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大河「べらぼう」第3回「千客万来「一目千本」」 商才に不可欠な忘八と共感力
はじめに
サイコパス…一般に社会不適合の精神障害と捉えられますが、実際は多くは社会に適応して生活しているといわれます。さまざまな定義がありますが、社会に適応しているサイコパスは、非情さ、カリスマ性、恐れ知らずという特性を持つ点が共通しており、リーダー的なポジションについていることも多いのだとか。そのため、即座の判断力を必要とする外科医、聖職者、弁護士といった仕事に向いているという研究者もいます…って、この三つ、失礼ながら、人の不幸が仕事のもとになっていますね。それだけに共感力が強すぎる人は向いていないかもしれませんね。その他、企業のトップ、所謂CEOも向いているとされます。利益最優先で物事を判断する能力、いかなる状況に対しても冷静というだけでなく、時には利益のため自ら混沌状態を作り出すことも厭わない…そんな冷徹さもあるのでしょう。
「べらぼう」で忘八と呼ばれる楼主たち、あるいは意次を始めとする幕閣たちも、これまでの描かれ方だと、そんなサイコパス的資質があるように見えます。それだけに、河岸女郎たちを助けたい一念で、何とか吉原に客を呼びたいと奔走する蔦重は際立つのかもしれません。しかし、その熱意は蟷螂の斧のようなところがあります。何故なら、吉原に客を呼び、女郎たちが満足に食べられるようにするということは、女郎たちを搾取することを是認し、人様から法外な金を巻き上げる商人としての冷徹さも必要になるからです。
一方で、商売は利益だけでは成功しません。物事にかかわる多くの人の心をつかむ必要があります。クライアントの心をつかむ、消費者の心をつかむ…それには共感力や共感性も必要です。単なるサイコパスでは駄目です。そのことは、前回、「吉原細見 嗚呼御江戸」の「序」を源内に書いてもらうことにも表れていましたね。人の真心の響き合いがあって、「細見」は出来上がりました。ただ、これだけでは吉原に客を呼べないという結果が待っています。蔦重は、共感性と同時に商売を成り立たせる冷静な計算高さ…言うなれば忘八たちの気質も求められているのかもしれません。
そこで今回は「一目細見」が完成していく顛末を通して、蔦重の商才はどのようなものなのか。忘八さと優しさの両立がどうなされているのかを見てみましょう。
1.「あんたは一人じゃない」から
蔦重の熱意、花の井の真心に心動かされた源内の「序」が載り、中身も最新情報に改められた「吉原細見 嗚呼御江戸」。鱗形屋の披露会でも楼主らの評判は上々、吝嗇の大文字屋の「これ売れんじゃねぇの?客も増えんじゃねぇの?」という言葉にその期待感が窺えます。「序」を書いた源内も「吉原も人を呼べるようになるのか?」という意次の問いに「そりゃあもう、どっさどっさでございますよ」と太鼓判を押していたのですが…結果は…いつになっても閑古鳥が鳴くばかり…出るのはあくびで銭は出ないという有り様。
細見そのものの出来が問題なのではありません。寧ろ、鱗形屋曰く「よく売れている」…しかし「源内だ、ならちょいと読んでみようと細見を買うものの読んだだけで終わっちまうかもしれねぇな」と、読ませる力がそのまま吉原へ客を呼び寄せるまでの原動力にはならないのですね。現代でもガイドブックを読んだだけで映画やドラマやアニメを観た気になる安上がり層というのは少なくありません。宣材が機能しないことは今も昔も変わらないということでしょうか。
ため息をつく蔦重に「で、次はどうする?」と鱗形が聞くのは、蔦重の養父であり主人でもある駿河屋市右衛門が、蔦重を殴りつけるほどに蔦重が細見改をすることに反対しているからです。「客は岡場所や宿場に流れてんです。しかもお上も取り締まらねぇ。てめぇらで何かしなきゃ吉原に客は戻ってこねぇっすよ!」という正論にも、こんなことで客は戻らねぇと決めつけ聞く耳を持ちません。挙句、市右衛門の言ったとおり閑古鳥では、どんな言い訳もなしの与一というもの。今後も改めを続けようもんなら、鼻血どころではすまないでしょう。
とはいえ、あまりの頑なさには鱗形屋も「何でかねぇ…改めは茶屋に差し障りのある仕事とは思えねぇんだがなぁ…」と首を捻ります。蔦重は、養子の身の上が「出過ぎた真似すんのが気に食わねぇんでしょ」と諦め顔ですが、殴られても養父に殴られても「このままじゃ廃れるばかりじゃねぇっすか、吉原は!」と改めを続けるつもりだった彼です。諦めるなんざ、そうは問屋のおろし金なのです。
その危機意識が再びもたげたのは、貧しさゆえに新潟の古町へ売られていく二文字屋の女郎と挨拶をかわしたことです。今も花街の街並みが残る新潟の古町は、有数の遊郭で、江戸初期の時点で江戸、大阪、京都に次ぐと言われたところです。とはいえ、遠方に売られていくということは二度と故郷の江戸へ足を踏み入れることはないということ。この挨拶は永遠の別れの挨拶です。次々と人がいなくなっていくとすれば、状況はますます悪くなっている…居たたまれなくなった蔦重は、二文字屋のある河岸見世へと急ぎます。
しかし、女郎たちは梅毒や労咳に蝕まれ、明日の命もしれぬ状況でした。「細見」が空回りしたことが、蔦重の胸を締め付けます。食うものも食えず、病が蔓延した女郎宿に先はありません。女将のきくは、見世を畳む決意をしたことを告げます。それでも踏ん切りがつかないのは「女郎なんて売られてきて他に生きる術のない。とりわけここに来るのは、大店なんかじゃはじかれちまう娘たちさ」と、女郎たちを憐れみ、慈しむ気持ちがあるからです。思わず、彼女たちの部屋を覗き込むきくは「この娘らはわっちが手離したら終わりだと思ってやってきた。けどもう…」と嘆くことしかできません。
場末とはいえ、彼女も楼主。忘八の一人で、女郎たちにとっては鬼のような様子を見せることもあるでしょう。しかし、それはもう行くところのない彼女たちを何とか食わせていくため。この世は金…彼女たちが住むしがない切見世を維持するにも、金がかかるのです。根っこにある見世の女たちを娘のごとく思う心を押し隠して忘八を演じているという面もあるのでしょう。
思わず「女将さん、もうちっとだけ、耐えてもらえねぇっすか、俺か何とかするんで」という蔦重を「あんたにどうにも出来るわけないだろ!」と無責任を詰り、どつくのも、彼女たちを守ってやれない自身の無力さへの腹立たしさから来るものでしょう。人とは良いことをして悪いことをするとは、「鬼平犯科帳」の長谷川平蔵の言葉ですが、人とは一筋縄でいかず、二面性の相克のなかにあるのです。それが、忘八であっても…
詰られてなお「どうにかします、よくします…こんな吉原、よかないんで…」と真剣な顔をする蔦重に、今度はすがるように深々とお辞儀をします。彼女たちさえ助かれば…そんな思いが窺えますね。
「細見」の失敗と成功、それを鑑み「どうも、これしか中橋と思うんだけど」と九郎助稲荷へ独り言ちた蔦重、九郎助に「なかなか危ない橋」と思わせた秘策のため、まずは花の井に協力を仰ぎます。前回、「吉原細見 嗚呼御江戸」を作ったときは、市右衛門を始め楼主たちから仕置きされた経験から誰にも迷惑をかけないため、一人で奔走しました。結果的には、市右衛門を除く楼主たちの評判は上々でしたが、要の源内の「序」は、花の井の手助け、花魁の力がなくば、あの名文は生まれなかったでしょう。
蔦重は、憐れむ女郎らに助けられたことで、吉原と言う町は彼女たちあってのものであること、そして一人で奔走することの限界を学んだことでしょう。花の井からの「吉原を何とかしなきゃって思ってんのもあんただけじゃない」「籠の鳥に出来ることなんて知れてるけど、あんたは一人じゃない」(共に第2回)という言葉は身に沁みたはず、茶化さずに言った「ありがとうな」は、そんな彼の真心だったはず。その反省があるからこそ、まずは花の井に胸襟を開いたのですね。転んでもただでは起きないのが蔦重…とも言えましょう。
二人の密談は描かれませんが、秘かな想い人からの相談事に花の井は、二つ返事で引き受けたことは間違いありません。早速、平蔵へ恋焦がれ、一世一代の頼みがあるとの文を長谷川平蔵へ送ります。そして文字通り駆けつけたカモ平…もとい、平蔵に女郎の絵姿を集めた「入銀本」(金を募って作る本)を作るというインチキ話をもって50両を巻き上げます。花の井は泣き落としをするばかりか、振袖新造のはなぞの&はなさと、自分付の禿のあやめ&さくらにまで「長谷川さまぁ…」「拝みんす、長谷川さまぁ」「長谷川さまぁ」と懇願させる念の入用でカモ平…ではなくて平蔵を口説き落とします。彼女らもしっかり口止めされているのでしょうから、ここは花の井の人望ですね。
ほとんど美人局にしか見えない手口ですが、まんまとせしめた50両は手付かずのまま唐丸によって内密に二文字屋に届けられます。平蔵から入銀をせしめたのは、遠大な計画の手始めですから、本来ならばそこへ投資するのが真っ当です。しかし、それよりもまず河岸見世の窮状を一時的にでも救うために、二文字屋へ送金したあたりに、蔦重の「河岸の女性たちを食わせるようにしたい」という初心がブレていないことが窺えます。彼は、大きな目的のために、優先順位を見失わなうようなことはしません。この点も彼の商才として注目すべき点ですね。
さて、平蔵にでっちあげた企画は、ここからが本番。入銀本の話を花魁たちを中心に吉原の女郎たちに触れ回り、競争心を煽って入銀を募って大金を確保しました。借金のかたに売られ、劣悪な環境のなかで性を売らされるというのが吉原の本質ですが、一方でその頂点にいる者たちは己の才覚をもって、その座を得、守っているという自負も持っています。人は一つの面だけではないのは、彼女たちも同じです。ですから、己こそが頂点であるというライバル心を持っている。現代におけるキャバクラやホストクラブで、メンバーがトップを競うような感覚が近いでしょうか(行ったことがないので創作作品のイメージですが(苦笑)。
花魁たちこそが吉原の華であることを実感した蔦重は、彼女たちの力を利用しないで吉原の再建はないと確信したのでしょう。花魁たちの心を巻き込み、彼女たちの魅力を伝える企画として入銀本を思いついたのでしょう。彼女たちの性格を知り尽くしている彼は、それぞれに合わせて文言を並べ、口説き落としていきます。
因みに女郎たち自らが入銀するという形ですが、先に平蔵から巻き上げた花の井の様子、「また腹の上で死ぬ男を増やせって?」という常盤木の台詞からして、彼女らの懐から出たものではなく、馴染みから別個巻き上げた金であるということです。まあ、馴染み客は、いい面の皮というところですが、カモにされるのも大通の証です。
さて、蔦重が入銀本を企画し、まず花魁を始めとした女郎を焚きつけ、入銀を相当数集めたのは、彼女たちを巻き込むためだけではありません。第1回から、彼の河岸を救いたい思いを阻んできたのは、強欲の中の強欲、忘八楼主どもです。彼らは、目下の者の出しゃばりをよく思いません。儲けにならないことには関心がなく、何より吝嗇です。
ですから、かなりの入銀を集めた上で、楼主たちの茶会に出向いた蔦重は、「長谷川さまから配りものの絵本を作ってほしいと頼まれまして、丁度お役が決まったそうで珍しい吉原本でございますと挨拶代わりにしたいと」と、企画は上客の平蔵からであると述べ、「女郎衆に話を持っていったところ、皆乗り気で」と集まった入銀の一覧を見せます。
その額を見た、大のけんちんぼ大文字屋は。驚きながら「俺らは一文も出さなくていいのか?」と問います。問われた蔦重「勿論、親父さま方は鐚一文払わずです」と用意してきた言葉で見栄を切ります。そう、客からの依頼とでっち上げ、金を集めて既成事実を先に作り、楼主たちに損はまったくないと言えば企画が通る…そう考えたわけです。
これには、楼主たち(苦虫をかみつぶした駿河屋市右衛門は除く)も喝采、教養人の扇屋は「実はうちの馴染みから配りものの本作ってほしいとせっつかれててなぁ」と渡りに舟といい、「お前の細見も評判がいいぞ。序もいいし、見やすくなったってよ」と言う松葉屋は、細見を上手くやったお前なら信用してよいと言います。何でもやっておくものですね、「細見」は信用として蔦重の力になります。
しかし、松葉屋に相槌を打つように大黒屋の女将りつが「あんた、本作んの、向いてんじゃないのかい?」と笑った言葉に「いやぁ、へへ、そうっすかね」と蔦重が愛想笑いを返したとき…それまでむっつり黙っていた駿河屋市右衛門がブチ切れます。「てめえは本屋になのか?ああ?ちげぇだろ…てめえの本分は茶屋だろうが!」と詰め寄る市右衛門に「おい…何かっかっ来てんだよ、重三は別に茶屋怠けてるわけじゃねぇだろ」と扇屋宇右衛門が庇うのですが、「怠けてるって言ったら次郎兵衛のほうだよな」という松葉屋の言葉に怒り心頭になった市右衛門は、次郎兵衛を殴りつけると、またも蔦重を茶会の席から引きずり出します。
「何でそんな頑なに!」「これは吉原のためになることなんすよ」と、どんなに理と利を説いても聞かない市右衛門、前回と同じく階段から蔦重を叩き落とすつもりが、バランスを崩し、自分が転げ落ちてしまいます。駆け寄る女房のふじ…何もかもが第1回の反転になっているこの場面、市右衛門と蔦重、それぞれの思いは変わらないのですが、今回、筋が通っているのは蔦重。だから、市右衛門が転げたのでしょうね。それでも怒りが収まらない駿河屋市右衛門、遂に「出てけ…出てけーー!!」と勘当を言い渡します。
2.蔦重の思いと遊女たちの思いが織りなした「一見千本」
勘当された蔦重は唐丸とともに二文字屋の空き部屋を借りることになりました。女将のきくが二つ返事で引き受けたのは、平蔵から巻き上げた50両の大金をそっくりそのまま手渡したことが利いています。限界から見世を畳むと言った彼女に「どうにかします、よくします」と言った蔦重は、有言実行で、口だけ、情だけではないことを見せたのです。女将のきくも楼主の一人、所謂、忘八ですが、河岸の娘たちに対する憐憫の思いは本物。自分の見世のみならず、周りの見世の遊女たちにも握り飯を振る舞っていることから察せられます。蔦重の50両によって河岸は一時的に救われたのです。
だから、恐縮する蔦重に「何言ってんのさ、河岸はあんたの味方だからね」と言うのです。生きることすらままならぬ人にとって、情けも憐れみも理念も何の救いにはなりません。食べられるようにすることだけが、彼女らの信頼を得ることです。蔦重の名は河岸の遊女たちのお腹に握り飯と共に刻まれています。「手伝うことあったら何でも言っておくれ」の言葉どおり、やがて二文字屋の遊女たちは、蔦重の本作りを助けます。蔦重なら何とかしてくれる、恩返しをしたい…そんな切なる思いからでしょう。情けは人のためならずとは言ったもの、駿河屋に勘当され困り果てた蔦重は、回り巡って助けられます。
自分たちを置いてくれた行為に答えなければなりません。「このまま続けたら、旦那さま、蔦重決して許さないってなっちゃうんじゃない?」と心配する唐丸に「親父さまの機嫌より、河岸が食えるほうが大事だろ。吉原に客が来るようにするほうのがよ」と答える蔦重の遊女らへの思いという原点は変わりません。同時に事態を打開するためには、何を優先すべきかを、よくよく理解していることも窺えます。浮き世の義理より己の明日よりも、商売をどう立てるかに目が向いていく。優しさとは裏腹に、蔦重の商人としての冷徹で冷静な気質も見え隠れしているのかもしれません。
その冷徹さは、入銀本は贈答用なので本屋で販売されませんが、それを逆手に取り、客を寄せるという思いつきにも表れていますね。曰く「本が欲しい、手に入れてぇと思っても本屋じゃ買えねぇ。手に入れる方法はただ一つ。吉原の馴染みになること。そうすりゃ、この本もらいたさに吉原に行くぞになるだろ」…本を主にすることはなく、あくまで吉原という商いに焦点があるのです。
「細見」が吉原の売り上げに結びつかないのは、単純に言えば吉原の外で売るから。ならば、吉原の中でしか手に入らない限定本にしてしまえば良いというわけです。しかも、それを持てることはステータスにもなる…見栄っ張りな客の心理を巧みに利用しているのです。
現代で近いのは、例えば映画の入場者特典でしょうか。本来は映画に来てくれた客へのサービスだったそれは、いつしか入場者特典をもらうために劇場へ足を運ぶという転倒を起こしています。有名なところでは、「ONE PIECE FILM STRONG WORLD」公開時に入場者特典となった作者描き下ろしコミック0巻でしょうか。これ以降、漫画原作のアニメ映画では小冊子配布を集客に利用する0巻商法が定着しています。
他にも毎週入場者特典を換えてリピーターを見込むということも珍しくありませんね。また配りものではありませんが、美術館や博物館が図録など物販を来場者以外にしないのも、外で販売すると客が来なくなるからです。
ただ、なんと言っても初めてのこと、「俺にそんなもん出来るかって話なんだけれど…」と不安はありますが、他に妙案がない以上「まあ、やってみるしかねぇな」しかありません。時には勢いと見切り発車も大切ですし、やれることはすべてやっておけば、やらなかった後悔はしなくて済みます。
早速、魅力的な本には欠かせない良い絵師を探し始めた蔦重、数ある中から「120人の女郎の描き分け」ができると考えられる北尾重政に白羽の矢を立てます。北尾重政は、独学で絵を学び、その繊細な描写、美しい色彩、豊かな表現で役者絵、美人画、日常や四季を切り取る風俗画と幅広く手掛け、後身の育成も手をかけた浮世絵の歴史における要となった人です。源内に「序」を頼んだことといい、蔦重の商才は、人の才覚を見抜く目にあることを窺わせます。
しかし、依頼を聞いた重政は、本のサイズの小ささから「似たような絵が延々続くだけになるよ。あんまし面白くねぇんじゃねぇか?」と疑問を呈します。そして、二人、思案の末、捻り出したのは、遊女たちを花に見立てるということでした。
蔦重の提案に乗り気になった重政が「ツーンとしてる女郎は、山葵(わさび)の花とか」と切り出すと、蔦重も「おお、夜冴えないのは昼顔とか」と合いの手。膝を立てた重政「無口なのは山梔子(くちなし)な」と更に乗り、返す蔦重も「いいっすね。文ばかり書く燕子花(かきなつばた)」と膝を立てる…「おお、いいじゃねぇか」と意気投合した二人、蔦重が女郎の見立てを考え、重政が生けた花の細密な絵を描くという形で共同作業が始まります。
当初、蔦重の頭にあった美人画120人大鑑のようなものであったなら、重政の危惧したとおり似た絵が並んでいて飽きるものだっただけでなく、ルッキズム丸出しのグラビアカタログという下品な仕立ての本になっていたでしょう。作りがあからさま過ぎれば、客も教養のない野暮天になり、吉原のブランディングとしても効果は薄くなります。したがって、花に見立てることを思いつき、間接的に遊女らの個性を描こうとしたのは慧眼でした。因みに女性を花に見立てるのは「古今和歌集」の男性歌人たちの頃からあります。江戸期では、男女の目線に関わりなく一般化していたと思われます。蔦重らの男性性だけを問題にするのは、ピントを外しているでしょう。
それよりも、蔦重が、花の見立てに目を着けた理由として「抛入花(なげいればな)が近頃、流行っていること」を挙げていることには、注目したいところです。華道が確率したのは、室町中期の池坊が流派となってから。以降、家元らによって立花が発達しますが、江戸中期から庶民の嗜みとして広がったのが抛入花。生花と呼ばれるようになります。つまり、抛入花について触れたことは、流行りに敏感な蔦重のセンスを通して、今回作られる「一目千本」が江戸庶民の文化的背景によって成立し、それゆえに売れたことの説明にもなっています。高尚だった文化が庶民へと広がりを見せた町人文化の有り様を象徴しているのですね。
それは「見立て」という「一目千本」の仕掛けそのものにも言えます。美しく無造作に生けられた花の絵と添えられた文言だけで、そのこころを読み解き、どんな女性であるのか、姿も心根も想像する。その想像力は、読み手側の教養と洒落っ気が問われています。見立て遊びにこそ粋がある。苦しい生活ゆえに風刺を好む江戸っ子の気質は、狂歌などにも見て取れます。そこと合致したのでしょう。
無論、「一目千本」を手にするのは、あくまで遊女を買う男たちであるということは変わらず、吉原というシステムを強化することになります。その一方で、男たちが手にしたこの本を、いずれ回し読みする市井の女性たちもおそらくはその見立てを楽しむでしょう。それほどに、見立て遊びが浸透しているからです。
ところで、蔦重が、この見立てを面白いと思ったのは「見立てることで女郎の性分も表しちまう」からです。源内の「序」が、吉原という場所の魅力を十分描きながらも客寄せにならなかったのは、そこにいる遊女一人一人の魅力までは浮かび上がって来なかったから。「女郎に食わせてもらっている」…その詭弁を信じているところがある蔦重からすると、やはり彼女らを魅せることが吉原の売りと再認識したのではないでしょうか。
彼女たちの魅力が姿かたちではないことも蔦重にはわかっています。ですから、性分を表すこの見立てに乗ったのでしょう。そのことは、悩みながらも見立ての言葉を嬉しげに書きつける姿にも表れています。一人一人の遊女らに目をかける彼だからこそ、思いつく…蔦重の彼女らに向ける温かい眼差しが、その文言には込められています。
「どうなんしょ、花の井のような床下手が頭って」と陰口、噂話をしたがる玉屋の座敷持、志津山には葛(あれ?情がないか?
つんとしていて、時折、ふっと微笑して、男の気を持たせる桐菱屋の座敷持、亀菊には、山葵(わさび)。不思議とこういう男が気を回さなきゃいけないタイプはモテる傾向がありますね。
「また腹の上で死ぬ男を増やせって?」艶っぽく笑って、蔦重を怯ませた角か那屋の呼出、常磐木は、トリカブト。閨房に長けた彼女の冷ややかな自負が、下手に手を出せない感が漂っていますね。因みにトリカブトは小石川薬草園で育てられていましたから知名度はあるでしょう。
飯に夢中で無口だけどにっこり笑う四ツ目屋の座敷持、勝山には、山梔子(くちなし)=口無し。
唄を歌い美声を響かせる笑角たま屋呼出、玉川には蒲公英(たんぽぽ)
そして、入銀本の話に「そりゃあ、きさんじなもんだねぇ(洒落たもんだね)」とのんびり返し、「はぁ…おてんとさん」と日を仰ぐ朗らかな扇屋の呼出、嬉野には向日葵。彼女たち一人一人を思い浮かべながら、蔦重は言葉を綴るのです。あくまで、吉原に住む遊女たちが生きていけるようにする…この思いが、「一目千本」には込められています。
彫り師や摺り師らの作業にもすべて付き合った蔦重は、摺り上がったものを、唐丸ときく、そして、蔦重の50両のおかげで健康を取り戻した河岸見世の大文字屋の女郎たちと共に徹夜で本へと綴じていきました。きくたちが約束どおり、手伝ってくれたというこの場面が挿入されたのは象徴的です。
入銀本は、蔦重のアイデアで、重政が絵を描きましたが、作ったのは、競い合い客かは巻き上げた金を投入した花魁たちであり、自分たちの生活が立つことを信じて本を綴じる河岸の女郎たちです。一見すれば、女郎たちをカタログ化したと見える「一目千本」の裏には、彼女らの生きるための切実な願いがあったのではないか…それが「べらぼう」における解釈なのではないでしょうか。そう考えると、蔦重は、遊女たちの想いを入銀本という形としてまとめあげ、プロデュースしたということになりますね。
翌朝…『一目千本 華すまひ』の表題が貼られ、遂に完成します。「出来た…出来たぁ!出来ました!」…放心→込み上げる→分かち合う、蔦重の「出来た」感動、三段活用が良いですね。女将きくが「なんだかめっぽう粋じゃないか…」と目を細める返事が一同を代弁しています。蔦重は「いやぁ…なんか…すげぇ楽しかったなぁ…いや、やることは山のようにあって、寝る間もねぇくらいだったけど…てぇへんなのなか楽しいだけって…」としみじみと、ここまでの行程、苦労を喜びとして思い返すと「んな楽しいこと世の中にあって…俺の人生にあったんだって!」と叫びます。
この心からの喜びが、一筋縄ではないのは、吉原で暮らし続けた蔦重の半生の辛酸が凝縮されているからでしょう。吉原に生きる彼には虐げられる奉公人としての視野と半生しかなく、そこには心から喜べることも、楽しいことはなかったと思われます。これまでの描写からは、楼主たちは何かというと暴力的で厳しく冷酷です。女郎に鼻の下を伸ばす客たちも男衆らには横柄な態度で時には殴りつけます(平蔵の取り巻きなど)。そして馴染みの女性たちが借金のかたに身体を売らざるを得ない現実、その辛さに苦しむ女性たちの姿も蔦重はずっとずっと見てきたでしょう。
威勢がよく、いつも調子のよい蔦重の笑顔の奥には、もしかすると虚無があったのかもしれません。吉原に生きる女性、遊女たちの哀しみと苦しみと不幸と悲惨な境遇は周知のことです。その一方で、時代劇で悪辣な楼主の手下として悪役にされがちな吉原に生きる底辺の男衆もまた、彼女ら程ではないにせよ、やはり苦界の住人なのですね。
その彼が、本作りという初めての世界に、企画から製作と宣伝まで携わる。吉原の女性たちと共に一つのことを成し遂げられる…その達成感と一体感は例えようもない満足だったと思われます。喜びを爆発させる蔦重を河岸の女郎が、同じく女郎たちが、そしてきくと唐丸が、と微笑しながら見守る様子が挿入されます。河岸見世の彼女らも、人生で心底いいことなぞあった試しはないでしょう。世話になった蔦重の役に立てたこと、少しは食べられるようになるかもしれない。そんなわずかな嬉しさを蔦重に重ねているのでしょう。彼女たちの温かい眼差しを受けた蔦重は「なんかもう…夢ん中にいるみてぇだぁ(笑)皆さん、ありがとうございやした」と礼を述べます。
吉原に生きる人々の笑顔には、その裏に100倍の哀しみが隠れています。彼女らのそうした気持ちと蔦重の半生の暗さが織り合い、「一目千本」は生まれます。粋と洒落と表裏をなす哀しみ…それは文芸の本質でしょう。人々のさまざまな気持ちを一つにしていく本作りの快感を蔦重は知ったと思われます。
自身の思いと達成感、協力してくれた女郎たちの思いを無にはできません。蔦重は、客を呼ぶための仕上げ、宣伝を行います。真っ先に駿河屋へ持っていったところに、蔦重の市右衛門に対する、認めてほしい気持ちが出ていますが、頑な市右衛門は「いらねぇ」と突っ返します。寧ろ、遂に完成させてしまったことが腹立たしく、小僧に当たる始末。とはいえ、これは予想していたこと。いつかわかってくれればと、店先に置き、その場を去ります。そして、入銀してもらった女郎たちに配り、女郎屋の主人たちにも、新しく馴染みになった方に「新しい客付けに使ってください」と無料配布、希少本となるよう準備を整えます。
後は、「吉原のなじみになったらもらえるんで、欲しい方がいたら吉原へ行け」というキャッチフレーズで、湯屋や髪結床、茶屋、居酒屋など男たちがたむろしそうなありとあらゆる場所に見本を配るサンプルプロモーションを行います。売り物ではないにせよ、本を企画し、作り、宣伝する…売るための行程のすべてに、自らが関わりましたから「思いつく限りのことはやった。後は神頼みしかねぇな」と九郎助稲荷に、どうぞ叶えて暮れの鐘と願うのも納得です。人事を尽くして天命を待つとはこのことです。
3.楼主も忘八、蔦重も忘八
ある夕暮れ、駿河屋を訪れた扇屋宇右衛門、店先に置かれたままの「一目千本」をパラパラとめくりながら「こりゃ、玉川が蒲公英とはどういうことかね?」と、駿河屋市右衛門に尋ねます。扇屋宇右衛門は、第1回に即興で狂歌を詠んでみせたように江戸市中でも名を知られた教養人。市右衛門にわざわざ聞かずとも、美声の玉川を蒲公英に見立てたそのこころを分からぬはずがありません。因みに蒲公英の別名は「鼓草(つづみぐさ)」。打てば響く(=馴染みになれば美声を披露する)というわけですね。知っていて、扇屋宇右衛門が市右衛門に、そのこころを聞いたのは、「一目千本」に目を通しているか?とかまをかけたのです。
「いるんなら、どうぞ持っててくだせぇ」と案の定、素知らぬ顔で強情な返答をする市右衛門に「まだ続けんのかい?こんなくだらねぇ喧嘩」と宇右衛門。宇右衛門が、が言い捨てるのは、市右衛門の本音は蔦重を大切に思っていることを見抜いているからです。そもそも、店先に蔦重が置いた「一目千本」をそのまま放置してあるのは、彼の意地だけではなく、蔦重が精魂込めてこしらえたその本を打ち捨てることが出来ないからです。本当にいらないのであれば、とうに紙屑屋に引き取らせていることでしょう。
扇屋宇右衛門は「片手間に本を作るくらいいじゃねぇか」と、蔦重が勘当されたあの日と同じ言葉を繰り返し、許してやれと言います。その言葉に「じゃあ、息子が今日から八百屋もやりますって言ったら許しますかい?」と思わず、乗り出して反論してしまう駿河屋右衛門。その言葉には、養子の蔦重を実の子同然と思っていることが窺えます。本音を引き出した扇屋宇右衛門は、「ずっと聞きたかったんだが、重三だけは他所へ出さなかったのは、駿河屋を継がせる心づもりだからか?」とズバリと核心を突きます。
言い当てられた市右衛門が、いつもの厳しい顔つきではなく、情けなさそうな父親の表情になってしまうのが良いですね(高橋克実さん本来の人の好い雰囲気が生きます)。市右衛門は、蔦重に何が何でも継がせたいから、余計なことに目を向けずに茶屋に専念してほしいのです。彼を真っ直ぐ育てることに凝り固まっています。
ニヤリと笑った扇屋は「目端が利いて、知恵が回って、度胸もある。まあ、何よりてめぇが何とかしなきゃって、あの心根。誰だって手放したかぁねぇわな」と、蔦重の美徳をポンポン上げてきます。俺もお前と同じであいつのことが好きだぜ、何なら息子にしてもいいというわけです。協力はしないものの、仕置きの際の殴る蹴るにも加わらなかった扇屋は、実は彼を静かに見極めていたようですね。このやり取りを、店の奥からそっと見つめる女将のふじは、亭主の本音をよくわかっているのでしょうね。
「俺のこと勝手に決めつけて…」とこの期に及んでも意地を張る市右衛門に、扇屋「どうすんだい?!このまま重三が戻って来なかったら?」と珍しく、やや荒げたドスの利いた声で一喝します。彼が、わざわざここへ来たのは、市右衛門と蔦重の仲を取り持とうとしたからです。自分のことしか考えない強欲一辺倒な他の楼主たちとは、一線を隠す教養人の彼は、市右衛門の本音を見抜き、蔦重の才覚と心根も買う…だから、勿体ないと思うのでしょうね。
「そもそも、親でも子でもねぇんだ。吉原から追い出すだけでさ」と強情を崩さない市右衛門に今度は表情を緩めた扇屋宇右衛門は「それがらしくねぇと思うんだよなぁ。可愛さ余って憎さ百倍なんてお前さん、まるで人みてぇなこと言ってるよ、忘八のくせに」と、感情的な市右衛門を軽くいなして、彼をはっとさせます。
そして、真顔になった扇屋は「忘八なら忘八らしく、一つ損得ずくで頼むわ」と言います。扇屋は、市右衛門が蔦重の才覚を気に入り、跡取りにと先走り、深く思うあまり、かえって、蔦重の才覚を見誤り、見失っているぞと指摘するのです。冷静、冷徹、冷淡という忘八らしい眼差しで蔦重のやったことを見てみろ。さすれば、彼が正しく吉原者として育っているとわかるはずだというわけです。「とにかく、店には置いといたほうが良いと思うぜ。面白いから」とのトドメの一言は、忠告を象徴しています。それは、扇屋の「一目千本」評でもあり、蔦重評でもあります。
さらりとさっていく後ろ姿がいなせですね。それにしても、逆説的な物言いで頑な駿河屋と蔦重の仲を取り持つ扇屋宇右衛門もまた、「忘八のくせに」「人みてぇなこと」をする人情の面を持った楼主なんですよね。忘八であること自虐的に語る彼は彼で、吉原者であることへの誇りも何とかしたい思いもある。だから、冷静に蔦重の商才を見抜く一方、情けをかけるのでしょう。
痛いところを突かれた駿河屋市右衛門、店先に座り込むと「一目千本」をぱらっとめくります。冒頭のページこそ「花が相撲とんのかい?」と揶揄していたものの、花に見立てられた女郎たち、その巧みさに心を奪われ、そして遂に、噂を吹聴して回る志津山を葛に見立てたページを目にした途端、吹き出してしまいます。
いつの間にか、傍に来ていたふじも、もう一冊をめくって笑いながら「常盤木はトリカブト?」と夫に見せます。「食らうと死ぬって」と破顔する二人…ふじは「まあ、よくここまで見立てたもんだよねぇ…誰よりもこの町を見てんだねぇ、あの子は」と蔦重に感心するふじに、市右衛門はしみじみとした様子で何も語りません。
知らないうちに自分が思っていた以上に成長していた蔦重。自分も、女郎たちも、何もかも商売につぎ込むような冷静さと冷徹さ、商売の筋目を見通す目、新しい発想…それを生かす吉原に生きる人々への情…市右衛門が期待するものを備えています。忘八は真に忘八もいますが、吉原を生かす商才は、情があってなお忘八になれる者。そのことへの感慨は、嬉しさと寂しさと両方でしょう。やや斜め後ろからのアングルで表情を見えにくくしてあることで、その万感が窺えるようです。
もっとも、ここまで蔦重が愛されていると、哀れなのは無能なお調子者の実子、次郎兵衛です。彼、今回、市右衛門に二度も殴られ、鼻血を出すほどだったのですが、蔦重にいきり立つ父はまったく見向きもしませんでしたから(苦笑)
おわりに
こうして、入銀本に最も反対していた駿河屋市右衛門も、蔦重の熱意と仕事ぶりの前に陥落しました。このことは、作劇的にはすべての人が、「一目千本」の魅力を知ったということを意味します。だから、半月後…吉原が人で溢れることは自明だったと言えるでしょう。
さすがに涙ぐむ蔦重の頭をはたいた市右衛門が「わめいてんじゃねえよ、べらぼうが!おら、とっと戻れ」といつもの調子で勘当を説きます。乱暴な口ぶりのなかにも優しさが宿る市右衛門、「志津山のクズ、最高だった!吉原のためにせいぜい気張ってくれ!」と励まします。親父さまは蔦重を一人前の商才を持つ男として認めたのです。
実は、蔦重の「一目千本」…これで終わりではありません。十二分に関心を集めたところで、花魁の名前を消し、花の絵だけを残して一般向けに販売するのです。どの花が誰なのか、当ててごらんという遊び心で今度は客を呼ぶのです。花魁の名のついた限定本は、一流の遊び人のステイタスとなりますから、一般販売でより価値が高まる…というのは、限定版に振り回される現代人の発想が過ぎますかね(笑)
こうして「一目千本」の奥付に「書肆 蔦屋重三郎」と書かれ、「書肆」(しょし)…つまり本屋としての蔦重が誕生します。そして、それは吉原で「細見」を一手に引き受けてきた鱗形屋にとって面白くない出来事です。第2回でもわかるように鱗形屋は、自分は動かず、金も使わず、いいように蔦重を利用する版元です。徹底的に利に聡い彼もまた商売のためであれば、なんでもするという意味で楼主たち同様…忘八です。
蔦重は、こうした忘八ライバルを前に、商才ばかりが前面に出てしまう忘八の自分と、情熱と優しさの自分との間を揺れ動くことになるのかもしれません。「一目千本」のように、すべての人の心を救うようなバランスになるときが、来るのか。あるいは、調子に乗って、遊女たちを利用する忘八な面が見えてしまうのか。これまた次回の講釈で。