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「光る君へ」第42回 「川辺の誓い」 二人が生きていくための「宇治十帖」

はじめに

 人は心から老いる…という話を聞きますが、これはどういうことでしょうか。個人差はかなりあるものの、人は生き続ける限り、老いから逃れることはできません。そして老いとは、単純に言えば、出来ないことが増えていくということです。身体が効かない、集中力が続かない…などはその代表的なものだと言えるでしょう。私も前述の二つに加え、最近、とみに失われているのが記憶力です。昔はメモなどまるで取らなくても覚えていたものですが、今や話している傍から忘れます。困ったものです(苦笑)

 ただ、出来ないことが増えていくこと、つまり能力が若いときより衰えていくことはマイナスばかりでしょうか。若いときは、後先考えず無茶をすることが多々ありますが、それは見方を変えれば、自分のことをよくわかっていない愚か者ということです。こう考えると、逆に老いてきたとき、身体が効かない、集中力が続かない…と感じることは、実は自分のことを客観的に見られるようになった。自分を理解し始めたということだと言えるでしょう。

 したがって、老いたとき人は初めて自分を俯瞰して見つめ、そういう自分が幸せに生きるにはどういう選択をすればよいのか、何をすればよいのか。生き方の質を変えていくことができるようになるのです。こう考えてくると、「人は心から老いる」の一面が見えてくる気がします。

 つまり、老いたことをネガティブに不幸とだけ捉えるのか、それとも老いをポジティブに捉え、新しい質の高い生き方を模索するのか、その差が大きく出るということではないでしょうか。ポジティブに捉えるということは、前向きに受け入れる場合もあれば、負けん気という場合もあり、人それぞれです。しかし、共通するのは、何か目標ができることでしょう。それは、生活における小さなことでも構いません。それを持っているだけで、生き生きとしてくるように思われます。

 「光る君へ」の道長とまひろも中年期を迎えました。非情の政に生きてきた道長は、そのなかであまりにも傷つきすぎ、自身を追い詰めて病に倒れ、生きる気力を失ってしまいました。一方のまひろは、ある程度やるべきことに結末が見えてきたことで、目的を見失い、どう生きていくべきかに彷徨しています。
 そこで今回は、まひろと道長の中年期の危機がどういうものなのか、その経緯を追いながら、二人が新たな道を見出すまでを考えてみましょう。


1.道長、権勢の代償

(1)息子の将来を潰した罪を思う

 1012年は、道長にとって波乱含みの始まりとなります。正月早々、顕信が出家してしまいます。この件については、前回に詳しいですが、三条帝との政治的駆け引きのなかで、三条帝から提示された顕信の蔵人頭就任を固辞、それを儚んでの出家です。彼が必要以上に野心を高ぶらせていたこともあり、昇進の機会を一度失っただけで、自分を追い詰めてしまったというわけです。極端な行動はの直接的の原因は道長の固辞ですが、明子が道長の深謀遠慮を理解せず、息子の前で詰ったことも顕信の心理には大きく作用しています。その点は、前回noteで触れたとおりです。

 しかし、そんな自覚などあろうはずもなく、ただ息子を溺愛する明子は、「貴方があの子を殺したのよ」と、強い語調で詰め寄ります。さすがの道長も、この始末は予想外。顕信の心中を思い遣れず、結果的にその将来の芽を摘んだことに自責の念があるのか、責め立てる明子の言葉に反論することはありません。それが、余計に冷たいように見えたのでしょうか、明子は「返せ、顕信を返せー!返せー、返せー、顕信を返せ!返せー!」と半狂乱の末に失神してしまいます。

 元々、凄まじく激情家の明子ですから、こうしたことは起こりかねないことですが、ただでさえ顕信の出家に慚愧の念に駆られれている道長にとっては、いかに自分の政治判断が家族を苦しめているのかをさらに目の当たりにするものだったでしょう。すぐさま「しっかりいたせ」と介抱しようと試みる道長ですが、異常事態に駆け寄ってきた頼宗に事情も話せず、ただただ申し訳なさげに、明子の顔に手をやるのみです。


 顕信出家の報は、早速、枇杷殿の皇太后彰子のもとへも頼通、教通兄弟によって伝えられます。寝耳に水の彰子は「な…何と…そのような様子は全くなかったではないか!」と驚きます。先日、兄弟の絆を回復しようと計らった矢先のことです。招かれた顕信は、彰子から見れば、緊張からかおとなしく、神妙な態度でしたから、まさかにそんな極端な言動をするようには思えなかったでしょう。

 「何があったのだ」という問いに、頼通は「より父上に顕信を蔵人頭にしたいとの仰せがあったのですがそれを父上が固辞なされたそうでございます」と言いづらそうに理由を述べます。父道長を庇う気持ちが先立つからでしょう。道長が息子の思いをないがしろにした結果だというその説明に、彰子の傍に控えていたまひろも軽く驚いた表情になります。政治的な駆け引きとはわかるものの、優しい彼がどうしてこんなことに…というところでしょう。

 まひろとは対照的に彰子の表情は厳しいものがあります。敦成が東宮位になる経緯において、道長から自身の思いを踏みにじられ、立場をないがしろにされた経験を持つ彰子にとっては、他人事には思えなかったのではないでしょうか。同時に彰子のことです。まだ関係が深くなかったとはいえ、もっと早く声掛けしていれば、この事態を防げたのではないかという忸怩たる思いもありそうです。

 重苦しい空気を感じた教通は「無念な気持ちはわかりますが、蔵人頭になれなかったからといって現世を捨てるのはやりすぎでしょう」と兄の様子を見ながら答えます。なかなか出世の機会に恵まれていない高松殿の子どもたちの心情を思えば、やや配慮に欠いた物言いとも思えなくはありませんが、あくまで顕信の問題であるとすることで、道長や彰子が責任を感じることではないとする彼なりの気遣いでしょう。頼通も、教通の発言の真意を汲んでか、「父上も傷ついておられます」と言い添え、責めないよう釘を刺します。

 そこまで言われて、彰子も息をつき、やや緊張を解きます。たしかに予想外の事態に道長が、ショックを受けているだろうことも間違いないと思い当たるからです。道長は、左大臣として非情で冷徹な政治家ですが、父の情を完全に失っているとまでは思えないでしょう。まひろは、そんな彰子の冷静で大人な反応を窺った後、まひろは自身の物思いの表情になります。このようなことになった道長の心境は、どのようなものか、心配になるのでしょう。道長は、局に来たときにその弱さを見せようとはしないでしょうから、尚更に気になると思われます。


 高松殿には、兄である俊賢が駆けつけます。慌てた様子でやってきましたが、明子の閨に近づくと寝込んでいる彼女を気遣い足音を立てぬようゆっくりと渡りを進み、そっと御簾の隙間から様子を窺います。細かな描写ですが、こうしたちょっとした気遣いに俊賢の妹を案じる気持ちが表れていますね。憎まれ口しか叩かない、気の強すぎる妹ですが、その内心が極めて脆いことを彼はよくわかっているのでしょう。

 床に伏したまま一筋の涙を流す明子を見て、既に目が覚めていると確認してから、彼は妹の傍らへすっと座ります。彼にしても甥の突然の出家は、この家の未来を思うとショックでしょう。しかし、落胆のため息を漏らしながらも、「顕信は残念なことであった。されど、内裏の力争いからら逃れ、心穏やかになったやもしれぬ」と妹を慰めるため、最大限、言葉を選びます。

 顕信のナイーブな心は、おそらくはこの先の権謀術策が飛び交う内裏の駆け引きに世界は耐えられなかっただろうと察しての言葉です。俊賢自身、藤原家への怨恨を捨て、我が家のために雌伏のときを経て、ここまで来たのは、己の才覚だけではなく、多大な自制心と理性的な対応があったからです。世の厳しさを知る彼は、それがないのであれば出家も一つの幸せであると、明子を諭してもいるのですね。

 心ここにあらずの明子は、声も絶え絶えに「比叡山は…寒いでしょう。身一つで行ったゆえ…」と独り言ちると、不意に顕信の今の様子を想像してしまったのでしょう。感極まり、すすり泣き「こ…こ…凍えてはおらぬであろうか」と案じます。兄の言うことももっともなれど、その生活の物理的な厳しさに思いを馳せた明子の顔つきは、土御門殿の倫子への対抗意識を燃やす自尊心という憑き物が落ちた母のものです。
 明子は、俊賢へ顔だけ向けると「兄上、暖かい衣をたくさん、たくさん届けに行ってくださいませ」と懇願します。取り返しのつかないことになった今、してやれることはそれだけです。彼女の心中を思うとやり切れない俊賢は、返す言葉もありません。

 一方、同じことを考えていたのでしょう。土御門殿では道長が。自ら冬用の衣を数多く整えています。彼もまた取り返しのないことになり、せめて顕信の選択を支えるため出来ることをしようということでしょう。淡々と「明日これらを比叡山に届けよ」と命ずる道長を百舌彦は悲痛な面持ちで見上げますが、百舌彦ナメの切り返しショットの道長は、百舌彦と視線を合わせてはおらず、伏し目がちのまま下のほうを見て、物思いのなかにあるようです。

 道長を取り込もうという三条帝の提案を固辞したことは、政治的に正しかったことは間違いではなかったでしょう。しかし、人情から離れたその正しさは、個人の幸福を約束しません。いかなる政治判断も反動が起きる…そのことは長徳の変でよくよく思い知ったことです。ですから、道長は配流の憂き目に合う伊周と彼から引き剥がされる貴子のさまを、自らの責任と引き受けるために見届けたのです(第21回)。
 しかし、こうした反動が、息子の将来を摘むという形で訪れたことは予想外であり、その衝撃は思っていた以上だったでしょう。敦成を東宮にしたときに愛娘、彰子の想いを踏みにじったことも、その後、呆然として縁側に佇むほど彼の心にダメージを与えました(第40回)。今再び、心ならずも我が子の心を深く傷つけたこと…この罪を思う道長の胸中は孤独です。

 一方、政治にかまける道長が、我が子と積極的にコミュニケーションを取るなど心を砕いてこなかったことも、今回の事態の大きい理由です。その点は情がないと責められるのも自業自得とは言えます。彼は、実際のところ、まひろしか見えておらず、二人の妻もその間になした多くの子もまひろとの約束のための道具としている冷たさがどこかにあるからです。彼は二重三重に罪深い…そのことは道長自身もよくよく痛感しているように思われます。


(2)娍子立后をめぐる駆け引きによる心労

 政局は道長に感傷を許しません。あくる2月、帝から「妍子を中宮とする」という思いがけない歩み寄りがありました。元々、妍子の入内は、この時期、后は娍子しかおらず(道隆の娘など他の后は早逝)、中宮になれる身分の娘がいないことにつけ込んだものでした。ですから、この展開は当然あり得るべきことでしたが、ようやくそれを帝が認めた形です。政治的に融和の可能性を感じた道長が、思わず安堵の笑いを漏らしてしまうのは、この政治的対立における心労が顕信出家で頂点に達していたからでしょう。

 「ありがたき幸せに存じます」との道長の謝辞に対して、三条帝は「中宮彰子さまには皇太后とおなりいただこう。中宮大夫を道綱、中宮権大夫を教通とせよ」とさらに道長に阿るような人事を計らいます。道綱と教通は、三条帝の側近に任じられた二人が妍子の大夫になるというのは筋が通っています。二人に三条帝とのパイプ役を務めてもらうことを考えれば、この人事は断る点はなく、道長はありがたく拝命することになります。
 しかし、前の娍子への女御宣下という先例破りが何を狙った布石であるのか、そこを読めなかったことは、道長にしては迂闊だったように思われます。中宮にできるのは妍子しかいないという思い込みがあったのでしょうが、顕信出家による精神的ダメージもわずかながら、その政治的な読みに翳りをもたらしたかもしれません。


 ひと月後、三条帝は「娍子を皇后とする。一帝二后をやってのけた左大臣だ、異存はあるまい」と道長に命じます。三条帝も顕信を蔵人頭にすることで道長を取り込もうとした一件の失敗から学ぶところがあったのですね。自分の意を通すため、わかりやすい懐柔策を出すことは、道長には効果的ではありません。ですから、こちらの真意は一旦、出さず、先に道長がもっとも欲しているものを与えることにしたのです。これまでの「これをやってくれたら褒美をやる」ではなく「気づかぬうちに先に褒美を与えて、こちらの命を断りにくくする」という逆の発想に転じたのです。

 三条帝が狡猾なのは、中途半端な餌を撒かず、道長がもっとも欲しがるもので油断させたこと、そして道長の先例破り、一帝二后を利用してみせたことでしょう。ただ、一条帝があれほど苦悩した一帝二后を、自ら口にする三条帝の言動は、目的のためならば手段を選ばない冷徹さ、先帝に対する配慮のなさといった自分本位の性格が窺えますね。基本的に彼は、駆け引き以上の他人への譲歩はせず、我を通すと思われます。

 道長は「それは…難しゅうございます。恐れながら近年では大納言の息女が皇后になった例はございません」と先例を盾に拒否しますが、御簾奥の三条帝は、やはりな、という表情。これまでの道長のやり取りから、道長がこういう手を使ってくることはわかっているということでしょう。
 ですから、「それでも朕は娍子を皇后としたい」との言葉は、穏便な依頼を装った最後通牒です。しかし、御簾越しにはそうした三条帝の意を読めなかった道長は、「うーん…」と一旦考えるふりをした後、ふんと一笑して真顔になると「できません」と断言します。自分の優位を疑わない反応ですね。


 これも予期していたであろう三条帝は、ここでようやく「そなたがこれを飲まぬなら朕は二度と妍子に元には渡らぬ」と伝家の宝刀を抜くと、立ち上がり、道長を見下ろし、「渡らねば子はできぬ。それでも良いのか?」と脅しをかけます。前回noteでも触れましたとおり、妍子入内は道長にとっては敦成親王以降の保険ですが、それを受け入れた三条帝にとっても彼女は政治的な道具ということ、諸刃の剣です。彼は妍子を中宮にしたときの道長の反応から、彼の目論見を再確認したうえで、もっとも痛いところを突いてきたということですね。

 もっとも欲しがるものを与えておいて、もっとも痛いところを突く…手段としては上々。道長は完敗です。一条帝は、女性を政治の駆け引きとして積極的に使うようなことをする人ではありませんでしたが、三条帝は躊躇がありません。道長は相手を甘く見る我が身の油断から、三条帝の術中に落ちてしまいます。こうして、娍子皇后誕生というカードを三条帝は手にします。それは敦明親王を東宮にするための必須の条件でもあります。

 しかし、道長は個人の才だけでここまで権勢をつかんできたのではありません。味方となる政治的ブレーンたちがいます。土御門殿へ”四納言”の公任、斉信、行成、俊賢が集めると早速、対策を練ることになります。腕を組み静かに座す道長は、彼らの意見をまずは聞こうという姿勢です。
 「このままでは帝のやりたい放題だな」という斉信の言葉、苦々しく酒を飲む公任の様子から見られるように、三条帝の強引の遣り口自体には、彼らも危惧を覚えます。三条帝の狙いの一つが、天皇親政であることは言うまでもありませんが、過去のそうした意向は公卿らとの良好な関係、つまり彼らの意を汲んでいたからこそ巧くいっていたものであり、帝が強引に進めたものではありません。ですから、彼らにしても、公卿らを意のままに操りたがる三条帝は好ましいものではありません。狡猾な分、花山帝のわがままよりも質が悪く映るでしょう。

 認識を同じくしたところで、「ならば娍子さま立后の日に中宮妍子さまの内裏参入をぶつけてはいかがでしょうか」と俊賢が具体策を献じます。かつて中宮定子の出産に対して道長が彰子入内をぶつけた手段(第27回)の発展型です。つまり、立后の儀と内裏参入の祝いを同時開催し、立后の儀に公卿らを参加させないようにしようというわけです。それは、娍子皇后が誕生しようと、公卿らの総意はこれを認めないという意思表示にもなります。行成は、俊賢の進言に驚きつつ、帝との対決姿勢を強めていくことを危惧し、道長の真意を窺います。しかし、道長は言葉を挟まず、静かに彼らの意見が出尽くすのを待っています。

 俊賢は「帝に左大臣さまの力を見せつける、またとない折にございます」と、三条帝への今後の牽制にもなると付け加えます。公任は「たしかに…公卿らの考えていることははっきり見えるな」と、今後の政局を考えれば、誰が味方で敵であるのか、見定めておくのも賢明だろうと、俊賢の意見に賛同する意も含めて、策の有効性に一言加え、道長の判断を仰ぐように彼を見ます。一石二鳥というわけです。道長もこれを一瞥するように見返します。

 行成だけは、公任の意見を受け「そうまでして皆の心を試さずともよろしいのではございますまいか」と異論を口にします。彼は、道長の政の美徳が、他者の異論を受け入れる寛容さにあったこと、公明正大さにあったことを理解しています。しかし、敵味方を峻別する、脅しをかけるという今回のような策は、その真逆をいくもの。公卿らの信頼を損なえば、かえって道長が求心力を失ってしまうのではないかと危惧しているのです。彼は彼でどこまでも愚直に道長を案じて献策しています。

 意見が出揃ったところで、俊賢の腹案以外に有効な手段はないことがわかってきます。他に手がないのであれば、道長としては意を決するしかありません。「俊賢、公卿らへの根回しを頼む」と謀臣への依頼で決断を示します。応じる俊賢の声がするなか、行成だけが残念そうな表情が隠し切れません。彼だけは。道長の決断に潜む、これまでなかった周りへの猜疑心という心の闇を感じているように思われます。道長が変わっていく…そのことに心を痛めているのでしょう。


 道長の対抗策を娍子の弟通任から聞いた三条帝は「左大臣め、そう来たか」と敵も然るものと苦笑いをしますが、「ならば、時をずらそう。妍子の内裏参入は夜であるから、娍子立后の儀は昼から行う。さすれば、公卿らはどちらにも参れるであろう」とすぐに対策を講じます。通任からの「さすがお上、それがよろしゅうございます」との褒め言葉に満足げ、自信を覗かせる三条帝ですが、彼は公卿らの欲深さが帝の権威を上回るものであることを、まだわかっていません。小手先の駆け引きであればともかく、長年、政の頂点に立ち、彼らの飽くなき欲望と対峙して、実務を進めてきた道長に及ぶところではありません。

 結局、雨の降るその日、娍子の立后の儀に人が集まらず、三条帝は慌てふためくことになります。皆、左大臣に遠慮して出席をしなかったのです。特に彼を困らせたのは、右大臣顕光と内大臣公季が参列しなかったことです。記録によれば、顕光は「所労(病)」、公季は「物忌」を理由にしていたということ。道長側にも参加せず、政治的な中立を保った形になるでしょう。

 「右大臣も内大臣もおらねば立后の儀の承継を務める者がおらぬではないか…」と苛立ち、焦っているところに、大納言実資が現れます。「小右記」では、右大臣、内大臣が来ないため、呼び出されたと記録されていますが、「光る君へ」では儀式典礼に詳しく、道理と先例を弁えた実資の実直さゆえに、立后の儀にも参加したというところでしょう。三条帝は、前回、自らが内裏に入る儀について、実資を退けて公任に命じるなど、先帝に重用された実資を遠ざけようとしていました。しかし、今はプライドにこだわっている場合ではありません…というか、天からの助けに見えたでしょう。自分が遠ざけてきたことも忘れて「おお…実資、そなたに立后の儀の承継を務めてもらいたい」と懇願します。

 「え?私がでございますか?」と驚く実資は、首を振る通任を見て状況を察します。「そなたが務めねば、娍子は立后できぬ」とまで言われては仕方ありません。「承知しました。天に二日なし、土に二主なし」と道長を恐れる必要はないと励まし、引き受けます。こうした権威を恐れない実資に三条帝は肩を叩き感謝の意を示します。今更に頼りになるのが実資と気づいたのでしょう。

 ともあれ、儀式こそ成立したものの、その宴は寂しいもの。参加した公卿は、実資、隆家、懐平、通任の4名だけという寂しいものでした。あまりの侘しさに、御簾越しに娍子を窺った実資は、気遣いと同時に政の不穏を実感したのではないでしょうか。因みにつまらなそうに食事を口にする隆家が、この場に表れたのは、皇后大夫を任じられているからで出席せざるを得なくなっていたからです。道長への他意はありません。


 一方、昼間から開かれた妍子の内裏参入は、道長の実家、東三条殿で行われました。宴も酣(たけなわ)、斉信が「これからも我々で中宮さまを盛り立てて行こうぞ!」と調子よく音頭を取っています。皆の笑いが響くなか、道長の眼差しは御簾奥の酒をひたすらに飲みまくる妍子に注がれています。その爛れたような態度は、宴好きにかかわる浪費癖の結果です。彼女の浪費癖の根本は、望まぬ入内への鬱屈から来るもの。結局、道長はここでも娘を政治の道具にして、不幸にしているに過ぎません。出家した顕信と何が違うというのか…そんな空虚な思いが、宴という席のなかで際立ってくるばかりなのでしょう。

 彰子の入内が上手くいったのは、彰子自身の性情と一条帝の変わりたいという思いを、まひろの「物語」が上手くサポートしたからです。それは、偶然が重なった結果論です。その彰子の気持ちすらも、蔑ろにし、彼女の恨みを買って、ここまで来ています。此度の三条帝との駆け引きも政争の通過点です。妍子に幸せが訪れることを保証していません。となれば、今後も彼女はこうして乱れた生活をしていくのでしょう。やり切れない思いが、道長にはあるのではないでしょうか。


 ですから、「さあ、皆、存分に食べて飲んでくれ」「それは斉信さまがおっしゃっることではありません(笑)」「と、道長が思っておる、なあ、道長?」という冗談の楽しげなやり取りも耳に入っておらず、「なんだよ、晴れの日に浮かないような顔をして?」と斉信を戸惑わせます。「そのようなことはない」と取り繕う道長を、行成だけが心配そうに見ているのが印象的ですね。道長は、俊賢からの酒を受け、鷹揚に振る舞うものの、眼差しはどうしても乱れ放題の姸子に注がれてしまいます。しかし、後戻りはできません。道長は迷いを振り切るように無理に飲み干します。

 娍子立后はこうして道長の妨害によって形ばかりにされることで、道長優位の形で収まります。道長は、政における自らの権威を盤石にし、それを三条帝に思い知らせたことになりますから、三条帝の攻勢を防ぐ一手になるはずです。しかし、駆け引きに勝ったはずの道長の心のうちはまったく晴れません。子どもたちを犠牲にしているという実感が、本来のナイーブな道長の心情を苦しめているからです。政権が盤石になればなるほど、道長の胸中は荒んでいくというジレンマに道長は陥っているのですね。


 翌日、実資は自邸にて、昨年、生まれたばかりの千古を変顔であやしています。視線を合わせない千古が「面白―い」と棒読みしているのがおかしく、母親が「妙なことを教えないでください」と言っているのが上手く効いていて笑えます(笑)この千古は、実資が50歳を過ぎてからの子ということもあり、実資はこれを溺愛し、自身の財産のほとんどを彼女に残したと言われています。最終的に道長の孫に嫁ぐことになります。

 さて、そこへ養子の資平が「父上、帝が大層、お喜びでございました」と喜び勇んでやってきますが、「あの日のことなら思い出したくない」とにべもなく、娘に夢中の様子を示します。不満げな資平は「帝から父上へのお言葉をお預かりしております」と述べ、義父の気を引きます。さすがに無下にもできず、千古を母と共に下がらせて、改めて聞く実資へ、「やっと帝になれたゆえ政を思いっきりやりたい。左大臣にあれこれ言われたくない。それに然るべきときが来れば、そなたを私の相談役にしたいと思っていると」と資平は伝えます。この三条帝の言葉は、「小右記」にも残るもので、立后直後の大きな感謝が示されています。

 しかしこの言葉に苦笑いした実資は「この前は行きがかり上、立后の義の承継になってしまったが、私は私であって帝、左大臣殿、どちらの味方でもない」と、自分は権勢に阿らず、己を貫くと言い切ります。そのうえで「帝も調子のよいことを」と皮肉るのが実資らしい慧眼です。
 そもそも、実務から遠ざけ簡単な相談役に押し込めたのは三条帝です。自分の意に沿ったからと安易に自派に取り込もうとする安易さは浅ましいにも程があります。この発言自体に、三条帝の人事の本質が、自分が利用しやすいか、敵か味方か、という自分本位の発想であることが窺えます。人間性や能力を公正に見て判断しない、適材適所という観点に欠ける三条帝の思考は、実資の目指す政とは質を異にするでしょう。

 また、将来的な相談役を期待する三条帝の申し出に嘘はないでしょうが、大臣など実務にかかわる権限を与えるところまで踏み込んだことまで言っていません。口約束であっても、権勢を与える言質を取らせないようにする辺りに三条帝のセコさが出ていますね、実資が「調子のよいことを」と揶揄するのは、それなりの理由があるのでしょう。

 実資の冷めた反応が面白くない資平は「されど、今こそでございますよ、父上!」と、父実資の才能をもってすれば、そこを利用して権勢を得られる。今が好機ではないかと、煽ります。しかし、義理の息子の期待にも、実資は「浮かれるな!」と叱責します。長く政治に携わってきた彼は、権勢というものが、いかに水物かを知っています。この一事をもって、どちらかの派閥に降る安易な判断は、百害あって一利なしなのでしょう。
 実資は、いかなるときも自らの信条を貫き、公正であることで、誰からも信頼を得てきました。高い能力と実直さが彼の武器であり、また処世術でもあり、こうして彼は長く政治の世界をしぶとく生き延びてきたのです。

 派閥を作るわけではありませんから、決して大きな権勢を持つことはありませんが、その才と公正さは、時の為政者からは必ず一目置かれます。そして、なによりも、信念を貫く彼は、その生き方にやましいところがありません。彼は、力比べの内裏において数少ない、心の平穏を保ち、一定の存在感を示し続けている。政のなかでの生き方の理想形の一つがそこにあります。
 そして、それは権勢を確実にしながら、心身を疲弊させていく道長とは対照的ですね。そのため、実資のあり方が、この場面で示されたのでしょう。しかし、まひろとの約束を叶えることを目指す道長には、どうしても実資の生き方を選ぶことができないのですが…


(3)道長重病の波紋

 道長の力を見せつける形で終わった娍子立后ですが、道長と三条帝は互いの思いはそ知らぬ顔で過ごします。ただ、その後も中宮妍子への渡りは途絶えています。業を煮やした道長が「娍子さま立后を成し遂げられました後も、藤壺にお渡りなきは何故にございますか」と単刀直入に窺うのは、立后の儀への意趣返しかというあからさまな問い質しです。

 もしそうであれば、あまりに子どもじみた反応です。というのも、この一件は互いに謀で対抗し、道長のそれは嫌がらせも大概なものでした。しかし、結局のところ、二人の勝ち負けを決めたのは、どちらが公卿の欲を捉えたか、つまり公卿らの選択の結果です。したがって、建前上は三条帝が先例を破り強引に娍子立后を進めたことの非を問われたのであり、直接的には道長の仕業ではないことになります。理の立たないことになった三条帝は立后の事実だけで満足するしかなく、仕返しをできる状況にありません。

 これに対して、三条帝は、心外とばかりに「渡ってはおるぞ、されどいつ行っても宴を催しており、若い男に囲まれて、朕のような年寄りには入り込む隙はないのだ」とさも嬉しげに語ります。三条帝の言葉に嘘はないのでしょうが、その事実をいいことに妍子と睦み合わない口実にしていると思われます。

 彼から見て笑いが止まらないのは彼の渡りを拒む妍子の宴は、彼が積極的にけしかけているのではなく、その費えを賄っているのが、土御門殿だということです。つまり、土御門殿自らが三条帝の渡りが無くなるようにしているわけですから、世話ないわけです。入内の憂さを晴らす浪費癖を道長は憂慮していますが、強く諌め切れないのは妍子への後ろめたがあるからです。若い敦明のが良かったと言われたときには、言葉を失っていましたね。

 渡りがないのは、そちらの問題だとブーメランのように返す三条帝に対し、道長は「ふーん、中宮さまが宴ばかりなさるのは、お上のお渡りがらなく、寂しいゆえにございます」と正論で打ち返します。しかし、妍子が自分に関心がないことを確信する三条帝は「そのようには見えぬが、これからはそのように思ってみよう」と努力のそぶりを口にしますが、言外に「無理だと思うがな」の意を含ませた嫌味。ですから、彼は余裕の笑みを崩しません。

 この言葉にも道長は表情を変えることなく、「お上のご寵愛がございますれば、中宮様は変わられます」と答え、入内した女性を幸せにするのも不幸にするのも帝次第と改めて三条帝の責任を念押しします。このことは彰子の入内でつくづく感じたことなのでしょう。たしかに彰子は一条帝と結ばれてから急速に成長しましたから。ただ、それは彰子が一条帝を慕う気持ちを膨らませていたからで、三条帝を年寄りと嫌う妍子にそれが当てはまるとは限りません。しかし、道長のこの正論には返す言葉はなく、この場は痛み分け、三条帝は面白くない表情になります。

 何か言ってやりたい三条帝は、ふと思いついたように「そういえば 比叡山では僧どもに石を投げられたそうだな」と、顕信出家に関わる痛い話題を振り、心を揺さぶろうとします。道長は苦笑いでこれに応じると「息子の受戒に参列しようとしたら、馬に乗ったまま山に入ったことに腹を立てられまして」と隠し立てすることもなく答えます。隠し立てしても利するところはありません。ただ、息子への情が空回りした父親の情けなさを面白がる三条帝の口ぶりには、道長に一撃くれてやりたいいやらしさが出ていますね。

 恐縮する道長に、扇で口元を覆い、道長の災いを忌避するように「石が飛んできただけでも祟りがあるらしい。しっかりと払ってもらうが良い」と、さもお悔やみを述べるのは当然、嫌味です。天子に逆らうお前は天命にも身内にも嫌われている。せいぜい気をつけろというわけです。三条帝の溜飲を下げておく必要のある道長は、この嫌味を無難に受けておくしかありません。

 帝との生産性のない腹の探り合いも然ることながら、現実として妍子の宴好きのせいもあり、その後も三条帝が藤壺を訪れないままで、道長の気は晴れることはありません。それどころか、妍子の浪費癖の悪評が宮中に知れ渡り、その件で皇太后彰子に呼び出される始末。すっかり、険悪となった彰子との会話も芳しいものではないはず。

 出口のない不毛なパワーゲーム、解決の糸口すらない問題、そして拗れていく家族関係…当然、まひろとの約束は彼方の先…道長の心は磨耗していくばかりです。まひろにこそ相談しますが、彼女からも色好い返事どころか、彼女自身が元気のないせいかすげなく返されている状態です。若い頃のような身体の回復力もなく、信頼できる相談相手もおらず猜疑心が増す毎日…まひろ不在の局を訪れることがなくとも、病魔に倒れることはいずれ起きたでしょう。


 長年の心身の疲労で悲鳴をあげた道長の病は、倫子の懸命の看病をもってしても効果は薄く、道長は病と悪夢にうなされ続けます。日々、憔悴する夫を見るしかない倫子の心も疲弊していることでしょう。長年、政の頂点にいる絶対権力者が、回復の見込みがない病に倒れたことは、それだけで、彼が意図しない周囲の動揺を誘います。

 重篤とはいえ、時折、意識が戻る道長は、死を覚悟し、政の混乱を避けようとしたのでしょう。三条帝へと辞表を提出します。辞表を開いた三条帝は「どうしたものか…」と呟きます。「返すのが先例でございます」との言葉に「返したくないがのう…」と本音を漏らします。道長にあれこれ言われずに政を意のままに行う…今が絶好の機会であるからです。娍子立后を見てのとおり、三条帝はいざとなれば、先例を破ることもやぶさかではありません。

 しかし、彼は公卿らの信望を得ておらず、陣定を掌握出来ていません。帝の威光で御せるほど、老獪な貴族たちは甘くはないのです。道長がいかに心を砕き、事に当たってきたかが窺えます。そうした事実を娍子立后の一件で突き付けられた三条帝は、絶好の機会に動けません。苦々しいが今はまだ左大臣道長の力を利用するのが賢明だからです。


 さて、土御門殿へ皇太后彰子が、父の見舞いに訪れます。苦しげな道長に心痛の彰子を、祖母の穆子が迎えます。母の倫子は夫への深い情ゆえに道長から目を離せません。一通り見舞いを終えた後、渡りにて彰子は「あのお強かった父上が…お倒れになるなんて…」と、その衝撃の大きさを倫子に語ります。
 彰子にとって、父は物心ついたときから政の頂点にいました。しかも、早くに入内した彼女は、父としてより左大臣としての道長と触れる機会が当たり前だったでしょう。多くの貴族をリードし、帝にも意見するその姿は、威厳と自信に溢れた力強いものだったでしょう。その力を悪い形で見せつけられたのが、敦成が東宮位になった一件での口論です。積み重ねられた政治家としての道長に圧倒されてしまった…それが彰子の政への真なる目覚めの原点です。

 聡い彰子ですが、左大臣の強い印象ゆえに道長の振る舞いが、実はある種のハッタリで、繊細なものを抱えていることには気づけなかったと思われます。それだけに、今回のような病み尽くした姿には呆然とするしかなかったのでしょう。彰子の言葉に倫子は「二度も辞表を出されたのよ」と添え、その病状が思わしくないことを伝えます。
 それを聞いた彰子は「それは…私のせいやもしれませぬ。敦成が東宮になったときから私は父上と‥」と自身の抵抗が、父としての道長の心労になったのではないかと、自分の浅慮を思わず悔やむのですが、それを宥めたのは、途中から話を聞いていた穆子です。彼女は立派になり、人も気遣える孫に「皇太后様は信じた道を お行きなさいませ」と励ますと、さらに「父上とて皇太后さまを誇りに思っておいでですよ」と付け加え、彼女の成長を認める道長の真意を告げます。彰子は驚き、倫子を見ますが、母もまた父の気持ちは貴方と供にあると頷きます。

 それにしても穆子という人は、老いてなお健在というか、今なお土御門殿の真の主ですね。実によく観察しており、人を見定める勘所も間違いがありません。思えば、道長を土御門殿の婿へと迎え入れる後押ししたのも、倫子の元へ夜這いに訪れた道長を入れてしまったのも、彰子の入内を渋る倫子を「やってみなければわからない」と諭したのも、穆子です。そして、彼女の判断は、ことごとく「家」の繁栄へとダイレクトにつながっています。

 今、彰子に我が道を進むよう勧めたことも、後々、彰子が詮子に続く女院、上東門院として頼通以下、この九条流を支えていくことを思えば慧眼というものです。もしかすると、頼通たちの話を聞く道長の様子をそっと窺っていたのかもしれません。何にせよ、穆子の描写は、「光る君へ」で度々描かれてきた、女性こそが権勢の要であることを象徴していますね。彰子はこの後も道長と対立していくことも厭わないでしょうが、そこに父への敬意が踏まえられているものになるかもしれません。

 道長が重病になったことは、それまで一見まとまっているかに見えた公卿同士の足の引っ張り合いを顕在化させます。それを象徴するのが、内裏に出回った「左大臣の病を喜んでいる」と題する怪文書です。史料にもあるその怪文書内に記されていた公卿の名は、大納言道綱、大納言実資、中納言隆家、参議懐平、参議通任の5人です。
 この怪文書がそれっぽいのは、三条帝になってから重用、もしくは娍子立后の儀に参加、あるいはその両方という者たちばかりという点です。出所は不明。道長派が彼らの足を引っ張るか、牽制したのか、三条帝側の観測気球か、あるいは公卿内の疑心暗鬼を煽り政権を解体する揺さぶりか…さまざまな可能性があるでしょう。


 劇中では、名があげられたうち、メインキャストの道綱、実資、隆家の三者三様の反応が描かれました。
 まず道綱は、怪文書を顕光に読み上げられ、自分の名があることに「俺?!」と素っ頓狂な声を上げると、怪文書を引ったくり「お、俺も入ってるの?!」と改めて確認します。その大袈裟な反応にかえって顕光らから疑わしそうな眼差しを向けられてしまった隆家は、慌てて「俺は…道長の病を心配していますよ。あいつはよく働くし、いい弟だもの」と弁明に努めます。しかし一度抱かれた不審は拭えぬもの(それが怪文書の狙いですが)。彼らの目つきに「だーれよりも心配していますよ!な、なんだこんなもの!」とヤケクソ気味です。

 不安を煽られた道綱は、結局、見舞いと称して、床から動けぬ道長のもとへ押しかけてしまいます。当然、ありがた迷惑ですから、倫子からは「ご遠慮くださいませ」と強く拒絶され、かえって不審を招いているのが何とも情けないところ。根が正直な道綱は、「会って釈明したいのだよ、俺は」と本音を漏らし、外部の騒ぎを知らない倫子に「怪しい文があちこちに撒かれておるのだ。俺や実資殿が道長の病を喜んでおると…だから」と全部知らせてしまいます。

 そうした混乱は、元来、争いごとか苦手な道長の心労となるのは明白。倫子は「お帰りになって平癒をお祈りくださいませ」ときっぱり断ると道長を守るため、彼を押し返します。倫子の言葉に疑われたと思ったか、部屋へ入り込みかけ「道長、俺を疑うなよ。俺はお前の唯一の兄…」と訴えるところを百舌彦に力ずくで連れ去られます。あからさまな自己保身で、兄としての株を下げまくる道綱ですが、元より邪心のない彼は気持ちのままに動いたに過ぎません。こういう細やかなご乱行も呆れられても、疑われはしないでしょう。道綱だけが許される…まあ、この人徳が彼の持ち味です(笑)


 お次は実資です。彼も資平が手に入れた怪文書を見ると、公明正大、実直の彼ですから当然、「どこの輩がこのようなものを!」と激昂します。ただ感情的になろうと、思慮深い彼は慌てることはしません。対応を問う資平に「放っておけ」と一蹴します。こういうときに慌てるのは、やましい者がすること、根も葉もないことに右往左往するのは愚かと理解しているのでしょう。彼は平時の誰にも阿らず、信念を貫くその態度によって、周りの信望を得てきた人です。彼は己の人間性一つで、噂を封じてしまいます。
 実際、道長は病に落ちたとき、見舞いに来た彼に相談していますし、また怪文書が出た際も、噂を信じない旨の文を二度ほど送っています。普段から一貫性のある言動で風見鶏にならないことは、要領がよいとは言い難いですが、肝心なときは一番信頼されるというわけです、

 一方、もっとも対応に困っているのは、甥である敦康親王の後見人ならざるを得ず、道長から警戒される隆家です。慌てても仕方なしと悠然と酒を飲んでいますが、面白くない顔になるのはどうにもなりません。真っ当に政へ関わっていきたい隆家にとって、ずっとついて回る道長の潜在的な政敵、中関白家の宿命は、煩わしいものでしょう。まして、周りの警戒を刺激するような怪文書は迷惑でしかありません。

 弁明したいところですが、破天荒なようで実はかなり常識人、物事を的確に見極める隆家は「病の左大臣さまをお訪ねして我が身の潔白を申し立てるのも気が引けるしな…」と病身の元に押し掛けることは、気遣いがなく、またかえって不審を広げるだけと見抜いています。そういうことをして、許されてしまうのは道綱だけです。
 ただ何もしなくても、立場的に疑われることが避けられない。道長は、敦康の後見をする話をしただけで猜疑心を見せていますから。対応が手詰まりというのが、有能な隆家としても忸怩たるところです。史実でも、この怪文書で道長は、隆家だけは疑いを抱いたそう。隆家の読みは的確です。

 ところで、傍らにいる清少納言は「こういうものが出回るのは、皆の心が荒んでいるからでございましょう」と辛辣ですが、それは道長の治世に対する揶揄です。ですから、「嫌な世になりましたわね。前の帝の頃はこういうことは一度としてございませんでしたのに」などと言いますが、的外れでしょう。一条帝の治世はその多くが、道長の手によるものです。
 また、怪文書こそ出回らなかったものの、天災が続き、中宮定子への執着が天災を招いたとまで言われたもの。少納言の指摘は、道長憎しの言葉に過ぎません。ですから隆家の困ったとする口ぶりにも「放っておけばよろしいのでございますよ。左大臣さまのお命は長くは持ちますまい」と、これも天罰だとうそぶきます。

 隆家は、少納言の言葉に呆れたように顔をしかめると、盃をおきます。酒が不味くなったというところでしょう。敦康親王を支え、中関白家を引き継いでいくことに躊躇いはありませんし、何とかしたい、自分の身も立てる志もあります。しかし、それは少納言のような忠臣たちの気持ちを引き受けることでもあります。また、その家柄を道長の対抗として利用されかねない。隆家は、日に日に難しい舵取りが迫られているのですね。


 このように道長が倒れたというだけで、内裏ではさまざまな思惑が蠢き、疑心暗鬼になる、自分の立場を思い知らされる、あるいは自分自身の進む道を確信するなど、それぞれに心が揺れ動きます。それは、裏を返せば、左大臣道長の求心力で、政は機能しているという事実が浮かび上がってきます。道長は、どれだけ疲弊してもそこから逃げ出すことはできません。

 まひろとの約束を守らんと遮二無二走った四半世紀の結果、得た権勢とその反動による傷心は、道長を心身ともに消耗させて病へと誘いました。しかし、その結果わかったことは、その宿命から逃れ得ないという事実…この先、待っているのは、更なる心身の疲弊だけです。何を支えに生きていいのか、最早、道長自身にもわからなくなっています…こうして彼は生きる気力を失い、呆然としたままになってしまいました


2.「宇治十帖」への道

(1)まひろの憂いと侘しさ

 妍子の悪評が枇杷殿に伝わり、皇太后彰子に呼び出された道長は、その帰りにやっぱりまひろの局を覗きに行きます。彰子に枇杷殿に移っても、まひろは自身の局にて黙々と「物語」を書き続けています。ただし、前回、「御法」を書き上げていましたから、今は「幻」…第二部完結に向けて筆を進めているということです。光源氏自身の物語、彼の人生ももうすぐ終焉を迎えようとしています。

 道長の視線を感じて筆を止めるまひろに「すまぬ、邪魔をして」と答える流れは既に社交辞令です(笑)道長は「宴三昧で無駄遣いが凄まじいゆえ、その悪評が皇太后さまのお耳にも入ったようだ」と枇杷殿来訪の理由を説明しますが、「左様でございましたか」と答えるまひろは、あまり関心を示す様子は見せません。

 すると、道長は、眉根を寄せて「実は中宮妍子さまのもとに帝がお渡りにならんのだ」と、このところの政治的な悩みを口にします。そして、道長は「前の帝と彰子さまの間には、「源氏の物語」があった。されど今の帝と妍子さまには何もない。「源氏の物語」ももはや役には立たぬのだ…」と、きっかけも取っ掛りもないと話します。彼自身は同じ手が使えない悩みを話しているだけですが、前回の「まだ書いておるのか」に続き、またも「物語」は政治的役目を終えたという発言を不用意にしてしまっていますね。道長の配慮の無さには呆れるばかりですが、一方で、娍子立后で三条帝に一杯食わされている道長には余裕がないということでもあるでしょう。

 まひろは道長の無遠慮に目をキョロキョロさせますが、やがて納得したような顔つきになるとすまし顔になります。道長に前回以上にはっきりと「物語」の政治的な役割の終焉を伝えられた動揺はあるものの、彼女もほぼ終わりまで書き上げつつあるのも事実。「たしかに終わったやも」と思う面もあったのでしょう。ただ、道長が、「物語」をどこまでも政治の道具としか見ていないことには、残念な気持ちもあるかもしれません。

 無論、道長には、まひろの仕事をないがしろにしている気持ちは毛頭ありません。ますますまひろを頼りにしたいがゆえに、話を切り出しています。ですから、ごく普通に「何とかならんだろうか」とアイデアを求めます。しかし、「ん…私にはどうすることもできませぬ」とすげない返事をするまひろ。二匹目のドジョウなどはいないと言うわけです。道長もさすがに、三条帝用の物語を所望する気はなかったでしょう。「それだけのものが書けるお前だ。何か…知恵はあるだろう」と食い下がるのは、彰子に関しては「物語」だけではなく、まひろが、微に入り細に入り、母親的な役割をしたことが大きいと感じているからです。

 しかし、まひろは「物語は人の心を映しますが、人は物語のようにはいきませぬ」と、生きている人間の心を安易に動かせるものではなく、物語は便利な道具ではないと諭します。まひろは、自分の「物語」が帝や彰子たちの心を操ったとは思っていません。読者のなかに既にある心を呼び覚ます、気づきを与えるきっかけに過ぎないと感じています。また、まひろは「物語」を書くために、今まで溜めこんできたすべてを費やしています。おいそれと、簡単に人の心を動かせる新しい物語などもひねり出せるはずもありません。

 道長は「そうか」とため息をつくと「つまらぬことを言った」と形ばかり謝ると、もう用は終わったと局を立ち去ります。まひろが何とも言えない表情になるのは、道長の期待に応えられないことによって、「物語」が終焉を迎えようとするなかで薄々感じていた虚無感と自分が向き合うことになったからではないでしょうか。
 先にも述べたように、この「物語」に全身全霊を打ち込んできました。それに邁進することは幸せな日々でもあったのですが、「物語」にすべてを捧げた結果、今、自分のなかには何も残っていない…そのことを実感したのではないでしょうか。書き切った、書き上げた満足感以上に覚える、喪失感と疲労感と虚脱感、これは予想外のことであったろうと思われます。「物語」を書き上げた先に、自分の求める真実があるかもしれない…そんな希望を持ってきた彼女だからです。

 しかし、「物語」を書き上げて、彼女の手元にあるのはわずかの感謝と称賛だけです。「物語」も作品として世に出たときから、自分のものではなく読者それぞれのものです。彼女自身には何も残らない。また、「物語」の人物をとおして、多くの人生を生きてしまったことも、いかなる人生も虚しいばかりという達観を彼女に与えてしまったように思われます。

 だとすれば、書き上げつつある今、思うことは、一体、自分は何をしてきたのだろうか、という自分の「書くこと」への疑問ではないでしょうか。寧子の「自分の哀しみを救う」とも違った地平に、まひろは来てしまったのかもしれませんね。


 そんなまひろの虚しさは、紫の上を失った光源氏の哀しみへとダイレクトに投影されます。道長が局が去った後に、彼女の筆が綴った「ものを思うと過ぐる月日も知らぬ間に年も我が世も今日や尽きぬる」とは、第二部最終帖「幻」劇中で、光源氏が紫の上に向けて詠んだ最後の和歌です。
 その余韻は、まひろにその夜の月を観るなかで「物思いばかりして月日が過ぎたことも知らぬ間にこの歳に我が生涯も今日で尽きるのか」と心のなかで反芻させるほどです。「物語」を書き終えた自分も光源氏と同じく、消えゆくしかないのか…というわけです。ああ、光る君は、まひろにとってもまひろ自身の側面があるのですね。

 まひろは、光源氏の「物語」を書き上げたこと結果得た、喪失感と疲労感と虚脱感ゆえに何も生み出せなくなります。ある日、道長が無人の局を覗くと、紙にただ二文字「雲隠」とだけ書きつけてありました。「物語」を書くために出仕したまひろは、書けなくなった今、道長の前からも、皇太后彰子の前からも雲隠れしてしまったのです(里帰りの許可を彰子から得ているでしょうけど)。

 因みに「雲隠」とは、「源氏物語」五十四帖のなかで、タイトルだけ知られていて本編がない、あるいは見つかっていないとされる巻です。これをどう扱うのか、ということは、視聴者のなかの「源氏物語」好きの方たちは興味津々だったと思われます。「光る君へ」では、まひろ自身が書けなくなって雲隠れしたから、タイトルのみが残ったということのようです。「源氏物語」が、彼女の人生のすべてをつぎ込んで書かれたものとすれば、何もなかった虚無の巻があるというのもなかなか面白い解釈なのではないでしょうか。


 さて、雲隠れ、などと言っても、彼女の行き先は実家しかありません。久々に帰ると、いとやきぬが温かく迎えてくれます。早速、いとが「双寿丸がこの頃、毎日のように顔を出して困ります」と何とかしてくれと懇願するあたり、毎日のように気を揉んでいるのでしょうね。「賢子はまだ子どもよ。いとが心配するようなことはないわ」と庇うまひろに「裳着はお済ましでございますよ。何が起きても不思議ではありません!」ときっぱり言い返すいと。その剣幕に呆気に取られるものの「それならそれで…良いではないの(笑)」と、双寿丸を娘の初恋の相手として悪くないと思うまひろは笑います。良家の子息との婚姻を夢見るいとは「ええっ?!」と慌てるばかりです。


 そこへ、怪我をした双寿丸に慌てた賢子が、動揺しながら帰宅します。まひろがいることに安堵した彼女は、アドバイスを受けて水で傷口を洗い流します。双寿丸のほうは、この程度の怪我は茶飯事らしく気にしていないのですが、こうして気遣い手当してもらうことは、まんざらでもないようです。「そのような怪我をしているのにわざわざここまで来なくても…」とぶつくさ文句を言ういとにも「あんたの飯が旨いから」とおだてて返すあたり、彼がこの家に馴染んでいることがわかりますね。「ま、口が上手いことを…」と言ういとが、ちょっと嬉しくなっているのが笑えますね。

 まひろは、そんな自宅の日常を見て、嬉しそうに笑います。藤壺の女房の生活に染まった頃は、慣れ親しんだ我が家がみすぼらしく見えてしまったこと(第37回)もありましたが、「物語」を書き終え、取り憑かれた思いが離れた今、本来の居場所がここであったことを実感しているように思われます。それは賢子との関係が良好になったことも作用しているでしょう。ただ、ここは賢子の守る家になってきています。自分がいなくても一つの形をなしている面にも気づかざるを得ない部分もありそうです。


 雲隠れした今回は、自宅で長逗留しているまひろ。ある日、昔そうしていたように掃き掃除をしています。買い物から帰宅したきぬが慌てて、自分がやりますと駆け寄りますが「いいのよ、やることないから…」とまひろはあっけらかんとしています。かつて父為時が散位して困窮に陥ったとき、彼女は家刀自(家事)と畑仕事をすることで、生きることを実感してきました。その原点に返ることをすることは、今の喪失感を抱えた彼女にはちょっと慰めになるでしょう。

 ところで、このシーンの「やることないから…」の言葉は意味深です。実は、まひろの元には彰子から「いつまで里におるのだ。早く帰って参れ」と帰参の催促する文が届いています。劇中の流れでは、彰子が道長を見舞った直後のシーンです。ですから、彰子のほうは道長を見舞ったときの想いを、まひろ先生に聞いてもらいたい。助言が欲しいという切羽詰まった気持ちが窺えます。結構、詰っている言い方がかわいいですよね。

 しかし、まひろはその文を文箱へ戻し、そのまま閉じてしまいます。彼女は、枇杷殿へ帰る踏ん切りがついていません。「物語」も書かなくなり、最早、大きく成長した彰子に教えることは「新楽府」も含めて何もなく、戻っても何もしてやれることがない…彼女は仕事そのものに対しても、目的を喪失してしまい、虚無感を覚えています。

 そして、文箱を閉じて、立ち上がり自室を見回して呆然とします。相変わらず、そこにはまひろの大切な書物があるのですが、その部屋全体を見渡すようなアングルにポツンとしているまひろの様子から窺えるのは、それらを見ても、まひろの心の内から、「物語」は愚か、何も浮かび上がってこないことへの戸惑いです。生きる目的を見失っている彼女の状況は、見た目以上に重症に思われます。


 さて、掃除をしていると、そこへ現れた賢子が「母上はもう書かないのですか?」と笑顔で聞いてきます。自分が「物語」を夢中で書くことを、あれほど嫌っていた賢子からの意外な言葉に虚を突かれたまひろですが、やがて「源氏の「物語」は終わったの」と微笑します。しかし、賢子は「物心ついた時から母上はいつも私のことなど ほっぽらかして何かを書いていたわ」と寂しかった昔の思い出を話しますが、その顔に憂いはありません。
 今となっては、自分のすべきことを貫く母を認めたくない面と、一方で尊敬する面があるのでしょう。賢子は、寂しいにもかかわらず、いつも母が帰ってくると、彼女が夜、文机に向かう姿をそっと複雑な表情で眺めてきました。いつも、彼女はまひろの背を追ってきたのです。

 ですから、「書かない母上は母上でないみたい」と笑いながらも不思議そうにしています。その言葉に、またもまひろは虚を突かれたでしょう。書かない自分は自分ではない…だとしたら、書くことですべてを喪失したような虚無感に襲われている私とは何なのか…そう思ったかもしれません。その思いからか。疲れからか、あるいは「物語」で出家への思いを多く書き綴ったせいか、まひろは「このまま出家しようかしら…」とポツリ。

 「え?」と聞き返す賢子に「あなたは には好きな人もいるし、心配することないもの」と笑います。もう、貴方は大人だから、私という母もいらないみたいと思うのは、賢子の語ることから気づかされることが増えてきたからでしょう。娘の成長は、母としての役割の終わりを感じるまひろは寂しい笑みを浮かべます。結局、「物語」も、彰子の師も、賢子の母も、終わってしまったように感じたのかもしれません。

 その夜、琵琶爪弾くまひろ。越前へ向かったとき以外、彼女が琵琶をかき鳴らすのは、自分のなかで処理しきれない憂いがあるときだけです。昼間の出家の言葉を聞いたからでしょうか、賢子はそんな母をそっと見つめています。先にも述べたように反面教師としても、目指すものとしても、賢子にとって、まひろの背中は生きる標(しるべ)になっています。
 ですから、こうして賢子が見つめ続ける限り、まひろの母としての役割はまったく終わってはいないのです。しかし、賢子が見つめるのは、まひろの生き方そのものです。ですから、生きる目的や気力を失ったまひろは、自力で何かを見出さなければなりません。

 賢子をナメる形のロングショットで捉えられた琵琶を抱き抱えるまひろの様子は、遠巻きでも物思いに耽っていることがわかります。次のショットでは、その彼女を真正面から捉えていますが、伏し目がちに下方の虚空を見ているかのようで心ここにあらずといった体…つまり、今宵の琵琶の音は、彼女が今抱える喪失感と虚無感なのでしょう…
 しかし、心あらずかと思えば、彼女の表情には時折、憂いとも悩みとも言えないものが浮かびます。彼女は、もう終わってしまったと喪失感を覚えながらも、どこかでこのままでいいんだろうか、出家が道なのだろうか、まだやるべきことがあるのではないか…そんな葛藤があるように思われます。彼女は、生きる目的を失いながらももがいているのだと思われます。やはり、道長よりも逞しいですね(笑)


(2)結び直された約束

 重篤な状態からは抜け出したらしい道長は、宇治の別邸にて療養中です。おそらく、道綱が土御門殿へ押しかけたこと原因でしょう。このことで、世間の騒ぎを知った彼女は、道長をそうした喧噪から離れた土地で静かに過ごさせたほうがよいと考えたのだと思われます。誰かが訪れることも防げますから。土御門殿の主たる倫子は本宅を守るため、そこを長期間、離れることができません。百舌彦を始めとした限られた者に任せたと考えられます。道長を熱心に看病し続け、彼を案じる倫子としては、離れることは断腸の思いですが、彼を守ることが第一です。


 さて、落陽のなか、宇治川の流れと揺らめきに目をやる道長…柱に寄り掛かるその眼差しに覇気はなく、空しさのなかにいるようです。落日…という時間帯が、道長の人生が年齢的に斜陽期へと入りつつあることを象徴し、彼の心境を表しているようですね。

 彼が幼い頃より仕える百舌彦は、遠巻きに見るだけでも道長のそうした黄昏る気持ちを察したのでしょうね。薬湯を持ったまま顔を曇らせ暫し呆然とします。その後、いつものように薬湯を献じますが、心配そうな表情は変わりません。道長は、そんな百舌彦を一瞥するものの、視線をすぐにまた目の前の風景に戻してしまいます。おそらく百舌彦は目に入っているようで入っていないのでしょう。そして、このやり取りが、宇治に来てからの道長と百舌彦の日常と思われます。道長の様子からは身体以上に心の病が窺えますし、それを毎日見つめるしかない百舌彦の気持ちも居たたまれないと察せられます。


 生きる気力を無くしたような道長に命を吹き込むことができるのは、まひろしかいない…百舌彦は、そう思い詰めたのでしょう。土御門殿で道長とまひろの関係を知るのは、百舌彦だけです。道長を助けたい一心で彼が、まひろの家を訪れたのは、最後の手段とすがるような思いだったに違いありません。「にわかに参じましたこと、お許しを…」と突然の来訪を謝罪するのは、これから頼むことが彼の独断であり、ともすれば、二人の関係がバレる危険性が孕むからでしょう。

 いつになく切羽詰まった様子の百舌彦の「実は殿様のお加減がおよろしくなく…」の言葉に、まひろの顔色は変わります。内裏から離れていた彼女は、道長が倒れたこと自体を知らなかったのかもしれません。帰参を促す彰子からの文も、そうした憚られるような内容は書いていなかったのでしょう。一人、何をするでもなく、憂いを抱えていたまひろですが、そんな悩みは道長の命に比べるべくもありません。

 百舌彦に請われるまま、宇治の別邸を訪れることになります。といっても、まひろの家から宇治の別邸までは18km近くあるはず。普段、1時間6kmで歩く私の足でも3時間かかりますから、普通4時間程度の行程だと思います…往復した百舌彦もとんでもないですが、この距離を歩いてまひろもすごかったりします。二人の道長を思う気持ちが、相当だったと思うことにしましょう(笑)

 宇治に着いたまひろ、百舌彦に促され、縁側で柱に寄り掛かり疲れ果てたように眠りこける道長を遠巻きに見ます。その距離からですら憔悴の具合がわかるという道長の状態に、まひろは愕然としてしまいます。すべてを察したまひろと顔を見合わせた百舌彦の「おわかりいただけましたか」と言いたげな表情は、泣き出しそうなほど辛いものです。

 まひろは涙を称えながら、再び道長に視線を戻すと、肩を落としたように力ない様子でゆっくりと道長のほうへ歩いていきます。カメラは、その様子をロングショットで捉え、その仕草だけで、彼女の心情を捉えようとします。安易に顔のアップによる表情に頼らず、道長に近づいていくその間に見える彼女の逡巡の流れを見せる…スタッフのこだわりを感じますね。

 さて、まひろは、道長の憔悴が要素以上で、どう声をかけていいのかすらわからないのでしょう。その戸惑いは、道長の姿がより現実として迫り、彼女を悲嘆へと誘います。鼻をすすらせる音がし、その後、一度、わずかに顔を上向きにしたのは、涙を堪えたからでしょう。愛する人の無残な様子に悲しみが溢れることが止められません。
 ようやく、道長の間近まで行き座ったまひろですが、なおも涙は溢れてきます。ですから、涙を袂で吹き、気持ちを整えようとします。しかし、それでも何か声をかけようとすると、自身の逡巡からでしょうか、二度も息を詰まらせます。どうしようもないほどに道長への想いが、今なおあることをまひろ自身が、こうした形で実感しているさまを、吉高由里子さんが実に細かく、丁寧に演じていていますね。


 それだけに、ようやく漏れるような声でかけた「道長さま…」という言葉は、さまざまな彼への思いが詰まった万感の台詞です。たった四文字に複雑な心情があるのですね。その言葉に、道長は目を覚まします。しかし、その表情は厳しいものです。道長が政治的に置かれた立場は舵取りが難しく、ずっと緊張を強いられています。また、近年の自身の所業、そして周りの非難が、孤独な道長の心を寝ても覚めても苛むのでしょう。ですから、声をかけたのは誰かと確認するような目つきにも、緊張が解けません。

 しかし、相手がまひろとわかった瞬間、目だけが素直な驚きへと転じます。あまりの意外なことに病み衰えた身体すらガタっと動かしかけます。まひろは、彼を案じて、ただただ微笑を向けます。余計な気遣いをさせないためです。果たして、道長は「あ…」と息を漏らすと、頷くように安堵の表情になります。まひろが、そこに存在するだけで、こうまで心労の重荷が軽くなるとは、彼のなかのまひろの占める割合の高さを感じます。と、同時にあれほど真剣に看病し、彼を守らんとする嫡妻の倫子の報われなさが、何とも哀しいようにも思われます。


 まひろは世間話をするように「はぁ…宇治はよいところにございますね」としみじみと漏らします。カメラは宇治川の流れをバックに、縁側に二人が並んでいるように見えるように捉えています。これによって、今、二人が左大臣と皇太后付の女房という立場を離れて、対等の関係に戻っていることを仄めかしています。爽やかな川のせせらぎが、二人の気分も表しています。病みによる柱に寄り掛かった道長の姿勢も、このレイアウトの効果もあって、リラックスしているかのように見えますね。

 まひろの言葉に頷くように「川風が…心地よい…」と返す道長、おそらく、彼がここに来て、本当にそう感じたのは、今が初めてなのではないでしょうか。その言いぶりは非常に呑気なもので、映される道長の表情は穏やかそのものです。そう…今、道長は、まひろが知っている、いつもの道長のもののです。
 このところ、政治家としての道長の顔ばかり見てきた上に、その政の心労で憔悴していた道長の顔に哀しみを感じていたまひろも、本来の彼が戻ってきたことに、緊張していた心が解けてきます。急に安堵したせいか、この回で初めて、心からの笑顔を見せると、ごく自然に「川辺を二人で歩きとうございます」と、彼女から病身の道長へおねだりをしてしまいます。まるで昔からの夫婦であるかのように…


 道長は杖をつきながらも、まひろと共に川辺へとやってきます。カメラは、やはり二人が並んで見える真後ろのアングル(実際はまひろは道長より少し後ろに位置)捉えています。局では、どうしても左大臣としての匂いが消えなかった道長ですが、この川辺ではそれがありません。病によって、その立場を一時的にでも離れたことで、さまざまに見つめ直したことがあったのかもしれません。対等になり、彼が口にしたのは、「早めに終わってしまったほうが楽だというお前の言葉がわかった…」ということでした。

 「「今は死ねぬ」と仰せでしたのに…」とすかさずツッコミを入れるまひろですが、これは嫌味でもなんでもなく、これが二人の会話の平常運転。「そのこころはなんですか」という問いのようなもので、まひろは、道長の真意を確かめようとしているのでしょう。道長は「誰のことも信じられぬ」と答え、さらにアップになった道長は「己のことも」と付け加えます。彼の胸を巣食う心の闇、病は、人間そのものが信じられなくなったという根深いものです。

 権謀術策が当たり前の政の世界は、誰もが自分の欲を叶えようとしており、民のための政をしようと志すものは多くはありません。そうしたなかで、志を形にしていくには、彼らの欲望に負けない強い信念と謀略しかありませんでした。しかし、その方法論は、実効性は高いものの、反面、皮肉なことに、自身の目指す政の志とは真逆のものでした。結果的に、自身を志から遠ざけ、多くの者を傷つけていきます。それは権勢を得ていく過程でさらに強まり、結局、彼の政治的なものの考え方は、彰子を、妍子を、明子を、顕信を、と身内すらも追い詰めてしまいました。
 それらを目の当たりにするなかで感じていた迷いと後悔は、病になったことでより道長のなかで罪として顕在化したのではないでしょうか。自身がもっとも自身が嫌った政治家と同じになっていることを自覚せざるを得ません。だから、自分自身も信じられないのです。

 また、権勢を獲得していくなかで、必然的に周りへの猜疑心が高まっている…これも本来の道長にはなかったものです。おそらく、道長は、その猜疑心をまひろにすら向けています。最近のまひろは、自分の思うような答えを返さなくなっているからです。そして、そのことに道長自身が自己嫌悪に陥っていることでしょう。

 この言葉を聞いたまひろは、かけるべき言葉に悩み表情になります。謀略を当たり前とする兼家の子として生まれた道長は、それに馴染めず、昔から孤独なところがありました。若い頃には「信用できるものは誰もおらぬ。親兄弟でも」「まひろと直秀は信じている」(共に第9回)とも言っていました。
 しかし、今、道長が語る「誰のことも信じられぬ」は、そのときのようなプリミティブなものではありません。長い政のなかで駆け引きを繰り返し、人の欲望を目の当たりしたこと、そして自身が民のための政を実現させるという名のもとにその手を血に染めてきたこと、それによって確実に以前の自分ではなくなっていく実感…それらによって深められたもの。己すらも信じられない今、彼は指標も見失い、ひたすらに消耗していくだけだった半生を思い、その運命に彷徨するしかありません。


 まひろにとって、政という地獄のなかで憔悴していく道長が心苦しいのは、彼にその道を選ばせたのが自分だからです。前回、非情に徹して政を行う理由について、道長は「俺は常にお前との約束を胸に生きてきた。今もそうだ」と明言しています。薄々感じていたことが明確になったことに、言葉を詰まらせます。

 二人が結ばれたあの日(第10回)、まひろは「道長さまはえらい人になって直秀のような理不尽な殺され方をする人が出ないような…より良き政をする使命があるのよ」と言い、「俺はまひろと会うために生まれてきたんだ」とまで言う道長を、「この国を変えるために道長さまは高貴な家に生まれてきたのよ。私とひっそり幸せになるためじゃないわ」とねじ伏せたのはまひろです。しかも、「片時も目を離さず、誰よりも愛しい道長さまが政によってこの国を変えていくさまを…死ぬまで見つめ続けます」と永遠の愛を誓い、彼を縛りつけもしました。

 その若き日の美しいまでの純真の結果が、心身ともに病み尽くした今の道長です。本来、優しい性格の彼が政に向かないことをまひろはわかっていたはずです。しかし、皮肉にもそれゆえに政に不可欠な徳も持っていることも信じていた…だからこそ、自分の慕う思いを封じて、彼にこの道を選ばせたのです。その自己犠牲が正しかったのか、否か、それは道半ばの今はわかりません。しかし、正しかろうとなかろうと、そうした理屈は関係ありません。愛する人をここまで追い込んだ現実だけが、まひろの心を苦しめます。まひろの道長への恋慕、愛情は、道長を不幸にする呪いでしかなかった。…そのことです。

 今、道長は、死よりも生きることが辛いと告白しています。その苦しみから彼を解放するために、まひろにできることは、長らく彼を縛りつけていた、自分との縁を解いてやることです。それぐらいしか、手段を思いつきません。ただ、それは、彼女自身の恋慕と彼を見続ける半生を一種、否定することになる虚しさを伴います。しかし、背に腹は代えられない…意を決してまひろは、努めて穏やかに「もうよろしいのです。私との約束はお忘れくださいませ」と、実は別れの言葉よりも重い、「約束」の「終わり」を告げます。

 しかし、道長は「お前との約束を忘れれば、俺の命は終わる」と、まひろの解放の言葉は、身体の病で物理的に死ぬか、生き甲斐を失い精神的に死ぬかの違いでしかないと答えます。まひろが「見つめ続けてくれる」と信じているから孤独でも生きてこられたのですから、それをやめると言われたら生きられないのは当然です。まひろは、苦しむ道長を見ていられず、ただただ楽にしてやりたかったのですが、それは思い違い、あるいは一方的な傲慢だったということでしょう。

 先ほど、道長に政の道を選ばせたのは、まひろとの話をしましたが、それはまひろの側から見て、の話です。道長も、まひろとの変わらぬ愛を誓う手段として、まひろとの約束を選択したのです。ですから、今のような状態になったことで、まひろを責める気は毛頭ない。道長にすれば、これが自分の選択だからです。
 おそらく、もしあの日に戻っても、道長は同じ選択をするでしょう。前回note記事でも触れたように、彼がまひろとの約束を片時も忘れないのは、彼のまひろへの愛情はそのときよりも深まっているからです。ただ、多くの人を苦しめた人生の虚しさだけは、取り返しがつきません。ですから、道長は、自分の死について「それで帝も皆も喜べばそれでも良いが…」と自虐的に言うしかありません。


 並んだままの二人…まひろは道長の真心に応えるのは、解放してやることではないと悟ったようです。どのみち死ぬというならば、最後までつきあってやるのが、約束の責任と感じたのかもしれません。「毒食わば皿」という開き直りでもなく、「地獄までつきあうぜ」というような粋でもなく、ただ、それが二人にとって自然で、納得できるように思えたのでしょう。「ならば私も一緒に参ります」との言葉には、笑いを含んでいます。彼が己を罪深く思うように、彼をそうさせた自分も罪深い…ならば、共に死ぬ終わり方も、この世で結ばれなかった自分たちには相応しい幸せかもしれないということかもしれません。


 しかし、笑って言った心中を意味する言葉を悪い冗談と思った道長は「戯れを申すな」と憮然とします。からかうな、ということでしょう。ここで、まひろは意を決した真面目な表情になると「私ももう終えてもいいと思っておりました」と、このところずっと抱えてきた悩み…目指すべきものを失ってしまい空っぽになってしまった今の自分、そしてそんな自分が何のため生きていくのかという答えの出ない問い…人生の虚しさだけを感じる今の心境を吐露します。道長と共に死んでもよいと思えたことには、こうした彼女自身の懊悩も少なからず関係しています。彼女もまた、道長とは違う理由で生きる気力を失っているのです。

 振り返りかけ、耳を傾ける道長に「『物語』も終わりましたし、皇太后さまも強くたくましくなられました」と、心を砕いたさまざまが終わりを迎えたことを並べます。彼女が、枇杷殿の彰子の帰参の言葉を無視しているのも、帰ってもやるべきことがないと感じるからです。因みにここでは、口にしていませんが、賢子の成長、つまり子育ての終わりも含まれているでしょう。そして、満ち足りたように「この世に私の役目はありませぬ」と笑います。

 興味深いのは、まひろの語る満足は、そのすべてが道長との関係によるものだということです。「物語」を依頼したのも道長、中宮彰子のもとへ出仕するように仕組んだのも道長、そして、彼は知りませんが賢子という命を授かったのも道長と睦んだからです。こう考えると、まひろの「もうよろしいのです。私との約束はお忘れくださいませ」には、「貴方は私に十分幸せをくれたのだからもうよいのよ」という意味も含まれていそうですね。

 道長は、満足を口にするまひろを見つめています。それを見返すまひろの笑顔には空虚が混じっています。振り切るように「この川で二人流されてみません?」とおどけますが、それでもそこには寂しさ、悲しさ、虚しさなどさまざまな感情が行き来して、やがて表情が無くなります。言ってしまってから、彼女のなかでどんな思いが去来したのでしょうか。一つは、こんなふうに終わっていくのかという虚しさ、何も残らない寂しさでしょうか。そして、あの日、お互いの思慕に流されたらどんな人生だったのだろうか、ということではないでしょうか。「川に流される」とは、あの日できなかった「遠い国へ行く」という逃避行を意味しているように思われます…勿論、それが叶わぬ過去でしかないことをわかっていますから、ますます哀しくなるでしょう。


 彼女の吐露を聞き、見つめる道長は、彼女もまた自分とは違うところで、悩み苦しみ今を生きていることを実感したように思われます。そして、彼だからこそ、「ならば私も一緒に参ります」という言葉に含まれる彼女の真心と逡巡、相反するものも見えたでしょう。彼女の心中を意味する言葉もどこか嬉しかったはずですが、それは彼の真の願いではありません。まひろとの約束の果てに、彼女の幸せがあると信じているからです。死んでは終わりです。

 ですから、万感の表情をした道長は「お前は…俺より先に死んではならぬ」とまひろを直視して命令します。自分の思いはわかると思っていただろうまひろは、道長の命に戸惑いを見せます。すぐに道長は川のほうへ視線を戻していますが、これは自分の涙を見せないようにしているからでしょう。まひろの言葉に嬉しくもあり、でも死んでほしくない…そして、本心は彼女と共に生きたいがそれができそうにないという絶望…さまざまな感情が一気に押し寄せたと察せられます。
 そして…ついには「死ぬな…!」と零します。先ほどの「死んではならぬ」がどこか理性が混じった命令であるのに対して、「死ぬな…!」は道長の感情が前に出た懇願になっていて、短い言葉に込められた道長のまひろへの想いが詰まっていますね。

 その想いを感じ取ったのか、まひろは「ならば、道長さまも生きてくださいませ」と、彼がもっとも望んでいた「共に生きよう」という言葉を投げかけます。驚いたように振り返る道長…いつもすれ違う二人の思いですが、今日ばかりはかっちり合ったようです。まひろは「道長様が生きておられれば、私も生きていかれます」と、今度は心からの笑顔で答えます。この言葉は、「貴方の命は私の命、私と貴方は一心同体」という含意があるでしょう。

 何故、道長がまひろとの約束を、片時も忘れず、孤独に耐え、約束を己の命としてきたのか。それは、それだけが彼女と共に生きる方法だったからではないでしょうか。石山寺で再度、誘ったときは断られ、藤壺出仕でビジネスパートナーになったものもそれも道長が完全に満足のいくものではなかったでしょう。そんな彼が、待ち望んでいたのは、まひろから「共に生きる」との言葉だったと思われます。そして、それは「貴方の命は私の命」と、永遠の愛を告白されたも同然です。

 まひろの心からの笑顔。そして、再びの…今も変わらぬ愛を告白されたこと。四半世紀待ち続けたその言葉こそは、これまでの優しい彼が無理をし続けたことによる、人生の懊悩、傷心の数々を癒すものであり、今後の彼が生きる糧となるものでしょう。今、再び、彼女の愛情を知ったのです。その言葉に、これまでの半生のすべての出来事、そして自身のなかで溢れんばかりのまひろへの想い…それこそ一気に押し寄せたのでしょう。泣きそうになって…まったく堪えられないまま、嗚咽を漏らします。留めようもない涙は、やがて道長を号泣へと導きます。

 やはり道長は、まひろの前だけでは、一番感情を吐露する「泣く」ことができるのですね。兼家が亡くなったときは、涙しますが、それは誰もいない場です。彼が人前で恥も外聞もなく泣けるのは、まひろだけ。そして、そのことは、どこかでまひろを信じていなかった左大臣道長から、今なお、まひろを信じている三郎へ、つまり本来の道長へと彼を引き戻したことを意味します。彼は原点に帰り、生きる気力を見出すのです。


 そんな道長に、まひろも涙を溜め、泣き出しそうになります。彼の号泣は、優しい彼が四半世紀もの間、自分を押し殺し、本当に本当に無理をし続けてきたことを表しています。これまでの道長の苦しみを思い、それを与えたのが自分との約束だという後ろめたさが拭えないまひろは、かけるべき言葉がありません。だから、ただただその様子を静かに見つめ続けています。あの日かわした約束のとおり…。こうして、道長とまひろは、民のための政という高尚な志を抜きに、「共に生きる」という新たな約束…いや。誓いを結び直し、自分たちの残りの後半生を生きる糧を得ました。

 藤壺出仕で、まひろと道長はビジネスパートナーとしての信頼関係を結びましたが、それは解消され、本当の意味でソウルメイトの道が始まったのかもしれませんね。


おわりに

 道長に生きる気力を取り戻させたいという百舌彦の願いから、宇治の別邸を訪れたまひろですが、そこで結ばれた誓いは、道長だけでなく、まひろの老いがもたらす出口のない悩みにも大きな転機をもたらします。

 帰宅後、まひろは硯と筆と紙を取り出します。そして、目を瞑り、心を落ち着かせると、源氏が亡くなって以降の「物語」の続きを書き始めます。「光る君がお隠れになった後、あの光り輝くお姿を受け継ぎなさることのできる方は、たくさんのご子孫の中にもいらっしゃらないのでした」とまひろの独白で語られる、この出だしは「匂宮」の冒頭…つまり「宇治十帖」の始まりです。


 光る君の「物語」は道長から依頼された仕事でした。「まひろさまも「源氏の物語」を書くことで、ご自分の悲しみを救われたのでございましょう?」とのあかねからの問いに「そのような思い出はありません。頼まれて書き出した物語ですので」(第38回)でも答えています。ですから、それがまひろの半生とまひろが見聞きしたさまざまな人生が、そこに題材として昇華されて織り込まれていようと、どれほど優れた物語であったとしても、それは一条帝という読者のため、彰子と一条帝を結ぶため、藤壺を華やかにするため、という役割から離れることはありませんでした。


 しかし、今、彼女は宇治にて道長と交わされた新たな約束を糧に、新たな物語を紡ごうとしています。中年期の苦しみ、無力感、哀しみ、寂しさ、虚しさなどなど、これまでになかった気持ちに思い悩んだこと…それを引き起こす事象の数々…今抱えたものを昇華させていくことになる「宇治十帖」。

 まひろは、ようやく他人のためではなく、自分と道長の後半生のために「物語」と紡ぐのでしょう。「宇治十帖」の文体の変化は、よく指摘されるところですが、目的が変わり、向けている先が変われば、文体の変化は当然というところですね。したがって、まひろにとっての「書くことで自分の哀しみを救う」ことの真髄が、ここからいよいよ始まるということなると思われます。こうなると、「宇治十帖」今までの「物語」以上に、「光る君へ」本編、つまりまひろと道長の人生と密接にリンクしてくるかもしれませんね。

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