頷く諸将たちと歯ぎしりを始めた山内一豊のアップで明確です(上川隆也くんが「功名が辻」で演じたキャラとは思えないほど、ごつい一豊でインパクト大)。
十分に諸将の感情に訴えたところで、「このまま手をこまねいておっても世は騒然、乱世に逆戻りじゃ」と再び大義名分に戻ると、すっかり乗せられた諸将もその気になって聞き始めるというからくりです。ここで、そろそろ頃合いかとタイミングを見計らう顔をしたのは正信です。家康の演説をちゃんと計算しているのですね、この謀臣は。
とどめは「よってわしはたとえ孤立無援となろうともこれと戦うことに決めた」という静かな言葉です。彼は自らが天下を乱したその責任をたった一人でもとろうというのです。最近は、責任を感じるだけの政治家をよく見ますが、責任は感じるものではありません。責任はとるものなのです。
そして、ここからようやく家康は「全ては戦無き世を作るためじゃ」とその本音に力を込め、「安寧な世をなせるかは、我らの手にかかっておる」と拳を少しあげ熱っぽく語ります。ここに家康が巧いのは、自分だけでも戦うとし諸将はまだ結論を出していないにもかかわらず、聞く様子を窺いながら「我らの手にかかっておる」と既に彼らが共に立つこと前提に語っていることです。
そして、「おお!そうだ…」の声が出始める中、正信は福島正則に「ほれほれ、今じゃ」と目配せをします(笑)意を決した福島は「三成に天下を治められると思うか!」「毛利なら束ねられると思うか!」「出来るのは内府様だけじゃ!」と三段論法の檄で、一同を鼓舞します。一同の様子を見ると三成はともかく、輝元も信用されてないんですね(苦笑)
溜まりかねたように山内一豊が立ち「内府殿共にこの山内一豊戦いまする!」と跪きます。どうやら彼は正信の仕込みではないようですから、家康の言葉が芝居ではなく諸将の心に響いたということになりそうです。こうなっては武辺ものの諸将、我先にと声を上げます。黒田長政の「三成に屈してなるものか、秀頼様を取り返すぞ!」と藤堂高虎の「皆の者、大戦じゃ!」によって、諸将の大勢は決しました。
家康はそんな彼らに飛ばす最後の檄でも「良いか!石田三成を討ち、我らが天下を取る!」と徳川ではなく「我ら」の天下であることを強調する注意深さを見せていて、手が込んでいますね。
こうして、家康はその集大成とも言える巧みなテクニックを使った演説と正信の仕込みで、手元にいた敵の碁石になりかねない者たちを自らの碁石へと取り変えることに成功します。ようやく、三成との勝負ができる第一歩ができたというだけなのですが、これができることが家康の強みです。
信長の元で耐え抜き、信玄の軍略に学び、そして秀吉から人心掌握の術を学んできた家康は、諸将が何を望んでいるのかを知り尽くしています。だから、巧みに彼らを誘導し、自分から家康と共に戦うと言わせられたのです。その大胆にして繊細なやり方は、説明したとおりですが、年の功のなせる業です。
年の功ゆえの余裕は、戦の後、先を見据えており、陣触れにも表れます。徳川本軍を初陣の秀忠に預け、真田を味方に引き入れる中で勉強をさせ、後の決戦で彼に戦功をあげさせる命を下しています。自分の懐刀である正信、そして知将である康政を付ける入念さには、徳川の将来を彼に託す思いがそこにあると考えてよいでしょう。
「戦無き世」には秀忠のような若い世代が欠かせない。嫌われる覚悟をした家康は、秀忠の防波堤になるつもりもあると思われます。
さて、一同が戦支度を始めるため、評定の場を去る中、感動に打ち震えているのが平岩七之助親吉です。「どうした?七」と問いかける家康に七之助は「ようやく来たんじゃ、わしらはあのときお方さまや信康様をお守りできず、腹を切るつもりでございました。されど殿に止められ、お二人が目指した世を成し遂げるお手伝いすることこそ、我らの使命と思い直し…今日まで…今日まで…」と涙ぐみ、振り切るような笑顔で「そのときが来ましたぞ!」と力強く、声をかけます。それを静かに聞く家康の表情にも万感の思いが宿ります。
この七之助の台詞は、前回の彦右衛門の「殿、宿願を遂げるときでございますぞ。戦なき世を成し遂げてくださいませ」と静かに呼応していますね。信康の傅役であった七之助が、自ら腹を切った信康の介錯をしようとする半蔵を前に、半狂乱で「ならん、半蔵」と信康を抱え込んだことは今も鮮明に思い出されます。徳川家の未来が失われたようなあの絶望に耐えて耐えて耐え忍んできたのは、彼もまた同じです。
やはり、家康と家臣たちは瀬名と信康が唱えた「戦無き世」という信念のもとに、それぞれの思いを重ねて自分のできることを粛々とやってきたのですね。面と向かって語ることは多くなくても、家康と皆、想いは同じ。それは亡くなった於愛たち女性陣も同様です。家康の信念は一人のものではない。このことは「どうする家康」が、家康の物語であると同時に三河家臣団とそこに集う女性たちの物語であると思わせてくれます。
そして、七之助は旗印を改めて見て「厭離穢土欣求浄土!この世を浄土にいたしましょう!」と誓います。それは、家康にとっては瀬名との約束です。だからこそ、ただ肩を叩き無言で頷きます。今更、言葉は要りません。そして、二人の間に挟まれた「厭離穢土欣求浄土」の旗にフォーカスが当たり、徳川家が一枚岩であることが強調されます。
3.捨て石が活きた石となるとき~鳥居元忠の生きざまに見る徳川家臣団の強さ~
(1)西軍に見える驕り
三成征伐へと東軍をまとめあげることにした家康に対し、三成は「家康動き出しました、こちらの思惑どおりにございます」と余裕の様子です。三成からすれば、家康は大阪へ向かい西進する以外の選択はないように追い詰めていますから、遅く動くか、早く動くかの差しかないのでしょうら。無論、家康を「当代一の優れた大将」と認めるからこそ、彼が直接対決を望むと読んでいるのであって、枯れを甘く見るつもりは微塵もありません。
ただ、三成は、家康が秀吉恩顧の大名らをどうやって味方に引き入れ、彼らをまとめあげたのかには関心がありません。おそらくは福島、黒田、藤堂らのことも自分と相容れぬ恩知らずぐらいにしか思っていないでしょう。人心掌握に必要なことは何か、それが三成がわかっていないことは物語後半で示唆されます。
三成の言葉に「万事、手はず通り進んでおるようだな」と満足げなのは茶々です。彼女は前回、家康に「三成が恐くてたまらないから、早く助けてほしい」との書状を送っています。無論、これは母を助けに、ひいては自分を助けに来なかった意趣返しで彼の心を抉ろうとするもので、本心からの言葉ではありません。
三成は戦略上の論理的帰結から家康を西進へと誘い出したと思っていますが、茶々は自身の詐術に家康が引っかかったと見ているのでしょう。こうも容易く自分の言葉に踊る(ように見える)家康らに自尊心も満たされます。
茶々は家康の始末の仕上げにかかります。静かに三成の横へ寄ると「治部よ、秀頼を戦に出す用意はある」と彼の大義名分を保証し「必ず家康の首を取れ」と厳命します。
秀頼が大将として西軍の前線に立てば、西軍の士気は最高潮にあがり、家康に付いた豊臣恩顧の武将たちも、たとえそれが秀頼の意思なく奉じられたとしても、弓を引けなくなる…そういう効果をあの幼子は生まれながら持っています。
そして、茶々にすれば、自身が女性を武器に言葉巧みに引き寄せた家康が、秀頼の姿を前にして裏切られたことを知り、呆然としながら無惨に散ることになるはず。母を討った秀吉も助けに来なかった家康も失意のうちに死ねば、彼女の復讐は完成されるからです。
そんな茶々の思惑など知るよしもなく、三成は身が引き締まる思いで平伏します。出陣のため立ち上がる三成に、それまで影が薄い感じで脇に座っていた大老毛利輝元は「後は任せよ」と声をかけます。輝元の淡々とした物言いには熱意もなく、その思惑は表情からは読み取れません。三成にしても一礼はするものの、特別に念押しはしません。利家や家康には礼を尽くしたものですが。両者に通い合うものが描かれないことは、不穏な空気を残しますね。秀頼を任せる以上、三成は輝元を疑っていないはずですが…
出陣した西軍が目指すは、政務の拠点でもあった伏見城です。家康が西の丸に入って以降はその中心の座を譲ったものの畿内の要所であることは代わりなく、徳川勢の拠点の反徳川の狼煙としての宣伝効果も高いでしょう。
たった二千の軍勢で迎え打つ鳥居彦右衛門元忠(今回のオープニングクレジットでは遂にタイトル前に名前がクレジットされましたね)は、少ない兵力で善戦、持ちこたえています。寄せる兵たちを弓矢で次々、射落とす彦右衛門の脇で、千代が勇ましい具足姿で次々と鉄砲を撃ち、これまた敵を次々と倒しています。千代の武芸はあの大鼠も全く歯が立たないほどでしたが、鉄砲も百発百中とは武芸百般ですね。
彦が千代の尻に敷かれているのは彼の優しさゆえですが、実際、夫婦喧嘩になっても彦が負けるかもしれませんね(笑)とはいえ、今は頼もしい戦友でもある愛妻です。
伏見城は10倍以上の兵力を相手に10日持ちこたえることになりますが、宇喜多秀家は「しぶといのう」の苦虫を噛み潰した顔をします。家康への忠義、そして寡兵にしても精強な鳥居元忠について、三成は「桶狭間を戦い抜いたと聞きまする」と敬意を持って応じます。
しかし、若い宇喜多秀家は「桶狭間…昔話じゃな」と一笑に伏します。所詮は老兵の無駄な意地、時代遅れの自己犠牲、過去の名声と嘲笑う彼には、彦右衛門が何のためにこうまでして戦うのか、何を信じているのかを理解しようとはしていません。しかし、そこが他大名が大蛇と恐れる徳川勢の強さの秘密ですが。
逆に戦を知る大谷刑部は「降伏はすまい、惜しいものよ…」と感嘆をもって、彦右衛門を理解しているのが対照的ですね。
そこへ、小早川秀秋が颯爽と登場します。大軍を擁する彼が来たことで伏見城の命運は尽きます。この演出一つで彼の存在が、関ヶ原の戦いのキーパーソンとなることを説明していますね。そして、彼の参陣は冒頭で正信が恐れていたことです。三成以下が述べる礼を鷹揚に受ける秀秋は「皆様のご英断に感謝せねばならぬのはこちらのほう。私も豊臣一門として、家康の勝手な振る舞いは憤っておりましたので」と如才なく、優等生の最適解で答えます。泰然自若といった風貌は大器を感じさせます。
(2)家臣から家臣へ、引き継がれてきた家臣たちの思い
秀秋の参陣による戦力増大、「松之丸が手薄」と島左近に弱点を見出だされた総攻撃には、最早、なす術はなく、遂に彦右衛門も重傷を負います。
駆け寄る千代に「おなごどもは?」「皆外に逃した」という阿吽の呼吸。彼らもこれまでと引き際をきちんとわきまえているのですが、彦の気がかりは千代です。「お前も出よ」との言葉に「戯言を」と返す千代に「お前には生きてほしい…」と本音を漏らします。「お前には」には、自分の死は逃れ得ぬという思いがありますが「お前さまが生きるならな」とどこまでも一心同体と千代は譲りません。
短いやり取りに、家中の反対を押しきり夫婦となったあの日から二人がどう過ごしてきたかが凝縮されていますね。千代にとって、彦との夫婦生活は、間者として過ごした日々にはなかった本音で語り合える時間だったのではないでしょうか。
そして、彦右衛門は静かに自身の運命について「数えきれんほど仲間が先に逝った。土屋長吉、本多忠真、夏目広次…ようやくわしの番が来たんじゃ。うれしいのう…」と語ります。
このとき、彼が土屋長吉をあげたことがぐっと来ますね。もうその名を忘れてしまった視聴者も多かったのではないでしょうか。三河一向一揆のときに、その命を散らせた田村健太郎さんが演じた吃音の家臣と言えば、思い出す方もいらっしゃるでしょう。まさか、あれから30話以上も経ってから彼の名を劇中で聞くことになるとは…
土屋長吉は、信仰と忠義の狭間で悩み抜き、一度は家康を騙し、本證寺に誘い込みます。しかし、最後の最後で家康を守り抜き、裏切り者が身内にいることを伝えながら死んでいきました。そのとき、彼の葛藤を引き取ったのは、家康ではなく瀬名であったことも印象的です。物語的には、彼の存在は家康の命を救っただけでなく、瀬名が民の理解者であることも示す結果になりました。
おそらく、三河一向一揆の出来事は、土屋長吉の奮戦と共に今も家臣団の中で語り継がれているのでしょう。そして、彼の最期は同じように三河一向一揆で家康を裏切り、許された夏目広次の心にも深いものを残したことでしょう。三方ヶ原合戦にて、彼が家康の身代わりとなる判断を迷わず出来たことは、その半生の後悔が主ですが、一端には、土屋のこともあったかもしれませんね。
そして、彦右衛門は、その広次が出陣する様をあの日、見届けた一人です。何故、「ようやく、わしの番」なのか。土屋が忠真が広次(吉信)が、家康の命と徳川家の命運を救い、当時、次代を担う存在だった自分にその使命を託していった。そして、次は自分がその使命を全うし、次代に徳川家の命運を託す番だからです。
そこには、土屋たちのときのように単に徳川家の命運があるのではありません。瀬名と信康が家康たちに託した「戦無き世」という夢も加わっています。徳川家の命運と「戦無き世」という夢を、次代に引き継ぐためにここで命懸けの奮戦をし、結果として死を迎えることになるのです。
自己犠牲ではなく、自分たちが真に「活きる」ための戦い。彼らの生きざまは、残った者たちの中で生き、更に次の者たちへバトンとして渡されていく…そう信じるからこそ、彦右衛門は、徳川家臣団は強いのです。今の家康と家臣団の信念は「戦無き世」であることは、前半、七之助の言葉でも確認されましたが、それはたった一人の思いではありません。
今、生きる多くの家臣や領民の思い、彼らに思いを託した先人たちの思い、それらが寄り合わさったものだと言えるでしょう。無駄死には一つもないのです。ただ、そこには彼らが生きた証が連ねられているのですね。
話を戻しましょう。今、天下を取り、「戦無き世」を作る家康たちの役に立てると信ずる彦の思いは、千代もまた同じです。彼女は瀬名の同志でした。心ならずも彼女を死なせる結果となって以降、その命の使いどころに悩み彷徨し、彦右衛門の元へたどり着きます。その過程に少なからず、瀬名の遺志があったことは家康の配慮に窺えます。
ですから、ここで命を懸けることは彼女にとっても瀬名に報いる天命…だからこそ「私も…ようやく死に場所を得ました」と手を握り「ありがとう存じます、旦那様」と夫への愛を改めて伝えられるのです。幸せに生きられた後半生があればこその老夫婦の決断…千代の手を握り返す彦右衛門の手が良いですね。
そこへ松之丸が落ちたとの報が届き、遂に最期が来たことを悟った彦右衛門は、生き残った家臣らに「者ども!わしは城を枕に討ち死にいたす!落ちたい者は落ちよ」と脱出を進めます。死ぬのは自分たち二人だけで十分だからです。しかし、家臣の一人は「生きるも死ぬも、殿と一緒でごさる」と答え、他の者も口々に「同じく!」「同じく!」「同じく!」…と続きます。
切羽詰まった中、思いが同じと知れば止める術はありません。「ほうか…三河の荒れ地で藁の具足をつけて戦っとった我らが、天下の伏見城を枕に討ち死にできるんだで、こんなに幸せなことはねぇわ」と鼓舞し、決死の戦いに望みます。一瞬入る昔の回想に七之助が映りましたが、今際の際に幼馴染の彼をちらとでも思い出せたことは良かったかもしれません。
城を訪れた鉄砲を構えた敵将は雑賀衆の鈴木重朝です。劇中では、彦を庇った千代を撃ちますが、史実では彦右衛門も彼が討ち取り、彦の息子、忠政の意思もあって彼の武勇と具足を後世に伝えることになります。また、最後まで奮戦した鳥居元忠と家臣一同の勇姿は血天井として、徳川家ゆかりの寺に伝わることになります。忠義を顕彰するだけでなく、彼らのその跡を衆目の興味に晒さない配慮だったというのが、家康の心遣いを感じさせますね。
彼の最期の言葉は「殿お別れだわ、浄土で待っとるわ」でしたが、この台詞、前半の七之助の「この世を浄土にしましょうぞ」と静かに響き合っていますね。七之助は現世、彦はあの世と、二つの浄土が出てきたことは、家康に託された使命を感じさせます。家康が、彼のため逝った多くの者たちの住まうあの世の浄土に行けるのは、この世を浄土にする道筋をつけられたときになるのでしょう。
だから、家康が彦右衛門の死をどう受け止めるかは重要なシーンとなります。
(3)連綿と続いていく「戦無き世」への願い
果たして、守綱からその報告を聞いた家康…
目が一瞬泳ぎ、沈むように下を向きます。一拍おいて心の揺らぎを鎮めると、静かに「わかった」と述べ、書状へと再び向かいます。このわずかの間の心の揺れの芝居が、今回の松本潤くんの白眉でしょう。たった一瞬に事実への衝撃、それとわかって命じた自分の非情さへの後悔、彼への深い情と哀しみ、それらを封じ込める強い意志が表されました。
確かに彦右衛門の託した思いが、家康へ伝わった…それを松本潤くんは表現してくれたのでしょう。
ですから、「直ちに西へ向かい、彦殿の敵を討ちましょうぞ!」という守綱の直情的な進言に「落ち着け守綱、落ち着くんじゃ」と応えます。落ち着けと二度言ったのは、守綱だけでなく、自分に言い聞かせるためです。守綱の言葉は家康の本音だからです。
そんな家康の心中を汲み取る忠勝は「今は誰がどちらに着き、どう動くかしかと見定めるとき」と、守綱に家康の言葉の意味を説いて諌めた上で「殿、俺は先に出て、直政と落ち合い西に進みます。殿は一通でも多く書状を!」と進言します。
家康と一心同体を自負する忠勝は、家康に代わって彦右衛門を失った哀しみを形にするのです。それは、軍目付の役目を持つ彼だからこそ。忠勝は成すべきことを成した上で家康の気持ちを汲み、更に家康がやるべきことを改めて自覚させようとします。
いやはや、本多平八郎忠勝…なんと花も実もある武将となったことか。
忠勝の進言を受けた家康は「この戦はわしと三成、どちらがより多くを味方につけるかで決まる」と独り言のように言い聞かせます。冒頭の阿茶救出に見られるように日ノ本を盤上にした囲碁は、その石の打ち方という調略が要なのです。かつて信玄は「戦は勝ってからするものだ」と言いました。今、家康は実際の合戦ができるよう、「勝つ」ことに専念すべきなのです。
それでも、彦への溢れる思いは止められませんから自然と泣きそうな表情になりかけますが、その気持ちを振りきるように「腕が折れるまで書くぞ」とかっと目を見開くと「彦のためにも!」と続け、書面に向かいます。
哀しむ間もない今の状況は辛すぎ、一人肩を落とし退出する守綱の気持ちも哀れですが、その視線の先に廊下にて人知れず泣く忠勝がいます。彼とて長年の仲間を失った喪失感は強いのです。ひとしきり泣くと決意を新たにし、家康の必死を確認する忠勝。彼は同じ家臣として、彦右衛門の思いを受け継ぎます。そのひたむきさを見つめる守綱という構図が巧いですね。
そう、本来、伏見城と彦右衛門は、この戦においては捨て石でした。しかし、家康の決意は捨て石を作らないというものです。忠勝もそれを受けて、先に旅立ちます。
実際、伏見城の戦いが長引いたことで、西軍は東への軍の展開が遅れたと言われますし、また家康にとっては調略のための時間を確保したと言えます。家康が最も欲しかった「時間」を稼いだとすれば、彦右衛門と千代は活きた石になったと言えますね。
そして、譜代の家臣の死は、徳川家中の者の心にも火をつけるでしょう。
4.三成の思惑どおりに進むかのような前哨戦
(1)人の心が読めない三成の調略
さて、この戦の要が調略であることは、頭の良い三成も当然、よくわかっています。ですから、三成もまた家康と同じく書状を書き続けています。第40回「天下人家康」は三成の政の失敗が家康を天下人にする話、第41回「三成の逆襲」は家康の失策で三成の逆襲を招く話になっていて、実は家康と三成は対比的に描かれているのですが、それだけにやることや考え方の点でよく似ていますね。言い換えるなら、これまでの多くの人物がそうであったように、三成もまた家康のifだと言えるでしょう。
さて、三成は家康糾弾の書状を書き続けるため、軍議は島左近を中心として他の者たちに預けたままです。ここでは岐阜城の件の兵力の少なさについての話題が飛び交っていますが、結局のところ、岐阜城を見捨てるという判断をしています。つまり、西軍は岐阜城をただの捨て石にするという判断をしたのですが、この点は伏見城の件が徳川方にどう働いたか、決して、捨て石にはしなかったということを考えると対照的ですね。西軍の戦略は盤上をゲームのごとく、効率を考えて組み立てられているということでしょう。
しかし、生死ではなくても自分たちが単なる犠牲でしかないと思ったら、人は積極的には動かなくなります。彼らが何を望むのか、それを与えなければ人は心から動こうとはしないものです。現場で働く人間の機微に疎くては、戦いにはなりません。このわずかに漏れてくる軍議の内容は、三成のやり方、一見順調に見える西軍の本質的な問題を示唆しているようにも見えます。
三成の問題点は、その調略の書状でも表れます。両軍合わせて数百通もあったという書状、三成も夜遅くまで、ひたすら書き、左近に心配そうな顔をされるほどです。三成の信念の強さと誠実さのなせる業ですが、しかし、それは手紙である以上、もらう他人の気持ちをつかんでいなければ、意味のないものです。
二人の書状が届いた前田利長は「家康は気前がいい。三成は家康を断罪するばかり」と語り、ドヤ顔で「どちらにかけるか」とうそぶきますが、答えは最初から見えています。後に100万石になる前田家ですから、その欲は深いものです。まして、正信が冒頭で示唆したように石高の高い大大名である前田家は五大老でもあり、戦力的にも立場的にもこの戦の趨勢を決められるキャスティングボードを握っています。前年、家康暗殺計画の関与で危なかった利長がドヤ顔をしているのも、自身の優位な立場を知ればこそ。
謂わば、絶対、押さえなきゃいけない石が利長です。だとすれば、自分の都合を唱えるより、原理原則を曲げてでも味方についてもらうよう好条件を出すことが交渉の鉄則です。にもかかわらず、三成は相も変らぬ主張を繰り返しているようです。逆に家康は、自分を恐れ、裏側で暗殺に加担するような利長という人間の性格もよく熟知した上で、交渉に臨んでいます。
実は、家康のしていることは独創的なものではなく、単に小牧長久手の合戦時に秀吉が池田恒興に使った手の真似でしかありません。つまり、家康は秀吉の手口、政治手腕を学習した結果なのですが、秀吉の一番側でその政を見ていたはずの三成にはそれができません。私利私欲の無さゆえに他人の心の機微に疎いこと、自分の信念が勝ちすぎることが、そうさせているのでしょう。若さと言え換えてもよいでしょうが、この差は歴然としています。三成は、自身が家康よりも優位な状況にありながら、人の心をつかみ損ねることで、失敗する可能性を意味するからです。
その不穏な空気は既に自軍にも流れています。家康は諦めていませんから、当然、既に西軍への参加を決めた者たちに対してもアプローチをかけ、切り崩しを図っています。その一人である小早川秀秋は「秀頼様こそ主君。我らはあくまで三成に付く」と家臣たちに建前を語った上で「しかし戦と言えば徳川じゃ。どちらにも転べるようにしておけ」と本音を伝えることも忘れません。
利長と同様、提示された条件は好条件であり、その調略に流石と思ったのでしょう、また信玄以外に負けたことのない家康の力量も侮れないと思っているはずです。
悪びれることもなく平然とした顔で何かを食べるその姿には、自身がどう立ち回れば最大限の利益を得ることができるかを見定める冷酷さ、冷徹さが窺えます。彼の優等生的な対応は仮面でしかありません。大義は重要ですが、それは勝ったものの方便でなんとでもなります。昨年の「鎌倉殿の十三人」でも大江広元が言っていましたね、「院宣なんて勝った方にいくらでも下される」と。そういうことです(笑)
勿論、利己的な武将ばかりではありません。小西行長は、家康のなりふり構わぬ書状に怒りを覚える三成の元を訪れると、「デウスに誓った」から三成を裏切ることはないと伝えた上で「だが心変わりをする者は出てこよう…時が経てば経つほど危ういかと存ずる」と忠告します。
行長は、人は信念や大義だけで動かないこと、そしてそれだけに移ろいやすい利己的な存在であると言っているのです。神の御業を信じる行長、三成を案じる義勇の刑部、忠臣左近とは違うのです。奇しくも、彼の指摘は、三成の調略の書状の問題点とも重なっていますね。
また三成に時間がない、つまり家康に時間を与えてしまったのは、彦右衛門たち伏見城勢の奮闘の結果です。やはり、彦右衛門たちはここに来て活きた石になっていますね。
(2)徳川本軍の足止め~三成の戦略眼の広さ~
三成たちが捨て石にした岐阜城は、福島正則と黒田長政らによってあっさり陥落します。軍目付として岐阜城にやってきた忠勝と直政は、意気揚々と自分たちの戦果を誇る福島らを見ながら「張り切り過ぎだ…早すぎる」「三成のいる大垣城は目の前、決戦が早まってしまう…」と徳川軍無しで決着がついてしまうことを恐れます。徳川家が天下を握るには名実ともに家康が武力で三成たちを下し、その実力を天下に知らしめる必要があるからです。
ですから、岐阜城陥落の情報に家康も「めでたいとばかりは言ってられん…わしと秀忠の本軍なしで決戦が始まってしまえば全ては水の泡じゃ」と答えます。家康がここまで江戸に留まり、動かなかったのは、調略のためでもありますが、一方で秀吉恩顧の武将たちが本当に自分たちと共に戦うか見定める必要があったからです。所詮は欲得で動くのが戦国大名、油断はできません。その証拠として岐阜城攻めがあったのです。
岐阜城陥落のポジティブな側面を鑑み「これで福島と黒田が徳川と共に戦うと世に知らしめることが出来た。今じゃ我らも前に出るぞ」と時が来たことを悟り、秀忠率いる本軍にも「真田に構わず西に進め」「9日までに美濃赤坂へ」との伝令を出します。
一方、秀忠は、真田昌幸から降伏の使者が来たことに大喜び。この無邪気さはいらっとしなくもありませんが、逆にこの戦に不慣れな、戦を知らぬ太平楽こそが、後の世には必要なのかとも思われるので、情けないと思いつつも温かく見守るのが肝要です(笑)家康はどこまでも戦国大名です。ですから、彼は「戦無き世」を作る筋道は作れても、彼自身は「戦無き世」の主にはなれないだろうと察せられるのです。
呑気な秀忠に対して、正信は「信幸どの、直ちに城を明け渡しここに参るようお伝えくだされ」と信幸に釘を刺します。信用ならないからです。案の定、彼らは上田城を出ることもなくのらりくらりとかわし、また正信と康政の立てた策も真田信繁の奮闘に遮られ、ひたすら膠着状態に据え置かれます。
そして、真田に捕まっていた家康の使者が解放され、ようやく秀忠の元についたとき、彼らは「真田の狙いは我らをここに足止めすること」と気づきます。当然、美濃赤坂に9日までに着くことは不可能。秀忠の天下分け目の戦への遅参は決定的となります。
因みに、使者が遅くなったのは史実どおり…したがって、秀忠本軍の関ヶ原遅参は秀忠のせいではありません。決戦が早まっただなんて、知らなかったんですから責めては可哀想というもの…(苦笑)「くそ…」という秀忠自身はお先真っ暗の気分でしょう。「あーあー」と言った感じの呆然とした正信の表情が可笑しく、実は本軍が到着しないという緊急事態になっているのに、なんだか緊張感のないオチになっていますね。
その決定的に不味い事態は、美濃赤坂にいる家康にも伝わります。あっさり「まんまと三成と真田にしてやられたようですな」と答える忠勝の様子からは、これはこれで仕方ないかといった雰囲気が伝わります。そう、家康たちはもっと寡兵で大変な戦いを幾度も幾度もしてきた百戦錬磨の猛者たちなのです。
ですから、こうした事態にも決して動じません。秀吉すらも恐れ、解体しようとした徳川勢の戦闘力は、長年の戦によって磨かれ、かつての軍略すら捨て、臨機応変に動けるよう徹底的に鍛え上げられています。
また家康と共にある東軍は朝鮮出兵を生き残った猛者たちが多くいます。戦の練度という意味では西軍の数だけでは単純に比較はできません。
とはいえ、忠勝の言う通り、この事態自体は三成の深謀遠慮の戦略の成果です。「見事だぞ三成。真田の蜘蛛の巣にかかったわけか」と褒める宇喜多秀家に対して、してやったりと、ほくそ笑む三成は「これで家康は本軍無し。我らは秀頼様と毛利様の本軍をお迎えする」と総仕上げにかかったことを一同に語ります。小西も「兵力の差は歴然!」と語り、いよいよ士気は盛り上がります。
戦上手ではない三成が、この一戦でここまで家康を翻弄し、対等以上に持ち込んだことは見事なことです。しかし、三成には先に述べたように人の心の機微が分かっていないところがあり、歴然としているはずの兵力差が、実働では分からないのです。まして、秀頼という旗印と毛利の大軍は未だ訪れてはいません。
そのことを忘れたか、勝ち筋が見えたと確信している三成は「より大きな蜘蛛の巣を張っております」と関ヶ原に家康を誘い出して、野戦を仕掛けることを進言します。地形的に有利な陣形を引けるからか、近年言われる玉城という城郭があったという説を取るのか、わかりませんが、少なくとも今回は家康に誘い出されての迂闊な戦いではなく、自らの策としてそれを展開させるようです。
そんな三成の顔には、かつてない高揚感と自信があります。自身の策に自信を持てばこそですが、そこには人の和が欠けています。簡単に言えば、三成の純粋な大義に殉じようとする者は多くはいません。しかも何を考えているかわからない輝元、明らかに利己的な動きを見せる秀秋…最も大軍を擁する二人が既に怪しいのです。
一方、本軍が到着しない家康ですが、三成の手の内を読み、決戦は関ヶ原と読んでいます。そして戦力的には圧倒的な不利な中、「その手に乗ってみるかのう…」と言ってのけます。こう言えるのは、一つは手元に今ある家臣団に対する信頼でしょう。そして、自らの調略で味方に引き入れた東軍の心も間違いなくつかめています。また、京都には北政所、阿茶がいて、大阪に三成がいない今、調略に動ける人材を敵陣に持っています。家康には、人の和が出来上がっているのです。
そしておそらくは、西軍の面々ともなんらかの調略が済まされているのでしょう。ですから、家康の「三成よ、これは天下分け目の大戦じゃ」という言葉には、信玄の「戦いは勝ってから始めるものだ」という言葉に似た空気が感じられます。そして画面は、二人の自信に満ちた顔を交互に映し、その緊張感を高めて幕を下ろします。
おわりに
家康と三成は、天下をかけて日ノ本を盤上にして、戦いを進めました。三成は、その知略と大義で家康を追い詰め、優位に戦いを進めました。家康の本軍到着を抑え、秀頼という生きた大義名分も手元にあり、潤沢な資金をもって用意した数々の兵器もあります。しかし、その一方で集まった諸将たちのつながりは希薄です。最初から前面に立って戦っている三成、刑部、小西、宇喜多らはともかく、輝元の座したままの大阪の動きは分からず、秀秋は不穏当な動きをしています。ある意味、三成一人の力で西軍は持っているような、そういう描き方をされています。
一方、家康はまず人の和を得るところから始めました、小山評定では、彼らの不安と不満を巧くすくい上げ、それを「戦無き世」という大義名分とつなげて、三成打倒で心を一つにすることに成功しました。また、家康が家臣団や周りの人々と長い間をかけて築き上げてきた絆が、布石として機能しているのも特徴的です。
思えば、三河一向一揆以降、家康が掲げたのは「家臣や領民たちを裏切られても信じ抜くしかない」ということでした。そして、それを貫き家臣や領民を守ろうとする家康の行為は、家臣たち自身が家康を盛り立てていこうという思いへと転じていきます。そうして築かれた絆は、瀬名と信康が命がけで託した「戦無き世」という理想と夢によって、より強固なものとなりました。
また、家康を守る家臣団たちは、先代から思いを受け継ぎ、それをまた次代へと渡すことで連綿とその思いをつなげていっていることが、彦右衛門たちの生きざまによって改めて示されました。ですから、どんな事態が起ころうと動じることなく、自分たちの行為が必ず無駄になることなく、家康と他の誰かがつないでいってくれると信じ、やるべきことを自らする集団へと変わっていったのでしょうね。
自分が生きていたことが次へとつながり、いつか「戦無き世」という夢が叶えられる…その信念が家康たちを支えているのです。その信念の確かさゆえに、徳川勢には悲壮感がないのでしょう。
家康も三成も信念の人です。その信念で人を動かします。しかし、三成の信念は原則原理にこだわり、他人や例外を許容しません。他人の入り込む隙はなく、息苦しい。だから、どんなに高潔で正しいものだとしても、独り善がりなものになってしまいます。三成の信念は孤独なのです。
一方、家康の信念、戦嫌いの彼が「一つの家」を守りたいと言ったとき、それは極めて独善的なものだったことは視聴者も記憶していることでしょう。しかし、彼の思いは瀬名や家臣たちの願い、信長の覚悟などを受けて、「戦無き世」として練り上げられていきました。謂わば、家康の信念は家康一人のものではなく、皆の願いが寄り合って出来たものなのです。どちらが強度をもって、夢を叶えることになるのかは一目瞭然な気がしますね。
そんな二人の信念のぶつかり合いは、合戦の終了後に訪れるでしょう。どんな会話がかわされるのか。まずはそのときを待ちましょう。