「光る君へ」第43回 「輝きののちに」 道長の志、その光と影
はじめに
多くの人間が恐れていることの一つに、自分のそれまでの人生を否定されることがあるのではないでしょうか。こうした経験は、老若男女問わないかもしれませんね。例えば、若い人であれば、就職活動でそれを体験することがありそうですね。不採用通知、所謂、お祈りメールが届いたときの精神的なショックを立て直すのは、なかなか大変です。たまたま、その会社と相性が合わなかっただけかもしれないにも関わらず、自分の半生とそれによって培われた自分の全人格を否定されたような気分になるものです。
就職氷河期など就職難の時代の方であれば、50~100の会社を受けて一つも引っかからないということもザラでした。繰り返しているうちに慣れてくる猛者もいますが、否定され続けて病んでしまった惨い話も多くありました。2024年現在は売り手市場だそうですから、職種を選ばなけれこうした経験は少ないかもしれませんね。
こうした他人から自分の半生と人格を否定されることは、ある程度、年齢を重ねた人間になると特にダメージが大きくなるように思われます。理由は、まず二つほどは思いつくでしょう。
一つは、自分のそこそこ長い人生が無意味であったことを客観的に突きつけられた虚しさです。人間、相当の自信家、自己肯定感の化け物、余程の大成功者でもない限り、自分の人生の失敗というものに内省的な面を持っています。ああしておけばとか、取り返しのつかない失敗、そうしたものをいくつも抱えているものです。あるいは、目的の半分も達していないことに気づいています。言うなれば、自分の人生が無意味だったかもしれない不安をどこかで持っています。だから、それを他人に突かれたとき、否定できずに狼狽え、落ち込むことになるように思われます。
もう一つは、歳を重ねている分、失った時間が余りにも大きく、取り返しがつなかい、リカバーできないという絶望です。これは、自分の信念を抱いて、それなりに堅実に何事かを重ねていた人ほど、大きなダメージを受けるものです。
松本清張の小説に「或る「小倉日記」伝」という作品があります。これはある身体が不自由な青年が、失われていた森鴎外の「小倉日記」を補完しようと自分の命を燃やし尽くすという話です。結局、彼は志半ばに生涯を終えるのですが、その翌年に「小倉日記」の原本が見つかります。彼が、この事実を知らずに亡くなったことが幸か不幸かは、誰にもわかりません。
しかし、現実にもこうしたことは往々にあるもの。それだけに、そうした自分の半生を否定される事態がおきることを恐れています。その恐れゆえに、思い切った行動が起こせなくなることも歳を取ると多くなるでしょうね。あるいは保身に走ることも…
「光る君へ」の道長は、「民のための政」というまひろの約束を叶えるために、四半世紀をかけてきました。それが、正しいと信じてきたからです。そのために、心ならずも、その手を血で汚してもきました。しかし、それが本当に正しいのか、ということを今回、突きつけられてしまいます。無論、以前noteで触れたように、道長は引き返すことができないところに来ています。
そこで、今回は、三条帝の譲位を巡る人々の動きを見ながら、道長の志の影の部分、そしてそれを危惧する人、擁護する人の思いについて考えみましょう。
1.譲位をめぐる仁義なき戦い
(1)妍子の出産と三条帝の異変
1015年、先年に続く内裏の火災で枇杷殿に移った三条帝のもとを道長と道綱が訪れます。見舞いかと思いきや、道長が切り出したのは「恐れながら2度にわたる内裏の火事は、天がお上の政にお怒りである証と存じまする」と、火事を口実に帝の責任を問う言葉。思わず、それ言っちゃう?とばかりに目を剥く道綱は、道長からこの拝謁の真意を聞かされていなかったのでしょう。
そもそも、不用意な言動の多い兄に話さないほうが良いという判断もありそうですが、同時に前回の怪文書の件もあったかもしれません。道綱の人間性は信用できますが、お人好しゆえに利用されかねない。こういうときに同席させ、道長側の人間であることをはっきりさせておけば、彼を守りやすくなる。そういう算段もあったように思われます。
さて、道長の言葉に三条帝は、「聞こえぬ。もっと大きな声で申せ!」と苛立ちを見せます。このとき、三条帝の目だけかクローズアップされています。後の展開からして、既に眼病及び耳の病を患っていることを仄めかすショットでしょう。ですから、「聞こえぬ」の台詞も、パワハラ的な当てつけではなく実際に聞こえていないからだと思われます。無論、道長はこの時点ではそれを知りませんから単に嫌がらせと感じたと思われます。
因みに、三条帝の病は、仙丹(不老不死の薬)を飲んだ結果と言われています。仙丹の材料には硫化水銀など有害物質が含まれ、不老不死とは真逆の代物でした。中国の皇帝の遺体に水銀中毒の跡が見られるというのも仙丹が原因です。
結果的に挑発された形になった道長は、改めて意を決したように「この上は、国家安寧、四海平安のため、何とぞご譲位あそばされたく、臣道長、伏してお願い申し上げまする」と、世を乱した責任を取るよう譲位を迫ります。さすがにそれは…と言いそうになったところを三条帝に「道綱、そなたもそう思うておるのか」と振られた道綱は慌てた挙げ句、「は!ん?あ…いえ…」と、いつもの癖でつい首肯…後にミスに気づいてしどろもどろ…本音はともかく、肝心なときにアテにならないことはバレてしまいます。結局、「この無礼者め、譲位なぞもっての他である」と道長共々叱責を受ける羽目に(笑)
道綱は巻き込まれ事故のようなもので気の毒な面もありますが、譲位を迫る道長の弁は、こういうときが来ることを見計らって用意されていたものでしょう。事の発端は、前年に妍子が禎子を産んだことでしょう。即位から3年が経った後、ようやく三条帝と中宮妍子との子は姫皇子…三条帝との間の皇子を次の東宮にするという道長の計画は脆くも崩れました。我が子を抱く幸せそうな妍子とは対照的な道長のガックリしたあからさまな様子は、孫を政治的にしか捉えられない道長の現在地と娘の思いと決定的なズレを窺わせますね。
「道長の思惑どおりにはいかなかった」(ナレーション)ことにほくそ笑む三条帝は、敦明を次の東宮に据えられる確信に至り、勝利者の顔つきしています。が、物事は常に反動が伴うもの。姫皇子誕生は、対立する道長と三条帝とをつないでいた一番太いパイプが絶たれたことを意味しています。打つ手を失った道長が、主導権を三条帝に完全に握られる前に譲位させようとする動きに出るのは自明の理です。
三条帝の、してやったりという笑みは、道長の野心の命脈を絶ったとの自負と思われますが、事態は三条帝が考えるほど単純ではなく、対立が表面化した分、きな臭くなっているのです。そう考えると、実はまだ権力を掌握していない三条帝側にとっても、姫皇子誕生は政治的にはあまりよくはないことが見えてきます。
皇子が誕生していれば、それを交渉カードに駆け引きを優位に進め、道長の力を削ぐことも出来たでしょう。三条帝が思うままに政を行い、敦明を次の東宮にするのは、それからでよいのです。しかし、三条帝はそのことには気づいていなかったように思われます。ですから、道長の譲位進言は寝耳に水の揺さぶりと写ったのではないでしょうか。
このように、道長の三条帝への譲位進言は、天災にかこつけたなりふり構わない行為として始まりました。この時点では、道長は三条帝の病を知りません。が、道長は、思わぬ形でそれを知り、譲位のための大義に使える気づきます。ある日、道長はいつものように三条帝へ政務報告に上がりました。「備前国の守が交代のため…」と言いかけたところ、「声が小さい!」と叱責を受けます。言い方が悪かったかと道長は、声を張り、滑舌もしっかり「備前国の守が交代のため、不動倉の鍵を申し入れておりますが、いかがいたしましょう」と問います。
不動倉とは、米を出し入れしていた正倉が満載になった際に備蓄として封印した各地の倉のことです。その鍵は都の太政官へ送られるため、開封には都での許可と鍵の返送が必要になります。そして、国司交替の際には必ず開封の手続を行って中身を確認するとともに中身の入れ替えを行うことが慣例となっています。道長は、この件についての追認を得ようとしただけ。つまり通常の政務に過ぎません。特段、政治的な駆け引きもありません。
しかし、すぐには返事をしない三条帝は「今日は暗いな、御簾をあげよ」と言います。蔵人頭が御簾を上げるなか、何気なく三条帝を窺った道長はぎょっとした表情になります。そこには、文書を逆さに持ち、読むふりをしている三条帝の姿があります。あまりのことに、道長が確認するようそっと目をしばたかせるのも無理はないでしょう。
ここでようやく、道長は、三条帝が目も見えず、耳も難聴気味であることに気づきます。哀れ目の見えない三条帝は、道長に気づかれたことにも気づかず、文書を読み思案げな演技を続け、やがて「左大臣の良きようにいたせ」と命をくだします。先にも述べたように不動倉の件は、殊更、思案する事案ではありません。健康状態を誤魔化すためにもったいぶるようでは、政務に支障ありとされても仕方のないところ。なんにせよ、事態は道長に都合のよい方向へ転がり始めます。
(2)道長の政治的優位と三条帝の執着心
早速、四納言を集めた道長は「帝はお目が見えずお耳も聞こえておられん」と、この事実を伝え、驚く一同を前に「このままでは帝としてのお務めは果たせぬ」と、自分の意向まで語ります。「そんなにお悪いのか」と動揺する斉信を尻目に、俊賢は「ご譲位を願い奉るのですね?」と、冷静かつ的確に道長の意思を確認します。
道長の「そうだ」という躊躇ない答えに「お気の毒でございますな」とその意に逸れた同情を示す行成に「情に流されるな。政がお出来にならねば致し方あるまい」と嗜め、引き締めを図る公任は、相変わらず政に対する割り切りがはっきりしていますね。状況がわからない行成ではありませんから、公任の言葉には不承不承頷くしかありませんし、斉信も納得の表情です。
四納言の総意がまとまったところで「内裏中にご譲位を望む気分が高まるよう謀りましょう」と調略を進言する俊賢。これに「頼む」と一言を返す道長をカメラはやや右斜め上のアングルから捉え、影が差したその無表情を為政者としての冷たさとして映しています。そこには、かつての温厚さゆえに苦しみ、悩む道長の人間らしさは窺えません。行成だけは、病の三条帝を道長の冷徹さに眉をひそめ、不安げな表情をします。見てはいられないのでしょう。
ただ、唯々諾々と従うように見える他の四納言が、今の道長に変化を感じていないと考えるのは早計でしょう。正直で優しい行成はわかりやすく反応が出ているということに過ぎないと思われます。自分の出世しか頭にない斉信は別ですが。例えば、公任は、この謀を「致し方あるまい」という言い方をしました。本当はこうしたやり方が不本意ということです。
最も積極的に謀に関与する俊賢の胸中も複雑と察せられます。道長が右大臣になったときから、道長の人柄と可能性に惚れ込んだ俊賢は、忠臣として道長に尽くしてきました。その一方で徐々に冷徹、非情に変わっていく道長についても敏感だったと思われます。特に甥の顕信の出家は、政を優先する道長の冷徹さの表れでした。ですから、甥の出家とそれにかかわる妹明子の寝込むほどの傷心について思うところがあったでしょう。
しかし、そうした本心は一切出さず有能な謀臣に徹しています。敦成を東宮にする謀を起こす際、「崩御なら話は一気に進みます。それもやむ無しかと」(第40回)と述べ、三人に覚悟を決めるよう促したのは俊賢でした。彼は変わりゆく道長を感じながらも腹を括り、今もここにいると思われます。静かな覚悟から来る凄みを見せる俊賢の本音は、全てが終わった後、例えば道長が望月の歌を詠んだときに聞けるかもしれませんね。
一方、道長が天災を口実に譲位を迫ってきたこと自体には、三条帝も危機感を募らせ、娍子立后に協力的だった実資を呼び寄せ「左大臣がはっきりと譲位を迫ってきた」と相談します。しかし「放っておかれればよろしゅうございます」と実資が一蹴するのは、道長の進言はまだ一種のブラフ、相手の反応を窺う観測気球と見たからでしょう。しかし、健康問題を隠している三条帝の不安は拭えるはずもなく「そうだが…毒でも盛られるやもしれん」と被害妄想を膨らませます。
「左大臣殿はそのようなことは、せぬと存じます」と実資が指摘するように、道長はそこまで考えはしません。ただ、彼の父、兼家は円融院に毒を盛り、退位へ追い込んでいます。今の道長は、そうしたことが出来る、しかねないという立場にいるとも言えます。道長の言動に兼家の影がちらつくよう演出がなされています。
これまでの道長の政治手腕を知る実資は、そこまで後ろ暗いことをするまいという確信はあっても、当の相手の不安は拭えませんから「されど、ご不安であるならば、信用できる蔵人頭をお置きになられませ」と、当面の策を献じます。この時点では健康問題を知らない実資が、不安の原因は周りに信頼のおける人がいないと察するのは妥当でしょう。信頼できる政策秘書兼相談役を身近に置くというだけではなく、帝と臣下をつなぐ蔵人頭は緩衝材にもなります。具体的には、三条帝にとって不快な干渉を蔵人頭である程度食い止め、三条帝の意向について蔵人頭を通じて伝えることが出来るということです。
この進言に三条帝は「そなたの息子ならば信頼できる」と、養子の資平の起用を約束します。これは、娍子立后の翌日に実資を相談役にしたいと資平を通じて伝えたことと同じ、三条帝のあからさまな取り込み策ですが、あのときは一蹴した実資、今度はあっさり乗ってしまいます。息子の将来を案じたからか、「家」の繁栄を考える貴族の業なのかもしれません。帝がこうした場で自らした約束ゆえに口約束に過ぎないにもかかわらず信用したということもあるかもしれませんね。
三条帝は善は急げと道長を呼び出すと「資平を蔵人頭にしたい」と唐突に切り出します。しかし、道長は「蔵人頭には亡き伊周の嫡男道雅、亡き関白道兼の三男兼綱がよろしかろうと存じます」と、自身に近しい九条流の若者たちを推挙します。これを牽制と見た三条帝は「嫌だ…朕は資平を望んでおる」と、強引に認めさせようとします。
本作で描かれる三条帝の人事は、基本的に人物の能力を公正に判断した適材適所ではありません。先帝に重用されたものは使いたくない、道長から疎遠な者を起用するなど、自身の気分が通りやすい人材を登用していくという傾向が強い。ですから、道長を説得するだけの材料がなく「嫌だ」などというお気持ち表明になってしまいます。
結果、「蔵人を務めたことのない資平に蔵人頭は適任とは思えませぬ」と真っ当な理由で道長に突き返されます。道長は、顕信の出家という犠牲を払いながら、三条帝の懐柔策には乗らないようにしてきました。息子らの出世は取引材料になりません。また、既に妍子の姫皇子出産で、最大の交渉カードも失われています。ここに来て三条帝は、道長との駆け引きに使える持ち合わせがないのです。
そもそも、三条帝は、道長から早期退位を求められることを恐れ(それは正しい推察ですが)、距離を取り、対抗策を講じ、駆け引きを仕掛けるという形で道長と接してきました。つまり、敢えて、信頼関係を築くことを避けてきました。そのことが裏目に出ているのです。3年以上、三条帝の攻勢に耐えた道長が、優位になるのは自明と言えるでしょう。因みに、実は道長が推挙した二人のうち、道雅は蔵人経験者ですが兼綱は経験者ではありません。道長の理屈の穴に気づけないあたりに、三条帝の政が人を見ず、自分しか見ていないものであったことを象徴していると言えるかもしれませんね。
打つ手のない三条帝は「朕の言うことを聞けぬのか…」といきり立ち、帝位の強権で道長を封じ込めようとします。しかし、海千山千の政の世界で左大臣を20年務め、老獪さを身に着けている道長は、この程度の圧迫には動じるはずもなく、「お考えをお変えいただきたくお願い申し上げます」と平伏しつつも、まったく従う気がない意を示します。皇位と言えど、それは公卿らの総意があってこそ、力を持つことを道長はよくわかっています。だからこそ、俊賢に内裏中に譲位を望む空気を作らせようとしているのですから。
「もうよい!」と吐き捨て、癇癪を起こした三条帝は、その場を立ち去ろうとしますが、足元の置物にぶつかると激しく転倒してしまいます。三条帝は、我意を通さんとするあまり感情的になったことで、自身が眼病を患っていることを最悪の状況で道長に知らしめてしまうのです(既に道長が気づいていることを三条帝は知りません)。無論、道長が、敢えて御簾を越えて、三条帝を抱きかかえるように手を貸したのは、まずは玉体を心配してのことです。
事ここに至っては、病を隠し立てはできません。転倒のショックと怒りで息の荒い三条帝に、諭すがごとく「お上、お目も見えずお耳も聞こえねば 、帝のお務めは果たせませぬ。ご譲位くださいませ。それが国家のためにございます」と静かに迫ります。今の状況では、政にも儀式にも支障があることは、三条帝自身もよくわかっているでしょう。これからというときに身にかかった不運への嘆き、今この場で政敵の道長の手を借りなければ立つこともままならない現実…これだけでも彼にとっては屈辱的です。
更に三条帝にとって腹正しいことは、道長が自身の譲位を「国家のため」と言ったことです。道長の言葉は、一々正論ですが、譲位を勧める道長の真意が敦成の践祚であることは言うまでもありません。このことは道長自身の意識では、民のための政にとって必要不可欠な通過点というだけです。「国家のため」という言葉に嘘はないでしょう。しかし、三条帝からすれば、権勢を絶対にしようとする道長の詭弁にしか聞こえないと思われます。
ですから、道長の諭すような言葉はかえって、三条帝を逆上させます。支える道長を振り払って立ち上がると「譲位はせぬ!」と頑なな態度を取り、「そんなに朕を信用できぬなら、そなたが朕の目と耳になれ」とまで言い出します。これには道長も呆気に取られます。政敵である道長に対して「そなたが朕の目と耳になれ」と阿る物言いは、彼に政を預けるというに等しいからです。政治はお前の好きにすればよいから、帝位は私のものにしてくれ…とどのつまり、三条帝には政治に対する理想ははなく、帝という地位が持つ権威と権力のみに執着しているのです。
「それならば文句はなかろう!」と捨て台詞を残し、よろよろと去っていく三条帝ですが、しばし呆然としたままの道長。政と儀式あってこその帝位、だからこそ治天の君なのです。それを人に預けてしまえる三条帝は、帝足り得ません。三条帝の帝位への強い執着心は、長らく東宮に甘んじてきた鬱屈のよるところが大きいと思われますが、政に携わってきた道長には理解し難い異様なものと映ったでしょう。結局、三条帝は権力を弄ぶ人物だったということです。人事に対する情動的な言動も納得できます。
やがて、道長は嘆息するように首を振りますが、政を疎かにし帝位だけにこだわる三条帝の執着心に対して、これは駄目だと呆れる思い、理想なき帝を相手に神経をすり減らしてきたことへの虚しさが、胸に去来したと察せられます。そして、それは、道長のなかで、野心から始まった三条帝譲位の謀が、政のために必要不可欠な大義へとすり替わっていくことでもあります。この一件で、道長はますます、譲位のための圧力を高めていく意思を強めたでしょう。
2.道長の野心を危惧する公卿たち
(1)志の空虚を突く実資の言葉
道長に眼病を気づかれていることを知った三条帝は、譲位問題で道長が攻勢を強めることを察します。焦りと不安から、再度、実資を呼び出すと、「左大臣めが朕を脅してきた」と切り出し、危険性を煽ります。ただ、それだけでは実資が動じないことは、先の一件でわかっていますから、わずかの逡巡のあと、「朕は目を病んでおる」と、道長が譲位を求める攻勢を強める理由を正直に明かします。最後の頼みの綱に隠し立てしても益はないとの判断でしょう。結局のところ、三条帝は比較的野心が薄く公正な実資以外に頼れる実力者を持たないのです。
当然、実資は驚きながらも、それを押し隠すようにポーカーフェイスを装います。見えない三条帝は、そんな実資の心中など知る由もありませんが、「時には耳もよく聞こえなくなることもある。しかし朕は正気である。朕にはまだやれることがある」と切々と政への情熱を語ります。まだ始まったばかりで何も成し得ていない…その思いがあるだけに引けないのでしょう。そして、道長へ述べた通り、適切な視聴覚の補助さえあれば、自分は政が行えると主張します。ただ、道長に見せた三条帝の醜態からすれば、彼の本心は帝位への執着だけであり、政への関心はあまりありません。
そうした三条帝の本心には気づけない実資は、彼の主張を単純に言葉通りに捉えています。ですから、「実資、朕を守ってくれ、左大臣から朕を…頼む」との懇願の後、暫し沈思し、真面目に事態を整理します。帝が日常生活もままならない健康状態というだけでも、道長が譲位を勧めてくることは無難です。ただ、そこには敦成親王を帝位に付け、外祖父として権力を握ろうとする道長の野心が見え隠れします。
一方、三条帝には、物事を判断する能力も政への情熱もあるように、実資には見えています。だとすれば、補助さえあれば政が続けられるという主張も一理あるでしょう。自分の養子、資平が蔵人頭になれば、それも可能かもしれません。三条帝が帝として機能するのであれば、政治システムには問題がないということで譲位は不要となります。もっとも、身体に致命的な不自由を抱える物を政務の要にする発想は、共生と平等を旨とする2024年現代であれば当然とも言えますが、当時の貴族社会ではそうした考えは一般的ではないでしょう。周りを納得させられるものでもありません。
本来、ベストは、帝と左大臣がほどよい緊張感で手を取り合うような体制です(その意味では結果的に一条帝と道長は上手くいっていたと言えるでしょう)。ただ、二人の間に信頼関係はなく、修復不可能になりつつあります。つまり、実資は、実質、二者択一を迫られているようでもある。立ち位置を公正なままに道長を説得することは、かなり難しい舵取りになるでしょう…ここが、実資の悩みどころだったと思われます。
しかし、帝の親政自体には反対ではない実資は、道長を諫めることを請け負います。朝廷のルールに乗っ取れば、道長は、左大臣であっても臣下の一人に過ぎないということでしょう。臣下が、帝の譲位を迫り、その御心を乱すことは、不敬の極み。その倫理的問題を突くと算段したのではないでしょうか。
覚悟と算段を胸にした実資は、道長との直接対決に臨みます。ドカドカと殊更、足音を立てながら道長の執務室へ現れ、文机の前で書状を読む道長の目の前で傲然と立ち、見下ろすのも実資の腹芸のうちでしょう。当然、気づいた道長は、彼を見下ろす実資の異様な態度に息を飲みます。実資が相応の覚悟で、何か直談判に来たことだけは察します。実資、道長双方の目配せを受けた側近は、静かにその場を後にします。
人払いが済むと実資は「帝にご譲位を迫っておられるそうですな」と単刀直入に聞きますが、何事かと思っていた道長は想定内の質問に安心したのか、「ああ~」とそんなことかという息を漏らし、再び目を書状に落とすと「そうだ。目も耳も病んでおられる帝がまともな政をお成しになるとは思えぬ。ご譲位あそばすのが、帝としての正しき道だと考える」と事もなげに答えます。その言葉には、自身の行いに対する大義を確信する響きがあります。
ただし、これは詭弁です。先にも述べましたが、三条帝が健康問題を抱えていなくても、道長は譲位を迫るつもりだったからです。健康問題は、付加的なものです。
揶揄を痛痒にも感じていない道長の反応を開き直りと感じたのか、実資は、意を決したように座り込むと「その考えもよくわかります」とまずは、道長の主張に理解を示した上で「されど、帝のお心は譲位に向かっておられません。責め立て申し上げれば、帝のお心もお身体も弱ってしまわれるでありましょう」と、道長の行為は、大義を盾にした冷酷非情なやり方ではないかと問い質します。
多くの人がよく間違えていますが、正論は正しいですが、正論で人を攻撃することは正しくありません。今の道長は、正論で人を攻撃しているだけだと実資は指摘しているのです。譲位を迫ることを冷酷と詰られた道長は、さすがに一瞬、憮然とした表情になりますが、息をつき整えると挑発には乗らぬとばかりに、実資の指摘に取り合わない気配を漂わせます。
実資は諦めません。それどころか「弱らせることが正しきやり方とは思えませぬ。このまま左大臣どのが己をとおせば皆の心は離れます」と、さらに言い募ります。臣下が帝の御心を弱らすことは、冷酷かつ不敬の極み、道理にも信義にも悖る道長の言動は自身に返ってくると忠告するのです。
この忠告には、実資の道長に対する評価が窺えますね。実資は、陣定を重視し、皆の意見を十分に汲み上げ、必要なときのみ的確な辣腕を振るう道長の長年の手腕を買っているのです。それだけに、性急に譲位を迫るという倫理的な配慮に欠けた圧力は、長年積み上げてきた実績と求心力を失うことになる、それは政のために正しいのか、と問い質しているわけです。政に対して、道長が真摯さを失っていないと信じての言葉は、実資なりにかなり道長に敬意を払った物言いをしていると言ってよいでしょう。
しかし、道長は「ふ…」と笑うと「離れるとは思わぬ。私は間違ってはおらぬゆえ」と傲然と言い返します。自身の遣り口の倫理的弱さを、「民のための政」という志、「健康問題を抱える帝に政務は不可能」という道理の二つとすり替えている今の道長に、実資の忠告は効きません。自身の大義を確信し、それを見直すことはしないからです。ここに至っては、実資も歯にものを着せぬ言い方をせざるを得なくなります。「幼い東宮を即位させ、政を思うままがままになされようとしていることは誰の目にも明らか」と、大義の裏にある野心を糾弾します。
実資は、道長を卑しい野心家と思っているわけではありません。殊更、道長を悪しざまに恐れる三条帝にそういう御仁ではないと口を添えたのも、その表れです。もしも、道長が権力に固執する卑しい人物であれば、彼が娘を入内させる提案をすること(第26回)はなかったでしょう。陣定でも忌憚ない意見は言っても、大半は道長と表立って対立することはありませんでした。今も議論してわかる人物と見て、気を遣ってここまで話しています。
ただ、己の正しさを疑いもせず、諫言を取り合わない今の道長には危惧を覚えます。実資が、道長に激昂して異を唱えたのは、一条帝の譲位が陣定で諮られたとき(第41回)ですが、もしかすると、このときから、道長がこれまでとどこか変わったとは思っているかもしれません。それゆえに、周りから「今の道長」がどう見えているのかを端的に指摘する形で諫言したというところでしょう。
果たして、道長が政を私し、専横を極めんとしている…そう周りが見ているという指摘に、道長は苛立ちを露わにします。彼が反発した父兼家の野心、諫言し続けた兄道隆の独裁と同じだとされるのは心外です。清明にも度々、「父のようになるつもりはない」と言ってきました。陣定を重視したのも、彼らにならないための足枷の意味合いもあったでしょう。、彰子の入内や一帝二后も躊躇し、悩んだのも同じことです
実資が語る、道長の懊悩も苦労も理解しないような道長評はあまりと言えばあまり…ということなのでしょう。自分をそう見るのは、周りが私利私欲に固まっているからではないのか…ぐらいは思っていそうです。しかし、政治は結果。道長は自身に権力が集中していく策を講じ続けています。また自身の思いとは裏腹に権力闘争の当事者であり続けてもいます。
何故、そうなってしまったか。皮肉なことに、道長が専横を防ぐため、権力の行使に抑制的であったからです。陣定を重視する無私というあり方で人望を得た道長ですが、その成果は「民のための政」からはほど遠い忸怩たるもの。その後悔が、確実な政のシステムの構築、権勢を固めるということへつながっていきます。結局、道長は理想の高い為政者であるがゆえに、政の悪循環に陥っていると思われます。
したがって、三男坊に過ぎない頃から道長を見てきた視聴者ならば、彼の心中は理解できなくはありませんが、周りが彼が権力の虜になっていると見るのは無理ないでしょう。
とはいえ、道長にすれば心外極まりない。ムッとした顔つきになると、彼にしては珍しく手にしていた書状を机に叩きつけるという感情的な行為に出ます。その気持ちは「左大臣になってかれこれ20年…」と語るやや強い語調にも表れています。そしてきっぱり「思いのままの政などしたことがない」と言い放つと遠い目になります。
言いながら、まひろとの約束を何もなし得ていないまま、今ここに至ること、長い年月を過ごしてしまったこと…その無力を実感したのでしょう…寂しげに「したくともできぬ。全くできぬ」と苦い言葉を口にします。
政の頂点にいる為政者とは思えない弱気に実資は、「左大臣殿の思う政とは何でありますか」と率直な質問をします。それは話の流れからすれば、ごく自然なものでしたが、道長は今さらな質問に戸惑ったようになります。兼家に反発し、まひろとの約束に邁進してきた道長は、自身の思う政とは何か、改めて問い直すことはなかったのでしょう。そして、その秘めたる思いは、嫡男頼通以外とは共有していません。理解されるとは思っていないからでしょう。
それでも、実資に今一度「思うがままの政とは?」と重ねて問われれば、答えるしかありません。目を伏せ、少し思案した後、真正面に実資を見据えると「民が幸せに暮らせる世を作ることだ」と理想を語ります。実資は「民の幸せとは?」と畳み掛けますが、ここで道長は、目を丸くしたまま、答えに詰まります。そう言えば、民の幸せとは何なのか…具体的なものが何も思いつかなくなっている自分に戸惑います。かつては、それが見えていたような気がしていたはずだからです。例えば、貴族の横暴で理不尽な死に方をしないとか…
若き日の道長は、貴族たちの民への態度の酷さが心苦しく、お忍びで市中を出回っていました。そのおかげで彼はまひろと運命的な出会いをし、また直秀とも知り合いました。結局、下情に通じていない上流貴族の三男であることが仇となり、直秀たちを死なせることになりましたが、市井の人たちと分け隔てなく付き合おうとしたのは確かです。
また疫病のときも感染の危険を省みず、実情把握するため悲田院へ乗り込んだ公卿は道長と道兼だけでした。このときも、それがまひろとの再会を呼びました。市井と向き合おとするから、道長はまひろと出会ったとも言えますね。
しかし、右大臣、左大臣と政の頂点に立つと、その激務は多忙を極め、内裏に泊まることも珍しくありません。天災、宋人問題、手に負えない事態も次々と起こります。また若く経験不足な道長が、老獪な公卿らを束ねることは並大抵のことではなく、定子の愛に惑う一条帝にも悩まされ した。最早、市井の人々の顔を見る余裕などないまま、「民のための政」という目標に向かうしかなかった…そんな20年です。だから、実資の言葉に道長は真顔で固まってしまったのです。
答えられない道長を見た実資は、ここぞとばかりに「そもそも、左大臣殿に民の顔なぞ見えておられるのか?」と揶揄しますが、ここで実資が、道長の理想を嘲笑する表情をわずかに浮かべたことは見逃せないところです。この笑いには二つの意味がありそうです。
一つは、貴族の頂点に立つ道長が最下層の民の生活、思っていることがわかるはずがないということです。道長は、富の大半を手にしている藤原氏の氏長者です。貧窮に喘ぐ民の実態とは、あまりにも解離している彼に、何が分かるのかということでしょう。
そして、実資が道長の目標を嘲笑うもう一つの理由は、一つ目とも絡みますが、青臭い理想論だからです。左大臣になって20年も経て、未だに政がわかっていないのか、この男は…と道長を小馬鹿にしたということです
かつて陣定で「国司の横暴をあげつらう上訴」(「国司苛政上訴」)が議題になったことがありました(第13回)。「民は一々文句を言う」という道隆の言葉に首肯する公卿が大勢を占めるなか、道長だけが「このように都に参る民の声には切実な思いがあるに違いありません。この訴状につきましては、詳しく審議すべきと考えまするが」と意見しました。
この言葉に一人感心したのが、実資でした。実資が、道長を私利私欲ではない公正さを持つと認めた最初です。道長がこうした意見を陣定で言ったのは、民も貴族も同じ人間だと思う人道的なものであり、まひろとの約束があればこそです。
しかし、実資が、このとき、道長に感心したのは、一つは「いかなる議題も手抜かりなく審議すべき」という生真面目さから。もう一つは「国家を支えるシステムとしての民」を疎かにしないのが当然だからです。あの一件は、民の訴えと国司の言い分を聞いた上で朝廷の将来に適う落としどころを見つけるのが妥当…と実資は考えたと思われます。暴動などで租税の徴収自体が滞れば、朝廷のシステムが揺らぐからです。
実資は、民を憐れむ気持ちは特段持ち合わせていません。民の強訴も公卿らの我欲の強さも、国家の将来に仇をなすかもしれないものとして、等しく憂えているだけです。
このように見ていくと、「左大臣殿に民の顔なぞ見えておられるのか?」と揶揄した実資自身も、民の顔は見えていません。いや、見る必要はないという考えなのでしょう。勿論、実資にしても、民を慰撫することは大切と思っているでしょう。しかし、それは、あくまで租税を支えるシステムの維持のためです。民の個人的な幸せのためではありません。総体としての民を捉えるだけで十分ということだと思われます。道長とは、そもそも政の思考が違うのです。
だから、実資は「幸せなどという曖昧なものを追い求めることが我々の仕事ではございません」と忠告するのですね。そもそも、幸せの定義は一人一人違います。それらに向き合うことは現実的に不可能です。よしんば、最大公約数的な民の幸せを見つけ出したとしても、それが適うことが国家全体の利益につながるとは必ずしも言えません。何故なら、民の幸せも欲望の一種だからです。
無論、上流貴族の飽くなき欲望に比べたら、民の抱く望みはささやかなものでしょう。しかし、その総数を考えると、やはりそこだけに寄ることは出来ません。近年、日本も含めた世界で蔓延するポピュリズム(大衆迎合主義)が国を滅ぼすとは、そういうことです。
したがって、実は実資のイデオロギー(政治思想)は、「お前が守るべきは民ではない」(第13回) 「民に阿っていては思いきった政はできん」(第3回)という兼家と全く同じなのですね。ですから、「国司苛政上訴」の一件で不満はあれども反論はしないという立場だったのでしょう。つまり、道長は、今ここに来て、実資を通して、「民のための政」を「民に阿るな」と忠告した兼家のイデオロギーと対峙することになったというのが、この道長と実資の問答のシーンなのですね。
ただし、実資と兼家は、目的が違います。兼家のそれは、我が「家」の繁栄というわかりやすい私利私欲が目的でした。だから、道長は、それはおかしいと抗することができました。
ところが、実資がそのイデオロギーに寄るのは、国家という体制の維持、謂わば公益のため。それは、「朝廷の仕事は、何か起きたとき、真っ当な判断が出来るように構えておくことでございます」との言葉によく表れていますね。未曾有の災害が起きたときなど非常事態のときこそ、人々を救う、必要な物資を手配、生活を支援、インフラを整備など、その内容、順序と政治の適切な判断が求められます。
それが機能するために、日々の政において、政治システムの健常化、堅牢化が計られる必要があるのでしょう。民の問題もそのようなマクロ的な視点で捉えるべきだと、実資は意見していると思われます。公明正大、真っ当さを持つ彼の主張自体には、道長も認めざるを得ないでしょう。
道長の出来る反論は、「志を持つことで、私は私を支えてきたのだ」と、実資の言うことを実行するためには理想も必要ではないかということです。そして、それによって自分は左大臣をここまで務めてきたと己の政治生命そのものを語ります。紆余曲折ありながら、20年、この国の形を維持してきたからこその言葉です。
しかし、道長のやや感傷を含む言葉にも「志を追いかける者が力を持つと、志そのものが変わってゆく。それが世の倣いにございます」と容赦がありません。あくまで彼は、青臭い理想論に突き進み、変質してしまった道長の「現在地」を批判するのです。
実資の指摘は一理あります。志を追う、つまり理想主義者は、その理想の高さゆえに、現実とのギャップに苦しみます。当然、その溝を埋めようとしますが、旧態依然とした組織、理想を理解出来ない周り…立ちはだかるさまざまにも悩まされ、遅々として進まない。あるいは想定外の事態が起こるのも世の常…志を叶えることは時間がかかります。
結局、周りに自分の志が浸透するのを待てず、強引な手法、過激な政策といった手段に出ることはしばしば。志のために、志とは真逆の強権的な政策を実行し、果ては独裁的な政治を敷いてしまう矛盾を抱えることになります。その矛盾を、大義のためならば仕方ないなど、自分のなかで矛盾のないようにしていくうちに、志は変質していく…世の革命家が失敗する流れは多かれ少なかれ、こうしたことがあるのでしょう。
道長は極端に変質したわけではないかもしれません。しかし、少なくとも民の顔は見えなくなり、そしてその遣り口は「幼い東宮を即位させ、政を思うままがままになされようとしていることは誰の目にも明らか」と言われるほど、兼家のそれに近くなっています。道長自身、兼家の手法を取ることを嫌がっていましたが、例えば娘の入内に対しては最早、躊躇はありません。「民のための政」のために家族に犠牲を強いることと、我が「家」のために家族に犠牲を強いること…この差はどこにあるでしょう。道長は、志は純粋であるがゆえに、哀しいかな、理想主義の政治家が陥る矛盾と変質に陥っています。
しかも、以前note記事で触れたように、道長の志は、まひろとの約束とイコールですから、大義のオブラートに包もうとそれは一途な彼の私欲です。尚更、変質しやすいでしょう。
さて実資の指摘に、考えるような、呆気に取られるようとなった道長ですが…やがて「ん?」となると、「ふ…おい、意味がわからぬ」とややこしい禅問答には乗らぬとやや乱暴な言葉使いで返します。そう、このやり取りは、道長の政の是非についての話ではなく、政治的駆け引きです。その根本に返った道長は、実資は理屈を捏ねる論戦でねじ伏せようとしているだけ…その詐術に気づいたのですね。
見抜かれた実資はさすがに困った顔になると「帝のご譲位、今少しお待ちくださいませ」と目的だけを告げると、そそくさと退散します。しかし、実資の数々の指摘は、道長に実は自分は志からかなり遠ざかっていることを自覚させるには十分だったでしょう。実資を見送るその表情には、呆然と虚しさが窺えます。
ところで現在の道長の問題点を巧みに指摘した実資ですが、それでは彼が全面的に正しいのかと言えば、そういうことではないでしょう。実資の道長への攻め方から窺えるのは、実資の信念の強さの所在です。彼が何故、誰に阿ることなく自分を貫けるのか。それは彼が、朝廷というシステム、律令という法を徹底的に信じているからです。だから、道長の言う「民のための政」、つまり徳治を信じない。人の感情に左右されない法治が、政の根本だと考えているのです。実資が先例にこだわるのも同じ理由でしょう。
しかし、こういう実資が政の頂点として20年、道長のようにやっていけるかと言えばやれないでしょう。システムや法は完璧ではありません。だから、その都度、人間の揺らぎや意思がそれを補正して成り立ちます。
ですから、政の頂点に立つ人間は、システムや法を運用する志や理想といった進むべき方針を示さざるを得ません。それは、時に法理を超えるものとなります。実際の政には法理を越えた事態に臨機応変に対応しなければならないことが、ままあります。
またシステムの強さに依拠する人は、システムの問題点に気づけません。結果として、法もシステムが硬直化、あるいは形骸化ということが起きます。それを防ぐには、この国の将来を定める志や理想が必要なのですね。道長が、20年、左大臣をやってきたという事実の重み、そして政の頂点の景色がどのようなものか、実資はわかっていないのですね。
実資は能吏であって政治家ではない。この問題が、実資が政を行う場合には起こるでしょう。道長と実資の問答は、徳治と法治、政治家と官僚、さまざまな対比があります。二人は平行線であり、優劣がつけられてはいません。どちらも一長一短でしょう。
ですから、三条帝を当面、守るべく、道長を糾弾した実資にも手痛い結果が待っています。資平を蔵人頭にするという約束を反故にされたことです。しかも、その理由は、敦明が「私の友、兼綱を蔵人頭にしてくださいませ(中略)蔵人頭にしてやらないと、私の顔が立ちませぬゆえ。一重にお願い仕ります」と言われたから。一旦は「ふむ…それはどうかのう…」と躊躇した三条帝ですが、愛する娍子から「私からもお願いいまします」と言われてしまうともういけません。
結局、三条帝には、政に志がなく、また臣下への信義もなく、人事は情と縁故…道長の政とは真逆です。実資は、結果的にこれに与し、しっぺ返しを食らうのです。「憤慨した。約束したではないか。約束を反故にするなら、私を二度と頼りにするな」と怒り心頭の実資ですが、実は自業自得です。
まあ、資平、その後、三条帝が強引に蔵人頭にはしてくれますが。
(2)道長についていけない行成の心境
現在の道長の政の強引さを危惧するのは、実資だけではありません。寧ろ、もっと前から道長が強権的になっていくことを不安に思っていたのが、四納言の一人、行成です。敦成を東宮位にする話し合いでも、異論を唱えたのが行成でした。第40回でも触れましたが、行成が「強引なことをやって恨みを買えば、敦成さまにも道長さまにも何が起きるかわかりません」と言った真意は、道長には正々堂々とした遣り方で権勢を握ってほしいとの思いからでした。一条帝と敦康親王への情と道長との友情に挟まれてはいても、心の底は四納言中、一番の道長シンパというのが行成でした。
だからこそ、行成は、行きがかり上、一条帝か道長かの二者択一に迫られたとき、一条帝に敦康親王を東宮にすることを諦めさせるという最大の功績を果たすことになってしまったのです。しかし、そのことは心優しい行成の心に大きなダメージを与えました。その瑕は言えることなく、三条帝の御代を過ごしてきたというのが、今の行成です。
ですから、眼病に罹患したことを理由に譲位を迫り、三条帝を追い詰めるという謀を道長と他の四納言が決めたことは、それを止められなかったことも含めて、行成の心の負担だったと思われます。密談の翌日、道長の執務室を訪れた行成は、逡巡をした後、意を決すると「大宰府へ参りたく存じます」と、最遠方への赴任を願い出ます。
目を瞬かせるなど動揺を隠せない道長は「私のそばを離れたいということか?」と単刀直入に理由を問い質します。真意を見抜かれた行成は、苦しそうに、そして申し訳なさそうに「今の帝がご即位になって3年…私はかつてのように道長さまのお役に立てておりません」と事実だけを並べます。
三条帝の御代になって、道長が三条帝に対して行う謀について、行成は異論を唱えるだけで積極的に関与してはいません。行成の優しい人柄を知る道長は、行成の異論を咎めることはしませんが、採り上げることはしません。あきらかに二人の方針は違ってきています。唯一、行成が強く抗弁したのは、前回、敦康と彰子を二度と会わせないために内裏に来られないようにせよとの命を受けたときぐらいです。「恐れながら、左大臣様は敦康さまから多くのことを奪い過ぎでございます」と、その非情詰ったものですが、あの言葉には、敦康のことのみならず、近頃の道長さまのなされようはあんまりでございます、という不満が噴き出たものだったでしょう。
そういう行成の苦悩を察しない道長は、「お前は私に説教するのか」とやや高圧的な態度に出てしまいました。思えば、あれが、行成に道長にはついていけないと思わせる分水嶺だったのでしょう。
続く「敦康親王もお幸せにお暮らしのご様子。ここからはいささか己の財を増やしたいと存じます」という言葉には、敦康親王の別当として一段落したという安堵の思いとわずかながらに彼を不幸にしようとした道長への意趣返しが含まれているでしょう。因みに「財を増やしたい」というのは、息子のために実際必要だったと言われています。
一方の道長もあの日、行成の珍しい反論は、頭の片隅にあったでしょうし、四納言との密談でも苦言を呈していることはわかっていたと思われます。だから「私のそばを離れたいということか?」という聞き方になり、今も行成が語る言葉から、真意を見ようと注意深く見ています。
しかし、やがて止められないと見た道長は「そうか、そなたの気持ちはわかった。考えておこう」と答え、行成を下がらせます。このとき、カメラは道長の後頭部を、行成が去る姿も入れながらアップで映し出しています。その後頭部には、心から頼みにした友人が自分のもとを去っていくことに激しく傷ついた呆然としたさまが窺え、道長の心に寂しい気持ちが湧いていることが察せられます。
しかし、道長は親友の「道長から離れて大宰府に行きたい」という立っての願いを反故にしてしまいます。折しも、狩りで木の枝が目に刺さった傷が癒えず陣定にも出られない隆家が、実資の勧めで大宰府にいる宋の名医に見てもらうために、大宰大弐を欲していることを道長に申し出たのです。隆家は、政に関わり己の才覚を発揮したいという志を持っています。それだけに完治させたいのです。
ですから、「中納言の職はお返ししてもよろしいので、何とぞ私を大宰府へ」という道長への申し出は謙虚で神妙です。野心のないところを見せようとする点も隆家はよくわかっていますね。「左大臣さまの御為にお仕えすると申しましたのに…不甲斐ないことにございますが…どうかお許しくださいませ」と真摯な言葉を言い添え、自分の忠節も念押しします。自身が道長から政敵として見られることを十二分に理解していることが窺えます。
その神妙な態度に道長は「あ、いや、謝ることはない」と鷹揚に答えます。少し他事を考えていた気配が言葉に滲むのは、行成からの希望が頭をよぎっていたからでしょう。行成の申し出を引き留めることができないと思っていた矢先に持ち込まれた隆家の案件は、勿怪の幸いだったと言えるでしょう。将来がある若い公卿の平癒は、優先させることは道理が立つからです。ですから「まだ先がある。大宰府で目を治して都に戻って参れ。待っておる」との言葉は、そのままの意味です。また政敵として警戒していても、道長は隆家を排除してきませんでした。国政に役立ってもらいたいとの思いは変わりません。
実資に揶揄されようとも、志を持っていることは、道長を私事だけを優先する人間にしてはいません。足枷にもなっているのですね。隆家は「お優しきお言葉、隆家、生涯忘れませぬ」と忠節を誓います。そして、道長の根は個人的な事情、一方で政治的には正しい判断であった隆家を大宰大弐とする人事は、その後、大正解だったことになります。道長が志から外れないことは、こうした天運も引き寄せるのです。
こうして、その年の臨時の除目にて、隆家が大宰大弐に任命されるのですが、事情を知らない行成は不審を抱き、除目の終了後、「道長様は…私を何だとお思いでございますか」と怒りを滲ませます。行成は、道長が政の頂点に就く前からずっと道長のことに心を砕いてきました。その一途さゆえに、己の心を痛めることを覚悟して、一帝二后、敦成東宮位の難事で決定的な役割を果たしてきました。
謂わば、行成の自己犠牲によって、道長の権勢は支えられてきたのです。道長は当然、そのことに感謝し、一番の親友に報いるとまで言っていました。その労いだけで、何とか行成は耐えてきたのですが、その限界が来たのが、今回の行成の申し出です。
しかし、もっとも肝心なときに、道長は行成の心に報いてはくれませんでした。しかも、自分の代わりに任じられたのは、行成が警戒し嫉妬したあの隆家です。行成の道長への忠勤が、いくら見返りを求めるものではないにしても、あんまりだと映るでしょう。「私の望みを捨ておいて…隆家殿を太宰権帥になさるとは…」と詰る行成の寂しさと哀しさはいかばかりか…
道長は「行成は…」と言いかけたところで、振り返り行成をじっと見つめると「俺のそばにいろ」とポツリと言います。道長は、この件に関しては、この国の未来を考えれば隆家の目の傷を治してやるように計らうべきだと道理を説くことができたはずです。にもかかわらず、それをせず、この人事の根にある自分の本心だけを語ります。親友である行成には、去ってほしくない、それはあまりにも寂しいのだ。そのことです。道理で誤魔化さなかったことは、人事で行成を裏切った道長にできる唯一のことだったのでしょう。
おそらく、道長は、行成の申し出を聞いたとき、言いようのない孤独感に襲われたのでしょう。戸惑う表情の行成を後目に「そういうことだ」と述べて、その場を去ったのは、自分の抱えた孤独感を悟られたくなかったからかもしれません。
行成は、戸惑いと承服できかねる思いを抱いた表情を浮かべながら、去っていく道長を目で追います。それは道長の心中を思い遣る気持ちもあるでしょうが、道長から逃れさせてもらえない自身の宿命を憂う気持ち、道長への失望感など複雑な思いも強くあるでしょう。道長は、親友を失いたくないばかりに、彼を失う選択をしたかもしれません。道長の志は、彼からもっとも信頼にたる友人の心を奪おうとしているのですね。
ところで、一方の隆家は、大宰府に行くにあたって気掛かりがあります。それは後見する修子内親王を置いて行くことです(敦康親王は頼通の庇護下にあるので、ここには入らないでしょう)。ですから、竹三条宮を訪れ、修子の前で彼女の世話をしている清少納言へ「このまま目の病で政から身を引くのは耐えがたい。未だ何も成しておらぬのに、ここで諦めきれぬのだ」と政への真摯な思いを告げたうえで「そなたと脩子内親王さまを置いていくことを許してくれ」と詫びます。
この謝罪には、何故、自分が道長への復讐に走らないのか、恨みを捨てているのか、その理由も告白しているのが興味深いところです。隆家は、自分は中関白家の再興よりも、中関白家のための復讐よりも、まず自分の力を政で試したい。このことを伝えます。野心よりも志が、まだ若い隆家を前に進ませているのです。ですから「そなたと脩子内親王さまを置いていくことを許してくれ」との言葉の言外には、少納言の復讐心にはつきあってやれないという謝罪もあるのでしょう。
頭の好い少納言は、隆家の言いたいことを察したのでしょう。「大宰府でお目を治してお戻りくださいませ。脩子さまは私がしかとお守り致しますので」と答え、留守は滞りなく、大過なきようにすると約束します。このとき、カメラは修子をナメる形で少納言を映していますが、それは少納言が修子のために生涯を生きると決めたことを意味しています。
これを聞いた隆家は「何か…佇まいが変わったな」と、驚いたような顔をします。一寸苦笑いをした少納言は、やがて憑き物が取れた穏やかな表情で「そうでございましょうか」と問います。「いつも噛みつきそうな勢いであったが…それがなくなった」と遠慮のない、面白がるような答えを言う隆家に、少納言は「恨みを持つことで己の命を支えて参りましたが…もうそれはやめようと思います」と答えます。
その確かな理由も経緯も今はわかりません…しかし、藤壺での剣幕からはや数年…定子の死から15年が経とうとしています。一言で言えば、疲れたということかもしれません。伊周がいる頃であれば、その恨みは増幅できました。しかし、伊周も亡くなり、藤壺の一件でわかるように自身の恨みは、独り善がりで空回りにしかなりません。隆家も積極的に取り合うことはありません。虚しくなっていった可能性はあるでしょう。
また、人を恨まない修子内親王と敦康親王の定子譲りの穏やかな気質と聡明さに感化されるところもあったのではないでしょうか。その敦康もよき伴侶を得、幸せにしています。自分が恨み続ける根拠が、自分の定子を失った哀しみ以外にはないのです。
少納言は「この先は脩子内親王のご成長を楽しみに、しっずかに、生きて参りますので」と、かつての闊達さが戻ったように笑います。「しずかに」ではなく「しっずかに」と力の入った言い方が、本来大人しくない少納言らしさでしょう。「お心おきなくご出立くださいませ」と前向きの言葉を得た隆家は、心置きなく旅立てると満足げな笑顔を見せます。
3.道長を擁護する女性たち
(1)彰子の危惧に答えるまひろ
内裏の火事で、三条帝が枇杷殿に移ったことで、枇杷殿にいた皇太后彰子は弟の頼通の屋敷である高倉殿へと移ります。この屋敷には、頼通の妻である隆姫の妹、祇子(のりこ)を妻にした敦康親王夫妻も暮らしていました。幸せに暮らす敦康親王との再会を果たした彰子にとって、内裏の火事は怪我の功名、災い転じて福となすといったことになりました。
敦康も言及していますが、敦康の婚姻は、頼通の計らいによるところが大きいようです。隆姫と祇子の父、具平親王は1009年には亡くなっており、祇子は頼通夫妻の元へ身を寄せたとも言われます。つまり、祇子は、敦康親王に嫁ぐべく頼通夫妻の庇護、養育を受けたということでしょう。実際、敦康と祇子の婚儀は頼通がそのほとんどを取り仕切り、豪華なものであったと記録されています。
また、同じ屋敷に住むようになった頼通と敦康は、大変仲がよかったそうです。彰子が弟たちを集め、己の味方としたことは、敦康親王の庇護も含意したものでした(第41回)。頼通と彰子が、この婚姻にどこまで通じていたかはわかりませんが、頼通はその穏やかな性格で敦康を守り、姉の願いを叶えたことになりますね。
頼通の計らいのおかげもあり、ある日、彰子と敦康は久しぶりに母子水入らずで、二人向かい合ってお菓子を食べ、談笑しています。敦康は「東宮にもなれず、このまま生きているのも苦しいと思っておりましたが、頼通殿の勧めで妻を設けて心が楽になりました」と己の今の心境をしみじみと話します。「心が楽になりました」のところで、アップで映された敦康の表情は穏やかで満足げなもので、その言葉に曇りはありません。
言い添えられた「共に生きていく者が出来ましたゆえ」との言葉に、妻の祇子を大切にして、仲睦まじく過ごしていることが窺えます。彼の「このまま生きているのも苦しい」との思いは、寂しさから来るものだったのでしょう。よき伴侶を得たことで、その寂しさは埋められのでしょう。
敦康の正直な言葉に、東宮になれず辛い日々があったことを実感した彰子は、「親王さまをお守りになれず、お許しくださいませ」と頭を下げ、長い間秘かに抱え続け、心を痛めていた己の罪の意識を告白します。まっすぐに自身のことと向き合い、自分の言葉で謝る彰子を見て、敦康は「皇太后さまはお変わりになりましたね」と微笑します。元より、彼は彰子を恨んではおらず、その後も彼女を慕う気持ちは変わっていません。謝罪に対して直接的な反応はしません。
思わぬ敦康の言葉に驚く彰子に、敦康は「かつては儚げで消え入りそうであられましたが、今は何かこう…太い芯をお持ちになっているような…」と、彼女の印象の変化について素直に話します。そうかしら?とでも言いたげな彰子には、自身の変化の自覚がないのかもしれません。しかし、皮肉にも、敦康を守れなかったという罪の意識が、彼女を「太い芯」を持つ女性に変えたのです。敦康は、そのことを察しているかもしれません。
敦康は「幼い頃の私は、皇太后さまを自分がお守りしようと思っておりました」と訥々とかつての自分の思いを告げます。かつて、道長が御嵩詣でから帰ったとき、得意げに「左大臣が留守の間、私が中宮さまをお守りいたしたぞ」(第35回)と返しましたが、この言葉は本気でそう思っていたということですね。彰子にとって、敦康は「闇を照らす光」(第38回)であり、また「敦康さまをご元服の日までお育て申し上げたのは、私でございます」(第40回)と断言できるほどに、母として守るべき存在でした。
それは、敦康も同じで、実母を亡くした彼にとって彰子は光であり、それゆえにその儚い光は守るべきものだったのでしょう。ですから、敦康の彰子への想いが、初恋であったことは疑いようもありませんが、彼が光源氏のようなことをすることはあり得なかったと言えます。守るべき者を自らの欲望に晒すことは、彼の望むところではありませんから。道長の「物語」かぶれの見込み違いは大概だったということです(苦笑)
ただ、長く彰子を敬愛し、憧れ、守ろうとしてきた敦康が、昔の自分について「愚かなことを思ったものです」と語る笑顔には一抹の寂しさがあるでしょう。それは、自分の初恋の終わりを自ら告げることでもあるからです。よき伴侶を得、そして幼き日の自分の思いに別れを告げた今、敦康親王は本当の意味で元服したのかもしれません。そして、大人になった彼は、同じく大成しつつある彰子へ向かって、「今の皇太后さまは国母に相応しい風格をお持ちでございます」と万感の思いを込めた称賛を送ります。
そんな敦康のやや感傷的な思いを知ってか知らずか、彰子は「国母に相応しい風格」と大きく出た称賛に「それは…お褒めの言葉ですの?」といたずらっぽく微笑みます。そこには、女房らに内緒でお菓子を渡してくれた茶目っ気と、称賛を受け流す現在の彰子ならではの余裕と艶が同居しています。変わらぬ彰子と成長した彰子の二つを認めた敦康は、優しく破顔すると「もちろんです」とこちらも笑いを含みつつも、力強く肯定します。敦康が元服し藤壺を出て後、何となくあったわだかまりはこうして解け、二人は心からの笑顔で笑い合います。藤壺で幼き母子だった二人は、共に大人になり、大人の親子になれたのですね。
さて、敦康も言及したように、敦成が東宮位に就くまでの道長の強引な手口、そして、一条院の死は、彰子を皇太后として急速に成長させます。三条帝践祚の折、道長に「東宮さまを力の限りお支えせよ」(第40回)と厳命したことも、弟たちに「東宮の行く末のために皆の力を貸してほしい」(第41回)と頼んだことも、中宮あるいは皇太后としての明確な覚悟が言わせたものです。
彼女にとって、敦成親王、敦康親王、双方が気掛かりでしたが、先の真の和解によって、敦康親王のことについては安心できそうです。頼通の庇護の下で敦康が穏やかな幸せを手に入れているのであれば、余程に良からぬ者たちに利用されることはないでしょう。となれば、彰子は、東宮である敦成をどう守っていくかということに専念できるというものです。折しも政局は不安定になってきています。
ある日、高倉殿の彰子の間の縁側では、女房らに囲まれた敦成が、偏継(かたつぎ:漢字の偏とつくりによるカルタ遊びの一種)で学び込みの遊びに興じています。出題者は、まひろですが、1話からずっと見てきた視聴者からすると懐かしさと感慨深さがありますよね。まひろは、若い頃、倫子主催の土御門殿の学びの会に参加していました。そこへ通い始めた頃、空気は読めないのに勉強だけできたまひろは、この偏継で札を総取りして場を白けさせたものです(第3回)。
あのときの出題者は赤染衛門でしたが、あれから四半世紀経ち、彼女が出題者になりました。今では敦成に興味を持たせ、楽しませることに専念し、他の女房が敦成にヒントを出すようなことがあっても、札を見つけた敦成を「お見事でございます」と誉めそやしています。隔世の感があるというものです。
さて、敦成は、自力で見つけている札もありますから、敦成が数え年7歳にして漢字を理解しつつあるわけで聡明であることは間違いないようです。そこへ道長が頼通を連れて、様子伺いに表れます。慌てて一礼したまひろと、わずかに目が合う道長。前回、再び思い合う関係性が結び直されたことが、こうした瞬間に窺えますね。
道長は、自らも偏継に参加して敦成に勝たせると「東宮さまはご聡明であられますな。おいくつにおなりでございますか?」と感心したように問います。元気よく「七つ!」と答える敦成に、「前の帝がご即位なさったお年ですな」と、帝になることを意識なされませと敦成に促すように話し始めます。当然、この話をするために偏継に加わったのであって、孫と遊んでやろうなどという愛情めいたものはありません。そのことは、道長の目はまったく笑っていないことからも察せられます。道長の言葉の含意するものは、近々、譲位があるからその準備をするということです。
この意図を直感したまひろは、恐れるように道長を横目で窺うも何も言いません。軽々しく口にできることではないからです。そして、今一人、道長の思いどおりにはならぬと構える彰子もこれに気づいています。ただ、彰子は横目でちらりと左大臣を一瞥、わずかに不審を見せるものの表面的には笑顔を崩しません。感情的に道長に責め立てても道長に通用しないことは痛いほどわかっている彰子は、腹芸らしきものを身に着けつつあるのかもしれません。
彰子の不審は、何故こうも急いで幼い敦成を帝位に就けたがるのか、ということです。はっきり言ってしまえば、道長の言動には、幼い敦成を帝位に就け、自分の思うままの政をしようという野心しか、彰子には見えない。それを警戒しているのでしょう。
周りの反応など気にもとめない道長は、「これ(偏継)も楽しゅうございますが、学問はよき博士に付かれるが何より。いずれ帝となられる東宮さまでございますゆえ」と、正式な学問の師をつける、つまり、皇太后のもとでは帝王学は学べないと暗に示します。道長の言葉は、同時にまひろの学才を否定するものにもなっていますから、さすがに尊敬する師匠をけなされた彰子は「左大臣、藤式部は博士に劣らぬ学識の持ち主であるぞ!」と色をなします。
しかし、道長はその批判にもどこ吹く風。平然と「それはよく存じておりますが、帝たるべき道を学ばれるのはまったく別のことにございますれば」と殊更「まったく」に力を入れて、応じます。自分が想い人を全否定していることにもまったく気づいていないのは、今の道長が左大臣という政治家として発言しているからでしょう。
道長の言う「帝たるべき道」とは、実際の政そのものを含んでいるのでしょう。まひろの漢籍に関する学才がいかに優れていても、それは学問の領域に留まるものでしかないというのが道長の考えでしょう。何故なら、女は政治に関われないから。実務という現実を伴わないまひろの学問は、理想論でしかないというところでしょう。それに対して、これから敦成を教えるであろう博士たちは、学問の専門家である同時に官僚です。現実と理論のギャップもよくわかっている面々と言えるでしょう。
つまり、道長の無意識の女性蔑視とも取れる男性優位の発言の裏にあるのは、「女は政治に関われない」ということなのです。そこに、帝王学とは実学でなければならないという道長自身の経験則が加わっていると思われます。まひろを馬鹿にしたつもりは一切なく、自身の実感する現実を語ったというところでしょう。まあ、肝心なところで抜けている道長ですから、発言した後、まひろが何とも微妙な顔をしたことには気づいていなさそうです(苦笑)
ただ、若き日より「帝がどなたであろうと変わらぬ」(第5回)と言った道長は、左大臣になった今も「帝がどのようなお人でも構わぬ」(第38回)と述べています。つまり、彼にとって帝とは、政治システムの一環でしかないのです。滞りなくシステムとしての帝位を運営してくれること、道長が帝に求めるのはそれだけです。それは、頼通に語った「いかなる時も我々を信頼してくださる帝であってほしい。それは敦成様だ」(第38回)という言葉が象徴しています。
つまり「帝たるべき道」を学ばせるとは、幼い頃から、帝王としての自覚を身に着けさせようというよりも、幼いうちに自分の都合のよい帝となるよう今から誘導、洗脳してしまうことだと思われます。既に道長にとって、敦成は孫であって孫ではない…その側面を露わにしてきたのです。
となると、多少穿った見方になりますが、敦成に帝王学を正式に学ばせるということは、彰子の影響下にある時間を減らそうということもあるかもしれませんね。彼女が、道長に対して否定的であることは既に明白です。その彼女の影響を受けることは、道長にとっては望ましいことではないでしょう。また、道長は意識していないと思われますが、そんな彰子の独立心、政への目覚めを誘ったのは、まひろの教育の賜物です。となれば、道長の政敵を育てるようなまひろの学才を、道長が結果的に忌避したことになりますね。無意識でまひろの学才を恐れて、あの発言になったとしたら興味深いですが、さすがに邪推が過ぎますか(笑)
結局、険悪になりかけた敦成の教育に関する話は、何にもわかっていない敦成が「次!」と偏継の続きを所望したことで、その場は流れました。無邪気な子どもには誰も勝てませんでした。とはいえ、この一幕は、彰子に懸念を残しました。偏継が解散になった後、彰子は、「父上が帝にご譲位を迫ったと聞いた。父上が追い詰めたせいで、さらに帝のお具合が悪くなったとも…政とはそれほど酷にならねば出来ぬものなのであろうか」とまひろに問います。
先ほどの敦成践祚を仄めかす道長の発言から、譲位を迫り三条帝の健康を害したという父の噂を確かなものと察したようです。そして、権力とは、人を苦しめてまで欲するものか、そして、そこまでせねば手に入らぬものなのか、と問います。恐らく、彼女には政治家としての道長は、どこまでも非情であるように見えたのでしょう。
まひろは「私はかつて…男だったら政に携わりたいと思っておりました」と、自身が政に関わりたかった若き日を思い返します。彼女が、「新楽府」を「役に立つから」と書き写し、宋の科挙というシステムに憧れたのは、すべての人に政にかかわる機会が与えられるという公平性に憧れたからです。出来の悪い弟が擬文章生にようやくなったときも、どれだけ自分が優秀であろうと何者にもなれぬことに悩み、それが琵琶の音になってしまいました。また、その思いが「カササギ語り」の一部になったこともありましたね。彼女は「物語」を書き、出仕するようになるまで、どこかでずっとその鬱屈を抱えていました。
しかし、「されど、今はそう思いませぬ。人の上に立つ者は、限りなく辛くさみしいと思いますので…」と、その政で力比べをすることも、その結果、頂点に立つことも、その代償は大きいものです。家族や友人を失い、孤独と猜疑心と壊れていく自分自身だけを抱えていく。
まひろが、政が綺麗事のようにいかないことを実感したのは、越前守として赴任した父が、理想と現実の間で苦しむのを間近で見たときです。その現実と理想のギャップは、まひろが一年ほどで帰京することになった原因の一つでした。ですから、石山寺で道長と再会したとき、「国司でさえ大変ですのに、朝廷の政の頂に立つ道長さまはどれほど大変か…」と彼を労ったのですね。
ただ、その認識すら甘いものであったことは、出仕して、かつての道長ではなくなっていく様子を目の当たりにしていくなかで痛感したでしょう。そして、前回、見た病み尽くした道長の無残な姿は決定的でした。何故なら、それが政にかかわれない自分との約束を叶えるために、道長が受けた代償だったからです。
彼女の鬱屈が、今の道長へと追い込んだのです。その痛ましさを見れば、軽々に政に参加したいとは言えないのでしょう。先の自分の学才を否定する道長の発言に、何とも言えない表情になったのは、道長の配慮のない言葉に傷つく面と、苦しんだ彼の実感を認める面とその両方を感じたからではないでしょうか。
かつては、自分と同じように政に関わりたいと願っていたという師匠の言葉を、彰子は真摯に受け止めます。彼女も、病み倒れた父の姿を見ており、まひろの言うこともわかる気がするからです。それでも、政は結果です。ですから、「東宮さまが帝になれば、父上の思うままになってしまうのであろうか?」と、最大の懸念を聞きます。道長のような非情のやり方が罷り通り、誰もそれに抗しきれなくなる…そんな専横を恐れるのは、彰子は周りの心を深く傷つける父の政は決して正しいばかりではないと信じるからです。
まひろは、この問いについては、道長の気持ちに思いを馳せるように少し考えてから「たとえ左大臣さまでも、皆をないがしろにして事を進めることはお出来にならぬと存じます」ときっぱり答えます。いかのも専横を極めそうな状況にもかかわらず、そうならないと明言するまひろに、彰子は驚いた表情になります。
まひろが道長の肩を持つのは、同情だけではありません。徐々にクローズアップされるまひろは、「何故なら、左大臣さまは陣定に自らお出ましになることを望まれ、長年、関白をご辞退されてきたと伺います」とこれまでの政治姿勢そのものを評価します。道長は、右大臣に就任した際「意見を述べる者の顔を見、声を聞き、共に考えとうございます」(第19回)と述べています。陣定を政治基盤としたのは、公明正大、人の意見を広く聞き、共に考えていきたいという考えがあるからです。
専横的になっている道長ですが、その一方で自分に反対の意見を述べる者を自ら罷免するようなことはしていません。変質した部分は多くあっても、広く人の意見を取り入れたいという基本の考えは変わっていないと、まひろは見たのでしょう。
ですから、「たった一人で何もかも得たいとお思いとは…」と言いかけて、確認するように逡巡した後、「到底思えませんぬ」ときっぱり答えます。この見立ては、おそらく当たっているのでしょう。例えば、先ほど、帝をシステムとしてしか見ていないと言いましたが、それは裏を返せば、帝と皇族の権威を理想的な形で担保していくことが祭祀的なこの国の政の安定に欠かせないと分かっているということ。ある意味では、誰よりも、帝の犯されざる権威に敬意を払っていると言えます。
中宮定子の存在に揺れた一条帝も、情動的な人事で権力を弄ぶ三条帝も、理想から遠く、一から作らねばならないと考えているかもしれません。勿論、それは帝個人の人格を踏みにじるものになるのですが、理想主義者の道長は突き進んでしまいます。その問題点は、実資が指摘したとおりでしょう。
ここまで聞いた彰子は、思案するように厳しい表情で聞きいた後、「藤式部は父上びいきであるのう」と、率直な意見を言います。彼女の言うことのすべてが正しいとは思えないが、一理はあると感じたのでしょう。また、あれほど自分の才を女房らが揃った前で否定されたというのに、その道長を好意的に解釈するお人好しぶりに呆れたというのもあるかもしれませんね(笑)ただ、まひろの道長を擁護する言葉は、父が権力の権化となるならば、何とか諫めなければと思う彰子の気持ちを一先ず、楽にすることはなったようです。
とはいえ、彰子の言葉は、自分の変わらぬ道長への想いを言い当てられたようでもある…まひろは曖昧な笑顔を浮かべるしかありません。もしかすると、いつか気づいてしまいそうなニアミスでしたからね、彰子の言葉は。
ところで、このようにまひろが道長が弁護できたのは、前回、川辺で道長と再び、絆を再確認して、生きていく約束を結び直したことによるものでしょう。そのことは、まひろに心の安定をもたらしたようです。第43回の冒頭、まひろは「宇治十帖」を書いていますが、自分と道長のために筆を執るその新たな物語に、まひろは満足そうです。「帝にすら殊更悪しざまにお耳にいれる人がおりましょう。世の人の噂など真にくだらなく、けしからぬものでございます」とのくだりは、第51帖「浮舟」の一節です。つまり、軽やかに筆は進み、残るは後、3帖を残すのみになっています。まひろの心中の安定を示すと言ってよいでしょう。
そのまひろの穏やかな眼差しが、今も苦しみ、非情の道を歩む道長の心の支えになっていくでしょう。劇中の流れでは、この後、道長は、実資から強烈な一撃を食らうことになりますが、それでも、まひろが信じていてくれたら…それだけで道長は耐えられるやもしれません。
(2)倫子の幸せの行方
第43回では、これまで物語の中盤以降を支え続けた道長の志の問題点を実資が指摘、全否定する場面が象徴的ですが、その一方でまひろのように彼の志のあり方の本質的な部分について擁護するような場面も挿入されています。もう一人、彼のこれまでの政の人生を擁護したのが、道長の嫡妻、倫子です。
ある日、土御門殿で頼通夫妻と教通夫妻を招いて宴を開いています。倫子は嬉しそうに教通の初子を抱いているところからして、その誕生を祝う席だったのかもしれませんね。教通の満足そうな顔は、兄よりも先に孫を母に見せることができたからかもしれません。「美しいお顔が公任ざに似ておられますこと」と倫子が笑うのは、教通の嫡妻、頼子が公任の娘だからです。道長と縁戚関係を結ぶことで、我が「家」の繁栄を確かにしておこうという公任の腹づもりも窺える婚姻ですが、まあ、町田啓太くんの孫ならば綺麗な赤子というのも納得かもしれませんね。
すると、道長は「隆姫、そなたにも是非、頼通の子を産んでもらいたい」と告げ、隆姫の顔を曇らせてしまいます。彼女を気遣う頼通は「父上、私と隆姫は十分幸せにやっております」と庇いますが、道長は「ふ…そういうことを聞いておるのではない」と答え、倫子に窘められます。せっかくの宴席で言うなということです。
道長が子について話したのは、夫婦関係の話ではなく、嫡男である頼通の子には政治的な意味があるということです。まず後継者となる男児が必要です。そして、次に姫たちを産むことです。この姫たちの役割は、言うまでもなく入内させるためのものです。道長は、敦成出産時にまひろに「御産記」を欠かせましたが、その目的について「中宮さまの晴れの場、後に続く娘たちにも役立つように残したい」(第36回)と述べています。
道長は、頼通に自分たちは「民のための政」のためにあると述べていますが、それは頼通の子たちにも同じ宿命を負わせることを意味しています。息子は政に担い手として、娘は理想の皇室の維持のために…つまり、恒久的に「民のための政」ができるシステムの構築を、道長は考えていると思われます。しかし、我が「家」のため、国家のためと理由は違えども、個人の思いに犠牲を強いることです。
ですから、そこまでの深慮遠謀なぞ理解できるはずもなく、父のごとく個人の気持ちを無視できるような冷徹さもない心優しい頼通は、宴の後、道長夫妻と三人だけになったとき「父上、隆姫にあのようなことを仰せにならないでください」と反発します。これに対して「あのようなこととは何だ?」と返してしまうところに、かつて「入内はおなごを幸せにせぬと信じておる」と痛ましく思った道長から大きく変質してしまったことが窺えます。
父子が言い争いになりかけたところで「覚悟を決めなさい」と妾妻を持つことを勧めたのは、倫子です。高松殿の明子の存在も決して、嬉しいものではなかった倫子から、それを告げたことに道長は思わず、驚いた表情で彼女を凝視してしまいます。そして、「父上のように もう1人妻を持てば隆姫とて楽になるかもしれませんわよ。何もかも一人で背負わなくても良くなるのですもの」と、言い添えます。貴族の嫡妻は「家」の繁栄を支えなければならない宿命を背負わざるを得ません。そのプレッシャーは男にはわからない相当でものあると、女性の立場から倫子は助言するのですね。「家」を守るということの意味を長い間、悩み体現し続けた彼女でなかれば出てこない言葉です。
呆気に取られる頼通を後目に「できれば、隆姫と対等な尊い姫君がよいのでは?ね、殿」と話まで進めてしまいそうな倫子に「うん…そう…だな」と気圧される道長。自分の妻への気持ちを理解しない両親に頼通は「幾度も言わせないでください。私の妻は隆姫だけです。他の者は要りませぬ」と眦(まなじり)をあげると怒って、その場を去ってしまいます。
「ますます頑なになったしまったではないか」と苦笑いする道長ですが、それまで酌をしていた倫子は自分の敷物(妻の座の比喩でしょう)に座り直すと「私は本気で申しております」と真顔で返します。
「そうやもしれぬが…」と言いかけた道長へ、悟ったような顔つきと虚ろな眼差しを入り混じらせながら、唐突に「私は殿に愛されてはいない」としれっと言葉にします。対する道長は、半眼になり真意を探るような表情で固まります。倫子ナメで捉えられたその表情には、いきなり核心を突かれた戸惑い、答えようのない困った気分、今何故という訝る思いなど複雑に浮かんでいます。即座に否定できないあたりが正直ですが、倫子の言葉を肯定してしまっています。
無論、倫子は自分の言葉に答えを求めていません。もう分かっていることだからです(それでも傷つきますが)。そして、「私ではない、明子さまでもない、殿が心から愛でておられる女がどこぞにいると疑って苦しいこともありましたけれど…」と続けます。倫子の勘は第3の女の存在を確信していましたから、「疑って」の部分だけは本心を削っていますね。道長を責めるつもりで話していることではないので、追及とならないようささやかに配慮しているのでしょう。出来た妻の辛いところですね。
倫子が語る苦しみは、恋愛や夫婦関係に悩む多くの方に共感できるところではないでしょうか。彼女が苦しんだ理由は、女の幸せは好きな殿御に愛でられることだと信じていたからでしょう。それは、ごく自然な人間の心情でしょう。「光る君へ」に出てきた多くの女性が、そう思っていることは、ずっと描かれています。例えば、まひろの母ちやはが、為時が妾妻の元へ通うことを仕方がないこととまひろを諭しながら、実は陰で暗い表情になっていたことは、第1回でも印象的でしたね。あるいは「蜻蛉日記」を書いた寧子の言葉は、作品をずっと貫いています。
女性たちの哀切…「源氏物語」でいうところの「もののあはれ」が、「光る君へ」では描かれてきたのかもしれませんね。そして、本作に登場する男性陣のほとんどが、こうした女性たちの一途な想いに答える言葉を持ってはいないでしょう。
因みに倫子の苦しみが劇中で描かれたのは、敦成の五十日の儀でのまひろとの和歌の応答のときですから、6年前までは間違いなくありました。こうした長らくの悩みを抱いていた倫子は、ここまでいったところで笑顔を見せると「今はそのようなことはどうでもよいと思っております」と意外なことを言い出します。婚姻当初から嫡妻が第一の女性ではなかった不実な夫、道長は、倫子の話を黙って聞くしかありません。
倫子は「彰子が皇子を産み、その子が東宮となり、帝になるやもしれぬのでございますよ。わたしの悩みなど吹き飛ぶくらいのことを、殿がしてくださった」と続けます。本当に彼女の悩みが吹き飛ぶことはありませんが、道長は彼女に自分の狭い了見では思いつきもしなかった別の幸せをくれたというのです。それは、我が「家」の繁栄です。子どもたちが立派に成長していく楽しみ、生まれてくる孫を抱えられえる喜び、そして、その先にある栄華…。頂点を極めんとする土御門殿の栄華は、他と比べるべくもありません。この「家」の嫡妻である倫子だけがその栄誉に預かれます。
道長は卑しい野心家ではありませんでした。政に対する志をもって真摯に心を砕いてきました。道長は、彼女に振り向きはしませんでしたが、粗略に扱うことはなく、夫婦仲が拗れても必要以上に彼女を責めることはしませんでした。彰子の入内こそは重大な決断でしたが、土御門殿の妻子を不幸にすることはしませんでした。倫子はそういう彼を信じ、多くの援助もし、家を堅実に守り、彼をサポートしてきました。この「家」の繁栄は、二人の二人三脚の成果です。これもまた、幸せの形の一つであることに、倫子はようやく気づけたというのです。だから、その幸せのあり方を子どもたちに伝えることは、さらに「家」を繁栄させることになる。だから「私は本気で申しております」なのでしょう。
このとき、カメラは、同じ動線で横並びの道長と倫子を真正面から捉え、まるで内裏雛のようです。夫婦の一つの形を象徴しているのかもしれません。倫子は、苦しみも哀しみも、喜びも楽しみも、すべてを含み込んだ万感の思いで「何もか、殿のおかげでございます」と道長を労います。決して真心で答えてくれたわけではないけれど、道長は、少なくとも卑しい心根ではなく、周りを幸せにしようと懸命に努力してきた。その成果が目の前に迫っていると、彼のこれまでの努力を彼女なりに評価しています。
少なくとも、この家族だけは幸せにしている…それだけでも道長が政に賢明になった甲斐はあったということになるでしょうか。倫子は、道長の志も人生も肯定しているのですね。
ただ、不実な夫は「そうか」としか言えません。「私とて色々考えておりますのよ」という倫子の言葉に、視線を逸らす道長は感謝する反面、これほどに自分と家族に心を砕く妻に対して何もしてこなかったことへの申し訳なさがあるのでしょう。労いにも苦笑いするしかありません。倫子は、そんな夫に対して、笑顔を消して、急に真顔になると「ですから、たまには私の方もご覧くださいませね」と切ない女心の本音を最後に覗かせます。まだ、諦めきれない道長への一途な想いと同時に、どうあっても貴方の嫡妻は私だけ、逃しませんわよという宣戦布告でもあるのでしょう。真顔の後のお得意の「うふふふふ」というコロコロした笑いは、嫡妻の余裕でもあります。
完全に倫子ペースで一本取られた形の道長は、呆気に取られた顔をすると、こりゃ勝てないと納得したような憮然としたような表情になります。倫子は倫子なりに、道長の人生を肯定し、擁護してくれました。そのことへの感謝は道長にもあるでしょう。ただ、一方で、自分の目指してきたものは、ここで小さくまとまって叶えられているに過ぎない…兼家が至上とした「家」の繁栄で留まっている現実に愕然とする面もあったかもしれませんね。まだまだ道半ばであることを思い知るといったところでしょうか。
おわりに
これより後、すぐに三条帝の譲位、敦成親王の践祚…つまり、道長が摂政と左大臣を兼任する絶対権力者になっていきます。その一歩手前の前夜とも言える時期に、道長の志、まひろの約束を叶えるための政が、道長や周りに何をもたらしたのか、それが突き付けられた回になりました。
志の変質、理想からかけ離れていく現実、誰にも理解されぬ孤独感、友を、家族を失っていく寂しさ…政にすべてを捧げた道長に残されたのは、無力感と虚しさだけです。自分の半生が無意味だと突きつけられても、そう自覚しても、結果へ向けて進むしかない、その侘しさはたまらないものです。前回、結び直されたまひろとの絆だけが、彼の救いと支えになっていくのでしょう。
まひろは「物語」で多くの人生を生き、今、また自分と道長のために「宇治十帖」を書いています。その心は穏やかなようです。今回、賢子は、大宰府に旅立つ双寿丸に振られてしまいました。身分差を感じさせない二人の恋路に、かつて上手く行かなかった自分を重ね「昔は考えられなかったことも、あの二人は 軽々と乗り越えております。羨ましいぐらいに」と笑ったまひろにとっても、娘の傷心は残念に思うところがあったでしょう。
しかし、話を聴いたまひろは「武者は命をかける仕事ゆえ、あなたを危ない目に遭わせたくないのではないの?」と気遣います。「だったら、そう言えばいいのに…」と文句が出てしまう賢子に「大抵の男は、そういうことを言いたがらないものなのよ、それゆえわかってあげなくては」と助言します。「大抵の男」には、賢子の実父、道長も入っているでしょう。「物語」を書き、道長に思いを馳せるなかで、見出した男なるものの哀れさでしょう。彰子に語った「殿御は皆、可愛いものでございます」(第34回)に通じるものでしょうね。
居住まいを正した賢子の「母上まで双寿丸の肩を持つの?」という不満げな言葉に「生きているとそういうことがままあるのよ」と答えたところにも、まひろの人生に関する達観が感じられます。「宇治十帖」を書くことは、何かしら彼女の救いになっているのではないでしょうか。
その後の「泣きたければ私の胸で泣きなさい」と胸を張るまひろに「そんな‥できません」と賢子がけたけた笑い出すシーンが、微笑ましくなるのは、そんなまひろの心の余裕あればこそでしょう。賢子もこうした母に救われます。ただ、「私の胸で泣きなさい」を断られたとき、まひろはちょっぴり残念かったかもしれませんね。母らしいことをしてこなかった自分にとって、せっかくのチャンスでしたから(笑)
こうしたまひろの達観が、権力の座に就かんとする道長の心境にどう影響していくのか…そのあたりが今後の見どころになっていくのかもしれませんね。