見出し画像

「どうする家康」で重要視されるライブ感~今川人質時代の回想シーンが多かった理由~

はじめに
 4/9は「どうする家康」は休止となりました。今週は考察もお休み…と思ったのですが、せっかく空いた週ですので、別の観点から本作を見てみようと思います。
 さて、本作でよく指摘されていることの一つは、回想シーンが多すぎるということです。たしかに、信長に対する家康のPTSDの理由、瀬名と田鶴の関係、今川義元の金言、氏真が家康を妬む理由、一向一揆にこだわる正信の原体験、こうしたキャラクター描写やドラマにおいて重要な動機が、回想シーンとして挿入されることが多いのは第一部(第1~12回)の大きな特徴です。
 観る人によっては、説明というよりも唐突さを感じるため、キャラクターの動機が後付けされているように錯覚してしまいがちです。実際は、伏線と見られる言動がところどころに入っているため、良く練って行われているのですが。
 ある意味では損とも思えるこのやり方を本作が、敢えて選択している理由について考えてみましょう。



1.神君家康公神話を崩すというスタンス

 「どうする家康」の大きな特徴は、江戸幕府の公式史書『御実紀』、通称『徳川実紀』で奉られている東照宮大権現という神、家康像を崩す形で話が進められていることです。
 第1回冒頭から寺島しのぶさんの芝居がかったナレーショに「神の君」たる家康が生まれつき優れた人物であったと朗々と語らせておいて、いざ、その時、その場所という現実に生きている家康にフォーカスを当ててみると、ままごとをして遊ぶというまるで正反対の情けない姿をさらしていますね。ここで、作品の方向性が決定づけられています。

 つまり、大河ドラマ「どうする家康」は、神話の中の家康と現実を生きる家康との落差を描き、この落差がいかに埋められていくか、あるいは埋められないか、そこにドラマを見出していくということです。
 したがって、その困難を前にした現実の家康の悩みや焦りといった負の感情を丁寧に描き、その上で彼が家臣など周りの人々の話をどう聞いて、どうリアクションをし、そして、最終的にどう判断していくのかというプロセスを描くことがドラマの軸になっていきます。

 では、ドラマを描く目線をどこに置くと、視聴者がそのプロセスにリアリティを感じられるでしょうか。家康たち戦国時代の人々の感覚が生で感じられたら、彼らの悩みにも恐らく納得できるでしょう。
 そこで、「どうする家康」では、今まさに生の家康が問題に直面している姿を、直接に観ているような感覚にさせる、視聴者にもその現場にいてもらう、そういう目線を選択しました。言い換えるなら、常にハラハラ、ドキドキする環境に家康たちを置き、視聴者もそこで同じような危機感を抱いてもらう、そのライブ感を重視したのです。

 そうなると家康を、竹千代時代の幼少期から描くことは適切ではないでしょう。今川の人質時代は、山岡荘八「徳川家康」が描く通説のような苦労と忍従ばかりの世界ではなく、今川親類衆となるべき厚遇されていました。そこに大きな危機はありません。
 勿論、その時代をキャッキャッウフフを感じさせて描くことは出来ないわけではありません。しかし、同じようなシーンが続き、冗長になる分、同じ場所に置かれた視聴者たちも飽きてしまいます。
 実際、竹千代と瀬名の恋愛は初々しくて可愛くて微笑ましいですが、あれが第1回まるごと続いたら耐えられないでしょう。「成就した恋ほど語るに値しないものはない」とは、森見登美彦「四畳半神話大系」の言葉ですが、まさにその通りです(笑)だから、最低限の説明で十分なのですね。


 また、今川家に人質に出されたが織田家に送られたことも、その後、人質交換によって改めて今川家へと送られたことも、そこには家康自身の主体的判断も無ければ、能動的な行動もありません。ただただ、状況に甘んじて流されてきた結果です。
 そうした環境で育ったからこそ、第13回で鳥居・平岩の両名が「あのちっぽけで泣き虫だった殿が…!小便垂れでくそ漏らしだった殿が…!」と述べたように、心優しくも情けなくみっともない竹千代及び元康が出来上がってしまったのです。
 それは、厚遇された人質時代という史実と、ドラマ開始時点でレベル1以下の家康というドラマ上の目的との落としどころだったのだと察せられます。その意味では、最初から計算された人物設定だったと言えるでしょう。

 話を戻しましょう。このように幼少期をある意味守られて過ごした家康(当時は元康)が、生命の危機に晒され、自発的に行動せざるを得ない状況の最初はどこか。となると、必然的に初陣、そしてそれに連なる「桶狭間の戦い」しかないということが見えてきます。
 家康が命がけで「どうする??」となった最初がそこであるなら、ドラマをそこから始めることが、家康の命がけの悩みと選択の苦しみというライブ感を得る最適解です。
 勿論、このライブ感は、家康に同調しろというものではありません。共に危機的状況を感じながら、家康に共感するもよし、家康の子どもっぽさや現実が見えない点を批判的に見るもよし、あるいは家臣団に心を寄せるでもよし、です。視聴者それぞれが、起きている状況をヒリヒリしながらも楽しむ…そうしたライブ感です。


2.過去を回想シーンにすることの効果
 さて、前章では、「どうする家康」のドラマ作り(作劇)の軸が、神君家康公神話を崩して、現実の家康たちの困難と苦悩と選択のライブ感を演出することだとお話しました。ただし、この作劇法には一つ欠点があります。

 それは、キャラクターを時系列に順序立てて構築することが出来ないという点です。私たちは、一日の出来事を人に話すとき、あるいは日記に書くとき、大抵、時系列順に話します。何故なら、そのほうが何故、そういう出来事が起きて、そんな結果になったのかという因果関係が分かりやすいからです。
 大河ドラマや朝ドラが扱うようなある人物の伝記もののようなストーリーが、幼少期から始まるのはそのためです。「幼いころのあの出来事が、大人になって響いてくる」とか「あのときの誰かの言葉は、実はこんな意味だったのか」とか、伏線を張りながら成長を描く、物語を構築することにも向いています。

 
 一方で、時系列に添ったドラマ立ては、メインの出来事の周りにある余分なこともディティールとして描き込まないとリアリティが担保できない場合がありますから、やや散漫かつ冗長になる傾向があります。平たく言えば、勢いが失われがちです。
 また、視聴者はドラマ全体を俯瞰して観ることになるため、理解が深くなる反面、出てくる登場人物たちに対しても距離が出来てしまう可能性も秘めています。
 勿論、実際のドラマはこうした欠点を回避するために、様々な手法を駆使して、そう見えないよう、あるいはキャラクターに感情移入できるように構築して作劇しています。ここで言いたいのは、万能の作劇方法はないということだけです。

 それでは、ライブ感重視の「どうする家康」は作劇上の欠点をどう回収しているのでしょうか。それが、今川人質時代の回想シーンなのです。「どうする家康」第一回は、義元が元康と瀬名の結婚を許す場面までの流れだけで、氏真と元康の義兄弟関係、瀬名を巡る嫉妬と羨望、父を尊敬するがゆえに武芸に熱心な氏真、元康の気弱さと遠慮の裏に何かがありそうなこと、それを見抜く義元が家康を息子同然に扱っていること、瀬名の両親の思いなど実は、その後の展開につながる情報が非常に多くなっています。
 言い換えるなら、「父を信奉する氏真が何故、瀬名に執心するのか」「何故、元康と瀬名は仲が良いはずなのに悲劇が待っているのか」「家康が今川義元をそこまで敬愛するのは何故か」「元康は何故、信長にPTSDを発症しているのか」(通説では仲良しだけに)など、今後の展開につながるフックがたくさん仕掛けられています。これらフックを置いておくことで、回想シーンを入れたときに、「ああ、あのときのあの人物の反応はこういうことだったのか」と気づき、自然なつながりが見えてくるのです。

 例えば、氏真の瀬名への執心は、実は家康への嫉妬に端を発しています。第1回と第12回の回想で繰り返し描かれますが、氏真が瀬名を嫁にと望むきっかけは、瀬名が元康ばかり目で追っているからです。瀬名を幼い頃から好きであるという二人のつながりは描かれていません。つまり、元康に想いを寄せる瀬名を正室にすることを義元に認めてもらい、実の息子としてのプライドを保とうとしたのです。だからこそ、人妻になった瀬名を敢えて手籠めにしようとし、そして拒まれたことで殺そうとするまで突き放してしまうのですね。本当に惚れていたのであれば、殺そうとすることはなかったはずです。
 そして、この原因がはっきりするのは、第12回回想シーンでの、義元の「お前に将の才はない」という一言が出たときです。第1回に描かれたこと、その後の言動が全て伏線となって、回想シーンによって回収されているのです。決して後付けではないことが、分かりますね。
 後付けとならないよう、様々なところでポイントを置きながら、ライブ感を重視したがゆえに描き足りなかった過去から、これまでの積み立てを回収しているのです。


 また、家康の回想における今川義元はかなり美化されています。現実にあった言動なのでしょうが、照明なども含めて鮮やか過ぎる。あくまで家康から見た義元像なのです。それによって、家康の中にある理想がいかに義元によって形作られたか(そして、逆に信長に現実を突きつけられまくったか)がはっきりし、家康の理想と現実に悩む姿にリアリティが与えられ、「正しい」と思われる判断を導き出しています。
 これは、回想によって過去の必要な部分だけをクローズアップすることで、家康の思考のあり方や判断を補強しているということですね。「三河一向一揆編」のように実践をとおして、義元から学んだ理想がそれ以上の形で家康の中で根付き、成長するという場面にもなっているのは、以前、noteで指摘したとおりです。
 つまり、時系列で描けなかったことを逆手にとって、回想によって効果的にライブ感を強調しているとも言えるでしょうね。


おわりに
 今川人質時代の回想シーンを効果的に使うことで、困難に直面した家康の苦悩と決断のライブ感を描いてきた「どうする家康」第一部でのあり方が見えてきたのではないでしょうか。
 ただ、今後は、今川人質時代の回想が使われることは限定的になると思います。家康の成長に必要なだけの過去は既に回収され、第13回からは新たな状況へと進み始めたからです。4/9の休止に合わせて放映された「どうする家康」特別編「乱世を生きる女たち」で流された、家康が自分の弱さ(=優しさ)の象徴である兎を瀬名の元に置いておくという予告場面は象徴的です。もう彼は今川人質時代に戻ることはないのでしょう。そして、それは瀬名との哀しい別れの始まりを予感させますね。
 勿論、今後も回想シーンは伏線回収の手段として出てくるでしょうが、使われるのは第1回以降の現実を生きてきた家康たちの姿からのものになるでしょう。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?