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大河「べらぼう」第7回「好機到来『籬の花』」 蔦重の巧みなプレゼンテーションが生む波紋
はじめに
皆さんは通販番組や街頭や店頭などで商品を使いながら売る実演販売に興味はあるでしょうか。買う買わないは別として、販売士の巧みな口上、お客さんを巻き込むデモンストレーションには感心させられるものがありますよね。彼らの話は、まずわかりやすいということが、第一に言えます。一度聞いただけでわかるように話す。これだけでもかなり難しいです。これに加えて、興味を惹き、好奇心を煽る、共感させることで、最後まで話を聞かせるのです。
こうした話す技術は、販売に限らず、一般サラリーマンでもプレゼンテーションの技術として必要になります。営業職はプレゼンの連続ですし、企画会議などでは、わかりやすい資料をつくり、上司やクライアントの心をつかむプレゼンは必須です。ですから、実演販売の販売士をプレゼンの講師として呼ぶこともあるのだそうです。私も人前で話す仕事であるにもかかわらず話下手ですので、セミナーに参加したほうがよいかもしれません←
さて、こうしたプレゼンでは、話術などその場の技術も必要ですが、実はそれ以上に事前の準備のほうが大切です。例えば、商品を売るのであれば、誰よりもそれを知っていて、お客さんのどんな質問にも答えられないと信用を失います。ですから、販売士は、事前に商品をさまざまな角度から徹底的に調べるのだそうです。あるいは、話す客、所謂ターゲットについてもリサーチが必要です。性別、年齢などで、「あーあるある」と思わせる共感させるポイントは変わってきますから。つまり、事前準備とある程度の計算が、プレゼンの根幹を決めるのです。勿論、情熱がここに乗らないと、相手に見透かされますから注意が必要になってきます。
失墜した鱗形屋の後釜を狙うべく、地本問屋になるための具体的な動きに出た蔦重もまた、夢を叶えるには、さまざまな人を口説き落とさなければなりません。その一方で、魅力的な商品をつくることも必須です。これまでに積み上げてきたものを全力投入して、「籬(まがき)の花」を成功させるのが今回の見どころ。そこで、今回は蔦重のプレゼンテーションの見事さを堪能し、その業を勉強するとしましょう、明日の自分たちの仕事のために(笑)
1.プレゼン1:利を説く挑発
(1)地本問屋への挑戦状
鶴屋裏の地本屋会所に集まった版元たち…話題は偽板で奉行所に捕らえられた鱗形屋のことです。それぞれに持ち寄った噂を突き合わせ、ひそひそ話し合う版元たちの結論は、松村屋弥兵衛「鱗はもう終いかもしれねぇな」というところに落ち着きます。松村屋の言葉に、西村屋与八は「バカな男さ」と苦ります。ただ、地本問屋たちは、表向きは鱗形屋に同情しながらも、その内心は再起不能になったとき、彼の出版権はどうするかということでしょう。
そんな彼らの本音をよくよく理解しているのでしょう、鶴屋喜右衛門だけは話に加わらず、一人煙管を吹かせていましたが、話が落ち着いたところで、トンッと煙草を叩き落とし、お喋りを断ち切ります。その音に一斉に居住まいを正す地本問屋たち…若い鶴屋喜右衛門が彼らのなかで別格であることを窺わせます。喜右衛門は、穏やかな顔で彼らを見ると、「では、鱗形屋さんに代わって細見を出そうって方はいらっしゃいますか」と、実は彼らがもっとも気にしている話題を振ります。次の「吉原細見」を発行するのは誰か、自ずとそれが話題になると見越しての集まりです。
仲間内と言っても、実態は互いの鎬を削ることしか頭にない強欲な商売人たち、さっきまでの同情論が嘘のように、次々手が挙がります。パンっと柏手一つ打ち、彼らを牽制したのは西村屋与八…「僭越ながら私がやるのが一番よろしいかと。吉原に出入りし、改(あらため)の蔦重も見知っておりますし」と自身に一日の長があると強調します。鱗形屋孫兵衛とは、蔦重を潰す企みをした仲ですが、その利権をかすめ取ることには何の躊躇もありません。他の版元たちは、文句は言いたげなれど、彼の強引な理屈に押し黙り、鶴屋は様子をニコニコと見ており、どうやら大勢は西村屋へと傾きました。
そこへ「どうも~、俄にお邪魔ご無礼つかまつりの三郎…失礼」と陽気に飛び込んできたの蔦重です。それを見た西村屋は「ふざけないとやっていられないんだね、蔦重。けど大事ないからな、これからは私が細見を出して、お前さんが改を続けられるようにしてやるからね」と同情のふりをしつつ、蔦重を早速、利用しようと算段をします。
これに対し、蔦重は「お心遣いありがとうございます」とニッコリ笑ったあと、真顔になり「けど、今後は俺が版元となって細見を出します」と言い放ちます。驚く一同のなか、鶴屋喜右衛門だけは動じることもなく、「前に仲間内の者しか版元にはなれぬ定めとお伝えしたと存じますが」と、あくまでにこやかに、しかし、あっさりと拒絶します。
蔦重は「この際、俺をその仲間に加えていただけませんか?」と「雛形若菜」のときと同じことを言う蔦重ですが、何の算段もなくここに現れるような覚悟で粟餅を食べた(第6回)のではありません。「たしか…版元の数を限んのは、出す本の増えすぎによる共倒れを防ぐため。鱗形屋さんが持ち直すのは難しいでしょうし。なら、俺が細見を出し、その仲間の末席に加えていただいても差し支えねぇのでは?」と、仲間内の理屈を盾に取ります。平蔵曰く「飛びきり上手い話に恵まれたってこと」(第6回)とは、即ち、空いた鱗形屋の枠を乗っ取るということだったのです。
吉原の若造と侮っていた地本問屋たち、言葉に詰まり、理屈では返しようが無くなり、口々に口汚く罵ります。特に西村屋与八の「主がいない隙に後を襲おうなんてお前は畜生か」とは、どの口が言うのかという気がしますね(苦笑)とはいえ、既得権益を守ることには、一致団結する地本問屋のこうした反応は想定済み。さすがに理屈だけで、彼らを納得させられるとは思ってはいません。悪口雑言の彼らへ「俺に任せてくれりゃあ今までの、倍売れる細見を作ってみせますぜ」と爆弾発言をかまします。呆気に取られた一同、驚きに固まります…ただ鶴屋喜右衛門だけは薄笑いをして、これを聞いています。彼だけは、蔦重の発言が自分たちへの挑発であると気づいたのでしょう。
無論、挑発だけではありません。孫兵衛と与八の銭ゲバな密談を聞いてしまった蔦重は、地本問屋たちの本質が、強欲な商人のそれであることを知っています。であるなら、話は簡単で儲け話を、彼らに提示し、成果を出せばいい。だから、驚く彼らに「ええ、そうすれば皆さんだって儲かるぅ、こりゃあ悪い話じゃねぇでしょ?」と、その欲深さを煽ります。
「できるわけ…」と言いかけた与八を制し、「なるほど…」と立ち上がり、蔦重の前に来た喜右衛門は「では、まず見せていただきましょうか。その倍売れるという細見を」と、蔦重の挑発に敢えて乗ります。蔦重の面前へ座る喜右衛門を後ろからナメる形で捉えられた蔦重の表情は、自信が窺えます。同時に交渉の席に、喜右衛門を引っ張り出せたことで、してやったりのところがあるでしょう。そして、喜右衛門は蔦重の期待どおり「その上で本当に倍売れたら、そのときは仲間に加わっていただくということでいかがでしょう?」と提案し、この場を収めます。
自信を覗かせる蔦重が去った後、与八は「鶴屋さん、本当に成し遂げたらどうなさるおつもりで?」と静かに問います。松村屋は「わたしゃあ御免ですよ。ここに吉原者を入れるのは!」と明言、口々に抗議の声があがります。吉原者を入れたくない…「雛形若菜」の際、仲間内の定めを盾に拒絶した鶴屋ですが、それは結局のところは、彼ら地本問屋一同の吉原者への差別意識だったということです。蔦重が戦う相手は、地本問屋ではなく、彼らの差別意識ですから、実は極めて厄介なものなのです。売れたら済むことではありません。
吉原者の排除は、喜右衛門も共有した思いです。「そもそも倍なんて売れるわけありませんよ」と宥めます。彼が蔦重の交渉に敢えて乗ったのは、この場を適当に収めることが一つですが、その大言壮語を潰してやりたいという蔑み、そして、ここで完全に潰しておこうという冷徹な判断が大きかったでしょう。ただ、徹底的に突っぱねなかった裏には、どこかで何をつくるのかという興味もあったように思われます。彼もおそらくは、本づくりを面白がる面があるでしょうから。しかし、蔦重の希望はここで完全に打ち砕く必要性があるとも思っています。ですから「それに…蔦重の細見がさほど売れぬよう良い細見を出すという手もありますよね。どうでしょうか?西村屋さん」と与八を唆し、念を入れることを忘れてはいません。
ただ、蔦重の立場からすれば、元より分の悪い話。勝負に引きずりしただけでも御の字というもの。この駆け引きは、蔦重に軍配をあげてよいでしょう。
(2)忘八たちを戦いに巻き込む算段
とはいえ、蔦重一人が踏ん張ったところで勝ち目はありません。ここはどうしても忘八楼主たちを引っ張り込まねばなりません。早速、駿河屋で行われている彼らの寄合に顔を出した蔦重は、自分の作った細見が倍売れたら、版元になれるようまとまったという話を持ち込みます。ついては細見を「親父さま方にも倍!買い取っていただき」、協力してほしいというわけです。ただ退屈しのぎに銭投げに興じる楼主たちの反応は、今一つ。遊びに加わらない扇屋宇右衛門は、静観するように聞き、養父の駿河屋市右衛門は、あからさまに心配そうな表情になっていまう。が、ここは勝手に話を進めた蔦重に鉄拳制裁をかます大文字屋市兵衛が悪目立ちします。
蔦重はボソッと大文字屋に文句を呟いたものの、気を取り直し「こんな折はまたとないと思ったものですから」と利益を仄めかします。案の定、強欲な松葉屋半左衛門が「またとない?」と食いつきます。すかさず、「俺が仲間に認められりゃ、吉原は自前の地本問屋を持てるってことです。そうなりゃ入銀でつくった本も行事の摺物も、いつでもなんでも市中に売り広めが出来るってことです」と、吉原発の出版物の利益はすべて吉原のものになるし、自分たちの意思で、自分たちの都合で自由な出版が可能になると、自分が版元になることにより楼主たちの利益を説きます。彼らが儲け話にしか動かないことは、散々わかっていますから、その欲深さをくすぐるのです。
察しのいい大黒屋の女将りつが「そりゃあ吉原を売り込み放題になるってことかい?」と言ってくれたことで、この話が儲け話であることが強調されます。ようやく飲み込めた大文字屋が「張った!」と乗ると、さすがは業突く張りの忘八ども、次々と乗ってきます。ただ一人、心配そうに煙管をくわえ、ため息をつく市右衛門を除いては。
まんまと楼主たちを味方に取り込んだ蔦重が意気揚々と去っていく姿をそっと眺める市右衛門に「面白くねぇのか?ここまで大っぴらに本屋になってくると。ああん?」と声を掛けたのは、扇屋宇右衛門です。彼だけは、市右衛門が忘八らしからぬ親の情を蔦重に向けているのを知っています。その揶揄に反発も、認めもせず「こりゃあ上手くいきゃ市中の奴らが俺たちを認めるって話でしょ。そんな筋、間に受けていいもんなんすかねぇ」と、心配の理由を話します。
思えば、鶴屋喜右衛門が蔦重の版元の仲間入りを拒絶した際、それが吉原者に対する差別意識と看破していたのは、彼を睨みつけていた市右衛門です(第4回)。それゆえにそんな差別意識を持つ奴らが、本気で蔦重を仲間に加えるのか、懐疑的にならざるを得ず、腕を組んで悩ましげにします。
それを聞く扇屋宇右衛門も、あのとき外された蔦重を目で追い、気にかけるほどでしたから、市右衛門と同じく鶴屋の侮蔑には気づいたでしょう。元より教養人として、吉原の外で交流を持つ宇右衛門は、吉原者が蔑まれていることを肌で感じています。市右衛門の危惧はもっともと思わざるを得ません。二人の会話は、心配そうに聞いている市右衛門の妻ふじのカットが入るのが上手いですね。養父母が揃って、蔦重がこれ以上傷つかないよう願っていると思われます。
親の心子知らず。市右衛門の心配をよそに蔦重は、転がり込んできた好機を生かそうと、考えています。彼が倍売れると考えた大本は、半値で売るということにありました。そのためには、製作費も半額にしなければ利益が出ません。そのためには何をすべきなのか、自身がこれまで吉原で築いた人脈を頼りに情報収集をします。そして、以前からアイデアが思いついたら教えてほしいと頼んでおいた小田新之助から「もう少し薄くならなぬものかと」との提案をされます。分厚い細見は懐に入れたときかさばり、片手に持って歩くには不便だというのです。
集めたアイデアの多くが、自分本位なもののなか、使う客にのことが考えられた新之助の提案は、蔦重の心に深く響きます。持ち運びに便利な半値の細見…つくるべき本の方向性が見えてきた蔦重は、うつせみとの逢瀬一回分の揚代と引き換えに新之助も細見づくりに巻き込むと、いよいよ奔走し始めます。
2.プレゼン2:吉原を動かす情熱の説得
(1)蔦重、魂の熱弁
細見づくりが佳境になったある日、蔦重は忘八楼主たちから呼び出されます。出向いた駿河屋の2階には、楼主一同を前に西村屋与八と小泉忠五郎が控えています。西村屋与八の用件というのは「彼が後ろ楯となり小泉忠五郎が細見の版元になる、ついては改のため各女郎屋を回るからよろしく」というもの。
ただ、丁度、二人の後ろに控えるように映し出される駿河屋市右衛門の疑わしい目つき、扇屋宇右衛門の険しい表情を見れば、話がそれだけでなかったと察せられます。蔦重が参上する前に西村屋から楼主連にろくでもない話が切り出されたのでしょう。与八の目は、その申し訳無さげな態度とは裏腹に冷たいものです。
吉原を手中に納めたい野心を鶴屋に唆され、細見を作ることにした西村屋与八ですが、出来る限り手間隙はかけたくない吝嗇が彼の本質。そもそも細見ごときのために新たに版木を仕立てるのも面倒なのです。ですから、彼がまず向かったのは鱗形屋。元より経営状態が悪いところに偽板で主の孫兵衛が捕縛され、弱り目に祟り目の鱗形屋。心弱くなった内儀の足元を見て、細見の版木を買い叩こうとします。ちびちび小判を並べて、彼女の焦燥感を煽る遣り口に与八の小狡さが窺えます。
幸い、次男の万次郎が「お父つぁんでねぇと決められませんから」ときっぱり拒絶し、目論見は崩れます。興味深いのは、万次郎は後に西村屋へ養子入りし、二代目西村屋与八になるということ。父がいなくても毅然としている利発な万次郎は、与八の印象に残ったのかもしれない…そんなファーストコンタクトかもしれません。
さて、鱗形屋の版木を手に入れ損ねた与八が、番頭の助言で目をつけたのが、以前から細見を出していた小泉忠五郎です。「雛形若菜」で蔦重に甘言を囁いた与八、今回も言葉巧みに忠五郎を取り込んだろうと思われます。忠五郎の細見は、与八曰く「貧乏くさい」装丁。それが西村屋の協力で美しい装丁になり、一時的にでも自分の細見が市中で売り広められるだけでも、忠五郎には渡りに船だったかもしれません。忠五郎は、分を弁え、高望みをしない。与八には好都合の人材だったでしょう。
蔦重は簡単に納得するはずもなく「忠さん、仲間内ではないですよね?うちと同じ浅草界隈の摺物って扱いでしょ」と確認すると「そりゃあおかしくねぇっすか?俺は定めがあるゆえ罷りなんねぇって言われました」と論理的矛盾を突いて、抗議します。しかし、「そう、その通り!」とまったく悪びれない与八は、この反論は想定内。逆に「けど、蔦重にまともな細見が作れるのかって動きも多くてね。仲間内から頼まれて。此度に限り、この形が許されることになったのさ」と、地本問屋の総意をちらつかせ、蔦重に圧力をかけます。与八が卑怯なのは、「自分の本意ではないが仲間内が」と地本問屋仲間を隠れ蓑に自身の欲を隠すというところ。
その見え透いた手口に恐れを抱いたのは、それまで黙っていた楼主たち。大文字屋が「あの…お仲間内から頼まれたってことは…」と問うと「まあ、みんなうちの細見を仕入れるだろうねぇ」と、細見を作っても無駄だと追い討ちをかけ、楼主たちを黙らせます。蔦重を孤立させる算段、直後の「なあ、蔦重。おめえもこっち来て、共に改やんねぇか?」という忠五郎の懐柔は、西村屋の意向に添った合いの手でしょう。
しかし、既に密談を耳にして与八の心底も知り、罠に嵌められたことも記憶に新しい蔦重からすれば、その手は桑名の焼き蛤。わせません。鱗形屋を見殺しにしてまで叶えたい版元になる夢、既に吉原を巻き込んでいます。蔦重の覚悟は生なかなものではありません。怯むことなく「倍売れれば、俺は仲間に入れてもらえるって約束なんで。倍売って地本問屋の仲間入りをします」と突っぱねます。
その強情に「はあ…そうかい」とさほど残念がるでもなく、忠五郎を連れ、さっさと退散します。彼が蔦重を懐柔したいのは、出来る限り無難に事を進めたいというだけのよう。蔦重の才覚を買い、アテにした鱗形屋孫兵衛とは違います。蔦重の野心は警戒しても、蔦重の能力は侮っているのです、
ただ、同じ摺物屋で先輩格の忠五郎は、去り際にあからさまな舌打ちをします。生意気な若造、蔦重をひどく憎んだ忠五郎、後に「俺、気張りますよ」と西村屋に告げています。ある意味では、西村屋の企みよりも、忠五郎の真剣さゆえに、彼らの細見の出来は油断ならないと言えます。
彼らが去った後、蔦重は早速、「親父さま、あいつどんな脅しかけてきたんですか?」と直球で駿河屋市右衛門に聞きます。蔦重は、楼主たちのただならぬ空気を蔦重は察した上で、西村屋たちの懐柔に見せかけた嫌がらせを拒否したのです。市右衛門は「ふん、おめえの細見を買い入れた女郎屋の女郎は「雛形若菜初」には使わねぇってよ」と腹立たしげに吐き捨てます。要は自分に味方をしないと損をするから、蔦重を切れということです。
おそらくこれも地本問屋の総意かのようにして申し訳ない体で話したのでしょうが、明らかに市中の地本問屋よりも吉原を下と見下した発言です。下請けに強く出る元請けのハラスメントと言えば、近いでしょうか。
つまり、西村屋は蔦重を潰すために吉原全体を恫喝してきたのですが、彼にはそこまでの自覚はないでしょう。「雛形若菜」で蔦重をあっさり捨てた楼主たちに味をしめ、こいつらは金で動くとたかを括っているのです。まあ、その判断自体は間違っていませんが、利己的な与八は他人の心の機微に疎い。あのときも、彼らが…特に駿河屋市右衛門が喜んで、地本問屋の意を飲んだわけではないことを見落としていますね。
その脅しに「そうすか。じゃあ、俺が代わりになるもん作ります」と、そんなもんに屈する必要はねぇ、吉原は独自路線で行けると答えます。「あん?」と驚く養父市右衛門の心配を他所に細見づくりへ戻ろうとする蔦重に、大文字屋が苦々しげに「話聞いてたのかよ!はぁ~、こうなったらおめえの細見は扱ってもらえねぇ。どのみち倍なんか売れねぇ!」と吐き捨てます。その苛立ちを隠せない様子からは、西村屋の恫喝な従わざるを得ない苦渋と、何よりも諦めが窺えます。
それは、忘八楼主たちが、蔦重の細見話に乗ったあの日、彼と一緒に吉原由来の地本問屋が生まれる夢を共有してしまっていたことを意味しています。吉原者だからと見下され、地本問屋に加わることを挫かれたことは面白いわけがない。ただ、粗暴な彼は、そのやり場のない怒りを「おめえは版元にはなれねぇ…ってそう言われた…」と蔦重をねじ伏せることで晴らそうとします。
しかし、大文字屋の乱暴な物言いを、彼以上に声を荒げた蔦重が「あいつは吉原のことなんか何も考えてねえんです!」と一喝、老獪な楼主連を静まり返らせます。この辺りから、時折、挿入される座敷のロンドンショットは、座り込んでいる楼主たちを立ち上がった蔦重が見渡して一席ぶつという構図になっています。西村屋の企みに成す術もないと最初から諦めてしまった楼主たちを、蔦重が奮い立たせ扇動しようとする…蔦重が場を支配していることが、画面で表現されています。
さて、一喝の後、声のトーンを落とした蔦重は「あいつの狙いは、吉原の入銀です。入銀本なら、てめぇの懐は痛まねぇ。何なら手も銭も抜き放題。その本で吉原盛り立てようとか、んな考え、毛筋ほどもねぇ。ただ楽して儲けてぇだけなんです」と、西村屋与八の銭ゲバぶりが、あさましい忘八から金をくすねる悪辣なものかを懇切丁寧に説明します。彼の頭には、与八が吉原を「甘い汁」と表したことが頭に浮かんでいるでしょう。
その現実を把握した上で「けど、考えてみてくだせぇよ。奴らに流れる金は女郎が身体を痛めて稼ぎだした金じゃねぇですか。それを何で追い剥ぎみたいな輩にやんなきゃなんねぇんです!」と、地本問屋が立場に任せてやりたい放題搾取する理不尽を涙を滲ませながら訴えます。蔦重の吉原への思いの根本は、河岸女郎のために炊き出しをしてくれと頼んだとき(第1回)から何も変わっていません。苦界に身を沈める女たちが、この運命から逃れられないなら、せめて飯が食べられ、わずかでも楽にさせたい。ただ、それだけです。
今回の細見づくりは、新之助や職人たちをもてなすと蔦重の手元にはほとんど金子は残りません。いい本を作ったという充実があるだけです。それを新之助に指摘された蔦重は「深川、品川で遊ばせろって言われたらあれですが、吉原なら行ってこいなんで」と、自分の儲けが吉原の女郎たちに還元されるなら、願ったり叶ったりだと答えました。感心した新之助は「李白の「静夜詩」のごときだな。蔦重の吉原への思いは」と笑いました。「静夜詩」は、李白の五言絶句で秋の夜、冷え冷えとした霜のような月光をたどりながら、遠く故郷を思うというもの。朝顔の死にざまが気づかせた吉原を支える女郎たちへの思いは並々ならぬものがあります。
興味深いのは、吉原者に似ない蔦重の変わらぬ青臭さを聞いている楼主たちの様子です。第1回では、誰も聞く耳を持たず、果ては市右衛門に階下へ叩き落とされたもの。それが、市右衛門は頼もしく蔦重を見上げて静かに聞いています。いつもすぐに殴りつける大文字屋も神妙です。蔦重は「女郎の血と涙がにじんだ金を預かるんなら、その金でつくる絵なら、本なら、細見なら、女郎たちに客が群がるようにしてやりてぇじゃねぇっすか」と訥々と語ります。
蔦重が、以前と違うとすれば、きちんと強突張りな忘八楼主たちの利益に言及している点です。彼の話は、つまるところ、吉原が生んだ金で作る商品は、吉原に還元されなければ意味がないということになっています。だからこそ、大黒屋りつも思案げ、松葉屋も静かに耳を傾けているのです。
ただ、それをあくまで女郎に寄り添って訴えるのが、蔦重の彼女らへの思い。「そん中から客選ばせてやりてぇじゃねぇっすか」という言葉には、選ぶ自由もなく、酷い男たちに弄ばれ、過酷な環境にある河岸女郎たちのことが脳裏にあることが窺えます。あ、もしかすると、吉原に来る男はイケメンばかりがよいとうそぶいた振袖新造(女郎見習い)かをりの希望も、ささやかに入っているかもしれませんね。
蔦重の成長と変わらぬ青臭さ、その両方がわかっている素振りに見えるのが、扇屋宇右衛門。彼だけは神妙ではなく、蔦重がぶつ口上をニヤリと笑いながら聞いています。いなせだねぇと、その粋なさまと蔦重の成長を楽しんでいる風情が教養人です。
そして、蔦重は笑顔で「吉原の女はいい女だ…江戸で一番だってしてやりてぇじゃねぇっすか、胸はらしてやりてぇじゃねぇっすか」と夢を語ります。それは、幕府の公認だからではなく、自らの手で吉原を江戸随一にすること。楼主たちが願うことでもあります。蔦重は、楼主たちと共有できるような形で、己の夢を描きます。
ここで一息つき、真顔になった蔦重、「それが…女の股で飯食ってる腐れ外道の忘八の…たった一つの心意気なんじゃねぇんですか!」と、西村屋に良いように言われ、やる前から諦めている楼主たちの卑屈さと弱さを責めます。悪辣な楼主なら、それらしくしろい!という半ば叱咤の言葉です。
普段ならボコボコにされますが、今回は西村屋に見下されたばかり…心に響くでしょう。また、第1回note記事でも触れましたが、吉原者は上から下まで世間からは蔑まれる下層階級の人々です。それは一重に、女を食いものにする人非人だから。ですから、そもそも、楼主たちも内心、世間からの蔑みに鬱屈を抱えています。第1回の扇屋の自嘲を込めた狂歌が象徴的です。
蔦重が、どこまで計算して話しているのかはわかりませんが、蔦重の言葉は楼主たちの心に刺さっているでしょう。何故なら、蔦重の言葉が本心から来るものだからです。とある実演販売のプロ曰く、「本当に思っていること」以外は話してはいけないとか。だから、商品を自分で試しているのだと。蔦重は、プレゼンのセオリーを守っているのです。
いよいよ、仕上げ。蔦重は「そのためには他所に任せちゃいけねぇんです。吉原大事に動く自前の本屋持たなきゃいけねぇ。今はその二度とない折なんです」と本題を切り出します。
要点は三つ。一つ、吉原が自立することが、吉原をさらに盛り上げるということ。二つ、その足掛かりになるのが、自前の地本問屋を持つことだということ。三つ、今が最大のチャンス、勝負もせずに終わるのは間違いだということ。このことです。言いたいことを言い切ると蔦重は、居住いを正して座り、「皆さま、つまんねぇ脅しに負けないで、共に戦ってくだせぇ」と丁寧にお辞儀をして、話を締めます。
このように蔦重の話を楼主たちが聞いたのは、彼らの心の機微を刺激し、蔦重の情熱が届いただけではありません。何と言っても忘八、利になることだけが関心事。それでも若輩の熱弁に耳を傾けたのは、蔦重が、「嗚呼御江戸」→「一目千本」→「雛形若菜」と、吉原のために少し成果を積み上げてきたからです。奴の話は儲かるかもしれねぇ、その認識が、彼にかける気にさせたことも留意したいところです。成果がなければ、第1回同様階段下へ叩き落とされたはず。人は情熱だけでは動かないのです。
(2)花の井、決意の裏の恋慕
蔦屋に戻った蔦重は、新之助と次郎兵衛を前に思案げです。西村屋の参加により蔦重の細見は地本問屋では扱ってもらえない可能性が出てきた以上、これまで以上の決め手がいる…そう考えた蔦重は「よし、もっとネタ増やすか」と決意します。皮肉にも与八の姑息な手口が、蔦重のとことんやり抜く情熱に火をつけ、細見の更なる充実につながります。
そんな蔦重が目を着けたのは、半値で細見を買う連中は金がないということ。したがって、彼らは現在、細見に載る大見世にはいけない。ならば、彼らが行ける河岸見世まで全て掲載しようというわけです。これに気づいたのは、以前、次郎兵衛が集めてきた情報にあった「安く行ける見世が載っていない」という客の要望があったからです。河岸女郎を楽にしたい、客の要望に答えられる一石二鳥ですから、やらない手はありません。ただ、それを冊子が薄いまま行うのは至難の業…蔦重たちの凄まじい苦労が始まります。
一方、蔦重の熱弁に「さすがにぐっと来ちまったよ」という松葉屋半左衛門、蔦重のために何か出来ないかと思い、女将いぬ、そして蔦重が大きな賭けに出たことに心を痛める花の井の三人で過去の細見を洗い出し思案します。所謂、年鑑であるだけに仕様に代わり映えがしないなか…いや、それゆえにいねが「見切ったざんす」と閃き「細見がバカ売れするのはは名跡の襲名が決まった時さ。有名な名跡が決まった時の細見ってのはどれもこれも売れてやしなかったかい」と気づきます。松葉屋でもかの瀬川の襲名のときに売れた…盛り上がる松葉屋夫婦の脇で「…ならば…」と花の井は静かに決意します。
それから暫く後…蔦重が、完成した細見を九郎助稲荷に供えて手を合わせていると、「蹴散らせそうかい?西村屋の細見は」と、明るい調子で花の井が声をかけてきます。蔦重は「やれることは全部やった。これで駄目なら江戸中を担いで回る之助だ」と、後は運天だと応じます。その自信の入り交じった開き直りにひとしきり笑った花の井「いいねえ、そりゃべらぼうだ」と賛辞を送ると「うちの女郎の入れ替えがあったんだよ」と1枚の紙片を手渡します。「悪いけど、直してくんな」と事も無げに言う花の井に、連日連夜の苦労で疲労困憊の蔦重、さすがに「んな、お前、直してって…もう綴じちまったよ」と嘆きます。
ただ見た紙切れに「花の井 改め 瀬川」の文字を認めた瞬間、すべてが吹き飛ぶ蔦重。驚く彼に「名跡襲名のときの細見はよく売れるって言うし。しかも、20年以上近く空いた名跡が甦るんだ。直す値打ちはあるんじゃないかい?」と、これまた涼しげに、そして自信に溢れた表情で笑います。「雛形若菜」で呉服屋の入銀が上手くいかないとき、市右衛門が「名のある花魁がいない」という問題点が指摘されましたが、実はその問題は未だ解決していませんでした。花の井による、瀬川襲名は、その問題も解決する秘策でもあります。
しかし、蔦重は「けど瀬川って不吉な名じゃねぇか。んなもん負っちまってお前どうすんだよ」と縁起の悪い名跡を気にし、花の井を心配します。花の井は、そんな蔦重には背を向けたまま「ふ…不吉な訳は最後の瀬川(四代目)が自害しちまったらからだけど、真のところを改めて聞いてみたら、どうも身請けがイヤでマブと添い遂げたかった…ふ、それだけだったらしくてさ」と、縁起が悪いのは迷信と答えます。
しかも操を立てたなら女の一念を通したのだから不吉でもない、というのも花の井の言葉には含まれていそうです。とするなら、今、花の井が蔦重に背を向けながら話しているのは、そんな四代目に対する一種の憧れがあること、そしてこの襲名に対して並々ならぬ決意があること、その二つを蔦重に悟られないためかもしれません。彼女が、その強気な言葉と裏腹に、蔦重に惚れ抜いていることは、今回の襲名は無論、源内にも見抜かれています。正確には源内だけが、この「瀬川」の気持ちを知っています。
ですから「そんな不吉はわっちの性分じゃ起こりそうもないことだし」とうそぶくのは、蔦重の重荷になりたくないという気遣いという名の乙女心、そして、想い人(蔦重)が自分に振り向くことはないと思い込むからでしょう。そう考えていくと、いずれ蔦重自身が花の井への気持ちに気づいたとか…つまりは彼女と相思相愛になるとき。それは四代目瀬川が、身請けか操かに追い詰められたときと同じ状況になることが考えられます。悲恋が予感される二人の間柄、哀しくも辛い決断と別れは近いのでしょう。
とはいえ、只今の花の井にとって、蔦重を想う自分の真は、彼の夢を助けるためと決めています。花の井改め瀬川に、迷いはありません。「わっちが豪気な身請けでも決めて、「瀬川」をもう一度、幸運の名跡にすりゃいいだけの話さ」と、襲名するからには看板に見合った千両役者になってみせるさと、事も無げに言うと、稲荷に手を合わせます。願うは重三の成功でしょうか。
覚悟を覚悟と思わせぬ胆力とキップの良さに、感服するしかない蔦重は「ふ…男前だな、お前は」と賛辞を送ります。たしかに性別に関係なく、花の井には惚れるでしょう。あの男一筋の源内と一夜を過ごせる心は伊達じゃありません。ただ、男前呼びは、花の井の恋心に気づかぬ蔦重の鈍さもあるようで…少しもやもやしますね(苦笑)
とはいえ、惚れ抜く一方で彼と対等でいたいのが花の井。男前で十分。「じゃ、それ頼んだよ」と背中で答えます。さすがに、いつもいつも助けられている自覚はある蔦重は、照れくさそうに「花の井、いつもありがとな」とはにかみます。すると、花の井はくるりと振り返り「前にも言ったと思うけど、吉原を何とかしたいのはあんただけじゃない」と、朝顔姉さんを思う同士さと強調します。本心ですが、やや意地っ張りかもしれません。
そして、千両役者になろうとする「男前」の花魁は、ポンと腹を一たたき、「だから礼には及ばねぇ。けど、任せたぜ、蔦の重三」と、歌舞伎のごと、軽ーく見栄を切ります。あー、これは前回の長谷川平蔵と対比かもしれませんね。どうやっても二枚目半なカモ平と違い、花の井はすっきり二枚目が決まります(笑)どこまでも粋な花の井に「おう、任せとけ」と答えた蔦重、去っていく花の井を眩しげに見送ると…「よし!」と気合いを入れ、いよいよ、地本問屋たちの元へ殴り込みです。
3.プレゼン3:計算し尽くしたプロモーション
蔦重、決戦の場は、鶴屋裏の地本屋会所です。当時の地本問屋は普通の買い付けだけではなく、自前の本を交換という形で仕入れ合う習慣がありました。その場には、おそらく西村屋の細見もあるはずで、それとの比較が勝負の決め手。一同が集まるその場で披露、売り込みをするのが効果的と蔦重は判断したのでしょう。
案の定、西村屋与八と忠五郎の「新吉原細見」があり、その見本を手にした地本問屋たちの評判は上々です。特に小川紙を使った上等な仕立てという売りには、贈答品に使えると高評価。前回、松葉屋でも江戸への物見遊山が増えたとの話が女郎たちの間で出てきていましたが、与八はそうした観光客たちが土産で買っていくことも見越したということです。倍とはいかずとも部数が伸ばせるよう与八なりに時流を読んで、細見を仕立てています。
油断ならない相手ではあるのですね。老舗ならではの売り上げの見立てに格式ある仕立てには、鶴屋喜右衛門も「意気込みが伝わります」と太鼓判。最早、蔦重の細見の付け入る隙はない…地本問屋の意見が一致しようというそのとき…
「いやぁ、遅くなりましたぁ。いやぁ、危うく遅まき唐辛子…なんつって」といつもの軽薄な洒落っ気で現れます。蔦重の当たり前田の地口には、慮外者が来たとばかりに座が白けますが、こうした商売っ気が無さそうな軽々しさは、相手を油断させ、懐に入る蔦重の処世術です。吉原で客の下手に出て接客してきた者が身につけた愛嬌です。
「すぐに支度いたしますんで」と荷を解く蔦重のもとへ、立ち上がった鶴屋喜右衛門が、「楽しみにしてたんですよ。倍売れる細見とやらを」とにこやかに近づいてきますが、その満面の笑みから零れた言葉は、ほとんどが嫌味ですが、わずかに期待もあります。面白い本をつくるという本性があるからです。勿論、自身が太鼓判を押した西村屋と忠五郎の「新吉原細見」にも自信があっての話です。
その嫌味を「ありがとうございます」とさらりと受け流した蔦重、「では…」と懐に手をやると、細見「籬(まがき)の花」をすっと取り出し、「どうぞ」と鶴屋へ差し出します。持ち歩きに便利なコンパクトさが、「籬の花」の売りの一つ。まずは、その薄さを味わってもらおうと、懐に忍ばせた一冊を取り出してみせます。懐から出てくる意外性は商品のインパクト、蔦重の自然な振る舞いは、使い勝手の良さです。意外性を自然に演出する…蔦重の商品のデモンストレーションは、既に始まっています。
これには一瞬驚く本屋たちですが、喜右衛門だけはハッタリに応じず「随分、薄いようですが」と冷静に、その意図を問います。さすがは若くして曲者揃いの地本問屋らを取りまとめる鶴屋喜右衛門。あくまで蔦重を値踏みし、細見の品定めをする…顔は笑っていても冷徹な商人の眼差しです。ただ、売り込みは芝居がかっても、商品はハッタリではない「籬の花」。蔦重は、鶴屋をじっと見据え「ええ、持ち歩けるように薄くいたしました。そもそも細見は歩きながら使うものでございますし」と答えます。
この言葉は、「商品は顧客の要望を汲み取るべし」「商品の使われ方の本質を見失わない」という二つのポリシーを説明するものです。同時に「吉原の外にいるあなた方は細見が何のための品で客が望んでいるかをわかってるんですかい」という挑発でもあります。この点だけでも、贈答品としての付加価値を付けた「新吉原細見」は、細見の利用という本来の目的については従来どおりでしかないことがわかります。つまりは「吉原のことなんか何も考えてねぇ」結果、吉原へ行く客というメインターゲットを見ていないのですね。
顧客を意識した戦略に鶴屋喜右衛門は、驚きが隠せなくなっていますが、わかっていない他の版元は「なんだ、この下品な見立ては」と安っぽい見てくれを笑います。蔦重の工夫なぞ取るに足らない、見映えが悪すぎるというわけです。姑息な西村屋は、この尻馬に乗り「前より薄っぺらだ。中も軽薄なんじゃないかい?」で心配する口ぶり揶揄します。裏で阿漕(あこぎ)を企む彼らしいやり方ですね。しかし、これにも動じない蔦重、「どうでしょう~?」と思わせぶりにニッコリ。蔦重の得意気な顔に押されたか、鶴屋喜右衛門はページをめくります。
すると、そこにはぎっしりと女郎屋、花魁、女郎、禿、遣り手など名前という名前が詰まった圧巻の「仲の町の地図」が広がっています。蔦重が毎日毎日毎日毎日駆けずり回り集めた改が来る度に、新之助が毎回毎回毎回毎回、下書きを破り捨て一から書き直し、あまりの細かさに彫師が苛立ちからノミを投げつけ…そして河岸見世の二文字屋の女郎たちが歌いながら綴じて出来上がったの「仲の町の地図」…さすがに地本問屋一同、全員息を呑みます。
奥村屋「なんじゃこりゃ!」には「全てを入れ込むとこうなりまして」、松村屋「全てへえって(入って)んのかい、これで」には「ええ、河岸の安見世に至るまで全てを入れ込みました」と澱みなく答えると、「女郎屋をにらみ合いの形にするなど、見せ方にも工夫して、何とか収めました」とレイアウトについても解説を加えます。対決姿勢を組み込むというのは、「一目千本」でもやったことですが、たかがガイドブックと侮らず、遊び心を入れる辺りに江戸っ子向けのつくりであることが窺えます。
そこへ「瀬川?!」という松村屋の素っ頓狂な声。驚き桃の木山椒の木とばかりに「瀬川ってあの瀬川か?」との問いに 、ニヤリとした蔦重、「ええ、不吉の名跡として名乗る者はないという瀬川です」と勿体ぶった言い方で返します。瀬川の名跡襲名…それは花の井が、吉原…いや、本音は蔦重のために一肌脱いだ漢気、女気、心意気です。これを利用しなけりゃ蔦重の漢がすたる。不幸を恐れ長年継ぐものが無かったことを強調した上で「先日、それでも名跡を継ぐという花魁が出まして、五代目瀬川の襲名と相成りました」と歌舞伎の襲名よろしく、一礼いたします。
「聞いてないよ!」とどこかの芸人のごとく顔を見合わせたのは忠五郎と与八です。揶揄までしていた自信と余裕が顔から失せています。それをよくよくわかった上で蔦重は「いやぁ、決まったのが遅うございましたゆえ…」と、ここでわざとらしく姿勢を崩すと「ふわぁ…朝まで直して」と大あくび一つ。そしてにやにやしながら「てぇへんでしたよね、西村屋さん」と、初めて自分から西村屋たちに話を振ります。「そちらさんも瀬川襲名を細見に入れるため作り直したでしょ?」という体ですが、西村屋「新吉原細見」にあるはずがないとわかっての発言。何せ、花の井から直々の極秘情報、「籬の花」に関わった者以外は知る由もないのですから。
痛いところを突かれ、ごにょごにょと言い澱む西村屋たちへ、「え?そちらの細見には載ってないんですか?」とさも驚いた風に、畳み掛け、「新吉原細見」の不備を露わにします。最大の売りななる名跡襲名がないこと…たかが花魁一人の情報では片付けられない致命的な問題にばつの悪い西村屋与八。先ほどの「中は軽薄」という西村屋の嫌味への痛烈な意趣返しにもなっていますね。
気張ると意気込んだ小泉忠五郎は、改に対して全力を尽くしたでしょう。自分のプライドをかけた確かな代物だったと思われます。後年、忠五郎は蔦重の元で耕書堂の細見改方を務めています。忠五郎の仕事の堅実ぶりを認めてのことと思われます。にもかかわらず、改で蔦重が一歩先んじたのは、忠五郎はたった「一人」で改をしていたからです。この「一人」には二つの意味があります。
まず文字通り、忠五郎は一人で改をしていたということです。西村屋と組んではいますが、仕立ては西村屋、改は忠五郎と完全に分業。助言を得ることはなかったでしょう。しかし、蔦重は改の情報集めこそ一人で粛々やっていますが、そこには各見世や女郎たちとのつながりが存在します。また集めてきた改を下書きとして書き起こす新之助がいてくれたことも蔦重の支えになりました。蔦重は「一人」で改をしていない。ダメ押しとなった瀬川襲名の提供も、蔦重と花の井の絆の賜物です。
もう一つは、忠五郎の改を支えたのは、昔から細見をやっていたという彼個人の摺物屋としての意地だけという点です。彼は自分一人のために改をしているのです。一方、蔦重の改を支えたのは、女郎たちが客を選べるほど吉原が繁盛することと、吉原細見を使う客の気持ちです。彼は、版元になりたいという決意はあっても、細見づくりの根本は女郎と客に置いています。自分という内ではなく、多くの人々の思いへ向いています。
この点については、西村屋与八も同様です。吉原から得られる利潤しか頭にない与八は、細見の中身は新しくなっていればどうでもよく、おそらく忠五郎があげてきたものを自分で確認することはなかったでしょう。彼にとって細見は、吉原を取り込む足掛かりであって、細見一つ一つが売れた後、どう使われようが関心がありません。自分一人にしか向いていない細見づくりと吉原と客の双方に向いた細見づくりとでは、自ずと勝敗は見えてきます。
瀬川襲名が予想以上に効を奏し、立場が逆転した蔦重「まあ、仕方中橋、吉原の外にいる方に応じろというのも難しいでしょう」と笑顔で慰めるような言葉をかけます。これは西村屋への意趣返しではなく、この機に乗じて、吉原絡みの商品は吉原者に任せたほうが、天の利、地の利、人の和があると耕書堂の強み、プライオリティを表明したということです。つまり、版元になった場合の自分の価値を示すことで、地本問屋たちにも利益をもたらすと言っているのです。この自信に満ちた反撃に鶴屋は笑顔を張りつけたまま色を失い、地本問屋一同も押し黙るしかありません。
既に情勢は決まりかけていますが、蔦重は手を緩めません。何故ならここからが、蔦重のプロモーションの要だからです。蔦重はおもむろに与八に「籬の花」を2冊を差し出します。訝る与八ですが、「とっけぇて(取り替えて)くだせぇ、細見1冊と」と真顔で蔦重に言われ、ますます困惑します。「うちは薄っぺらで粗末なもんで随分安く作れまして」と、先ほどの揶揄を逆手に取った発言をした蔦重は、ここで立ち上がり、周りを見渡し「皆さまにも従来の半値で売っていだきたく」と半額販売を宣言します。
西村屋への交換のくだりは、単なる前振り。既に瀬川の件で腰砕けになっている西村屋を宣伝のダシに使ったのです。蔦重からすれば、半値で売ると決めたときから、中身で勝負、仕立てなどは切る算段があったでしょう。つまり、最初から見てくれの弱点は承知の助というもの。ですから、仕立ての粗末を自ら半値を強調するために利用し、反論を許しません。
因みに、細見半値は、今回の計画の出発点であり、要です。にもかかわらず、最初から半値を売りにしなかったところに蔦重のプロモーションの工夫があります。最初から半値だと言われると、安かろう悪かろうの印象がつきがちです。結果的に持ちやすさなどの美徳も安さに紐づけされ印象が悪くなります。ですから、先に全店掲載と瀬川襲名で中身の充実、使い勝手の良さといった長所を強調しておきます。
皆が中身の魅力を納得した上で価格設定の話をすれば、「これほどの充実した中身で半額?!」と、安さは一番の強みとして、地本問屋たちに響くのです。つまり、同じ話をするにしても、話す順序によって印象が変わることを蔦重は、よくよく理解しているのですね。これは、蔦重がこの商品を熟知しているからこそ、出来る手です。実演販売の人は、売る商品はまず自分が購入して使用し、理解してから販売に臨むのだとか。蔦重の商品に対する真摯な姿勢は、商売の基本と言えるでしょう。
さて「半値?!」と驚愕する一同へ、蔦重は「ええ、この細見は巷のありふれた男たちに買ってもらいてぇ」と最後の仕上げにかかります。つまり、倍売れる理由は中身と価格に加え、江戸市中にいる潜在的購買層を掘り起こすことにあるというわけです。いつ、どれだけ来るかわからない観光客をアテにした「新吉原細見」の狙いよりも既に江戸にある人間をターゲットにする「籬の花」のが確実性が高いのは明白でしょう。
「そのときに48文か、24文かは大きな違ぇだ。48文なら見送るど24文なら必ず買う奴がいる」と、ターゲットの心理にまで読む蔦重の言葉には、顧客ファーストの理念すら窺えます。基本を押さえた隙のない商品開発をしてのけた蔦重に、西村屋与八はようやく悔しさに顔を歪めますが、隣で見切れている鶴屋喜右衛門の呆気に取られた表情も印象的です。まさかにここまでやれるとは、予想していなかったのだと思われます。
さて、蔦重のプロモーションは最終段階。「半値なら隣の親父の分まで買う奴もいましょう。しかも、これは世に聞こえた名跡、瀬川の名が載る祝儀の細見!」と、「籬の花」は縁起物だとダメ押しして、見栄を切ります。ここで静かな表情に戻した蔦重は、座る鶴屋喜右衛門を見下ろし、「どうでしょう、俺の細見は倍売れませんかねぇ」と裁定を求めます。
おそらく蔦重を仲間内に入れたくない喜右衛門の本音は、「籬の花」を認めたくないでしょう。しかし、地本問屋たちを取り仕切る大店の版元、鶴屋としては、その商品を冷静に正しく見定める眼力こそが、地本問屋の矜持。それで成功を納め、暖簾を守ってきたのですから。また、彼自身も面白い本こそが、正しいという地本問屋としての本能も持っているはず。ですから、私情で見る目を曇らせることだけは、絶対、出来ません。
結局、鶴屋喜右衛門は、内心の衝撃を押し隠し、満面の笑みを貼りつけて「売れるかもしれませんねぇ」と、版元として太鼓判を押すより他ありません。この件に関しては、敵ながら天晴れと言う以外になかったのですね。
「よっしゃあ!」という蔦重のガッツポーズを皮切りに「100部!100部くれ!」と我先にと注文したのは岩戸屋源八です。それを皮切りに注文が殺到。蔦重の見事なプロモーションに圧倒され、商品の魅力に納得したところでの、鶴屋からの太鼓判。利に聡いのが商人の本質、「すまねぇな、西村屋さん」などと謝りながらも『籬の花』を大量に仕入れる地本問屋たちには、仁義の「じ」の字もないでしょう。まさに前回のカモ平の言葉どおり「世の中そんなもん」、成功した者がまずは勝ちなのです。つまり、弱肉強食の世界へ、蔦重が本格的に入り込んだということになります。
おわりに
こうして、地本問屋の陰謀を出し抜き、吉原の人々の心を焚きつけ、蔦重は見事、成果を出しました。その丁々発止のさまは、痛快とも言えます。しかし、利益を貪る商人の世界とは、結果がすべて。欲望を叶えた者だけが生き残る過酷な世界です。
前回note記事でも触れたとおり、この世はすべての人の欲や夢を満たせるようには出来ていないからです。この度も、蔦重が己の夢を叶える確実な一歩を踏み出したことで、西村屋与八は吉原を抱え込む野心を挫かれ、蔦重に引導を渡すつもりで「倍売れば版元に」と受けた鶴屋喜右衛門の面目を潰しました。
「雛形若菜」の一件での喜右衛門の蔦重を見下した言動からは、これまで蔦重を取るに足らぬ吉原者と軽く見ていたように思われます、「雛形若菜」で憤る彼を見ても、西村屋のおかげで出せただけとたかを括っていたのでしょう。その油断が、今回、蔦重の台頭を招くことになりました。
皆が「籬の花」注文で湧くなか、一人うつむいたままの鶴屋喜右衛門は「倍売れるかもしれませんが…」と、蔦重にしてやられたらことへの悔しさを滲ませています。たしかにどこかで面白い細見をつくってくるのではないか、という期待もあったでしょう。しかし、それは少し出来が良いくらいのことだったはず。ここまで完膚なきまでにやり遂げるの予想外。ですから、悔しさだけではなく、彼を甘く見た自身への怒りもあるでしょう。それは、つまり鶴屋喜右衛門は、今後、蔦屋重三郎を油断ならぬ存在として明確に意識し、彼の志を阻もうとするということになるやもしれないのですね。
「籬の花」の成功は、たしかに蔦重の道を拓きましたが、一方で新たな敵を生んだかもしれません。成功は新たな試練の始まり…それを象徴するように…ラスト、須原屋市兵衛に抱えられ、鱗形屋孫兵衛が戻ってきます。鱗形屋の不在を突いた蔦重の策は、鱗形屋が抜けた枠に自分が加わるというもの。鱗形屋の帰還は、鶴屋らが蔦重を仲間に加えない理由には好都合です。となると、駿河屋市兵衛の危惧したとおり、蔦重の版元への道は再び閉ざされるでしょう。しかも鱗形屋は起死回生を狙ってきます。いやはや、人生は、ままならぬ、不可思議なものですね。