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「光る君へ」第39回 「とだえぬ絆」 ままならぬ人生の幸せとは

はじめに

 宿世…第39回のアバンタイトルで、まひろが書きつけ呟いた一言です。この一言の後にオープニングが始まることもあり、印象深い言葉になりました。宿世とは、前世からの因縁。宿命という仏教的な観念です。宿世は、「源氏物語」にもよく出てくる文言で、「源氏物語」の文学研究、あるいは思想研究などでしばしばテーマとして取り上げられます。

現実は、予想外の連続で、ままならないことが圧倒的に多いでしょう。ですから、幸せよりも辛いことのが多いと感じている方も少なくないのではないでしょうか。そして、ときには現世の事実があまりにも辛く、人間の思考では乗り切れないことも訪れます。そうしたとき、それは前世によって決まっていたのだから仕方ない…そう思うことで乗りきろうとする。それが宿世という考え方の根底にあるとも言われます。

 人間にとってどうにもならないことの一つは、生まれです。どの時代に、どの場所に、どんな身分で、どんな親のもとで、どんな環境で生まれるのか。人生の多くを決定づけるそれは、生まれる側では選ぶことができません。そして、生まれつきのその縁は、なかなか切れるものではありません。受け入れにくい、逃げたいと思う人にとっては、ついて回るそれに振り回され、悩むことが多いでしょう。

 また、運不運もどうにもならないものの一つでしょう。自分に運さえあれば…ということも多々ありますよね。また大病を患えば、どうして自分が…と思うはずです。健康に気をつけていた人間が若くして亡くなり、不摂生を極め尽くしたような人間が無事、大往生を遂げる…ということもあります。さらに運がよかったと思ったことが、結果的に不運につながることもあります。人間万事塞翁が馬とは、本来そういうことです。何にせよ、人間の運命は不公平だということです。

 しかし、それを嘆いていても、生きてはいけません。与えられた状況のなかで、少しでも改善していく、なんとかしようとする努力や選択を続けるしかありません。勿論、それが最悪の結果を呼ぶことがあってもです。もしかすると、人間の哀しさとは、どうにもならない運命を抱えているからではなく、どうにもならない運命を前にしてもなお、蟷螂の斧のごとく、自分の心のままに生きようとすることかもしれません。

 そこで今回は、善政のために権勢を求める道長と、自分よりも家族をつなぐことを思う惟規と、まひろを支える二人の生き方を見ながら、「光る君へ」で描かれるままならない人生に思いを馳せてみましょう。


1.内裏のなかの不穏の種

(1)道長夫妻、権勢への道

 1009年11月、彰子は無事、2人め皇子、敦良親王を出産します。彰子の傍らには、彰子の母、倫子と祖母の穆子。穆子の「敦成に続いて、年子の皇子さまだなんて素晴らしいわ」との言葉は、我が世の春を迎えた土御門殿の権勢が益々、増していくことを象徴しています。穆子は、我が家の繁栄を素直に喜び、彰子を労うだけの言葉でしたが、倫子は「次も皇子さまですとよろしいですわね」と事もなげに言います。

 かつて、「優しい婿をもらい、穏やかにこの屋敷で暮らしてもらいたい」(第26回)と言い、彰子の入内に命をかけて反対し、入内後も彼女の不遇を嘆いていた倫子。彼女は入内を避けることで、道長との幸せを得た人でしたから、娘たちにもそう望んできたのです。その彼女が、皇位継承権を持てる皇子は何人いてもよいと、出産を終えたばかりの我が娘の前で言ってのける。倫子は、既に娘を心配する母よりも、為政者の妻として生きる道を選択したことが窺えます。

 そう捉えると、前回、倫子が道長に囁いた「子どもたちの相手を早めに決めて、その後は殿とゆっくり過ごしとうございます」という言葉も、他の女を心に住まわせる夫への切ない恋慕の心情に加え、夫の余生のために左大臣の妻を全うする女の覚悟もあるように思われます。また、長年の苦労もあって、彰子の皇子出産による喜びが、思っていた以上であったことで味をしめた面もあるかもしれません。何にせよ、道長の野心と紙一重の志は、心優しい良妻賢母の倫子すらも変えようとしていると言えそうです。

 娘の変わりように「あなた…すごいことを言うわね」と感心したように答えた穆子に「うふふふ」と弾けた笑顔を見せる倫子。互いに笑い合います。穆子は、昔、道長が政の頂に立った折、「大臣の妻としての心得」として、家庭を平穏にしておくことを説きました(第19回)。彼女は、その助言どおり時には詮子の策略すら土御門殿内で処理してしまう業を見せましたが、今やその力は将来を見据える泰然自若の域にまで来ているようです。最早、大臣の妻そのもの、教えることなどないと娘の成長を感じたのでしょう。


 さて、土御門邸では、産養(うぶやしない)という誕生して3、5、7、9日めに催される出産祝いが行われ、多くの公卿たちが参じました。「皇子さまのご誕生を言祝いで、よき目を出したいと存じます」と述べた道長が双六で出したのは奇数最大の目である5。めでたさも極まるわけですが、敦康親王誕生の頃と違うのは、同じく一条帝に娘を入内させている右大臣顕光と内大臣公季は出席していないことは、注目したいところ。
 敦康の五十日の儀での顕光の乱行については、以前のnoteで道長の権勢が固まっていくことへの複雑な心境が裏にあると触れましたが、今回ははっきりと態度で示した形になります。特に顕光については、今回の中盤、道長への牽制行為を行っています。この点は後述しましょう。

 年が明け、宮中の行事も落ち着いた頃、道長は、公任、斉信、行成、俊賢ら、所謂、一条朝の四納言(寛弘の四納言)を招き、宴を開きます。「道長は磐石だ、皇子が二人もいて」という斉信の阿る言葉に行成は静かに首肯します。しかし、それに対し公任は「順当に行ったら次の東宮は敦康さま…その次は敦明さまだ。道長の御孫君が東宮になられるのは、随分と先の話だな」と、盤石というにはまだ道のりは長いことを指摘します。

 公任らしい冷静な分析に、真面目な行成が「そう…でございますな」と口を濁します。心情的には道長贔屓の彼ですが、こればかりはどうにもなるまいと思うからでしょう。ただ、公任が、わざわざ道のりが長いことを口にしたのは、明確な答えこそ期待できずとも、道長の見通しを聞きたいという鎌をかけた面もあるでしょう。前回、隆家の前で明言したとおり、公任は自分の命運を道長にかけるつもりですから。


 すると、道長は、やや中空を見ながら独り言ちるように「できれば、俺の目の黒いうちに敦成さまが帝とお成りあそばすお姿を見たいものだ」と言うと、ぽーんとつまみを放り込みます。彰子が第一子を懐妊した折、公任、斉信、行成が敦康親王の処遇について話したとき、道長は「次の東宮さまのお話をするということは、帝が御位をお降りなるときの話をするということだ」(第36回)と述べて、自身の存念の明言を避けました。あのときは皇子か否かも明確でなかったこともあり、彼には逡巡がありました。しかし、今回、道長は雑談をするかのような軽い調子で本心を明かしました。迷いも気負いもないということです。

 明確に敦康親王を遠ざける意向を見せたことに東宮大夫である行成ははっとします。公任、斉信は、道長がそう言うことを待っていたはずですが、まさか宴の席で軽口のように明言するとは思っていなかったのでしょう。斉信は驚きに目を見開き、公任も虚を突かれて呆気に取られます。既に四人は、道長の術中のなかにある…道長の腹芸も堂に入ってきましたね。

 道長の発言に、それまで静かに酒を飲んでいた俊賢がいち早く、居住まいを正すと「お力添えいたします」と意思表示をします。すかさず、斉信が「ちゃっかり自分を売り込むな」とツッコミを入れますが、抜け駆けは許さんぞというこの台詞で、斉信も賛同したことになります。和んだ様子の行成も基本的には賛成するということでしょう。
 そして、公任は、それならばと言わんばかりに「伊周はだいぶ具合が悪いらしいな、道長知っているか?」と政敵の状況を伝えます。前回の話からすれば、公任は、伊周の病状を隆家から聞いているのでしょう。

 道長は、土御門殿で呪詛を喚き暴れる伊周を目の当たりにしていますから、当然知っていますが、「いや」とだけを答え、暗い顔をします。あまりにも無惨なその姿は、伝えるに忍びなかったのでしょう。道長は、基本的に人を恨んで事を成す人ではありません。伊周は政敵になり得ても、その不幸を喜ぶ気はありません。今も亡き長兄の息子、甥であるとの意識はあると思われます。

(2)伊周の死がもたらす波紋

 その年の正月末日頃、心身共に耗弱し病に臥す伊周を、弟の隆家、妻の幾子、嫡男の道雅らが囲み、その臨終のときを静かに待っています。最早、薬師や祈祷師の手の及ぶところではなくなっています(因みに史実では周りの貴族は誰も手を差し伸べず、祈祷師を呼んだのは政敵の道長だったそうです)。床に伏したまま、伊周は「俺が何をした…」とポツリと呟きます。伊周には、現在の境遇になってしまった自身の運命を納得しかねる、理不尽だとの思いを強く抱いているようです。その不満と理不尽だとの思いが、彼の閉塞感に拍車をかけ、呪詛へと追い詰めたと言えるでしょう。彼が。


 「父も母も妹もあっという間に死んだ…俺は奪われ尽くして死ぬのか…」との言葉は、彼らの死に理由付けができず、未だに自分のなかで処理できていないことを象徴しています。父道隆の病死は生活習慣によるものですから、伊周の責任ではありません。定子の死も産後の肥立ちが悪かったとしか言えません。敢えて言うならば、帝の愛され過ぎたことぐらいです。少なくとも、「皇子を産め」という道隆と伊周のマタハラ妄言は直接の原因ではありません。
 ですから、彼らの死について、自らの言動との因果関係を考えても答えなど出るはずがありません。ただ、母貴子の死は、伊周ら息子の配流、定子の突然の落飾が心労となった可能性はありますが。


 ただ、中関白家を凋落させた原因は、伊周にあるでしょう。伊周の「俺が何をした…」に敢えて答えるとするなら、「何もしなかったから」となるでしょうか。例えば、第16回で道兼に都に蔓延する疫病をどうするかと問われたとき、伊周は「それについては父上が策を講じております」「それに貧しい者がうつる病ですゆえ…我々は心配ないかと存じます」と薄ら笑いしました。政において民たちを思うことはなく、実務も父任せ。彼は「何もしなかった」し、する必要性も感じていませんでした。
 傲慢に振る舞うばかりで内外に敵を作ることも多かった伊周は、人望を得ることも「しなかった」と言えるでしょう。加えて、多くの人の話を聞かず、自分の気持ちだけを優先し、最悪の選択を取り続けました。当然、彼には政治的な実績は何もありません。中関白家の権威に頼るばかりで、「何もしなかった」から伊周は中関白家を凋落させるだけで再興し得なかったのです。

 とはいえ、死出を待つばかりの姿となっては、伊周を責めても、忠告しても詮無いことです。かつては兄に忠告し、その暗殺計画すら阻止して、兄のために出来ることをしてきた隆家も、兄の言葉を沈鬱な表情で聞いてやることしかできません。「敦康親王さまのことは、私にお任せください。安心して旅立たれませ」と、敦康の後見人を引き受ける約束をしてやることです。勿論、現実主義なだけで、実は家族思いの彼ですから、兄の哀れな姿を見て、定子の遺児のために心を尽くそうという決意はより新たにしているでしょう。言葉に二言はありません。

 隆家の声が聞こえたか否か、伊周は、息も絶え絶えになりながら、枕元に呼び寄せた嫡男道雅をつかみ、顔を近づけると「左大臣には従うな」と遺言を始めます。この期に及んで、恨みを忘れられない兄に隆家は苦る顔つきになります。伊周はさらに「低い官位に甘んじるくらいなら出家せよ」と述べ、中関白家の誇りだけは忘れないよう伝えます。道雅の驚いたような顔は、末期の父の鬼気迫る様子よりも、中関白家の再興しか頭になく、我が子も駒としてきた父伊周の家の再興よりも自尊心という言葉にあったのではないでしょうか。

 成人して後は、伊周に反発していた道雅も父の本音に触れ、素直に「わかりました」と応じます。道雅の今後が本作で描かれるかどうかはわかりませんが、その後の道雅は、和歌に堪能な反面、花山院の皇女殺害疑惑、賭博での喧嘩など乱行が絶えず、荒三位、悪三位と呼ばれるようになります。己の自尊心を守れ、という伊周の遺言は、悪い意味で息子を呪いにかけたのかもしれません。そう考えると、この遺言のシーンは記録を元にしていますが、やりきれないものがありますね。

 結局、伊周が中関白家の再興にこだわったのは、かつての華やかなりし頃の自分を守り続けるためだったのでしょう。言い換えるなら、隆家、あるいは源俊賢のように現状を受け入れてできることから始める、膝を屈した後、虎視眈々と機会を待つといった強かさがなかったということです。長徳の変以降、人が変わり穏やかになった、謙虚になったという話はついぞ聞かれず、その横柄さ、プライドの高さは時折、人々に見抜かれているといった描写が度々、されてきたのは、彼が己を曲げることができなかったことを象徴しています。

 ですから、中関白家の再興になるような現実的な手段を講じることはなく、徒に過去にこだわり、暗殺、呪詛といった後ろ暗い手段に頼ることになったのでしょう。しかし、それは自分自身をも貶める行為となります。繊細な伊周が、その悪循環ゆえに心身耗弱に陥っていくのは必然、宿命だったのでしょう。そうした兄の弱い心を知るからこそ、隆家は暗殺を阻止したあの日も「大人しく定めを受け入れて…穏やかに生きるのが兄上のためだ」(第35回)と諭したのですね。

 嫡男への遺言を終えた伊周は、一度だけ隆家に視線を送った後、目を瞑ると「ああ…父上…母上…」と、美しく懐かしく、そして優しい過去に浸ります。彼の心には「今日は雪遊びにいたしません?」という朗らかな定子の声も聞こえてきます。「定子…」と心に浮かぶ彼女に声をかけると定子は「兄上~」と返してくれます。今、彼は香炉峰の雪のあの日と両親が楽しげだった日々が重なった一番幸せだった世界にいます。

 「ああ…雪だ」と穏やかに言うその顔には涙が一筋。直後に入る雪の枝のカットは、現実の風景ですが、伊周の心象と重ねられたものとして視聴者に提示されたのでしょう。彼が今、脳裏に描く香炉峰の雪には、おそらく清少納言「枕草子」の描写がささやかに息づいているでしょう。末期に及んで、少納言の「枕草子」が、伊周の心をわずかばかり救ったのかもしれません。
 夢と過去に戯れる死の床の兄に、涙を一筋流す隆家は「あの世で…栄華を極めなさいませ」と鎮魂を願い、深々と一礼します。何もしてやれなかった…隆家の無力感が伝わりますね。こうして、伊周は翌日、36歳の生涯を閉じます。

 伊周の死は、凋落した家の当主の死でしかないのですが、彼が敦康親王の伯父、後見人であったため、その死は東宮位を巡る政争を一気に流動化させる効果があります。「伊周は、朕を恨んでおろうな」と言う一条帝の憂いが、行成の「この世の苦しみから解き放たれて、ほっとしておるやもしれません」の慰めで払拭されないのも、そのためです(伊周の断末魔を見る限り、行成の言葉も間違いではありません)。

 帝は「そのようなことはあるまい。敦康のことが心残りであるはずだ」と明言します。敦成を東宮にという道長の意向を知る行成は、双方の思いに挟まれ、曖昧な表情を浮かべます。御簾越しの帝は、行成のそれには気づかぬまま「敦康を次の東宮にする道筋をつけてから、朕はこの世を去りたい」と不穏な発言をし、「そのようなことを仰せになってはなりませぬ」と行成を驚かせます。

 そこで帝、狭心症を起こしたのか、胸を押さえると崩折れます…慌てた行成の声掛けにも「う…あ…」としか言えぬほどの症状です。おそらくはこれが初めてではないのでしょう。帝の伊周の死に対する憂いの表情は、その死を悼む心だけではなく、思わしくない体調から己の余命がわずかと悟る思いもあったのでしょう。先の「敦康のことが心残りであるはずだ」との言葉も、伊周の思いを代弁すると言うよりも、己の意思を伊周の無念に重ねたという面が強いと思われます。

 緊急事態のため御簾を上げ、介抱する行成に「敦康親王の元服を急がねばならぬ」と語りる帝の必死さには、己の命数を計る者特有の焦りが窺えます。「だいま日取りを陰陽寮に諮っておりますとの行成の言葉に「これで、中宮の出産に紛れることなく、敦康の元服を世に示せる…良かった…」と安堵する帝…前回noteで触れたとおり、前回、敦康の元服を延期させたのは、華やかな元服で敦康を後継者と印象づけるためだったようです。
 しかし、帝を気遣う行成の胸中は、複雑です。道長への恋情にも似た友情か、あるいは帝への忠誠か、行成は再び選択を迫られています。行成の表情は、東宮位が急速に政局化していることを象徴しています。


 さて、伊周の死が、政局の火種になることを杞憂しているのは、隆家も同様です。伊周が、兄の喪が明けないうちに、内裏の道長の執務室へ「供養の品々、過分に頂戴し、厚く御礼申し上げます」と御礼を述べに参上したのは、一刻も早く自分の政治的立ち位置を示しておく必要があると判断したからでしょう。こういうところにも隆家の政治感覚の鋭敏さが窺えますね。

 喪中相手との面談ゆえに御簾越しで対面する道長ですが、やはり伊周の土御門殿での呪詛に狂う様は気に掛かるところ、おそらく道長が伊周を見た最後があの姿です。目に焼き付いて離れないことでしょう。「伊周の最期はいかがであった」と聞くのは人情でしょう。「怒りも恨みもすべて捨て去り、穏やかに旅立ちましてございます」という隆家の答えは、亡き父母と妹と楽しく過ごすことを想いながら逝きましたから最後の最後について嘘を言ってはいません。

ただ、そこに至るまでは、悪口雑言を述べていました。隆家が、その点を捨象して道長に伝えたのは、今更、死んだ兄の文言を正確に伝えても、溝を深めるだけで意味がまったくないからです。恭順の意思を持つ隆家としては、当然の現実的選択です。

 沈鬱な思いと本当に穏やかだったろうかという疑念の双方が入り混じる道長の心中は複雑です。道長の政の負の部分を凝縮したような伊周の狂態は、トラウマとなってもおかしくないものでしたからね。ただ、言葉には「冥福を祈っておる」としか、言うことはありません。

 そこにすかさず、隆家は「この先は敦康さまの後見を私がお務め申し上げたいと存じます」との報告をします。中関白家の人間である以上、これは当然のことで、他意はありません。寧ろ、居たくもない腹を探られる前に報告したというところでしょう。しかし、伊周の呪詛が脳裏から離れない道長は、この隆家の言葉に目を見張り、隆家の心中を計るような疑いの目つきに変わります。為政者として強権を振るう彼は、その反動に常に気を配る…平たく言えば、猜疑心を持ってしまうのです。

 勘のいい隆家は、御簾越しでもこうした道長の猜疑心と逡巡を察したのでしょう。ふう…と苦々しく息をつくと、「私は兄とは違います。敦康さまの後見となりましても、左大臣様にはお仕えしたいと願っております」と改めて忠誠を誓うと、ずいっと進み出て「どうかそのことをお認めくださいますよう、伏してお願い申し上げます」と深々と礼をして、極端に下手に出ます。ここまでせねばなるまい、という思い切りの良さ。その判断も、やはり優秀ですね。

 ここまでされては、道長も「大切にお守り致せ」と、その後見を後押しする言葉をかけるしかありません。ただし、敦康親王の後見に彼が着くということは、政治的な対立の可能性を無視できず、不審の気持ちは晴れません。かつて、行成が、隆家を信用するなと進言したとき、「疑心暗鬼は人の目を曇らせる」(第30回)と退けたのは、道長です。その彼が、こうもたやすく隆家を疑うようになる。権力とは、人を変えるものです。隆家も、おそらくそれを実感したのではないでしょうか。


 さて、中関白家の当主となった隆家は、竹三条宮の修子内親王への挨拶もせねばなりません。「修子内親王さま、亡き兄を継いで、この先は私がお世話申し上げます」との挨拶に、「よしなに頼みます」と穏やかに答える修子は、健やかに真っ直ぐ育っているように思われます。
 それだけに、その場を去ろうとする隆家の背中を突き刺すような、「左大臣さまはどんなお顔をされているのでしょう」と冷淡な言葉を投げる清少納言の態度は、際立ちます。「とうとう伊周さままで身罷られてしまいました。悔しくてなりませぬ…」と呟くと、瞳から涙をポロリとこぼし、唇を噛みます。そして、「あれほどお美しく尊かった方々が…何故…このような仕打ちを…」と過去に想いを馳せ、現状への怨みを募らせます。


 少納言は思い違いをしていますね。史実の道長は、中関白家に相当酷いことをしていますが、「光る君へ」の道長は極めて同情的で、自分の気づいた範囲では配慮をしてきました。今のような次第になったのは、一つはどうにもならない運命。もう一つは、彼ら自身の選択。つまり、中関白家という、権力者の家系に生まれたことは、彼らの宿命ですが、それをどう生かすか殺すかを選択してきたのは、彼ら自身だということです。
 無論、運不運も、人間関係もありますから、かなり複雑に入り組んではいますが。少納言にはそうしたさまざまを見ようとはしません。登華殿時代の人々や物事が、ただただ失われていく…その現実が耐え難い。結果、少納言は気持ちのやり場がなく、余計に左大臣への恨みを募らせているように思われます。

 加えて、少納言自身が過去を美化しすぎているきらいも見受けられるのではないでしょうか。本作の少納言は、身内として伊周を評価しつつも、定子を罵倒するさま、利用するさまには否定的な態度を取ってきました。しかし、それらは彼女のなかで無かったことになっているようです。


 定子の哀しみを癒す…そんな真心で始められた「枕草子」は、やがて定子の美しく華やかだった姿を後世に残すためのものとして綴られ続けました。その定子への敬愛は、美しいもので「枕草子」を素晴らしい作品へと仕上げました。ただ、定子の影を意図的に排除していく過程のなかで、執筆している清少納言自身を、美しい過去という牢獄へ閉じ込めてしまう面があったのかもしれません。今の彼女は、過去の栄光のなかだけで命を長らえているように見受けられます。

 そんな少納言の言葉に深い溜息をつく隆家の表情は沈鬱です。前を向いて進み、志のある政にかかわっていきたい隆家にとって、少納言のような過去にのみ生き、恨みを募らせる中関白家の一部の人間たちの思いは如何ともし難いものです。また、こういう彼らの存在があるからこそ、道長から常に不審の目を向けられなければならない現実もあります。中関白家を引き受けることになった隆家は、一層難しい舵取りを迫られます。その暗澹たる思いには、同情を禁じ得ませんね。


(3)物語にかぶれているのは道長

 一条帝の意向もあり、いよいよ元服と相成った敦康親王は、元服の儀の前日、彰子との名残を惜しみます。「敦康さま、どうかご立派に元服なさいませ」という彰子の晴れがましい励ましの言葉に対して、「著しく成長した(Ⓒ「鎌倉殿の13人」)」敦康親王は「元服したら藤壺で中宮さまと語らうことも許されぬかと思うと寂しくてなりませぬ」と哀しみを隠せません。それでも、今生の別れとばかり「母亡きあと、中宮様に賜りましたご恩、生涯忘れませぬ」と気丈に礼を述べようとするする敦康ですが、「中宮さまのお優しい心、楽しかった日々…」と思い出を語り始めると、思いが溢れ言葉に詰まってしまいます。

 そのいじらしさに彰子は、自ら進み出でて、伏し目がちに涙をこらえる敦康の手を取ると「これからも敦康さまを我が子と思い、ご成長をお祈りしております。立派な帝におなりあそばすために、精進なさいませ」と、貴方への思いは変わらないから大丈夫だと慰め、帝になることを望むと伝えます。

 彰子に手を取られた敦康は、万感の思いを込め「中宮さま…」と手を重ねます。二人と捉えたトングショットの奥から丁度、道長が入ってきて、運悪く二人の場面を目に止めてしまいます。彰子への思慕が高まる敦康が、それに気づくはずもなく、これが最後と握る手に力が入ります。そして、最後と思えば思うほど、その手を離すことができません。その目は、涙ぐんでいます。

 さすがに彰子も戸惑い、見ていたまひろもわずかに異変を感じたところで「敦康さま…」と道長が割って入ってきます。直前の二人を見る道長のショットは、影っているなかに一筋だけ光が差し込むというライティングで、道長の敦康を危ぶむ真剣さが際立ちます。無論、そのような表情は押し隠して「ご元服の儀式、私が加冠役を務めることになりました」と笑顔を見せ、光栄ですという雰囲気を作っています。

 別れを邪魔された形の敦康ですが、道長が自分を藤壺から追い出したがっていることは承知していますから、こちらも笑顔で「よろしく頼む」とだけ伝えます。そして、道長は、わざわざ「晴れて、お一人立ちでございますな!」と強調し、言外に元服後は藤壺に近づかないよう仄めかします。この腹芸は、道長と敦康の間だけで起きているもので、傍にいる彰子もまひろも気づいてはいません。


 道長が敦康を危ぶんでいることを知ったのは、その別れの挨拶の後、道長が局を訪れたときです。内々の話をしようと御簾を下ろすと、声を潜めて「敦康さまは、お前の物語にかぶれすぎておられる」と危惧を切り出します。寝耳に水のまひろが「は?」と素っ頓狂な声を上げるのは当然です。まひろの訝る反応にも構わず、道長は「中宮さまのお手を取って最早危うい…光る君の真似なぞされては一大事である」と一人でいきり立ちます。

 さすがにまひろも、道長が彰子と敦康の関係を藤壺中宮と光源氏の関係に重ねているのだとわかりましたが、あまりにも性急かつ飛躍した発想に「つまらぬことを(笑)」と呆れて笑います。まひろの反応が意外だったらしい道長は「つまらぬことであろうか?」と真顔で問い詰めますが、まひろのほうは「もしそうだとしたら、どういたしましょう?この先がご心配でございますね(笑)」とあっけらかんと言いながら、やれやれとばかりに座ってしまいます。取り合うまでもないと、冗談めかします。

 「からかうではない!」と怒る道長に「ずっと中宮様とご一緒におられましたゆえ、お寂しいだけでございましょう。」と、ごく当たり前のこと、そういうものでしょうと応じます。元服前に母を亡くしている道長には、こうした母恋の気持ちはわからないのかもしれません(まひろも亡くしていますが、殺されるという形ですので強いこだわりとして残っています)。ですから、まひろの言葉は、はぐらかしているようにしか聞こえず「光る君も同じではないか!」と、お前のせいではないかと言わんばかりに詰め寄ります。


 呆れるまひろの顔に浮かぶのは「えー?本気で言ってんの?」という、かえって道長を怪しむものです。まひろにとって、「物語」は、自分を材にしていても自分自身ではありません。同様にそこに織り込まれたさまざまな出来事も見聞きした人々の体験も、作品の材であって、事実ではありません。あくまで、それらを作品の一部として昇華して、彼女が作り上げたフィクション…架空の人物が架空の世界で織り成す架空の物語に過ぎません。
 たしかに描かれたことのリアリティは、ときに読む人の心の真実を突き、心を揺らがせます。その人の心は真実であっても、それを突いた物語は現実ではありません。謂わば、物語は、言葉のあやが織り成す真実の影。影ゆえに現実ではないけれど、人の心の真実を突くのです。こうした現実とフィクションの違いを、現実に苦しんできたまひろは、よくよくわかっているのでしょう。

 本気で言っているのかとばかりに道長を見つめるまひろですが、道長の表情からは冗談と笑い飛ばす反応はなく、「ん?」と訝る顔へと変わります。取り合ってくれないまひろに焦れた道長は、「もう良い。なんとか致す」と、危機感のないまひろに憮然となった道長は、その場を去っていきます。まひろは、呆然と道長を見送り、思案げな表情になります。道長の心情を思ったのか、それとも、物語に動かされてしまう人の心の興味深さを感じたのか…それは彼女が綴る「物語」が明らかにすることかもしれません。

 まひろに危機意識を共有してもらえず、憤懣やるかたない道長は「敦康さまのことだが、明日のご元服後は、速やかに竹三条宮にお移し申し上げよ」と行成に厳命、「一日の猶予もならん」と付け加える苛烈さを見せます。竹三条宮は、修子内親王の住まいです。姉のもとに行くという点では妥当にも見えますが、ここは、長徳の変によって不遇の定子の出産を引き受けてくれた平生昌の屋敷のことです。

 つまり、敦康は、華やかな藤壺から、自身が生まれ、母が亡くなった場所へと追いやられるということになります。この処遇からは、道長には敦康親王に対する薄情さが窺えますね。謂わば、道長は、まひろの「物語」に影響され過ぎた結果、敦康へ非情の決断をしているということになるでしょう。そして、こうした敦康への処遇は、敦康自身、彼を東宮にと願う一条帝の願い、彼との絆を大切にする彰子の真心、中関白家の関係者の悲痛な思い…さまざまな人々の心を、道長の野心が踏みにじっていくことになると思われます。

 それにしても、何故、道長はここまでまひろの「物語」に影響されてしまうのでしょうか。おそらくは、道長にとっての「物語」はまひろとイコールなのです。以前のnoteでも触れましたが、道長は「物語」を読み、彼女がどういう女であったかを知るようなところがあります。「物語」を物語として読まず、まひろそのものの真実を見ようとしているのです。その歪んだ見方が、政に影響しているのだとすれば…まひろとの関係にも何らかの齟齬が起きることになるかもしれませんね。


(4)妍子の鬱屈から見える政局

 道長の敦成を東宮に…という思いは、娘たちの人生にも影響を与えていくようです。ある日、いつものように彰子は、まひろから「新楽府」の講釈を受けています。前回あたりまで10巻までを読んでいましたが、その日、彰子が読み上げていたのは22巻「百錬鏡」です。かなり短期間の間に真剣に学んでいることが窺えます。彰子が読み上げていたのは以下の箇所です。

太宗常以人為鏡 鍳古鍳今不鍳容
四海安危照掌内 百王理乱懸心中
乃知天子有別鏡 不是揚州百錬銅

(書き下し文)
太宗は常に人を以て鏡と為し
古しえを鑑み今を鑑み容を鑑みずと
四海の安危掌内に居き
百王の治乱心中に懸く
乃ち知る天子別に鏡有るを
是れ揚州の百錬の銅ならず

 楊州から名品の鏡を奉じられたとき、唐の太宗は人を以って鏡として、その鏡を自身を映すことに使わなかったという話です。名君たる者は、民の声こそが自分の政の有様を映す鏡とする、つまりは民の声に耳を傾けることこそが君主のあり方であるというものです。この漢詩をたどたどしくも自力で読み上げながら、ちらっとまひろ先生を見る彰子が、何も言わない彼女を見てよし大丈夫とばかりに嬉し気に読み上げていくのが良いですね。そして途中から、まひろも漢籍を吟じることに加わり、二人はハモるがごとく読み切ります。

 学びが、二人の間で共有されていく、そんな理想形が描かれています。彰子は、着実に名君の道を歩んでいます。そして、それは自分の意向こそが正道と他を排除していくやり方へとシフトしている道長と反比例を成している点が興味深いところ。二人の意見に齟齬が訪れるのも間近と思わせます。


 そこへ「学びの最中に申し訳もないことにございますけれど、今日は姉上にご挨拶に参りましたの」と訪れたのが、彰子の妹、妍子です。現東宮、居貞親王への入内を目前に控え、挨拶に来たのです。「いよいよなのね」と察する彰子へ「姉上はお幸せですわ、お美しい帝のもとに入内なさって。それに比べて私は18歳も年上の東宮様に奉られるのでございますよ」と早速、愚痴ります。

 興味深いのは、彼女は入内そのものに異を唱えているのではないというところです。第36回で、第一子出産の里下がりの際、道長に伴われた子どもたちが揃って彰子に挨拶に来たことを覚えていらっしゃるでしょうか。あれは、第38回note記事で触れたように、帝の寵愛を受けた姉の充実を見せることで、入内のハードルを低くする道長の「教育」でしたが、それは効いたようです(この後はまひろの書いた「御産記」が「教育」を担うでしょう)。
 加えて、敦成との対面のため、土御門殿へ一条帝が行幸したことも、結果的には効を奏しました。見目麗しい帝の姿は、妍子のなかで入内をきらびやかなイメージで彩ったのではないでしょうか。倫子曰く「妍子はキラキラした華やかな装束や遊び道具を好みます」(第28回)とのことですから尚更です。

 こうして胸ときめかせた結果が、18歳、つまり一回り半も年上ではアテが外れたガッカリ感もひとしおでしょう。彼女は入内ではなく、あまりにも意に染まない相手であることが不満なのです。とどのつまり、藤壺への挨拶は、それ自体よりも土御門殿では言えない愚痴を姉に吐き出しにきたというところでしょう。

 彰子は「幾度かお見かけしたけれど、東宮さまはすらーっとしていて凛々しいお姿だったわよ」と慰めるのですが、「すらーっとして凛々しくとも年寄りは年寄りでございます」と辛辣な一言。この妍子の言葉、世の若い子ばかりを好む壮年以上の男性陣は、ゆめゆめ忘れないことです。どんなに若いつもりでも、どんなにルックスや話術が優れていても、ティーンエイジャーや20代前半にとって30過ぎは立派なおっさんなのですね。
 こう言われては彰子も「それは…そうね…」と答えるしかありません。そもそも、彰子と帝にしても8歳差。彰子入内の折には、帝が「このような年寄りですまぬな」(第27回)とうそぶいたものです。それよりもさらに10歳離れているとなれば、妍子の言い分にも納得するしかないのです。

 そんなうら若い姉妹の話を、後ろに控え笑って聞いているまひろは、親ほど年の離れた宣孝と夫婦になりました。そうした年の差婚の酸いも甘いも知るまひろからすれば、彼女らの話は微笑ましく、初々しいものに見えるでしょう。もっとも、当時は珍しくない年の差婚も、現在では相手が佐々木蔵之介さんであってもキモいと思われることが多いでしょう。


 さて、妍子の憂いは年の差だけではありません。「東宮さまは娍子さまをこよなく愛でておいでだとか」とため息をつくと「私なぞきっと見向きもされませぬ」と、女性として受け入れられない寂しい後宮生活を悲観しています、長く帝の渡りがない寂しさに耐えた経験のある彰子には、その気持ちがよくわかります。姉の痛ましげな眼差しに気づいたか、妍子は「ま、年寄りにあれこれされるよりはよいかもしれませんけれど…」と努めて明るい声で言いつつも「最初から負けているのも何だか悔しゅうございます」と負け戦に投入される我が身の不幸は納得しかねます。

 この点においても、彰子は妍子の気持ちがわからないではありません。彼女もまた定子一筋の一条帝のもとへ嫁いだことで長く不遇の刻を過ごしましたから。ただ、彼女は決して定子と争う、あるいは超えようと傲ったことはしませんでした。ただ、帝に真心を尽くし、やがて慕うようになってから帝のために何ができるか、中宮としてどうあるべきかを考えるようになりました。定子の存在はその指針となったのです。

 こうして彼女は、やがて帝の寵を受けることになりますが、それには長い時間、奇跡的な出会いと縁、そして変わろうとする彰子の意思と行動…さまざまな要素が重なりあった結果です。「宿命に抗わずその中で幸せになればよい。きっと良いことがあろう」と諭す彰子の言葉は、経験に裏打ちされた彼女の成長そのものを表すものです。まひろが感心した表情になるのは、そのためです。

 しかし、妍子からすれば、彰子は両親の期待を一心に背負った彰子に比べて、年寄りに嫁がされる自分はぞんざいな扱いに感じるようです。「父上は帝の皇子も東宮さまの皇子もモノにして権勢を磐石になさろうとされるお方。母上も父上と同じお考えでございましょう。私たちは父上の道具にございまする」と、明け透けに現実を看破、口を尖らせます。
 妍子の見立てが、なかなか侮れないのは、「母上も父上と同じお考え」と見抜いていることでしょう。今回冒頭の彰子の第二子出産での倫子の発言を見ても、彼女が妍子の入内に抵抗はなく前向きになるであろうことが仄めかされていました。かつて、入内した彰子のさまざまに一喜一憂した母の姿は、今の倫子にはないと妍子は勘づいていると思われます。

 さすがにこれには彰子は「道具だなどと…」と驚き嗜め、控えていたまひろも「恐れながら、そのようなお言葉はご自身を貶められるばかりかと存じます」と老婆心から口を挟みます。まひろに入内の苦しみは直接にはわかりません。
 しかし、宣孝の妾となり、その不安定な立場に心悩まし、後悔したこともあります。また想い人との婚姻も身分違いもあり敵いませんでした。ままならぬ生き方をせざるを得なかった女性の一人として、自分自身が投げ槍になっては幸せにならないことを実感しています。

 ただ、妍子は自分の気持ちに共感してほしいだけです。ですから、まひろの老婆心は、ただのお節介おばさんの説教…なんかうるさい。この人」と上から目線で黙らせます。恐縮するまひろを見つつ、妍子に咎める目を向ける彰子。バツが悪いか、興が冷めたか、「あーあー、わかりました。楽しく生きてみせまする。もっとお話したかったけれど、今日は止めておきます」と、一礼して退散します。

 口を挟み話の腰を折ったまひろが余程、気に入らなかったのでしょう。去り際に「学問をお続けくださーい」と嫌みを残していきます。この「女が学問なぞして何になる」と言わんばかりの言葉は、かなり痛烈です。かつて、女性が政にかかわる物語を書いたところ、四条宮に訪れたご夫人方から「面倒なことは男に任せていればよいではないですか」と言われたものです。どのみち政に携われないなら、学問は意味がないだろうと言うわけです。
 このように妍子は、彰子とは性質を異にするものの、頭の回転は早いことであることが窺えます。物事のあらましが見えるからこそ、彼女は己の入内に希望が持てず、鬱屈を抱えるのです。その鬱屈を抱えたまま、2月には、妍子は居貞親王の元へ嫁ぎます。

 后になって後、彼女は決して粗略に扱われることはありませんが、持て余す思いは、居貞親王の息子、敦明の溌剌とした華やかな姿に目を奪われたことで、あらぬ方向へと高まります。御簾の奥から、「鶏既に鳴いて忠臣旦を待つ 鶯いまだ出でずして遺賢谷に在り」と、父の即位を願う舞を披露する敦明を覗き見る妍子の熱い眼差しは、決して義理の息子と結ばれない己の立場を思い知らせたことでしょう。

 さらに右大臣、顕光が、敦明を次女の延子の婿に迎えてしまいました。秘かに恋焦がれる義理の息子が、他の女のものになるのを横目で見る妍子。何もできない己が歯がゆいと察せられます。因みにこの婚姻は、顕光にとっても、居貞親王にとっても、左大臣道長への牽制です。しかし、この婚姻は、やがて大きな不幸を、顕光父娘にも、道長自身にももたらすのですが…そこに妍子の横恋慕が加わるなら、余計にややこしくなりそうです。

 こうした状況では、妍子の鬱屈には出口がありません。自分の好きな「キラキラした華やかな装束や遊び道具」などへの浪費へと向かわざるを得ません。道綱の「妍子さまは、相当な宴好きであるな」という報告は、その一端です。「毎日、宴をやっているのだよ」との言葉には、道綱自身はウンザリしている面もあります。

 道長は娘の意外な様子に驚くものの、居貞親王が、その浪費で妍子を嫌っていないとわかるや、「ふぅ~ん…ま、東宮さまがお許しくださるならば…それでよい」とあっさりしたものです。
 かつて中宮大夫の頃、登華殿の不要な誂え替えを公費で賄うことを嫌った道長を知る道綱は「そうなの!?娘には甘いねぇ!」と揶揄しますが、今の道長には居貞親王と妍子の間に男児が産まれる可能性さえあれば、それでよいということですね。彰子入内の頃の思い悩み、逡巡した彼はもういません。

 因みに道長の目論見は、居貞親王も承知の上です。妍子が大切に扱われていることを道綱は「案外、お優しいのだ。やっぱり若い女はいいのかなぁ?」と言っていましたが、そうではありません。一条帝より年上で30代になっても東宮に据え置かれる居貞親王は、その身に政治的野心を膨らませています。妍子に「優しい」のは、今は左大臣道長と表立って争う気はないことを見せるためのパフォーマンス。決して優しいのではありません。

 ですから、一方で嫡男は右大臣顕光の元へ婿入りさせ、「敦明共々、末長く頼りにしておるぞ」と道綱に盃を与え、道長以外の人脈づくりに余念がありません。そして、妍子の浪費についても、己の懐ではなく土御門殿へ頼るよう妍子に仕向けています。道綱を通した、妍子の「東宮さまはお優しいけれどケチだからよしなに」という伝言は、道長と居貞親王の微妙な関係を物語っていると言えます。

 このように権勢を巡って、道長と居貞との間には既に緊張関係が始まっており、そこに放り込まれた幼い妍子は、自らの鬱屈を浪費で癒す以外に術がない…道長の権勢への布石は、新たな不幸を呼ぼうとしているかもしれません。


2.惟規という家族のかすがい

(1)賢子の出生を巡って

 彰子第二子出産の後の暮れ、まひろは年末を過ごすべく、為時の屋敷に戻りました。「左大臣さまからの賜り物です。正月用のお酒と米とお菓子…」とここまでは、これまでにもあった土産ですが、「これは賢子にと」と指し示した賢子の裳着の祝い用の絹織物が今回の目玉です。今回のまひろの里下がりの主が、賢子の裳着の準備であることが窺えます。

 その豪華さに弟の惟規は「おお…ああ…」と絶句、為時は「おお…このような贅沢なものを…」としみじみ、そして乳母のいとが「ちょっと近くで拝見してもよろしいでしょうか」と興味津々と三者三様に驚きます。その瀟洒さに感心した惟規は「やっぱり自分の子はかわいいんだなぁ」と納得したように言うと、「賢子の裳着に何か頂戴したいと申し上げたら、この織物を賜ったの」と答えるまひろ。
 このとき、カメラは、聞き捨てならない言葉を聞いたとばかりに一人「ん?」という表情になる為時を映しているので、まひろの台詞は声だけなのですが、それでも十二分に惚気半分であることが伝わります(笑)

 為時が一人「??」となるなか、和気藹々の一同。「中宮さまがお召しになるようなものでしょう?それ」と、感心する惟規に、たまりかねた為時が「ちょっと待て、惟規…今、何と申した?」と慌てたように割って入ります「中宮さまがお召しになるようなもの…」ときょとんとする惟規に「いやいや、その前だ」と再び問い質す為時。為時は、惟規の言葉で、賢子の父親が宣孝ではなく、道長であることを初めて知ったのですね。

 そんな為時の驚きに「その前?何だっけ…」と訝しむ惟規は、やがて「あ…」という表情になり、まひろに「父上は知らないの?」とひそひそするようにまひろに聞きます。まひろといとは思考停止したように固まり、まひろはいとに確認するように、ぎこちなく「ご存知…だと思うけれど…」と答えますが、いとは思い出すように「あ…若様だけにはお話したような…」と言い添え、誰も為時に伝えなかったことが、今更に発覚。ぎょっとして惟規を見た後、為時は「賢子は左大臣さまの子…」と呆然とした面持ちで呟きます。


 直後の4人を捉えたロングショット。構図が一家団欒なだけに、呆然の為時に動揺する一同という白々しい雰囲気がよく出ていますね(笑)言いにくそうに「言ってしまって良かったよね?」と確認する惟規。姉の無言の了承を得ると「父上に伝わって、ようございました!」と、この微妙な空気を無理矢理終わらせようとするのですが、為時の力ない「…黙れ…」には押し黙るしかありません。11年もの間、家長の自分だけが愛しい孫の素性を知らずにいたこと、それも孫の実父がよりにもよって左大臣道長…次々、重い事実を突きつけられた為時の気持ちを考えれば、その衝撃たるや想像に難くありませんからね。
 父から目をそらすまひろに為時は「どうなのだ?」と直接、聞きます。まひろは黙して語らず、ただ為時を見ますが、その思い詰めたような、申し訳なさそうな目つきを見て、為時はすべてが真実と悟り「なんという…ことを…」と呟いたまま絶句します。

 居たたまれず視線をそらすまひろに、はっと気づいたように為時は「宣孝どのは何も知らずに逝かれたのであろうな?」と問い質します。せめて、夫だった旧友が愛娘の裏切りを知らずに逝けたなら、それだけは救いかもしれない、と思ったのでしょう。しかし、娘の答えは「いえ」。息を呑み、目を白黒するばかりです。

 しかし「何もかもご存知でした。その上で一緒に育てようと仰せくださり、本当に可愛がってくださいました」という話を聞くと「…ああ」と納得させるように頷きます。豪放磊落な宣孝であれば、そうした対応も彼らしいと思えたのでしょう。実際、宣孝の懐の深さに、一人で産み育てる悲壮な決意をしていたまひろは救われ、賢子を含めた水入らずの生活は、まひろに幸せの形、基礎を教えてくれました。今のまひろを作った一端に宣孝は欠かせません。


 さて、養父の問題は解決済みであれば、当然、気になるのは実父、道長のことです。「左大臣さまはご存知なのか?」と聞くのは仕方ないでしょう。「え…と…」と、いとを見るまひろ…って何故、そこでいとに助けを求める…(苦笑?今更、話題にされた上に核心を突かれた動揺振りが窺えます。

 何とか「いいえ」と答えると…為時は「これはいい折ゆえお話したらどうだ?」と裳着は真実を明かすのによい機会なのではないか?と提案します。過去はともかく、これからを前向きに考えようというのは、今更、真実を知らされ、ショックの最中にある為時にしては建設的です。
 しかし、11年もの間、それを知られぬようにしてきた一同は全員、「え?」「へ?」と懐疑的にならざると得ません。左大臣の隠し子などと知られたときの世間の反動、何よりも不義の子と知らされたときの賢子の心が心配だからです。宣孝への義理もあります。無論、道長に迷惑をかけること自体も、まひろの望むところではありません。

 ただ、まひろが賢子の素性を隠したことには、他の意図もあるように思われます。彼女は、若き日も、石山寺で思いを確かめたときも、道長のもとへ誘われたことを断っています。そこには様々な事情がそれぞれにあるのですが、共通してあるのは、安易に道長の世話になりたくはないということではないでしょうか。裏を返せば、道長とは対等でいたいということです。

 まひろは、自分が何も成し得ないことを悩み、自分が自分らしく生きる道を探してきました。貧乏貴族の娘では、とてもままならないことでしたが、それでも彼女はそのとき、できることをし、考え続けました。彼女は、自分の力で何者かになりたかったのではないでしょうか。ですから、宣孝が死んだからといって、賢子を盾に面倒を見てもらうという選択肢はなかったのだと思われます。結果、運もあって、まひろは「物語」の書き手として、ビジネスパートナーとして、今、道長と対等にいます。だとすれば、今更、それを明かすことには意味がないと考えても、不思議はありません。

 その一方で、まひろには、為時の提案に乗ってしまいたい気持ちもあります。おそらく、正直なところは、道長にも賢子の裳着の儀に参加してもらいたかったのでしょう。そして、実父であることは明かせなくても、せめて裳の腰を結ぶ、腰結の役を務めてもらえたら…ぐらいの気持ちはあったでしょう。そうすれば、二人の父を持つ賢子が祝ってもらえていることを、自分たちだけは感じられます。しかし、それは叶わぬ夢…だからこそ、せめてもの思いで、裳着の儀の祝いをおねだりしたのでしょう。勿論、道長は何も知らなくても、まひろのおねだりを叶えることは織り込み済みです。

 そうした相反する思いを抱くまひろは、為時の提案に驚きながらも、肯定も否定もできない微妙な顔つきになるしかないのでしょう。


 そこへ賢子が戻り、認知に絡む話は中断されてしまいます。座は話題の主の帰宅に慌てていますが、これ以上、認知に触れずに済むまひろは内心ほっとしているでしょう。さて、その賢子は帰宅の挨拶を為時にすると、惟規に気づき「あ…叔父上。いらっしゃいませ」とにこやかに応対します。が、傍らにいる母まひろはガン無視、まったく声をかけません。
 思春期の親への反発が分かりやすく出たこの態度に、かつての自分を見て身につまされた、子育てを思い出された、現在進行形とさまざまな思いをされた方がいたかもしれません。対するまひろは、前回すっかり嫌われ、不在のままですから、半ば諦めているのか何も言いません。

 ともあれ、認知話を賢子に悟られたくない4人の共犯めいた妙な緊張感は、「どうかしたの?」とかえって賢子の不審を招きます。為時は「あ、いや…今左大臣さまからのお前への贈り物を見ていたのだ」と半ば嘘、半ば本当という絶妙な対応をしましたが、賢子は絹織物に一瞥をくれただけで「要りませぬ、そんなの」と、にべもなく立ち去ります。

 とりあえず、自分たちの話題に突っ込まれることは避けられたものの、娘のために機転を効かせて手に入れた実父からの贈り物を拒絶されたことのダメージのが大きいまひろは、嘆息と渋面がない交ぜになった絶望的な表情になります。気遣わしげにそれを見るいとも打つ手がありません。

 実父の贈り物を断固拒否する賢子を見た惟規は、その頑なさから「まさか…もう知ってるの?」と賢子は道長が父と知っているのかと誤解します。それならまひろと賢子の仲が拗れるのも無理はない、とでも思ったのでしょう。哀れ為時は、更なる恐ろしい話に狼狽し、まひろを見ますが、当然、まひろは、ぶんぶんと首を振ります。安堵する一同ですが、この事実を知った為時、賢子の祖父として、わだかまりが出来たようです。

 明けて1010年。正月2日には、清涼殿では子の日の宴が行われます。頼通の爪弾く琴に合わせて、謡が高らかに始まります。帝を始め、公卿は勿論、招待された下級官僚の貴族らも楽しげです。そんななか、招かれた為時は、末席で一人何とも言えない顔で上座を見つめます。為時主観のカメラが捉えるは、左大臣道長…孫の賢子の実父です。

 あの場は立ち消えになりましたが、裳着を機に賢子に実父との対面、あるいはそれは叶わずとも道長には知らせておきたい…それが為時の孫と娘への思いです。道長とまひろの関係が、望まぬもの、無理矢理、遊びであるのであれば致し方ありませんが、その秘めたる想いが真剣であることをよくよく知っています。越前に旅立つ前に「終わったこと」と言いながら、その後に子まで成したことは、二人の想いが続くことの証拠のように為時には見えるのではないでしょうか。
 だとすれば、賢子は二人の想いの結果。恥じるところはないのではないか。道長に賢子が自分の娘と伝えることは悪いことには思えないと思っていそうです。それはゆくゆく賢子の将来を思っての部分もあるでしょう。また、自分の子でないとわかった上で賢子を育てた宣孝も望んだのではないか、そうも考えたかもしれません。

 とはいえ、どう知らせたものか、知らせた後に反動はないのか、悩むところは多く、為時は何も出来ないまま、思いばかりが先走っているのだろうと思われます。考えがまとらぬまま、道長を見つめていると、ふと道長がその視線に気づきます。が、為時は慌てて目をそらします。どうしていいか、わからなくなったのですね。道長はその不自然さが気になりますが、そのまま、その夜は終わります。


 翌日、内裏の藤壺に戻ったまひろが、局で「物語」執筆に励んでいます。「それにしてもこの宮をいかに扱えばよいものか。いつもと違うご様子もこの密通のせいだったのだ。なんとああ、情けない」と、まひろの独白で流れたところから察すると、彼女が執筆しているのは「若菜下」でしょう。この巻は、光源氏の絶頂と衰退の始まりが描かれます。彼女が今まさに書いているのが、継室女三宮が柏木との密通で懐妊したことを光源氏が知るという場面ですね。

 つまり、不義の子を産んだまひろが、不義の子ができる話を書いている…その最中に不義の相手である道長が訪れる…という場面になっており、現実と「物語」が響き合っているように描かれています。
 勿論、自らの体験も含めて対象化して「物語」を書いているまひろは、その場に道長が訪れたからと動揺することはありません。ただ、正月早々、急に道長が来訪したため「何か御用でございましょうか」とまひろが筆を止めたのです。

 道長は、早速、「子の日の宴にお前の父を呼んだ」と切り出します。まひろは居住まいを正し「それは…存じませんでした。ありがとうございます。どんなにか光栄に思いましたでしょう」と礼を述べますが、恩着せがましいことを道長は言いに来たのではありません。
 「何か私に言いたげで、ずっとこちらを見ておった」と、局の柱に寄りかかるように座り、くつろぎます…って、そこ!土御門殿(自宅)でも見せないようなくつろぎ方と油断しきった顔を元カノの職場でするな。倫子には見られてはいけない顔をしていますね、こいつは。

 さて、話は、「そして宴の最中、いきなり帰って行った」と続きます。道長は、わざわざこうした場に為時を招き、彼に人脈作りをする機会を用意したのですから。場合によっては帝とすら話せたかもしれません。謂わば、派閥の領袖からの特別なはからいだから、まひろも礼を尽くしたのです。それが、招いたら何か言いたげなのに挨拶をせずに帰ったでは、道長が気にするのは仕方ないところです。ましてや想い人の父の話ですから、こちらから聞いてやれば良かったか?くらいには思っているかもしれません。

 因みに子の日の宴で、為時が早々に帰ってしまった話は「紫式部日記」に残されていますが、日記では、そのことで道長が「お前の父はひにくれている」と紫式部に絡んだと記されています。事情は不明ですが、本作では、その裏にまひろの想いと賢子の将来をどうにかしてやりたい親心、爺心があったというわけですね。

 顛末を聞いたまひろは、暮れの為時の言葉が過ったはず。「何を言いたかったのであろう。聞いておらぬか?」と砕けた様子の道長に対して「き…きっと、華やかな場所で調子が狂ったのだと存じます」と、吃りながら答え、動揺を押さえるのに必死です。このとき、画面は二人を横から捉えるロングショットなのですが、くつろぎ過ぎの道長と緊張したまひろとの対比が効いています(衣裳が思いのもあるでしょうが)。

その後の道長ナメでクローズアップされたまひろの表情には、緊張と動揺が入り交じり、どういう顔をすべきかわからない当惑が窺えます。そこに妙な弦楽器のBGMが入り、まひろの微妙な面持ちが引き立ちます。かろうじて「父にはきつく申しておきますのでお許しくださいませ」と不調法は詫びる形で、事を収めるようにします。

 しかし、道長は、不調法を気にした様子はなく、寧ろ「ふ…」と思い出し笑いまでして、「不思議であったなぁ…」と染々、為時のあの夜の眼差しに思いを巡らせます。為時が道長に向けた眼差しは、訴えるような気持ちがあったはずですが、心地の悪いものではなかったようです。

 知らず知らずのうちに為時は、娘婿を見るような義父の眼差しを向けてしまっていたのではないでしょうか。そして、それは道長にとって初めて味わう感覚だったでしょう。道長の義父と言えば、倫子の父、雅信ですが、彼は周りに押しきられたこの婚姻、「不承知」でしたから、道長を暖かい義父の目で見ることはなかったでしょう。一方の為時も義理の息子は宣孝。旧友を義理の息子とは見なかったでしょうね。

 そんな話を聞かされては、まひろは居たたまれません。為時の心情を悟られては、ひた隠しにしている賢子の問題もバレてしまいます。ヒヤヒヤして身も縮む思いになったまひろは、はぐらかすように「これより中宮大饗の支度がございますので失礼いたします」と、別の話題を振り、彼を置いて局を後にします。

 然して話も出来ず少し憮然とした道長ですが、仕事は仕方なし「お…そうか」と笑います。どうやら肝心なことは気づかれずに済んだ様子、局を出たまひろは、やっと息がつける…と焦りと緊張から解放された気持ち、父上め、余計なことを…というわずかな腹立たしさ、そして、今後どうしたものかという不安などさまざまなものが一気に吹き出し、心を落ち着かせようとします。BGMの管楽器の音がまひろの不安を象徴していますね。


(2)惟規の昇進

 1011年正月、惟規は従五位の下に昇進します。使者の口上を受ける惟規と為時を部屋の外で控える賢子といとですが、カメラが賢子よりもいとにフォーカスを当てているのは、惟規の成長を最も喜び、関係が深いのは乳母である彼女だからでしょう。いつもは、家族の中心にはならない惟規ですが、今日ばかりは主役です。

 しかし、滅多にない状況に一番耐えられないのは惟規本人です。使者が帰ると照れ臭さと緊張が終わった解放感から「いやぁ、信じられないなぁ…そんなに真面目に働いたわけでもないのに(笑)」と早々に軽口を叩き、「そういうことを申すな(苦笑)」と為時に突っ込まれて、一同は朗らかな空気に包まれます。
 お調子者として振る舞い、周りを和ませる彼がいてこその為時一家ですが、その言葉には姉のおかげで俺まで出世したという自虐と感謝もあるでしょう。「賢さを全部、姉上に持っていかれてしまったので」(第2回)と言っていた彼自身が、出世できるとは考えていなかったでしょう。

 すると、そうした軽口のなかの惟規の本心を見抜いたように、いとが真顔で「若様、赤い束帯、ご用意してございますよ」と、私だけは若様の出世を信じて、準備をしておりましたよと伝えます。緑の束帯も為時のかび臭いお古でしたから、さすがの惟規も予想外だったようで「へ?」と素できょとんとしてしまいます。
 いとは、「いつかこういう日が来ると思って…」と努めて平静を装いますが、ようやく訪れた惟規の出世に溢れる思いがこらえられず泣きそうになります。しかし、それを堪えて微笑むと「秘かにご用意しておりました」とお任せくださいと太鼓判を押すように言います。いとは、ただ一人、惟規の出世を信じて準備をし、この言葉を伝えるときをずーーーっと待っていたのでしょうね。

 為時一家が裕福だったのは、まひろが宣孝の妾となっていた数年くらいで、そのほとんどは貧窮に耐え忍ぶ生活でした。余りの貧しさにいと自身が「私、食べなくても太ってしまう体でございますので、なんというか、居場所がないというか」(第14回)と申し訳なさから暇をもらおうとしたこともありました。そういうなかでも、溺愛する惟規の束帯を揃えるためのお金を細々と長年溜めていたのだと思われます。
 暇乞いしたとき、「この家はお前の家である。ここにおれ」(第14回)と為時に引き留められて、本当によかったですね。遂にその苦労が報われるときが来たのですから。いとの長年の苦労を感じる長年の同僚、乙丸は目を丸くし、賢子も驚き、そして、彼女の長年の献身を知る為時は、彼女ならばそうすることには納得のようで、うんうんと感謝するように頷きます。


 当然、彼女からの愛情を幼い頃から一心に受けて育った惟規に、その気持ちが伝わらないはずがありません。「いとは…俺が赤い束帯を着るほど偉くなると思ってたんだなぁ?」と軽口めいたことを言いながらも、その目は潤みかけています。
 いとは「幼き日より…」と言ったところで、万感の思いを改めて込め「私がお育て申し上げたのでございますよ!」ときっぱり。当たり前です、と励ますのです。嬉しそうに「そうだな」と答えた惟規、いとを抱き寄せ、しっかりと抱きしめます。抱き返すいとも溢れる思いが止まらず、遂に嬉し泣きし始め「上向いて参りましたよ。御運が!」と寿ぎ、もらい泣きしそうな為時が噛み締めるように「良かった良かった」と言います。惟規が、昇進をこれほど喜んでくれる家族に囲まれているのは、彼の人柄ゆえです。彼は愛されているのです。


 慶事は続きます。除目では、為時は越後守に任命、10年ぶりに受領国司となったのです。しかも、越後は、越前ほどの大国ではありませんが、律令国の等級では上国に当たる豊かな国ですから、破格の栄誉と考えてよいのですね(律令国は4つの等級に区分されています)。早速、為時・惟規親子は道長にお礼を述べに参内します。当然、惟規は、いとが誂えてくれた赤い束帯を身に着けての、晴れがましい参内です。

 「幾重にも御礼申し上げます。愚息惟規共々、力を尽くし、ご恩に奉ずる所存にございます」と型通りの挨拶に、道長も鷹揚に「帝の御ため、一層尽くされるがよい」とこちらも儀礼的に挨拶を返します。

 すると、それまで黙って控えていた惟規が「恐れながら左大臣さま。姉もお世話になっておりまする」と声をかけます。唐突にまひろが話題になり「ん?」と返す道長に「あの…恐れながら姉は気難しくて人に気持ちが通じにくいのでございますが、どうぞ末永くよろしくお願いいたします」と、「わかりにくいと思いますが姉は今も左大臣さまを思っております」と暗に仄めかします…と書きましたが、これだけストレートだど…腹芸になっていないですね(笑)これ、完全に結婚式などで新婦の親兄弟が新郎に向かって言う台詞です。

 惟規にとって姉は、ものすごく学問に長けた天才である反面、放っておけないほど危なっかしい人でした。あれこれ難しいことを考えた挙句に常識外れなことを平気でやってしまう。かと思えば、いつまでもウジウジと悩み続ける。周りの空気が読めない。人間関係がおそろしく不得手。そんな彼女が胸襟を開いているのが、道長です。姉にそうした人がいることは安心できる反面、何せ姉の特徴は「根が暗くて鬱陶しいところ」(第31回)。彼女が、素直になれず、グダグダと悩み機を逃すことが心配になるのです。

 だから、左大臣への拝謁をよい機会と思い、勇気を出して、姉のために切り出したのでしょう。惟規が、道長に直接話す機会は、早々ないのですから、逃せない。こうした惟規の姉想いに感心した視聴者も多いと思われますが、見逃せないのは、惟規が道長を男と見込んで信じたからこそ、口にしたのだということです。後に彼は、道長がまひろ一筋であることへの感心を口にしていますが、ブレずに姉を愛せる男だから面倒くさい姉を任せられると思っているのですね。まあ、道長へのまひろへの一途な想いは、悪い意味で周りにも波紋を呼んでいますが、それは惟規の与り知らぬところですから致し方ないでしょう。

 初めてまともに話す惟規の言葉に道長はという虚を突かれた表情…居たたまれないのは、二人の間に挟まれる形になった為時でハラハラした表情を押し隠して一礼します。道長は、内心の驚きを見せることなく、惟規の姉想いだけを汲み、「中宮様の御在所に寄って、藤式部の顔を見てやれ」と優しく声をかけます。彼女の働きぶりを見れば、安心できるだろうとの配慮です。ただ、そう言った後、「あれ?こいつ、俺とまひろの知っているのか?」と察するところはあったようです。


 さて、正月早々の急な父と弟の訪問にまひろは驚きます。惟規はちょくちょく遊びに来ていますが、為時は初めて訪れる場所、「ここがお前の仕事場か」としみじみとなります。個室を与えられていることもさりながら、書籍も充実し、執筆に必要な紙や道具類も揃っている…至れり尽くせりの局を見回した為時は「左大臣さまはやはりお前には親切だな…」と、道長のまひろへの愛情を感じると言います。これは、先ほどの拝謁での惟規の無礼ともなりかねないお願いを道長が鷹揚に受けたとき、為時自身もまひろへの情深さを感じたのでしょう。

 ただ、まひろは「そのようなことはございません」と、警戒するような表情で返します。これには二つのニュアンスがあると思われます。一つは、言葉どおり、仕事に必要だから揃っているだけで、特別愛情云々ではないということです。女房という職業人としての彼女にとって、個人的な情での特別扱いは不本意です。もう一つは、衛門から釘を刺されている彼女としては、職場でそういう話をされたくはないというのがあるでしょう。後宮は、男たちではわからない気苦労があるのです。


 まひろは「惟規も何なの?」と訝るような言葉を弟にも向けていますが、画面に映らないこのときの彼はニヤニヤしていたのでしょう。姉のことを左大臣に頼んでやったという充実が顔に出てしまうのは仕方のないところ。その満足からか、惟規は「賢子も藤壺に上がったらいいよ」と付け加えます。娘に藤壺に出仕していることで嫌われているまひろとしては、現実的とは言えない惟規の提案に暗澹たる気持ちで溜息をつくしかありません。

 しかし、惟規がここまで踏み込んで言ったのは、確信があってのことと思われます。例えば、先の道長への言葉は、何があっても姉を信じてほしいとの意味合いがあります。だとすれば、その、何があっても、には、賢子のことも含意して惟規は言ったのでしょう。ですから、この先知られても大丈夫という思いがあると思われます。そして、もう一つ、まひろの働きぶりの実際を見れば、大人になった賢子ならばわかるだろうと思ったのでしょう。百聞は一見に如かず、と言いますからね。

 さて、まひろは、惟規の振った賢子の話題は戯言として流すと「越後は越前より遠く、冬も一層厳しいと聞きます。どうぞお気をつけて」と、早速、赴任するであろう父を気遣い、送り出すための言葉をかけます。「もう会えぬやもしれんな」と為時が返すのは、遠方の赴任地だからというだけではなく、為時も還暦を過ぎ、当時としては比較的高齢の部類に入っているからです。「そのような弱いお心では越後守は務まりませんよ」と励ますまひろに、惟規は「姉上は務めがあるから此度は私が、越後まで父上を送って参りますよ」と、自分に任せろと胸を張ります。

 訝る父に「私は都にはいたくないのです」と答える惟規。「どうして…」と言いかけたまひろですが「あ、斎院中将の君と別れたの?」と、禁断の恋に破れたのかと察します。子どもたちの恋愛となると蚊帳の外にされてしまう為時には寝耳に水。「何だそれは?」と聞きますが、惟規もまひろも無視(笑)
 「…酷い振られ方をしましたゆえ…」とわずかに遠い目をします。ここには、彼の斎宮中将の君への、変わらぬ強い想いが窺えますが、そういう真面目になるのを嫌う彼は、すぐさま「気分を変えに越後まで父上を送って参ります(キリッ」と切り替え、まひろを呆れさせます。

 惟規のお調子者しぐさは、ある意味、自分の辛さを隠すためにもよく使われていますね。彼は、家族、皆が笑っているのが好きで、そのために暗いことも、哀しいことも深刻そうにせずに振る舞うのでしょう。まひろは、そういう弟を頼りない、情けないと感じることも多そうですが、実はそうした弟の配慮に救われていることも多いのです。第12回、道長との恋に破れ、目に見えて傷心とわかる様子で帰って来た彼女に、何も聞かずに酒を勧めたのも、彼の家族に対する想いの表われでしょう。


(3)慶事の果てに…

 為時一家にとって、正月の慶事の最後は、賢子の裳着の儀です。どうやら、結局、道長から賜った絹織物で仕立てたようですが、厳かに進められるそれは、第2回のまひろの裳着の儀との対比になっていて、カメラのアングルもそのときのものに寄せています。まひろのときの腰結の役は叔父代わりの宣孝でしたが、賢子は本物の叔父である惟規です。
 その光景に胸を熱くする祖父為時と母まひろ。儀式を終えると、まひろは自然と「ありがとうございました」と礼の言葉が漏れます。この言葉は、まひろの親心だけでなく、この日を見たかったであろう亡き宣孝、事実を知らない実父、その二人に代わってというものも兼ねていたことでしょう。


 儀式が終わると、成人したという意味で惟規が「これでお前も一人前だ。婿も取れるし子も生める」と、賢子に述べます。この口上も宣孝とまったく同じです。対照的なのは、当事者の顔つきです。第2回のまひろは、終始、仏頂面で成人したことをまったく受け入れておらず、父への反発を露わにしています。対する、賢子はとろけるような笑顔を浮かべています。ただし、腰結の役からの「一人前だ」の言葉に対する二人の返答は、衣装の重さに関することです。

 まひろは自分のときもそうだったと思い出して笑っていますが、実は同じ台詞でも、二人のニュアンスはまったく違います。まひろの場合、当時は真面目に働いていた母の理不尽な死を隠す父に対して反発していました。つまり、ただ夫に尽くすだけの母の人生が何だったのかという疑問でいっぱいでした。そういう彼女にとっての、衣装の重さは、受け入れられない女の生き方という意味合いです。一方の賢子のそれは、叔父の言う一人前の責任を痛感し、その生き方を受け入れようとするものになっています。


 ただ、親への塩対応は、母子共々同じです(苦笑)賢子は「今日までお育てくださってありがとうございました。お爺さまの御恩は忘れませぬ」と、温かい笑顔で感謝の言葉を丁寧に述べ、為時も「爺を泣かすようなことを言うな」と涙ぐませます。しかし、母であるまひろには、一言もありません。ギャップがあるだけに、賢子の態度のほうが、親世代の視聴者のメンタルには堪えたのではないでしょうか。

 まひろが生活の面倒を見てくれたから、自分が裳着の儀を迎えることができたことは、おそらく為時が度々、伝えているでしょうし、賢子もよくわかっているでしょう。しかし、賢子は、まひろが初めて出仕したあの日、自分の母を慕う気持ちも知らずに去っていったことを未だに忘れてはいないでしょう。
 久々に帰って来たあの日、内心嬉しかったと思われますが、母から漏れるのは、賢子のことではなく、内裏での華やかな日々のことばかり。自分を放っておいて、好き放題やっているだけはないか…そんな思いが渦巻いているでしょう。いつも面倒見てくれた為時とは対照的に映っているのです。

 そんな賢子ですから「真に越後には行かぬのか」という惟規の問いにも「もう一人前ですゆえ、いとと乙丸ときぬとこの家を守ります」と、自信を覗かせます。まひろは既にその意を聞いていたようで「女房となって藤壺に上がるのが嫌なのですって」と、言い添えます。嫌味ではなく、賢子の好きにさせてあげて、という意味合いでしょう。

 ここで「宮仕えをしたら高貴な男たちが選り取りみどりだぞ」と本気とも冗談ともつかないことを言って茶化す惟規ですが、本音は出仕をしたらものの見方が変わるよという助言だったように思われます。婿を迎えること前提にしているあたりは、家を守ると言う賢子の意思にも寄せています。
 しかし、そんな裏を読むことはない若い賢子は「宮仕えはいたしません。母上と同じ道を行きたくはございません」とピシャリと言い放ちます。このときまで、賢子は母の顔をまったく見ようとしていませんが、もしも見ていたら、母親がショックを隠し切れない表情でとりあえず笑うという悲しいさまを見られたでしょう。

 為時は、母子を見比べるようにするのは、まひろの裳着の儀のときを思い出したからでしょう。親に対する反発を隠そうともせず、自分の主張を張る…その様子に「頑固なところは、まひろによく似ておる」と、嫌味でもなんでもなく、心底の実感として語り、惟規以下、家人を笑わせます。ただ一人、賢子だけは、母と同じされたのは面白くなく、伏し目がちにしながら少し唇を噛みます。母子の関係は、思った以上に拗れていますね。


 まひろの裳着のときは、彼女の冷たい目線に耐えかねた為時が、逃げるように縁側で宣孝と酒を酌み交わしたものですが、今回はその縁側に、まひろと惟規がいます。なんだか、歴史は繰り返すを地で行っていますね(笑)惟規は「姉上の裳着のとき、姉上と父上の仲は最悪だったなぁ。父上と目も合わさない姉上、怖かったよ」としみじみと言います。あの頃はまだ太郎だった惟規、今ならばともかく、当時ではあの状況は何ともしようがなかったのでしょうね。

 まひろは、ものをわかっていない当時の自分を恥じて「思い出したくないわ、あの頃のこと」とバツが悪そうにしますが、あのときの二人の仲は、まひろだけのせいではありません。為時も「この家は居心地が悪すぎる」「(まひろと)目を合わせるのが怖い」(共に第2回)と、ときには妾の家にも逃げていたぐらいでしたから。思えば、ああした父娘の最悪の関係が、惟規を家族の緩衝材になるような振る舞いにさせたのかもしれませんね。

 そんな最悪の関係だった父娘も越前にともに行き、そして今は、越後に旅立つ父を案じてまひろは優しい言葉をかけています。そんな様子に「親子って変わらないようで変わるんだな」と納得するように口にする惟規。まひろは「うん」と返事をしつつも、それが惟規なりの気遣いだと気づき「賢子と私の仲もいずれ 良くなるってこと?」と聞き返します。惟規の「多分ね。だって賢子の母上は姉上だけなのだから」という答えは、優しく真心が籠っています。まひろも微笑して頷きます。

 すると、惟規はふと思い立ったように「そういえば左大臣様の姉上への気持ちも変わらないな〜、斎院中将の君の心はころっと変わったけど…それに比べたら左大臣様すごいよ」と、自分の悲恋を引き合いに出しながら、道長の一途な想いを称賛します。惟規は、まひろが三郎のころからの関係であることを知っています。あれから、20年以上、道長の想いは、深くなることはあっても、浅くなることも薄れることもありません。夫婦を20年続けることも大変なことですが、同じ人に恋心をずっと深め続けられる一途さというのは、なかなか真似できることではありません。

 真剣な恋をしたからこそ、惟規は、道長のすごさがわかります。そして、それは実は今も道長を想い続けている姉への言葉でもあります。彼女が、宣孝と婚姻関係を結ぼうとも道長が本命であり続けたことを知っていますからね。こんな二人、もう応援するしかないじゃないか、と改めて惟規は思っているように思われます。

 そんな惟規が「きっと…みんなうまくいくよ」と万感の思いで告げた言葉は、二人の関係だけを指しているのではなく、二人の娘、賢子のこと、つまり親子三人のことを言っているのでしょう。唐突な弟の言葉に「何それ?」と訝るまひろ…相変わらずの鈍さですが、惟規も確たるものがあるわけではなく「よくわからないけど、そんな気がするんだ」と笑います。思えば、彼、禁断の恋に走ったことも含めて、姉が思っている以上にロマンチストだったのかもしれませんね。

 まひろは「調子のいいことばっかり言って。父上をよろしくね」と…まったくあんたは、というような口調で返しますが、その顔は心からの笑顔。笑い合いながら、月を見上げる二人。ともすれば、賢子の頑なさに居たたまれない思いをするところだった裳着の儀の祝いを、まひろは心優しい弟の心遣いに救われのですね。まさか、この幸せが最後になるとも知らないまま…


 その日は唐突でした。越後への道中、激しい腹痛を起こした惟規は、越後の国府で回復の見込みもないまま、この世を去りました。報せを受け、為時宅に戻ったまひろ。彼女を出迎えたのは、溺愛した惟規の死に号泣するいと、哀しみの底にある賢子たち家人と、為時から送られた惟規の絶筆です。惟規の辞世の句を見たまひろは、「都にも恋しき人の多かれば なおこのたびはいかんとぞ思ふ。都にも恋しい人がたくさんいるゆえ、何としても生きて帰りたいって…」と読んで聞かせながら、彼の無念を思います。

 その辞世の句は、最後の「思ふ」の「ふ」の字で力尽きたため、かすれています。父為時に抱き抱えられながらしたためた一首。時折、父に眼差しを向ける惟規、息も絶え絶えでありながら、何故だか嬉しそうなのは、童心に帰ったからではないでしょうか。父に手ほどきを受けていたあの頃を思い出しながら、自分の思いを綴ったのです。
 逸話では、最後の文字まで書き切れずにこと切れ、為時が書き足したも伝わります。それを受けて本作では、父との共同作業のような演出がなされたのでしょう。哀しい死でありながらも、尊敬する父と和歌を詠んで眠ったことが、ささやかな救いといったところです

 まひろは、かすれた「ふ」の字に、惟規の最期がありありと浮かんだのではないでしょうか。気丈に振る舞っていたまひろもついに落涙。それが、号泣へと変わるのに時間はかかりませんでした。号泣する母にそっと近寄るのは賢子です。おそらく賢子は、母のそんな弱々しい姿を初めて見たのではないでしょうか。

 幼いときより、躾に厳しく、学問を教え込もうとした母は、強く厳しい人でした。賢子が寂しさから失火したときも、きつく叱ったものです。「物語」執筆に一心不乱になる母、出仕する際の自信に溢れる母…どの姿も立派すぎる態度。その様子は、賢子を寂しくさせると同時にコンプレックスにもなっていったように思われます。しかし、今、彼女の目の前にいるのは、最愛の弟を失い、哀しみに暮れ、肩を落とす一人の弱い女性です。思わず、背中に手をやらずにいられないほどの弱さです。

 賢子の手を感じたまひろは、賢子を見ます。賢子も哀しみに暮れていますが、それでいながらも母を気遣う眼差しを向けてくれます。その慈愛に、まひろは自分が母であることも忘れ、娘の胸で号泣します。そんなまひろを賢子は優しく抱きかかえ、背中をさすります。まひろが弱さを見せ、二人の立場が逆転したとき、賢子のなかにあったコンプレックスやわだかまりも、少し溶けたのかもしれません。そして、何より賢子は、根の優しい子に育っていたのかもしれませんね。

 惟規は臨終の際、「左大臣さまに賢子のことを…」と為時に呟いていました。最後までまひろと賢子のことを心配していたのですね。こうして、家族を愛した惟規は、家族に愛されて旅立つことになりました。


おわりに

 まひろへの思いを貫き、彼女との約束を果たそうと邁進する道長は、まひろの原動力になっています。まひろを表舞台へと引き上げ、今や為政者として、彼女の書きたいもののため、物心共に支えているのが道長です。
 しかし、まひろの人生のターニングポイントには、常に弟惟規の存在があったことも見逃せません。道長との恋が破れたとき、宣孝との関係が壊れそうなとき、そして、まひろに書き手としての強みを気づかせたときなど、その言葉はときに忌憚なく、容赦のないものでしたが、姉を心配し、気遣うものでした。惟規がいたから、まひろは肝心なときに心が折れずに済んでいたのですね。道長が太陽とするなら、惟規は月といったところでしょうか。


 道長と惟規…これまで直接、対比的に描かれては来ませんでしたが、その生き方は対照的です。片や、まひろとの約束、「民のための政」を成そうと権力を浴するようになった道長は、かえって権力者が陥る排他性と猜疑心を宿すようになりました。その強引さと焦りは、内外に敵を作り、あるいは火種を抱えようとしています。その人生は孤独です。

 一方、惟規は若くして亡くなるという不運に見舞われました。大きな出世も業績もなく、真剣に思った人との恋も破れてしまいました。しかし、家族を想い、家族皆が笑っているような家を望んだ彼は、皆を愛し、そして家族に愛されました。そして、その死をもって、いがみ合っていた母子の関係すら修復してみせます。


 単純な成功者は、学校教育でもならう道長ですが、道長と惟規の人生、どちらが宿世に縛られ、ままならない人生となのか…どちらが充実した人生なのか、あるいは幸せなのか、と言われると、なかなかに判断が難しいのではないでしょうか。まひろは惟規を失い、自分がいかに惟規に支えられたかを知ったことでしょう。哀しいけれど家族に愛された弟の人生を思い、その一方で想い人の孤独な人生を見つめるまひろは、宿世という言葉に何を見出していくのか。答えはまだ先になりそうですね。


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