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「光る君へ」第6回 「二人の才女」 政の要として暗躍する才女たち

はじめに

 まひろの慟哭とも言える告白を受け止めた道長の真心…月夜の逢瀬をきっかけに二人の仲は急速に深まり、いよいよ本作のラブロマンス関係のドラマが本格化してきました。

 冒頭、泣き濡れて放心状態のまひろの目に映る桶の水の月に重なる道長の顔…その水に映った月をすくうというシーンがあります。実はこのシーン、物語後半で道長が選んだ七言絶句「下賜の酒は十分あるが、君を置いて誰と飲もうか。宮中の菊花を手に満たして、私は一人、君を思う。君を思いながら菊の傍らに立って、一日中君が作った菊花の詩を吟じ、空しく過ごした」(白楽天「禁中九日對菊花酒憶元九」)と呼応しています。

 まひろの月に映った水をすくう行為は、于良史「春山夜月」という五言律詩の頷聯(がんれん、三、四句のこと)「掬水月在手 弄花香満衣」から「掬水(きくすい)」と言われます。そして、道長の七言絶句で詠まれたのは、「菊(きく)」です。

 勿論、道長はまひろの掬水を知るよしはありませんし、まひろが、この場で道長の選んだ詩を自分への想いを謡ったと勘づいたのだとしても、掬水と菊を結びつけることはないでしょう。ただし、彼女の行為と道長の選んだ漢詩が結果的に韻を踏んでいるということは、作品内で二人の気持ちが響き合っていることをほのめかしています。二人の運命的な関係を象徴していると言えるでしょう。

 しかも、掬水の元ネタである于良史「春山夜月」は、素晴らしい情景を前に、自らがとらわれた考えや社会制度の束縛から解き放たれて、その美しさと溶け合うというニュアンスを持っています。今の二人の純粋な思いが、身分の違いを超えてつながっていくことを暗示するような意味合いも持っているのではないでしょうか?


 このように考えていくと、漢詩同士が響き合うことでまひろと道長の思いも響き合うという演出はなかなか味わい深いものがあるのではないでしょうか。しかし、事はそう単純ではありません。
 そもそも、二人の思いの響き合いには、後ろ暗いものが横たわっています。それは、まひろの母ちやはの死です。二人はそれぞれに、ちやはの死に自分自身が原因であると罪の意識を強く持っています(前回、描かれましたね)。勿論、不幸な因果はあってもあくまで殺害犯、道兼に罪があり、彼らには責任は全くないのですが、二人の気持ちはそれでは済みません。
 結局、二人の恋心の結びつきを強くしているのは、ちやはの死なのです。そして、その死は家格といった身分の問題が背景にあります。つまり、彼らはどこまでもその問題から逃れられません。

 

 更に、二人が急速に互いへの思いを深めたのは、きっかけこそ月夜の逢瀬ですが、加速させたのは二人の置かれた状況です。まひろは道長に自身の罪を吐き出したことで、藤原為時の娘という自分の家での役割を果たす決意をします。我が「家」が右大臣家に振り回されないために道長から離れようとします。しかし、その行為がかえって道長と出会わせ、彼への思いを募らせるという皮肉なことになるのが、第6回のまひろです。

 そして、道長もまた、父兼家、そして姉詮子、それぞれから早々の婚姻を勧められます。年齢的にはそれも当たり前なのですが、父と姉がそれを勧めるのは、それぞれに政治的な思惑があるからで、決して道長一人のことを考えているからではありません。道長は身に迫る、どうやら避けられそうもない婚姻問題への焦りから、まひろへの思いを募らせるのです。まひろを見つめる道長の切ない眼差し、参加しない予定だった漢詩の会に参加した挙句に詠んだ直情的な漢詩からは、切羽詰まった恋心を窺わせます。


 つまり、まひろと道長の恋路は、その背景にある身分と政からは逃れようもなく、その障害こそがラブロマンスも燃え上がらせていると言えるでしょう。裏を返せば、政を紐解かないことには、この恋路の行方は読めないということになります。
 そして、その政に積極的にかかわるのは、男性だけではなく女性たちも女性たち同様であることが、よりくっきりしてきたのが第6回の特徴と思われます。そう、まさに平安の「才女」たちの物語です。
 そこで今回は、女性たちがいかに「家」という宿命を引き受けているのかについて、政の動向から考えてみましょう。


1.道隆の参謀、高階貴子
(1)出世に興味津々な公任と斉信

 前回、若い花山帝に期待する公任と斉信は、その政に参加するためにも出世しようと思い始めていました。妹、忯子が花山帝の寵愛を受けている斉信は、その縁故を頼ろうと病で臥せっている彼女の見舞いにかこつけて「斉信は役に立つ男」と助言してくれるよう頼みこんでいます。
 息も絶え絶えの病臥の妹に対して心ない言動はあからさまですが、彼にしてみれば彼女が生きているうちにその縁故を頼り、出し抜いて出世するしかないと思い詰めているのでしょう。斉信の見舞いのくだりは短いですが、平安の政が男社会でありながらも、出世の要が一族の女性次第であることを端的に示していますね。

 しかし、忯子は斉信の嘆願に難色を示します。彼女は、実家の繁栄よりも帝への思いに心を砕く人柄のようで、これまでも一族のための口利きはしてこなかったのでしょう。後に見舞いに現れた花山帝も斉信の顔すら知らないという有様ですから。
 花山帝は、東宮時代から他人を私利私欲の輩かどうかを見極めるところがありました。おそらく、忯子を寵愛したのも実家の繁栄のために動かないところに彼女の真心を感じたからだろうと察せられます。もしも彼女に疑念を感じるようであれば、円融帝が詮子にしたように遠ざけた可能性もあります。入内した女性は、帝の寵愛だけが支えですが、そのバランスはとても微妙なものなのです。


 ともあれ、こうした若者たちの動静は筒抜けなのでしょう。花山帝の懐刀である義懐は、右大臣家の道長を除いた公任と斉信を私邸に招き、酒と女性で歓待します。花山帝は兼家ら朝廷の重鎮の公卿らとは対立関係にありますから、若い彼らを懐柔し、自身の派閥に加えようというところでしょう。彼らを下にも置かない歓待ぶりですが、雅なることを美徳としそこにプライドを持つ若き平安貴族たちに対しては逆効果です。あからさまに欲望に訴えるやり方は品がなさすぎるからです。公任らが、義懐の依頼を笑み浮かべながらも、お茶を濁すような態度に終始しているのは、そのためです。


 政でどう威圧的に振る舞おうとプライベートでは身分、家格の差が出てしまうようです。義懐は懐柔するはずの接待で、所詮は成り上がりものでしかないと馬脚を露してしまいました。若い彼らのほうが、自分たちの値踏みをしている。そんな腹芸すら見抜けない義懐の様子は滑稽という他ありません。義懐は彼らの欲するところを見極められず、自身の人品の貧しさを披露してしまっただけと言えるでしょう。
 すべてが生まれで決まることは間違っていますが、平安貴族の政においては、兼家らが身分、家格にこだわることは、信用問題にもなる。義懐の接待の失敗は、それをほのめかしています。


(2)右大臣家の宿命を体現する兼家

 義懐らの接待の実情はともかく、右大臣家を排除しようという動向を行成から聞かされれば、流石の道長も放っておくことはできません。兄、道隆へ相談に行きます。相談相手に道隆を選んだところに、道長の本音が表れていますね。彼は、道兼が殺しを認め、それを父が隠蔽したことを知ったあの夜のことを引きずっているのです。ショックであったのは道兼の殺人隠蔽という事実だけではありません。

 心根が優しい道長は、その裏にある父の真意のほうに衝撃を受けたのではないでしょうか。兼家は道兼について「道隆やお前(道長)が表の道を行くには、泥をかぶるやつがおらねばならん。道兼はそのための道具だと考えよ」と冷徹な考えで、道長を諭そうとしました。これは開き直りでもなければ、悪意でもありません。前回note記事で触れたように、貴族らの頂点を目指すという右大臣家の宿命を受け入れ、それを忠実に実行しようとしているだけです。


 長年、政に携わり、次兄と骨肉の争いもした兼家は、政治が綺麗ごとや理想だけではできないことを知っています。しきたりや建前が優先される内裏であれば猶更です。奇しくも、前回、実資が義懐らに説いた政の本質を、兼家もよくわかっているのです。
 ただ、私利私欲のない実資は、多少の根回しは当然にしても、基本的には対立する者同士が知恵を出し合い、妥協点を探り、実行できる形に整えていくという正道を方法論として語っています。

 一方、兼家は、表に出せない暗躍や恫喝といった裏工作のほうが効果的だと考えています。それが結果的に自身の家の繁栄になり、大過のない政治にもなっていればよいのでしょう。言い換えると、プロセスを大切にする実資と、結果重視の兼家ということろでしょうか。
 だからこそ、「泥をかぶるやつ」の必要性を説くのです。彼からすれば、政の真実を、世間話として道長に語っているに過ぎませんから迷いもありません。



 そう、道長にとっては衝撃的な話ですが、兼家自身は世間話の流れで「兄、道兼の所業については今宵限りで忘れよ」と言っているのですね。そもそも、この場面の最初は、道長に左大臣家の姫、倫子との婚姻を道長に勧める話から始まっています。
 この婚姻も息子のためだけにはありません。婚姻によって左大臣家を味方につけることで、自分の家の家格とその繁栄を強固にしようという狙いが第一義です。ですから、勧める理由に左大臣家が宇多帝の血を引くという血統の良さをあげているのですね。我が家のための話ですから、道長の婚姻と道兼が道具は地続きなのです。

 つまり、兼家は、徹頭徹尾、右大臣家が貴族たちの頂点に立つための策謀の話として一貫しています。先を読み、次に打つべき手を正確に見極め、実行するためにあらゆる手を打てる。目的に邁進する意思の強さと大胆な行動力と知恵と非情さ、それが兼家の政治家としての強みです。
 物語の中盤に道長が、帝を支えるには知恵なき義懐ではなく、父兼家のほうがマシだと道隆に返答するのは、兼家の政治的な手腕自体を認めざるを得ないからでしょうね。もっとも息子の恋心には無頓着、気づきもしない機微の無さは優秀とは言えませんが(笑)なんにせよ、父の冷徹さに反発しながらも、父の手腕はわかってしまう頭の良さが道長にとっては皮肉ですね。



 父の言葉に納得できない道長は、道兼に敢えて、兼家が道兼を道具と見ていることを伝えます。兄を揶揄することよりも、真実を伝え、それに従っていてよいのかと問いかけたかったのかもしれません。しかし、道兼は「父上のためなら、いくらでも泥をかぶる。躊躇いはない」とその覚悟を淡々と語り、「足元を見よ。俺達の影は同じ方向に向いておる。我が家の闇じゃ」と逆に道長に毒を流し込もうと冷笑します。道兼は父に跪いたあの日に、その呪われた宿命から逃れられないことを誰よりも理解してしまったのかもしれませんね。

 だからこそ、実感のこもったその毒は、道長には効果的です。彼は、婚姻を勧める兼家とも、毒を吹き込む道兼とも向き合うのは懲り懲りでしょう。しかし、一方で右大臣家の危機は、自分自身の安泰を脅かすのは捨て置けません。彼は右大臣家の恩恵に預かりながら、その宿命からは逃げ出したい…その中途半端な気持ちゆえに、多少はマシそうな心優しげな道隆のもとへ駆け込んだのではないのでしょうか。



(3)漢詩の会という目論見のしたたかさ

 しかし、道長の道隆はマシかもという点は裏切られます。弘徽殿の女御(忯子)の子を呪詛する陰謀に兄も加担していたからです。道長がいくら身内だとはいえ、陰謀に加担していない彼に警戒心なくその事実を漏らしてしまう道隆の不用意さには、大切に育てられたお坊ちゃん気質特有の迂闊さがあるように思われます。

 左大臣、関白も加わっていることから悪びれることもなく「この国の意思じゃ」と語ってしまえるその姿からは、自分に関係しないのであれば、人を人と思わないという酷薄さが窺えます。もっとも帝王学を一身に受けた彼は、それを疑うこともなく生きているため、大義が揃っているこの状況を、本気で正しいと思っているのかもしれません。本当の汚れ仕事は、父や道兼がやっているため、彼は政の汚さを本当の意味ではわかっていない。綺麗ごとの中に生きていると信じて、光の当たる道を歩いているのだと思われます。


 勿論、両親から帝王学と愛情を十分に仕込まれている道隆は、高い教養と家格に見合う品性と穏やかな性情を持ち合わせ、見栄えという意味でのカリスマを持っています。どう振る舞えば、他人が魅力的に見るかは心得ています。道長が、穏やかな性格の彼を右大臣家の良心のように見てしまったのも仕方のないところです。
  しかし、父の敷いたレールを疑いもせず、それに合わせた思考しかしない彼は、本当の意味での自分自身も、政治家としての理念や理想もないでしょう。兼家の都合の良い美しき操り人形、中身がないように見えますね。結局は兼家や道兼と同じ穴のムジナなのです。目覚めるときがあるとすれば、父兼家の死んだあとでしょうか。

 軽く裏切られた表情をした道長は、政治に興味を持ったかという道隆の問いには「今もさほど興味はありません」と答え、父を誉めそやすなど調子のよい三男坊を演じます。


 さて、義懐の姑息な策に公任らがなびくことをよしとしない道隆は、若者を反発を招く父のやり方よりも上手く懐柔させる策を考えねばと思案気になります。父の指導の下、政に関与してきた経験がありますから、状況判断はそれなりに的確ですが、策は思いつかない様子。ここで、すかさず漢詩の会を開く妙案を提案したのが、彼の正室、高階貴子です。彼女は、「小倉百人一首」では、は「儀同三司母」として知られる優れた歌人です。一説には、彼女の和歌には白楽天の影響があるとも言われ、漢詩の教養もある才女です。ですから、貴子から漢詩の会という提案が出るのは、自然に見えます。


 ただ、彼女の教養は、単に勉強ができるという性質のものではありません。彼女は漢詩の会を提案した理由をいくつかあげます。一つは、若者たちは勉学に励むものの、それを披露する機会に飢えているから漢詩の会はその場になるだろうということです。公任らが政に関わりたくなっている一番の理由を、実力を示す場が無い鬱屈であると貴子は読み解いたのです。
 その上で、彼らの気位の高さと実力を過信する自尊心を満足させる企画を立てたのです。彼らの機微をつかむ、そのセンスが冴えていますね。当然、漢詩の会には、それに相応しい漢籍に詳しい学者(為時と清原元輔)を招くことで、その品位も保つように配慮します。

 こうしてを見ると、義懐の開いた酒宴がいかに無粋で、彼らの心底を満足させないかは比べるまでもありませんね。


 更に「漢詩には、それを選んだ者の思いが出ると言いますでしょ」と貴子は言い添えます。つまり、漢詩の会とは、腹芸の場にもなるというのです。そして、彼らが隠している本心も丸裸にした上で、それを汲んだ対応をしてやることで彼らの自尊心は満たしてやるのです。
 品位ある会でセンスと実力を示し、自身の心映えも誉めそやされば、道隆の心遣いに感服するに違いありません。品位のある会を開くだけで、いとも簡単にシンパを増やし、更には右大臣家の家格に相応しい評判も立つ。まさに一石二鳥の策が貴子の策なのです。
 また、今後、彼らを味方にひきつけ、利用するためにも、彼らの野心を知っておくことも右大臣家の役に立つでしょうから一石三鳥と言えるかもしれませんね。


 果たして、本番の漢詩の会。貴子の目論見どおり、公任らは漢詩によって、その本心をあっさり暴かれてしまいます(漢詩の訳を彼らの心の声の独白にする演出が巧かったですね。)。行成と道長はその恋路への思いを、斉信は出世に対する焦りを、公任は見栄っ張りの性格と政治への野心を。
 後は、彼らの野心を野心とせず、理想の政治に邁進する気概として、道隆が誉めそやし、自身も高らかに理想を語り、彼らと心が共にあると語り、その理想に寄り添います。その言葉遣い、雅やかな立ち振る舞いこそは、徹底的に表の道を歩くよう教育されてきた道隆の真骨頂です。その見映えの良さで、公任らを魅了し、「やはり道隆どのだな」と味方につけてしまいます。
 すべては、貴子の策あればこそです。彼女は、道隆の振る舞い方の使い方も心得た上で献策しているのです。彼女こそが、道隆の家の知恵者、参謀だと言えるのです。

 また彼女は、公任の創作漢詩の寸評の際、自身の漢籍の知識をひけらかすように忌憚なく発言したききょう(後の清少納言)に対して、目ざとく目をつけるカットがっ挿入されます。漢詩のわかる貴子は一瞬にして、マニアックな指摘をするききょうの才を見抜き、気に入ったようです。後年、彼女の娘、定子が入内した際、ききょうは定子付として宮中にあがります。その人選のきっかけが、このカットでほのめかされているわけですね。貴子は、夫以上に先を見据えている人物だと言えるでしょう。


 このように今回の漢詩の会からは、今回にかぎらず、道隆に知恵が必要なときは、貴子が夫の情愛を上手く使いながら、それとなく策を提案していたことを窺わせます。今のところ、品も教養もあるが、見映え以外には政治的に凡庸にしか見えない道隆が、それなりにやっているのは貴子という名参謀の存在が欠かせない。貴子が内助の功として政治的に考えることで、道隆を真っ直ぐ権力者の道へと歩ませているのです。女性こそが、政の要であることを象徴する一人が、高階貴子です。



2.右大臣家の呪われた宿命を内面化する詮子
 貴子が夫のために政治に積極的にかかわることは、結果的に右大臣家の繁栄につながることですが、それとは真逆の動きを具体的に始めたのが、円融帝に入内し、現・東宮、懐仁親王の母、詮子です。東宮の元へ左大臣、源雅信がご機嫌うかがいに参上します。雅信は、今後の自身の家の安泰も含めて、東宮に必要な礼を尽くしているだけですが、詮子はこの機会を逃しません。
 早々に息子である懐仁親王を退出させた詮子は、いきなり先の帝に毒を盛り退位させたのは兼家であると雅信に秘密を暴露します。寝耳に水な上にとんでもない話を切り出された雅信は、目を白黒させながら返答に窮します(政治的な駆け引きが得意なタイプでないのですよね)。彼の動揺を見て取ると、詮子は間髪入れず、円融帝から聞いた話だから間違いないと淡々と追い打ちをかけます。雅信から「詮子の勘違いでは?」という無難な言葉を強引に封じてしまうのが上手いですね。

 続けて、非情な兼家ゆえに身内にすら手にかけるかもしれない、東宮も自分も命が危ういと訴えかけます。詮子の危惧は本音ですが、弱い立場の女性というを押し出した懇願ではありません。彼女は「父と違う力が欲しいのです」と、実家への翻意であることを明言し、左大臣家の力が欲しいと暗に求めます。
 右大臣家の人間である詮子から、兼家との対決姿勢を切り出されるという予想外の事態に、雅信は狼狽えます。まして、宮中では波風を立てないようにしながらバランスを取ってきた雅信にとって、明確に兼家と敵対することは本意ではありません。

 しかし、詮子は「後には引けませんよ」と淡々と告げます。秘密を聞いたからには逃げることはできないと退路が断たれたというのです。そして、にじり寄ると、今度ははっきりと「末永く、東宮と私の力になること、ここでお誓いなさい」と最後通告とばかりに迫ります。駆け引きも何もあったものではありません。東宮殿へ出向いたこと時点で、雅信は負けています・詮子は、終始、優位に立って話を進め、詰め将棋をするがごとく、的確に駒を進めるだけです。相手を動揺させる初手、同情を誘う一手、状況を決める要の一手、そして相手を詰ませる最後の一手…あらゆる手が計算づく、詮子が知能犯であることが際立ちますね。

 曲がりなりにも長年、政に携わり、左大臣にまでなった雅信がいいように翻弄され、味方になるとしか言えない状況に追い込まれたのですから、詮子に隠されていた政治的手腕が目覚めたと言えるでしょう。
 苦り切った顔で「理不尽な…」と唸るしかない雅信を眺めながら、「私は父が嫌いです。されど父の娘ゆえ、父に似ております」と艶然と微笑む詮子が、恐ろしくも美しい…吉田羊さんの本領発揮というところでしょうか。彼女はずっと父、兼家のやりようも兄たちの様子もずっと眺めてきました。彼女が、父の道具であることを受け入れていたのは、女性だからそうせざるを得ないという諦めだけではなく、その方法論の妥当性を冷静に理解もしていたからでしょう。彼女は円融帝に対して純情でしたが、愚かな女性ではなかったのです。

 だからこそ、自身を蔑ろにし、今後も息子共々、自分を害するかもしれない兼家からの自立を目指すと決めたとき、兼家を見て学び取った政治的なやり口で対抗することができるのです。このことは、皮肉にも彼女自身が「貴族たちの頂点を目指す」という右大臣家の宿命を内面化していることに他なりません。彼女の「父の娘ゆえ、父に似ております」との言葉は、そのことに自覚的であり、その方法が復讐にもなることを知っていることを窺わせます。詮子は、右大臣家と対立することで、右大臣家の人間であることを受け入れたのです。

 興味深いのは、この後、道長に倫子との婚姻を勧めることですね。左大臣家を味方につけるためには縁故を結ばなければなりません。婚姻が最も確実な方法です。彼女にとって右大臣家で信頼できるのは、政治的なことから距離を置いていて、心優しく、そして彼女自身が可愛がってきた道長だけです。彼を自分の陣営に引きいれるのは必須案件、だからこそ彼に勧めるのです。
 兼家は右大臣家の繁栄のため、詮子が息子と自身を兼家から守るため、と目的は真逆ですが、二人とも今後の政の要が左大臣家にあると見極めています。彼女は兼家と同等に時流を読み、打つべき正しい手を打っている、彼女の政治手腕の確かさは証明されています。そして、「光る君へ」の今後の展開を握るのが左大臣家…正確には源倫子であることも示唆されていますね。やはり、この作品の政治の要は、女性たちだということでしょう。

 ただ、彼女が「私の言うことに間違いはないから」と道長を安心させようとするのは、兼家よりは愛情があるからです。自分のための婚姻工作とはいえ、この婚姻が弟のためになると信じてもいるのでしょう。そもそも、彼女は以前より、婚姻は家格が釣り合わなければダメであると明言していましたからね。兼家への反発からだけの言葉ではありません。それゆえに、その迷さこそが、詮子が右大臣家たる所以とも言えます。


 しかし、道長にとってはいい迷惑です。兼家とそれに臣従する道兼はおろか、道隆もまた、右大臣家が頂点に立つためその宿命に生きる人でした。そして、最後の逃げ道とも思えた最愛の姉も兼家と対立する形ではあっても、同じく政治的な人間であり、血は争ないことを見せつけられてしまいました。
 今や道長は、婚姻というもので右大臣家の生まれであるという家格とその政治的な宿命と戦略に絡めとられようとしています。のんびりと自由に生きたい彼にとって、急激に訪れた「家」がもたらす圧迫。この辛さを話せるのは、身分を超えて向き合える、一つの死をもってつながり合えているいるまひろ一人です。彼のまひろへの思いは、想いへと深まり、逢いたいという気持ちだけが募っていきます。彼が、漢詩の会に急遽、出席したのも、彼女に想いを伝える場になるからだったかもしれません。

 しかし、まひろと道長は互いを思い合いながらも、行動は真逆になっていくのが、第5回の展開です。「家」の宿命から逃げ出そうとし、覚悟を決めきれない道長に対して、まひろは「家」を引き受ける覚悟を決めていくのです。次は、まひろについて確認してみましょう。



3.貴族社会で生きることに目覚めつつあるまひろ

 泣き濡れた顔を洗ったまひろに為時は、事情を問うことはせず、もう左大臣家、土御門殿サロンへ行かなくてもよいと伝えます。間者の役目をさせた自分の過ちを「浅はかであった」と素直に認めます。夜半に呆然として帰宅、父の胸で号泣する娘を見た為時は、流石に心を痛めたようです。まひろの苦悩が、罪の意識であることは知るよしもない為時ですが、家のために自分が彼女の心に無理を強いてきたことへの慚愧の念はあるのでしょう。恥じ入るようにまひろと視線は合わせませんんが、不器用ながらも久しぶりに父親の顔になります。


 しかし、まひろからは引き続き土御門殿サロンに行かせてほしいという申し出が返ってきます。しかも、その理由は、あれほど理解しようとはしなかった「我が家のため」というものでした。為時にも…そしておそらく視聴者にとっても意外なものだったのではないでしょうか。彼女は、我が家の繁栄は父の出世にあるが、右大臣家ばかりを頼っていては心許ないゆえ、左大臣家とのつながりも深めておくことが肝要であるというのです。奇しくも、右大臣家から自立を図るために左大臣家を引き込もうとした詮子と同じ発想であるのが興味深いですね。弱冠14歳の娘から語られた理屈は、政治的に理にかなっているのです。


 まひろは自分が母を殺したという罪の意識から目を背けてきました。取り返しのつかない後悔が、彼女の物事を見る目を曇らせていたとも言えるでしょう。前回、道長に罪の意識を告白することで、ようやく彼女は自分の思いの正体と向き合いました。これによって、彼女の心の盲が開けたのでしょう。前に進む…悲劇を繰り返さず自分たちを守っていくことを考えられるようになったと思われます。それが、生き残った者の務めだからです。

必要なことは、できる限り上流貴族から翻弄されないようにすることです。だから、彼女は政治的なバランスを取ることを為時に申し出ることもできますし、また道長を思いながらも「道長様から離れなければ」と考えるようになるのです。

為時は、まひろについて「何もかも分かっておる」と睨んでいましたか、その見立ては正しかったのですね。もっとも、独り言でも「三郎」ではなく「道長様」となっているところからは、彼女の本音は言葉と真逆なのですが。



 物事がクリアに見えるようになったまひろは、「これからは、今よりも覚悟を持って左大臣家の倫子さまと仲良くなり、源とのつながりを深めます」との強い決意を申し出の上に重ねます。ここまで言われては、為時も心を揺さぶられてしまいますよね。前回noteでも触れたように、彼は娘の学問的な潜在能力を自分以上と思っていますから、それを自分のために使ってくれるというのは感激しきりです。思わず、「お前が男であったなら…」という言葉を再び漏らしますが、今度は学才だけでなく自分にはない政治的センスを感心しているのです。

これに、まひろが「おなごであってもお役には立てまする!」と返すのが興味深いですね。彼女の決意を示す台詞ですが、第6回全体をとおして見てみると、冒頭のまひろのこの台詞が第5回のテーマとなっていることに気づかされるからです。今回は、貴子、詮子、そして卒なくサロンを運営し父に意見できる倫子、彼女らが非常に政治的な人物であることが語られていますね。


 余談ですが、まひろが直秀ら散楽師らに「実は、おなごこそしたたかだって話」を提案して、「大体、その話のどこが面白いんだ?」というくだりがあります。この場面は、「おかしきことこそめでたけれ」という民の苦しみと笑いへの渇望をまひろが知るという重要場面ですが、その一方でこの台詞の押収は、したたかな女性たちの生きざまを描いている「光る君へ」とそれを巡る現代の風潮自体へのメタ的な自虐にもなっていますね(笑)現在でも女性たちの強くしなやかな生き方を作品に対して、「その話のどこが面白いんだ?」というミソジニーな意見は散見されますから。



 さて、こうして以降もサロンに参加するようになったまひろは、倫子と一対一のときには彼女に胸襟を開き、サロン内で口さがない雅信の間抜け話について周りに合わせて愛想笑いをするなど、状況を弁えた対応をし、少しずつ大人になろうとしていきます。空気を読めないのにハラハラしツッコミ入れるのが、視聴者の楽しみの一つでしたから、この成長は少し寂しい気がしないでもありませんが(笑)

 ただし、まひろにそれができるのは、サロンを運営する倫子の度量によるところが大きいでしょう。サロンに打ち解けてもらうため、倫子はまひろに気楽にするよう提案しますが、抱えた罪の意識から「楽に生きるのが苦手」と告白します。これに対して、彼女は揶揄したり、押しつけがましいアドバイスをするようなことをせず、「苦手は苦手ということで参りましょうか」と粋な物言いでまひろのあり様を受け入れるのが巧いですね。
 裕福な家庭で育ち、雅信や穆子に愛情を注がれた倫子には生来の大らかさといたずらっぽい性質が備わっています。しかし、それを自覚的に使い、周りを味方にし引き込んて行けるのは、彼女の政治力というものです。

 倫子が、書籍を貸すというまひろに「私、書物を読むのが一番苦手なの」と言い出したことも、本当かどうかはわかりません。勉強苦手な姫君たちもいるサロンです。雰囲気を和ませるために自分の才を隠すのも方便というものです。同時にすぐ周りから飛び出てしまうまひろを、笑いによってやんわりと包んでしまい、周りから守ることにもなってますね。彼女は、自虐のようなネタも使いどころを弁えているのです。
 また倫子は、まひろが愛想笑いをしたときも、それを愛想笑いだと確認した表情を一瞬だけします。目ざといというか観察眼が鋭いのです。このあたりは、高階貴子に似ていますが、まひろが紫式部として彰子付の女御となるのは、おそらく倫子の口添えがあるでしょうから、ききょうとの対比にもなっていますね。



 因みに土御門殿サロンで話題になった『蜻蛉日記』解釈も、そうした女性のしたたかさの一端です。兼家の不実をなじる和歌が印象的な『蜻蛉日記』について、まひろは兼家のような立派な男の妻であるという「自慢話」と看破し、赤染衛門もそれを正解とし賛同しましたが、この解釈は妥当性が高いのですね。
 『蜻蛉日記』は兼家の和歌もよく載っており、夫婦の睦まじいやり取りも書かれていますし、そもそも貴重な紙を彼女に手配できるのは兼家だけです。大体、本作のえげつないまでに冷徹な政治家である兼家が、側室に自分の悪評をまき散らされる間抜けを踏むとは思えません(笑)彼は彼女と協力して、自身の顕彰をさせたのでしょう。嫉妬も愛情のうち…つまり、道綱の母の兼家への深い愛情を描くことで、彼女が思いを寄せる兼家の品格と教養の高さも浮き彫りになるということです。
 道綱の母もまた夫の評判を高めるという形で彼の政治に積極的にかかわっていると言えるでしょう。まして、本作の彼女の心配は、心優しい息子の出世です。兼家へ協力することは息子のためにもなります。


 話を戻しましょう。このようにまひろは、月夜の逢瀬を通じて「家」のために何ができるかを模索し、行動することに目覚め始めています。貴族社会で生きていくためのそれは成長と言えるのですが、にもかかわらず皮肉なのは、月夜の逢瀬は同時に二人の互いの思いを露わにしてしまったということです。その思いは身分差、家格差を超えるという当時の常識の真逆を行くことですから。

 まして、道長は自らの宿命に苦しみ、そこから逃避したいという思いに傾き、まひろとは逆の道を歩もうとしています。兼家と兄たちばかりか、詮子、貴子すら右大臣家という「家格」の宿命を自覚的に受け入れていることが描かれたことで、道長だけがその覚悟を持っていないことは際立ってしまいました。二人が苦しむことは目に見えていますね。


おわりに
 このように見ていくと、本作で描かれる政においていかに女性が要として重要な役割を担っているか、そして、彼女らの積極的なかかわりに支えられているかが見えてきますね。ここで思うのは、第6回のサブタイトル「二人の才女」です。この二人の才女とは、誰のことでしょうか?

 勿論、表向きは、空気を「読めない」陰キャのまひろ(紫式部)と空気を「読まない」陽キャのききょう(清少納言)であることは言うまでもありません。二人の対称性は言うに及ばず、ファーストサマーウイカさんのききょうは容姿から艶やかで派手な振る舞いと無邪気さが、もうなんというかTHE・清少納言という完璧さでしたから、インパクトは絶大です。

 しかし、今回の女性たちの描かれ方を見ると、才女ばかりがいたことに気づかされます。こいうなると「二人の才女」は、ダブルミーニングで様々な意味合いがあると考えられるのではないでしょうか。
 例えば、詮子と貴子。政治的暗躍も「才女」ならではの行為ですが、二人は政治的に対立していく才女たちです。また、貴子と倫子も同様です。この組み合わせの場合、それぞれの子が一条帝に入内します。そして二人は、それぞれまひろとききょうの才能を見初めましたね。
 あるいは、道長という一人の男性をめぐって、という乙女な観点から言えば、倫子とまひろもまた対になっている才女たちと言えましょう。一人は学才に長け、一人はサロンを営むコミュニケーション力に長けています。

 そして、才女たちが対比的に活躍する中で、女性が要となる政も慌ただしくなっていきます。忯子が身罷ったことにより、史実的には花山帝の退位が加速していきます。それを巡って、兼家たちは権謀術策を巡らせ、詮子は派閥づくりに余念がなく動くことでしょう。そして、こうした彼らの動向に、まひろと道長は絡めとられざるを得ません。

 そこから逃げ出そうとする道長の切羽詰まった思いとそれに呼応するまひろへの恋心がたまらないですね。
 終盤、居ても立っても居られなくなった道長が、まひろに送った「ちはやふる 神の斎垣(いがき)も 超えぬべし 恋しき人の みまくほしさに」(訳:神様をかこっている周囲の垣をも超えてしまいそうです。宮廷からおいでになった方が見たくて)が、粋と切なさが炸裂しています。
 元歌は『伊勢物語』です。斎宮の女御が禁忌を犯してでも業平に逢いたいと歌った情熱の歌となります。つまり、道長は、自分たちを隔てる身分の差を乗り越えてでも、まひろに逢いたいという想いをストレートに伝えているのです。
 同じときに同じ月を違う場所で見つめている二人の想いは通じていますし、また学才豊かなまひろは、この一首だけで道長の真意に気づいたはず。思わず、手紙を抱きしめるまひろ…あー、これはイチコロで落ちていますね(笑)

 ただ、本心こそ響きあう二人ですが、まひろは「家」を引き受けようと一歩を踏み出し、道長はなんとしても「家」から逃れようとしています。このすれ違いが、二人の恋愛を燃え上がらせると同時に哀しい結末も用意しているような気がしてなりません…障害があればこそ盛り上がる王道中の王道の展開の先に何が待つのか。楽しみですね。

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