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「どうする家康」第43回「関ケ原の戦い」 家康と三成、心の強さが勝敗を分けた天下分け目

はじめに

 泰然自若…今回の家康を表すのにこれ以上の言葉は無いように思われます。絶体絶命の危機も、好人物からの罵倒も、味方からの誉め言葉も、そのどれに対しても常に落ち着き払っていて冷静な様子でした。何事にも動じないこの姿こそ、後年の「神の君」(ナレーション)であり、「狸親父」なのでしょう。ここに至るまでが簡単でなかったことは、彼と長年過ごした家臣たちと10ヶ月以上の間、「どうする家康」を見てきた視聴者がよく知るところです。


 それだけにある種の頼もしさを感じつつも一抹の寂しさも感じられた方もいるのではないでしょうか。かつて物事を素直に受け止め、一喜一憂したあの若さは失われたことを実感するからです。どこかでかわいい白兎の頃が懐かしく思う気持ちがありませんか?
 ここに至るまでの紆余曲折と艱難辛苦は家康から様々なものを奪いました。多くの哀しみと怒りに耐えて家康は成長したのですが、それは裏を返せば、多くの犠牲の上に「戦国大名徳川家康」という人物が出来上がるということでもあります。


 唐の曹松が「己亥歳」(きがいのとき)という漢詩で「一将功成りて万骨枯る」(一人の将軍が功績をたてる裏には、戦場で多くの兵士が犠牲となり、屍をさらしている)…と功名をいたずらに指導者のものとすることへの怒りを詠んでいますが、まさに家康はそういう立場にあります。
 したがって、彼が、この先の天下人に相応しいか否かは、「一将功成りて万骨枯る」ということに今なお自覚的であるか否かだということになるでしょう。

 一方でそのことに恐れをなしたのが、三成です。彼はその純真ゆえに理想と大義に殉じただけですが、その結果は理想とは真逆の大乱でした。家康が長年味わってきた矛盾を最大級で一度に味わうことになったのが三成なのです。

 そこで今回は、関ヶ原の戦いをとおして、家康と三成の戦への構え方を比較しながら、天下人の必要な「しなやかな強さ」とは何かについて考えてみましょう。



1.いざ、関ヶ原へ

(1)家康が過去の戦で学んだことのおさらい

 冒頭はこれまでの家康の節目となった戦いと彼への訓戒となった先人たちの言葉が流れていきます。まずは初陣であった桶狭間の戦いです。ここで家康は今川義元に問われ、「武をもって治めるは覇道、徳をもって治めるは王道」と彼から学んだ言葉を答えます。家康は幼少期に既に目指すべき理想の世界とは何かを学んでいます。それは初陣当初の彼には実感の伴わない絵に描いた餅のようなものでしたが、決してそれを捨てることはありませんでした。


 そして、その次は三方ヶ原合戦です。現実主義である信玄の「弱き主君は、害悪なり。滅ぶが、民のためなり」との言葉が響き、そして忠真、広次といった多くのものを自身とその失策のために死なせた現実がリフレインされます。家康は戦国の世を生き抜くためには理想を夢見るだけでは意味はなく、まずは生き抜くための武力という実力を身に着けなければならないことを痛感させられます。そして、死んでいった多くの者たちの思いを無にしてはいけないことも…


 その次は、長篠の戦い(設楽原の戦い)です。信長は家康に「よう見ておれ、これからの戦を」と組織だった鉄砲による新しい戦い方で古き武勇の象徴たる武田家を大敗させました。その非情にして無残な虐殺に家康は涙しましたが、同時に新しい時代に対応できなければ、どんな武勇を誇ろうと意味をなさないことも思い知らされました。一人の武勇を誇る時代は終わり、国力とは経済力であることを見せつけられました。家康は国力を高めることにも腐心するようになります。

 

 そして、小牧長久手の戦いです。「家康には勝たんでもこの戦には勝てる」という秀吉の言葉を家康は実際には聞いてはいませんが、この言葉どおりに家康は秀吉に屈し、この言葉を体感します。秀吉は戦とは武力だけでもなく、経済力だけでもなく、知略による政治の駆け引きであることを家康に教えたと言えるでしょう。

 つまり、家康は節目節目の戦いで多大な犠牲を払いながら、「戦無き世」を実現するために必要な理想、武力、経済力、政治力を整えてきたのですね。そのどれかが欠けても、「戦無き世」が実現しないことを家康は嫌というほど叩きこまれてきましたことは、彼の忍従の日々が示していますね。そして、四つを全て備えた家康が迎える天下分け目が、今回の関ヶ原の戦いなのです。「遂に決戦の時でございます」という万感の思いを乗せたナレーションは、この戦が家康の集大成であることを意味しています。


 ただ、これまでnote記事で書いてきたとおり「どうする家康」は基本的に戦のカタルシスを拒絶する作風ですから、関ヶ原の戦いも例外にはならず、後味の悪さ、苦い勝利になることは想像に難くないところです。やや例外は小牧長久手で、あのときは勝利のカタルシスが描かれ、留飲が下がりました。しかし、その勝利すらも翌週には数正によって「勝ってはおらん!あんな一勝は些細なことだ」と全否定され、数正という大切な家臣を失い、秀吉に屈する苦い決断の過程の一部になってしまいました。



(2)女たちの天下分け目

 大阪城では、戦支度を整えた秀頼が「余は出陣しなくても良いのか?」と問いかけますが、毛利輝元は「時が来れば、ご出陣いただきます」と呑気な言葉を返します。焦れた茶々が「治部かは矢のような催促が来ておる」と言い出したことから、幼い秀頼は母のスピーカーですね。家康を討ち逆恨みの復讐を果たしたい思いから「私はいまぞ、その時と思うが…」と言葉を重ねますが、馬耳東風の輝元です。

 茶々は「我が子秀頼にはいかなる戦場にも赴く覚悟がある」と幼い我が子を惚れ惚れと見上げますが、幼子にそんな覚悟があるはずがありません。そうあるべしという母親の願望、武門の誉れ高い織田家という血統への自負といった酔いが見られます。いずれも戦の現実を知らないからこそ言える妄言ですが、彼女はこれを本気で言っているところが困りものです。


 そんな妄言に巻き込まれては敵いませんから輝元は「心強いお言葉、それがししかと戦の動きを見定めておりますゆえ、お任せくださいませ」といかにも芝居がかった心のこもらない台詞で応じます。

 鈍い胡乱な態度の輝元に不審げな茶々は「そなたが総大将の器であるか否かが問われておる」と釘を刺すと、急に残忍な表情をうかべると「機を見誤るなよ」とその本性をあらわにします。
 戦そのものは男たちに任せていますが、政治的な主導権は自分にあることを強調します。野心を隠さなくなっている彼女は、徐々に暴走が始まっているかもしれません。更に彼女にはストッパーがいません。

 もっとも、のらりくらりとかわすだけの輝元にはあまり効果はなく、「ははあ」と平伏しつつも横を向いています。ただただ自分の利益しか頭にないこの男は、この状況を利用し、楽して利益を得たいのです。
 実際、彼は毛利軍を関ヶ原に向かわせる気は全くなかったと言われています。彼はそれよりも、これを機に西国の自身の領土を拡大することに関心があり、そこに兵力を割いていたからです。
 西国の実力者であった毛利輝元にとっては、天下という絵に描いた餅よりも西国の領土という目先の利益のほうが現実的だったのでしょう。そして、拡大した領土をもってすれば、天下に号令する機会も出てくるというのが、彼の将来像だったのかもしれません。



 場所は変わり、京都新城。自身を匿うことで迷惑をかけていないかと問う阿茶に、北政所は「わたしは別にどちらかの肩ももっとるわけでもあれせん。この戦は元を正せば豊臣家中の喧嘩だわ」と、関ヶ原の戦いの本質を突きます。この指摘は、彼女の聡明さもありますが、秀吉がめちゃくちゃにしてこの世を去ったことへの妻としての自責の念もあっての言葉でしょう。

 続けて「正直なところ、私は徳川と豊臣が一体となって天下を治めていくのが、もっとも良いと考えておる」と意見します。北政所の発言は、秀頼はあくまで象徴として置き、それを背景に力のある家康が政を行えば、安定させられるということです。秀吉の正室でありながら、豊臣の政治関与を放棄することを提案するのですから「(表立っては言えないが)正直なところ」なのです。
 力のある者ではなくては、戦国の世は治まらないという現実感覚と、その中で豊臣家を存続の道を図る願いの結果と思われます。


 北政所の言葉にはっとして、聞き入った彼女は何かを思いつき、北政所に頼み事をします。それが何かは中盤に判明しますが、阿茶は阿茶で、家康のため、徳川のため、世の安寧のため、一人、彼女の戦場に出向きます。その想いは戦場にいる男たちに劣るものではありません。関ヶ原の戦いは、女性たちの戦でもあったとするのが「どうする家康」らしさですね。



(3)静かな決意の家康と興奮気味の三成

 赤坂にいる家康たちのもとへ、先鋒である福島正則、黒田長政、藤堂高虎がやってきます。進行中の大垣城攻略は思わしくなく、高虎は「大垣は堅牢、城を崩すには兵が足らん」とぼやきます。その言葉に直政は三成との決戦は「秀忠さまのご本軍を待つのが良いかと」と進言します。その言葉に家康は答えることなく思案顔を崩しません。

 そこに丁度、表れた忠勝は「本軍が到着せんのは敵も同じ。万が一、毛利勢が秀頼さまを頂いて敵三成につけばこの戦、危ういですぞ」と、数の違いはあれど敵も条件は同じと諫言します。大軍よりも士気をくじく目に見える大義(秀頼)を三成が得ることのが問題という忠勝の慧眼は、北政所の「豊臣家中の喧嘩」という本質と同じですね。喧嘩だからこそ、大義で片がつくのです。


 となれば、この戦は、秀頼を擁する秀頼軍がつく前に決着をつけなければならない時間との勝負ということになります。ですから、家康は長政に調略の進捗を問います。戦力が整わない現状で、早期に戦を決断できる材料は敵の戦力を切り崩す調略しかないからです。しかし、長政の反応はイマイチです。既に内応を約束している吉川広家を通じて小早川秀秋、毛利輝元(毛利、吉川、小早川三家は毛利元就の息子たちの家柄でつながりが深い)の調略を進めているものの、結局は「蓋を開けてみねば」分からないからです。


 そこで、家康は直政に「小早川に文を書け、何枚もな。そして各陣所にばら蒔き、こう言いふらせ…小早川は既に家康に内応しておると」と命じます。直接交渉で足らなければ、噂という搦め手で家康に内応せざる得ない状況に追い込もうというのです。もし、そこまで追いこめずとも、三成側に不和の種を撒くことはできますし、特に大阪にいて現場の状況を正確にはわからない毛利輝元を疑心暗鬼にする効果はあるというわけです。
 輝元が大義に殉ずる義侠心の人であれば、噂で惑わされるようなことはないのですが、先の茶々とのやり取りでも分かるように極めて利己的な人物で目先の利益しか考えないような男ですから、簡単に引っ掛かることは期待できそうです(笑)


 早速、内応に噂は三成側でも広がり、直接、味方に着くと言われていると小西行長は庇いますが、若い宇喜多秀家は「ひ弱そうに見えて狡猾な奴じゃ…」と不審を隠しません。まあ、結果から言えば、宇喜多秀家の人物評が正しいのですが、噂で一喜一憂し惑わされることのが、この場合は問題です。ですから、三成は「秀頼さまと毛利勢三万がお見えになれば、誰も逆らうことはできませぬ」と秀頼という伝家の宝刀をもって引き締めにかかります。このことは、秀頼のお墨付きこそが、三成の勝利の鍵であることを改めて明示しています。

 そこに「いずれにせよ、我が軍は十万!」と、その圧倒的な戦力を誇示し、小早川が裏切らねばならない材料などないと強調します。興味深いのは、三成が、自身の言葉で誰よりも自信を深めていることです。結果、戦とは縁のない実直な能吏の顔しかしなかった三成は、凄絶な笑みを浮かべると「どうする?家康!」と芝居がかったことを言います。

 信長、秀吉に続いて三人目のこの台詞は、家康の宿敵となる人物のみに許されるのですが、実はこれを彼らが発するとき、例外なく精神的に高揚し驕っているときなのです。信長は「上様」と呼ばれるようになり有頂天になり始めたとき、秀吉は策略で家康を潰せると確信したときでした。
 つまり、この場面での三成は、自身の策が全て思うように進み、勝利を確信し、いつになく高揚した状態にあるのです。戦の独特の空気に呑まれていると言っても良いでしょう。



 さて興奮を隠せない三成に対して家康はどこまでも落ち着いています。いつもどおりの平成な態度で「秀忠を諦める、大垣城を放って西へ行く」と重大な決断をさらりと口にします。いくつもの戦で重要な判断をしてきた場数が、家康を沈着冷静な態度にします。三成とは対照的ですね。

 守綱こそは驚きますが、大谷刑部しかいない関ヶ原方面を叩けば、三成が城を出てくる他なくなるという家康の狙いに、大垣城攻略に苦慮している諸将は「野戦に持ち込める」と納得します。しかし、直政は「小早川や毛利に囲まれたら袋のねずみ」とその策の欠点を示します。直政は、家康の判断を信じていますから、この言葉は反対しているのではなく、その点をどう対処するつもりかと聞いているのです。


 家康はあっさり「それが三成の狙いじゃろ」と答え、一方で「大軍勢を率いるとは思い通りにはいかぬもの」とも答えます。これは調略による切り崩しを信じるしかないということ、そして、もう一点は三成の経験不足を突けるという算段です。
 三成は知将です。今回、大高城を避け西に進む策を家康に取らせておびき出すという作戦を思いついたのも、三方ヶ原では家康がそれに引っ掛かり大敗、小牧長久手では家康がそれを逆手に取り秀吉の散々な目に合わせると家康にとっては常套手段になっているからでしょう。勉強家の彼らしい作戦です。
 しかし、実戦は作戦どおりにはならない、戦場は生き物であることを三成は分かっていません。杓子定規な三成の性格は、戦場の駆け引き、柔軟な対応には欠けています。戦は、最後には場数がものを言うことを家康知っているのですね。


 そこに大雨が降り注ぎます。家康は、悪天候にも「この空模様、大高城の兵糧入れを思い出すのう」と静かに笑みを称え、雨を堪能するような表情です。長年、磨き上げた戦に対する直感に従い、半ば賭けに出るような方針ですが、この雨をもって初陣の強運が訪れたとうそぶくのです。こういうときは動揺を見せず、諸将を安心させなければなりませんが、今の家康は息を吸うようにそれができます。
 そして、決意するように静かに立つ家康に呼応するように忠勝が「決戦の地、関ヶ原へ!」と鼓舞し、続く直政の「いざ出陣!」との檄をかけ、東軍は士気を高めたまま関ヶ原へ向かいます。



 当然、家康の動きはすぐに西軍にも伝わります。既に三成の家康包囲網の策を知る宇喜多も小西も喜色を浮かべ、三成も自身の策が巧くハマったことに「食いついた…」と喜びを隠せません。思わず、勝利を確信した表情になります。

 そこへ、小早川秀秋が、東軍、西軍、どちらに着くにしても都合のよい松尾山に勝手に着陣したとの知らせが入ります。島左近曰く「最後の最後まで見極めるつもりでしょう」というのですから、彼の布陣の仕方は既に、三成の家康包囲網は崩れかかっていることを意味しています。謂わば、家康動くとの朗報と同時に不穏な秀秋の動きとの報がもたらされたのです。どの情報を優先し、動くか、これによって彼らの勝敗が決まるのです。当然、秀秋の動きを不審と取り、改めて作戦を組み立てる判断もあり得たのです。


 しかし、三成は刑部に秀秋の動きに警戒するように伝えただけで「我らも出陣するぞ!」と皆を炊きつけます。今、家康が動き自分の策にハマっていること。家康を取り除くことに執念を燃やす三成にすれば、小早川秀秋の不穏な動きなどは後でどうにでもなるものに見えたのでしょう。したがって、この機を逃さないことを優先し、不利な情報に目を瞑ったとも言えます。

 彼は、家康が三成の家康包囲網策を百も承知で敢えて乗ったとは夢にも思っていません。家康を戦巧者と思っていれば侮らず、その可能性も考慮にいれた方策を立てるはずです。少なくとも寡兵の大谷刑部だけに大軍の小早川軍の抑えを頼む愚を犯さなかったでしょう。


 家康を関ヶ原におびき出す作戦自体は三成のものです。しかし、家康は、三成の思考を読み、敢えてその策に乗りました。家康は三成に心理戦を仕掛けたのです。しかし、そんな家康の思考を読めない三成は、自分の策を頼み過ぎ、家康を倒すことに固執したことで、ある意味、感情的な判断をします。結果、逆に関ヶ原に誘い出されたのは三成になってしまいました。まさに策士策に溺れるという状態ですが、遂に家康を討てると逸る三成以下、西軍の諸将はそのことに全く気付きません。


 遂に訪れる決戦に心躍らせるのは三成だけではありません。三成を呼び止めた小西行長は興奮気味に「知恵ばかりの戦嫌い、皆、お主のことをそう言う。だが、これほどまでに燃えたぎる熱き心がお主にもあったとはなぁ…紛れもなき乱世の武将ぞ!」と激賞します。「戦無き世」を目指す平時の三成であれば、「乱世の武将」というワードには拒否反応を示すこともあり得るのですが、戦の雰囲気と高揚感に包まれる三成は、満足そうな笑顔でこの言葉を受けます。

 もう、いつもの三成ではなくなっているのですが、この言葉で喜んでしまうのは、あの伝説の家康に勝つ策を講じられた自身の知恵に対する満足が、まずあるでしょう。そして、おそらく七将など武断派に能吏であることをバカにされていることに対するコンプレックスが燻っていたこともあるように思われます。小田原征伐での忍城攻略の失敗は、何気に尾を引いていた可能性は否定できません(忍城攻略を、忍城側から描いたのが和田竜「のぼうの城」です)。

 なにはともあれ、こうして家康は沈着冷静な判断から賭けに出る形で、三成は興奮気味に自らの勝利を確信する形で、関ヶ原に向かうことになります。




2.それぞれの関ヶ原

(1)待ち望んでいたその日を噛みしめる家康と家臣たち

 深い霧の中、両軍合わせて十五万の大軍が対峙することになった関ヶ原です。目論見どおり、家康を包囲する布陣に成功した三成に島左近は「まんまとかかりましたな大きな狸が」と笑います。しかし、三成は「形の上では我らが勝ち」と返し、秀秋という一抹の不安を口にします。家康が出てきた好機だけを重視してしまったことに対する冷静な思考はあるようですが、「勝ってみせる、勝たねばならぬ」大義がある自分が負けるはずがないと、その不安を気負いによって打ち消します。彼にとっては初めての大戦ですから、高ぶる思いのほうが大きいのです。



 一方、家康陣営には、霧が濃くてまだ戦にならないと忠勝と直政がやってきます。忠勝の「見事に取り囲まれたようでございますな、このままでは」という言葉に、家康はやすやすと「ここが我らが果てる地じゃ」と冗談とも真面目ともつかない言葉で引き継ぎます。

 しかし、弱気になったのではありません。続けて、家康は「だが不思議と気分は悪くない」と余裕を見せます。小田原征伐はありますが、徳川が徳川のために戦う戦は小牧長久手以来です。久しぶりの大戦に、懐かしい気持ちすら起きてくるのです。ただし、高揚感に呑まれるようなことはありません。歴戦の勇士たる彼は、戦嫌いであっても骨の髄まで戦国大名なのです。
 応じる忠勝も「同じく、不謹慎ながら我は殿と共に戦うのが好きでござる」と、死ぬかもしれない危機を前に士気が高まります。小田原での家臣団解散のときの誓いがようやく果たされるときが来たからです。
 直政もまた「同じく。殿、ここまできたらジタバタしても仕方ない。思う存分、楽しみましょうぞ」とニヤリと不敵な笑いを浮かべます。名実共に天下を取るための戦を待っていたのは、彼も同じです。命をかけるに相応しい戦とは、功名ではなく家康のための戦というのが彼ららしいですね。


 彼らの勇ましい言葉に「そうじゃな…」と応えながら、家康は静かに目を瞑り、微笑を浮かべながら「わしは感じるぞ、先に逝った者たち、今は遠くにおる者たち…その皆の心が…ここに集まっている」と万感の思いを口にします。「先に逝った者たち」は左衛門尉、忠世、広次、忠真、長吉、元忠、半蔵、数正という家臣団の主だけでなく、瀬名や信康、千代、もいるでしょう。皆、「戦無き世」を夢見た者たちです。
 彼らのためにも、この戦は勝たなければなりませんが、それをいきり立つのではなく、ただただ穏やかに彼らのこと、その思い出を思い返すようなのが良いですね。

 直政「たしかに」、忠勝「間違いない」と二人も気持ちは同じです。そして家康は「皆と…共におる…」と再び静かに微笑みます。彼らは、家康や忠勝、直政の中に生きています。そして遠く離れた者たち、中山道を急ぐ秀忠、康政、正信も、会津と対峙する秀康と七も、そして京都に潜伏する阿茶も、目指すところは同じです。


 人の思いこそが天下の安寧の礎と信じる家康らしい覚悟の仕方は、大義に気負う三成に比べると達観していますが、ここに至るまで筆舌に尽くしがたい苦難の道があったからこそであり、その道を一人ではなく家臣団と歩んでこられたから辿り着いた境地です。彼らの静かな思いの確かめ合いを終えると霧が晴れてきます。

 いよいよときが来たのです。福島正則が先陣と息巻いているという話に「先陣は徳川でなければならぬ」という直政は家康に先陣を願い出ます。ただでさえ、徳川勢が少なく、その功を他大名に取られてしまうのが今回の戦の難点です。ですから、先陣の功だけは取っておく必要があるのです。直政にはそういう計算もあって、述べているのです。ですから、家康も「思う存分…暴れて参れ!」と最大限の激励で送り出します。


 家康の前を退去する前に直政は急に振り返ると「殿、おいらを家臣に取り立てて良かったでしょ?」と万千代時代の「おいら」呼びに戻った直政は茶目っ気たっぷりに家康に問いかけます。この言葉は、家康のために先陣を切り、働けることが心から嬉しくてたまらず、でも素直にそれを言うのも恥ずかしくて、こういう問いかけをしているのですね。
 当然、最初から家康の「ああ」という肯定の返事を期待しての言葉です。こういうところが40歳になろうというのに、未だにかわいいところですね(板垣李光人くんがかわいいこととは別です)。

 果たして肯定する家康に、今度は居住まいを正すと「おいらもでございます。取り立ててくださってありがとうございました」と一礼します。「ございました」と過去完了で語るのは不穏なのでやめてほしいですが、彼もこの戦いにこれまでの集大成になるという静かな覚悟があるのですね。こうして、直政は、福島正則に「おのれ抜け駆けを」と恨まれながらも、華やかに先陣を切っていきます。



 対する三成軍も戦いを開始しますが、松尾山の小早川勢だけはどこ吹く風で、秀秋は流言すら気にせず「戦の成り行きのみ見極めよ」と言います。これもまた戦国大名としては正しいのです。最低限の被害で最大限の利益を得て、勝った方に恩を売ることが領地ももらえるはずだからです。戦国のサバイバル術というものです。このギリギリの線を生きていく戦国大名の本然を家康は理解していますが、三成はわかってはいません。

 同じ構えなのは吉川勢です。彼らは弁当を食っているという理由で動こうとしません。「宰相の空弁当」という逸話を使ったネタですが、本当に握り飯を食べているのが笑いどころです。彼らの動きは、「毛利は吉川広家ら家臣はおろか、小早川秀秋すらまとめきれておらん」という読み通りであり、調略の成功をアテにした家康の出陣の判断は間違っていなかったことを窺わせます。

 とはいえ、毛利軍と秀頼といった不安要素があるのですが、それは思わぬ形で解消されます。大きな働きをするのは男たちではありません。阿茶です。




(2)阿茶の女狐退治~徳川家を背負った孤独な闘い~

 徐々に家康の調略が戦場を支配していく中、大阪城で茶々らに気づかれぬよう家臣と密談を重ねる輝元は、事態に急転に慌てています。家臣らからもたらされた情報の一つは「吉川どの、勝手に家康と結んでおります」というもの。渋面の輝元は「この戦、勝てば我らの天下も夢ではないというに…」と吉川広家の先見の明の無さをボヤキますが、実際は、西軍の負けを見越した広家のが先見の明があり、最終的に減封で済んだのは彼の功績と言われます。
 したがって、三代目のボンボンである輝元は、また肝心なところで状況判断が甘く、決断力がなかったのだろうと察せられます。家康が、毛利一族をまとめきれないと指摘するのは、状況判断と同時に輝元の性格も見切ってのことでしょう。


 そして、更に伝えられる「小早川秀秋どのも家康と手を結んだという噂」という報告はダメ押しになります。「どうなさいますか…」という家臣の問いかけに、唸るだけしかできない輝元は思考がフリーズし、迂闊に出陣はできないことだけが確定します。家康が直政に命じた調略は、見事ここに来て効いてきて、結果、書状のみで、毛利の大軍を押し留めることに成功してしまいました。

 家康を断罪し、道義によってのみ人を動かそうとした三成は正攻法ですが、家康のこうした大所高所に応じたやり方こそ調略の本懐です。ここでも場数の差が出た具合です。



 城内で雲隠れしている毛利に茶々は「何故、毛利は出陣せぬのか!」と業を煮やし、遂には「直ちに秀頼を出す。毛利を呼べ!」とヒステリックに叫びます。せっかく書状で押し留めた毛利勢ですが、茶々の復讐心に満ちたヒステリーでダメになりかけそうになります。

 そこに絶妙なタイミングで表れたのが阿茶です。彼女は北政所の使者という体で羽織袴の小姓姿に化ける形で大阪城内に入り込んだのです。礼儀正しく、「お目通り叶い恐悦至極に存じまする」と述べる阿茶に「徳川殿のご側室がこのようなところに乗り込んでこられるとは何と豪胆な…」と呆れるように言うと「毛利に見つかったら捕まってしまいますぞ」と早速、脅します。
 「毛利に見つかったら」ではなく、私が毛利に一言言うだけでお前はおしまいだという意味です。その程度の脅しは想定済みの阿茶は「そのときは命を断つ覚悟であります」ときりっと即答します。

 いやはや、大阪城に一人乗り込んだ阿茶は、茶々の嫌味な言葉どおり豪胆という他ありませんが、その言動も相変わらずの切れ味ですね。見ている側がハラハラするほどカッコいいですね。しかも、彼女の羽織袴の装いの文様は双葉葵になっています。つまり、彼女は大阪に残った家康の名代として、この場に臨んでいるのです。彼女をこの場で陥れることは、そのまま徳川を敵に回すことになります。
 事の首謀者であることを隠す茶々としては、ここは相手の胆力を認め、話をとりあえず聞くことが賢明です。何よりも事態は、毛利は動かず不穏な方向へ進んでいるのはあきらかだからです。


 茶々に許可を受け、阿茶は「要らぬお世話とは存じましたが、北政所さまも同じ考えにあらせられるもので…」とまず、自分は家康の名代であるだけでなく、北政所の意向も伝えに来ていることを仄めかします。これだけで、家康と北政所に密約があるように見せ、茶々を牽制します。

 その効果を十分見計らった上で「秀頼はさまにおかれましては、この戦にお関わりなさらぬがよろしいかと」と本題に切り込みます。北政所の中立と「豊臣家中の喧嘩」という発想から、彼女はこの戦から豊臣家の関与を引きはがす策を思いついたのですね。その頭の回転の速さと機転、そして機を失わず行動に移した勘所、流石は阿茶というところです。


 勿論、この提案も茶々の側に利益がなければ意味をなしません。ですから、「徳川の調略はかなり深くまで進んでおり、既に勝負が決する頃合いかと。毛利どのが未だご出陣なさらぬのがその証」と状況について、かなり正確にしかも戦の終了にまで踏み込んだ発言をします。勿論、彼女がそこまでの情報をつかめる状況にはありませんから、これはハッタリです。
 しかし、毛利が動かないことから家康の調略の成功度を推し量る洞察力、そして家康ならば危機的状況を打開し必ず戦に勝つという彼への信頼、その二つがあるからこそ、彼女は確信に近い思いで堂々と淀みなく物申すのですね。

 後は彼の信頼に自分が応え、自分がなすべきことをなすだけです。家康が勝利することを茶々に信じさせることで優位に立った彼女は「我が殿は信用できるお方、秀頼さまを大切にお守りいたしますので、どうぞ御身を徳川にお預けくださいませ」と殺し文句でトドメを刺しに行きます。

 徹底的な理詰めで茶々につけ入る隙を与えない阿茶の一連の豪胆な振る舞いを支えるのは、たしかな知性と信頼の成せる業です。悪意と秀吉の遺した権勢と金による詐術のみで人を操ろうとする茶々の及ぶところではありませんね。貫録勝ちというところでしょう。1mmも女性であることを武器にしない潔さは清々しいものがありますね。



 ぐうの音も出ないほど…というか、一言も言い返す材料がない茶々にとっては、これほど面白くないことはありません。しかも、あきらかに自分よりも低い立場の阿茶に良いようにしてやられるのは、これで二度目です。織田家の血統にこだわる気位の高い茶々は「それは…過ぎたる物言いじゃ、身の程をわきまえよ!」と激昂し、首を討たんと扇で彼女を指さします。流石に緊張は走るものの阿茶はあからさまな怯えは見せません。武芸にも長けた阿茶は、ここが勝負所であることぐらいはわきまえています。


 一瞬、本気で激昂した茶々ですが、プライドの高い彼女はそれを見苦しく見せ続けることはできません。ニヤリと笑うことで、自身の怒りを一瞬で抑制します。そして、鷹揚なふりをして「なかなかハッタリが上手いようじゃ…秀頼を案じてくれて礼を言うぞ」と体面を保とうとします。

 しかし、悪びれることもなく「どういたしまして」と笑顔で応じる阿茶の小面憎さに悔しさは隠しきれず、「誠に不愉快なおなごよ…二度とお見えにならぬがよろしい」と憎々し気に吐き捨てます。プライドの高さゆえに我慢、抑制が効かなくなっている今の彼女は、完璧な腹芸もできず、できるのは恫喝のみです。ですから、「帰り道には気をつけよ」とまるで襲撃するような剣呑なことを言ってのけます。しかし、最後まで阿茶は怯える様子も見せず「ありがとうございます」と笑顔で深々と平伏します。

 最後の最後まで茶々につけ入る隙を見せない阿茶の完全な腹芸にイラつき、三成を家康と仲違いさせ、家康を抹殺するという遠大な絵図面を完全に壊された屈辱感と無念に茶々は、阿茶が退出すると怒りを露わにして叫ぶように吐き捨てると呼吸を荒くします。人間の器においても、阿茶の完勝というところです。


 こうして見事に阿茶は、三成が擁していた最も重要な要であった秀頼という大義を口先三寸で無力化してしまったのです。ついでに結果として、黒幕たる女狐退治も行いました。結局、北政所への要請、阿茶という信頼できる人間に留守居を任せたこと、方々への様々な調略、家康は戦場以外の場所においた布石を活かし、関ヶ原の戦いを勝利に導いていることがわかりますね。三成は、関ヶ原に家康包囲網という蜘蛛の巣をつくりましたが、家康はもっと大きな蜘蛛の巣を張って、三成を包囲していたことになりましたね。
 戦は勝ってから始めるという信玄からの学びは、敗北の苦い経験と実戦によって家康の血肉となっているのです。結局、「どうする家康」における関ヶ原の戦いとは、前哨戦だけでなく直接対決となった本戦も含めて、徹頭徹尾、調略の戦いであったと言えそうですね。


 また茶々は阿茶にしてやられたことに激昂していますが、実はあそこで阿茶を抹殺して、秀頼出陣を強行し、もし間に合ったのであれば、西軍は勝ち、見事、家康の首が取れていたかもしれません。阿茶の言動をハッタリと知りつつも、その動じない態度から微かな真実を勝手に見、そして拭いきれない輝元への不審と彼女の気位の高さから、阿茶を抹殺するという判断ができませんでした。茶々は、阿茶との腹芸に負けただけでなく、自身の心に負けたから勝機を失ったのです。

 それにしても、恫喝と権力を武器にする茶々は公権力を持ったヤクザといった様子でしたね。以前、note記事で織田家のことをヤクザ集団と書いたことがありましたが、お市が出戻りで織田家にいる間に素地ができあがったのか、完全にその血筋を継いでいますね。血は争えないという奴でしょうか。


 おかげで、茶々の前では涼しい顔を貫いた阿茶の実際のところは疲労困憊でした。いつも凛々しいく、居住まいもきちんとした彼女にして珍しく、ヨロヨロとよろけるように帰ってくると「ああ…おっかないおなごだわ…」と倒れ込むように跪きます。羽織を脱ぎ捨てるさまにも、余力がないことが窺えて可笑しいですね。完全に残業帰りか大手へのプレゼンを終えたOLのよう。まずはビールを一献差し上げて、「お疲れ様でした」と労いたくなります。

 阿茶は、織田家の誇り高き血統と対決することで、長年、信長に怯え続け、彼の命に従ってきた家康の心境の一端を体感したようです。そして、阿茶すらもここまで追い込む茶々の苛烈さが、家康の最後の敵であり、また多くの人々を巻き込んでいくことになるのです。


 


(3)勝利の凱歌をあげない家康~死にゆく者へのまなざし~

 相変わらず、小早川秀秋と吉川広家が動かないとの報告を受ける家康。吉川に関しては、彼が動かないことで後ろに控える毛利秀元、安国寺恵瓊らの動きが封じることが肝要です。ですから、吉川は動かないこと自体に意味があり、その調略が成功していることは間違いありません。

 しかし、小早川秀秋はどっちつかずで戦の趨勢を見極めているということだと家康は正確に彼の心底を見ます。一方で彼が三成に従順ではないこともはっきりしています。となれば、戦の趨勢の変わり目を演出してやれば、秀秋の去就を促すことになるわけです。

 よくある小早川秀秋の東軍への加勢は、家康が鉄砲で優柔不断な秀秋を脅すことで裏切らせた問鉄砲の逸話が有名ですが、近年では鉄砲の音は聞こえないなど現実的ではないということで否定されています。「どうする家康」では、秀秋を自身の利益のために戦況を見極める狡猾な武将としたことで、家康の武将としての優秀さを視覚的に誇示することで、その判断を促すという形にしたようですね。



 そこで家康は前進を決意します。「敵に時を与えるな、今この時、一気に勝負をかける、行くぞ!」との言葉には、この戦での勝負所が家康には見えていることが分かります。戦はまずは絶対数が必要なことは言うまでもありませんが、それだけでは勝敗は決まりません。
 その絶対数を、どの程度、実働部隊として機能させられるかが重要です。家康は調略によって、三成の実働部隊を宇喜多、小西など正面だけにしてしまっています。
 後は、状況に応じた柔軟な対応で自軍を鼓舞し、実働部隊の能力を最大限に引き出さなければなりません。家康は、その頃合いを見計らっていたのです。
 こうした機をつかむには、実戦経験の豊かさがものを言います。軍の戦況に応じた柔軟な運用という点において、三成の及ぶところではなく、そこは圧倒的に家康が優位です。また、そういう家康の戦巧者に信を置く武断派にも効果的に機能するでしょう。



 こうして、家康は、大胆にも二万の主力を三成の目と鼻の先に押し出します。未だに一進一退の攻防を繰り返している状況で、敵将が自ら戦場のど真ん中に出てくるのですから、無謀にすら見えます。島左近はその大胆さに「なんという奴じゃ…」と圧倒されます。

 しかし、経験の浅い三成の反応は違います、彼には、秀秋を呼び込むための家康の深謀遠慮は全く見えていません。ですから、眼前に現れた家康は破れかぶれで出てきたか、三成を挑発しにきただけのように見えます。ニヤリと笑うと「面白い、総掛かりじゃ、家康の首をとれ!」と総攻撃を命じます。
 大局を見た戦の駆け引きではなく、目の前の敵に反応しただけの三成の命は安易です。戦を面白がってしまっている三成は、浮き足立ってしまい、家康が現れたことが、配下の兵たちにどういう影響を与えるかが全くわかっていないのです。


 戦場に颯爽と現れたのは伝説の戦国大名、徳川家康です。それだけで戦場を支配するのです。面頬を付けていてもその下が不敵な笑顔とわかる忠勝は、家康と轡を並べると「総大将が敵のど真ん中に入ってくるとは…」と一見、呆れた言い方をしながら「おかげで敵は怯み、味方は士気が上がっております」と、家康の好判断を誉めそやします。思えば、忠勝はこのときを待っていたのですよね。

 初陣で、大高城から一人逃げ出す家康を追い、海辺で彼を引きずり倒し、失望したのが、第1回の忠勝でした。その家康が、今や最も効果的な機を見計らって、自ら戦場に堂々と進み出て、兵を鼓舞するのです。感慨もひとしおでしょう。この家康を守って戦い抜き死ねるのであれば、ここで果てても本望というのが忠勝の気持ちではないでしょうか。こうやって、この関ヶ原で第1回の情けない家康と失望し叱咤した忠勝が回収されると、全てがつながっているように思われ嬉しくなりますね。


 忠勝の感慨をさらりと受けると家康は「決断するときぞ、小早川」と語りかけます。長年かけれ築き上げた徳川家康の名は、やはり海道一の弓取りの異名です。戦場を支配するその様子こそが、畏怖となり武将を動かすのです。果たして、秀秋は「流石、戦巧者よ」と家康が見事に戦の勢いを東軍に引き寄せていることを見届け、彼が期待通りの人物であると確信します。こうして、秀秋は大谷刑部へと襲い掛かります。

 元より寡兵の刑部です。奮闘虚しく、戦場に命を散らすしかありません。危うい道を行く三成を放っておけずに彼に着いた刑部の最期の言葉は「さらばだ!」という別れの言葉でした。遠い戦場にあってその言葉は聞こえるはずがありませんが、三成の心には響き、彼は刑部の死を感じ取り、はっとします。
 いかにも二人の絆がブロマンス的なのは、心が通じ合ったところにあるのではありません。この刑部の死が、それまで戦の雰囲気に呑まれ、高揚していた三成の心を一気に現実に引き戻すところにあります。三成にとって無二の友であった男の死…三成は、戦が大切なものの命を奪うという当たり前のことを忘れていたのです。
 しかも、業病に罹っている彼を同志に引きずり込んだ自分自身です。三成が刑部を殺してしまったのです。この事実を知った瞬間、目の前で繰り広げられている殺戮の様相が、まったく別のものに見えてきます。



 ここから、場面は勇壮な兵たちの戦いぶりではなく、命をかけた凄惨な戦いによって死体が増えていくという戦場の過酷さが次々と映し出されます。そこには、徳川勢も石田勢もありません。等しく、愚かで惨たらしい死が訪れます。おびただしい数の命が消えていく様が眼前に広がっています。

 家康は、ただ無表情に死にゆく彼らの姿を、まっすぐ、ひたすら静かに見つめています。家康が誰からも畏怖される戦国大名となるまでに、どれだけの命が消えたかわかりません。そのおびただしい犠牲の数に慟哭し、立ち直れなくなるときもありました。

 にもかかわらず、あるものは家族と領民の将来を、あるものは夢を、家康に託していくのです。その重圧は逃げ出したくなるものになったときもあったでしょう。しかし、結局、家康は逃げ出すことなく、多くを決断し、とりあえず徳川家中を生き残らせてきました。
 家臣と領民を信じ、その思いを真摯に受け止めることが主君の役割であること、彼はそれを経験から学びました。だからこそ、家康のせいで死んでいく者たちも光景から目を逸らすわけにはいきません。それができるようになった心の強さが彼を支えているのかもしれません。



 対して、若い三成は思わず顔が歪み、自分のしでかした戦がもたらした数多の死、今なお繰り広げられる命のやり取り、その現実に喘ぎ、軽く空を見てしまいます。呆然自失といった体の中村七之助くんのアップの表情が秀逸ですね。

 眼前で繰り広げられる凄惨な戦の様と、それを引き起こしたのが自分であることの衝撃が彼に襲い掛かるのです。刑部の死で引き戻されるまで、熱病のように憑りつかれていた戦の高揚感があった分、そして、元来、戦を好まない気性だけに、この凄惨な結果は耐え難いものでした。最早、彼に更に犠牲者を増やすだけの戦を継続できる強い意思はありません。
 三成が敗北を認め、撤退を決めた理由…それは自身が戦を起こした現実とその凄惨な結果に耐えかねたからでした。彼は家康に負けたのではなく、自身の心に負けて、敗走していくのです。


 三成の意思がなくなれば、西軍を支える大義などないも同然です。皆、一斉に逃げ出します。この結果は、秀吉の遺命という大義を信じていたのは三成以外にはいなかったということを意味しています。誰も大義のために踏みとどまりはしなかったのです。「これだけの兵が一斉に逃げ出すとえらいもんですなあ」という守綱の言葉が虚しく響きますね。
 人の心を尊重しない大義など振りかざすべきではないのですね。といって、日本の歴史はそうした無意味な大義を振りかざし戦争を起こすことを繰り返しますが。

 

 こうして静かに関ヶ原の戦いは幕を閉じます。忠勝は遂になした天下取りに「おめでとうございまする」と半ば男泣きし、家臣たちもそれにならいます。しかし、家康の表情には疲れたような表情があるだけで勝利の歓喜はありません、ただ「皆、大義であった」と静かに家臣たちを労うのみです。この戦は、結果的には家康の天下取りに必要不可欠なものでした。
 しかし、秀吉の死後、「戦無き世」を目指し、二度と大乱は起こさないと誓った家康にとって、この戦は望まない戦でもありました。にもかかわらず、未曾有の大戦となり、多くの死を見届けることになりました。さらに、相手は無二の友になれると期待した三成です。彼が敗走していく姿を快く見ることも苦しかったに違いありません。



 家康の戦後のもの思いを打ち消すように、島津勢の強硬突破を直政が「目の前を素通りさせたら徳川の名折れ」と迎え撃ったとの報が入ります。「相変わらずの向こう見ずな!」と忠勝は蜻蛉切を手に助けに行きますが、間に合わず、直政は鉄砲に撃たれ重傷を負ってしまいます。

 直政が目覚めると彼の手当をしているのは家康です。この行為にも、いかに家康がこの少年(もう40代になりましたが、今回の彼は万千代です)の向こう見ずを含めて、大切にしていたかが分かりますね。ですから、「しっかり打ちのめしてやりました」と強がる彼に、本来なら「命を粗末にするな」と𠮟りつけるところを「ああ、ようやった」と軽く笑って肯定してやります。



 すると、改めて向き直った直政は「遂に…遂にやりましたな、天下を取りましたな」と涙ぐみます。他の家臣たちと同じその言葉を静かに聞く家康でしたが、続く彼の言葉「信長、秀吉にもできなかったことを殿がやりなさる、これから先が楽しみじゃ」という笑顔にはっとします。そうこれからなのです。多くの犠牲は悼まなければなりませんが、その一方で彼らの死を無駄にしないために「戦無き世」を築く具体的な方策を打ち出すことが急務です。信長が乱世を収めるよりも難しいといった「戦無き世」の政を今度こそ始めなければなりません。感傷に浸ってばかりはいられないのです。

 因みに重傷を負った直政は怪我を押して、戦後処理の外交に奔走し、徳川の天下を安定させるために数年後に亡くなるまで尽力します。このときの傷から感染症にかかったのが死因とも言われますが、最年少の彼には、「これから先」を最後まで見届けて欲しかったですね。



 さて、ストーリー上は前後しますが、大阪城では西軍敗走の報に輝元が狼狽えています。あきらかに機を逃したことがバレバレですから「これは何かの間違いじゃろう…かように早く決着が着くわけがござらん…」と想定外を強調します。しかし、彼の猿芝居を見透かしたように茶々は薄笑いを浮かべています。それをちらっと見た輝元、かえって恐ろしくなり「三成じゃ、やつがしくじりおったのじゃ、あの能無しめが!」と責任転嫁をする始末。最高に見苦しい毛利輝元になってしまいましたね。
 そんな彼に、すすっと近寄った茶々は容赦なく、五大老毛利輝元を平手打ちにして張り飛ばします。転げる輝元に「そなたを頼った私の過ちよ…」と自虐したものの、すぐに本性を現し「去れ!」と激昂します。肩を落として退室する輝元とその処遇が憐れですが、それよりも五大老の大大名すら圧倒する茶々の苛烈さが、今後の禍根になるだろうことが気がかりですね。




3.家康と三成との永遠の別れ

 後世、西軍とされる諸将の顛末は簡単に触れられるだけですが、三成だけは別です。

 「関ヶ原」関係作品では定番の諸将の前の引見ではなく、家康との一対一での対面になったのは、今回の家康と三成の関係が「戦無き世」という点で同じ理想を追った同志の要素があったからです。
 また家康は、三成の応答次第で他の処断も考えていたかもしれません。


 さて、家康は、三成を前に「戦無き世に出会いたかった。さすれば無二の友となれたはず」と福島以下の前では言えなかった本音を漏らします。「このようになったのも行き違いが生んだ不幸。甚だ残念である」の言葉も嘘ではありません。家康は大谷刑部に「わしはなこの戦(会津征伐)が終わったら、政務に戻ってほしいと思うておる」と言ったくらいで、その言葉は三成も知っています(聞く耳を持ちませんでしたが)。
 家康が「行き違いが生んだ不幸」というのは、家康の真意が三成に上手く伝わらなかったことを指していますが、この点は、家康が未だ三成への期待を抱く甘さかもしれませんね。


 というのも、秀吉の遺命への準拠こそを政の柱とする三成と、遺命よりも諸将の不平不満を解消、人心掌握を最優先させる家康とは真逆でした。その根本は、豊臣を第一義とする世の安寧(三成)と広く民が安心できる世の安寧(家康)です。豊臣がなければ平和はないという三成と平和のために今は豊臣が必要という家康では、落とし処は見いだせません。

 極論すれば、天下泰平のためなら豊臣がいらない場合もあるというのが家康です(あの時点で家康はそんなことを思っていませんが)。今回の関ヶ原の戦いも、豊臣の大義(三成)か、多くの人心(家康)か、どちらが政を動かすかだったと言えるでしょう



 家康の理想は豊臣第一義でないことを感じ取っている三成は、この点においては家康よりも決定的な溝が見えています。だから「さにあらず。これは豊臣の天下のためになしたること。その志、今もって微塵も揺らいでおりませぬ」と強気で抗弁します。しかし、その溝も話し合いを続けていれば折り合いが着いたかもと思う家康からすれば、戦という手段に出たことが解せません。

 もっとも三成からすれば、老獪で力を持つ生きた伝説と言える大大名徳川家康を政治的に屈服させるのは容易ではありません。秀吉にすら完璧には屈服させられなかったのですから尚更です。三成が家康を取り除く方法は戦しかなかったでしょう。それは前田利家が言うとおり、家康への恐れが成せる業です。


 三成の思いがわからない家康は「何がそなたを変えた」と問います。「共に星を眺め、共に語り合ったそなたはたしかにわしと同じ夢を見ていた。これから共に戦無き世を作っていくものと思うておった!」と無念のあまり怒りをにじませる家康は思わず、三成の近くまで進み出ます。彼は未だに「同じ夢」だったと思っているのですね。だから、「行き違いが生んだ不幸」だと言えてしまったわけです。
 しかし、先に述べたように「戦無き世」と一言で言ってもそれは千差万別で、家康と三成の方向性は違っていました。ただ、問題は合議を旨とした二人がこの溝を話し合いで埋めることなく、決別し、その揚句、戦という結末を迎えたことです。

 したがって、家康と三成の理想に関する溝はともかく、「それが何故、このような無益な戦を引起こした。死人は八千を超える。未曾有の悲惨な戦ぞ! 」という言葉は重く響きます。家康が、この戦を三成が起こしたと表面的に捉えているようにも見えますが、これは何故、同志のはずの自分を信じなかったのか、同志であるならば他に道は無かったのかという三成への問いでしょう。


 また、この言葉には、家康が戦の中心に躍り出た際に死にゆくたちをどう見ていたのかを端的に表しています。関ヶ原の戦いで勝利を収め、忠勝ら家臣に手放しで祝われたにもかかわらず、家康の表情は勝利に酔うことなく沈鬱でした。それは多くの者が死んでいく姿を静かにその目に焼きつけていたからですね。

 かつて、長篠で無惨に散っていく武田勢に涙した家康ですが、今はただ自分がなした戦の結末を、目を背けず、見届けることが将たるものの役割と心得ている。その死を思えばこそ、そしてこの戦の意味を考えればこそ、安易に勝鬨(かちどき)も上げなくなっているのでしょう。これが長年、戦を続けてきた生きた伝説の正体です。多くの死とその思いを背負い、生き延びた者たちのための政をなすという二律背反の業…これに自覚的なのが戦嫌いの家康なのです。
 しかし、若い三成には家康の政治的な老獪さという表層しか見えず、家康の懊悩までは理解が及びませんでした。それは仕方のないことです。三成は、戦の凄惨さとは何かを今更、初めて知ったのですから。


 したがって、家康の一方的な言い分に顔を歪ませる三成の思いは複雑です。彼にしても世の安寧を願ったはずの自分が大乱を起こした現実、戦の本質を目の当たりにした衝撃は大きく、容易に受け止めきれません。そのことは目を閉じた際の苦悶の表情、涙を滲ませた目に表れています。

 一方で自身に戦を起こす気にさせたのは、三成からは専横にしか見えなかった家康の政であり、またその強大な力です。つまり、相手が家康でなければ、家康さえ秀吉の遺命に忠実だったならば、戦をする必要がなかったのです。だとすれば、家康こそが関ヶ原の戦いの特異点なのです。ですから、家康から戦を起こしたと言われるのは心外というものです。家康をきっと見返し、抗弁するのは、家康がその罪に無自覚に見えるからです。



 三成の複雑な心境がわからない家康は再び「何がそなたを変えてしまったんじゃ」と繰り返します。「わしは」でカットが家康のバストアップに切り替わり「その正体を知りたい」と述べます。
 欲望から戦を起こすのはわかりやすい話です。しかし戦を嫌い、戦無き世を目指す者が戦という無益な手段を選ぶのは矛盾しています。その矛盾を生むからくりを解かないことには、戦無き世を実現できません。
 家康は三成を責めたいのではなく、戦無き世を実現するためにも三成を追い詰めたものを知りたいのです。理想主義者、三成を前にするからこそ、家康もまたあくまで理想を夢見る者として対峙しています。


 しかし、その家康のある主の真摯さを嘲笑うように、三成は乾いた虚しい笑い声を立てると「思い上がりも甚だしい…私は変わっておりませぬ」と吐き捨てます。「思い上がりも甚だしい」とは、自身の罪に向き合わず三成を責めるように未だに理想を語る家康への怒りだけではなく、叶いもしない理想論を唱えた自身の愚かさへの自嘲も込められているのではないでしょうか?

 だから、うつむくようにして「この私の内にも戦乱を求むる心がたしかにあっただけのこと…」と呟くのです。平和を望む自分にすら、武力で事を成し遂げる快楽に酔う心があったと自覚することは、三成にとっては耐え難い衝撃でした。だからこそ戦を続けられなかった…それでも「あっただけのこと」と片付けたのは、戦を求めるのが人の本能だと理解し、諦めてしまったからでしょう。

 衝撃の大きさと同時に、並外れて頭の回る三成には様々なことが一気に見えすぎたのかもしれません。


 三成の空虚な表情がアップになると「一度火が着けばもう止められん…恐ろしい火種が…」と震えるように言葉を絞り出します。おそらく凄惨な戦の現実を見た瞬間、彼は「どうしてこうなった」と自問自答したはずです。そして、挙兵を決意し大谷刑部を巻き込んだとき、秀頼の前で誓いの盃を酌み、割った瞬間、伏見城を陥落させた日、自分の策略どおりに家康が動いていると思えたとき、小西行長に武将として称えらたとき、家康が眼前で挑発してきたとき…その全てで戦の高揚感に包まれたことが思い返されたことでしょう。

 関ヶ原の戦いの本戦が描かれた今回でも、彼は得意げな笑みをずっと浮かべていました。戦を喜び、それを振り替えることもなく一気に駆け抜けてしまった自分自身への戦慄…絞り出すような呟きは改めてあのときの衝撃を思い出していると察せられます。


 もっとも、その「火種」に莫大な軍資金という薪をくべ、三成の執念を焚き付け、煽ったのは茶々の極めて個人的な復讐心と野心です。このことが大きな問題なのですが、茶々の思いに気づかず、自らの行いに戦慄してしまっている三成には意識されていません。


 己の所業におののく三成を見つめる家康の表情がかすかに痛ましさが滲むのは、そこにかつての自分を見るからです。家康も三方ヶ原にて兵を鼓舞し、家臣を死に追いやり、その衝撃からなかなか立ち直れなかった経験を持っていますね(結果、秀康が産まれたのが家康らしいですが)。ただし同情までは顔に浮かべません…その微妙な匙加減は松本潤くんの抑制された芝居が利いていますね。



 三成は自身すら戦に酔うことから「それは…誰の心にもある…」とその絶望感を吐き捨て、一瞬、すがるような表情で家康を見た後で、睨みつけ「ご自分にないとお思いか?」と問いかけます。彼は豊臣第一義と家康を除こうとしたこと自体には一切の後悔はありません。
 しかし、家康の実力は当代一と認めてもいます。だから自分の抱えた矛盾と絶望を家康はどう思うか救いを求めるような思いもあり、一方で無自覚ならば許せない、そんな複雑な思いが窺えます。


 そして、「自惚れるな、この悲惨な戦を引き起こしたのは私であり、貴方だ。そして乱世を生き延びた貴方こそ、戦乱を求むる者」と自身が見抜いた真実を突きつけます。

 三成の言葉は嫌味や恨みではなく、作品的にも真実を含むものです。「どうする家康」では、第40回で三成の失政が「天下人家康」を誕生させ、第41回で引き継いだ家康の政が三成の逆襲を呼び込み、結果、関ヶ原の戦いが始まります。たしかに関ヶ原の戦いは、「戦無き世」を望んだ二つの政、思想の違いが生んだのです。そして、二人とも互いの溝を埋める話し合いをすることなく、戦に突き進みました。


 また、乱世を生き延びるとは多くの者を武力で制圧した結果であり、とどのつまり誰よりも強かったから生き残った乱世の申し子です。だから、誰もが乱世の申し子、家康を大蛇として恐れるのです。一方で家康は「狸」とも揶揄されますが、それはその二枚舌的態度だけでなく、狸まで貶めないと家康という化け物とは対峙できない…諸将の恐れによるものと思われます。

 勿論、どんなに外見や振る舞いに貫禄が出ようと家康の本質は戦嫌いの白兎なのですが、周りからは強敵と戦い勝ち残ったという事実だけからしか見られません。武力で敵を睥睨(へいげい)した家康の手は、敵と彼のために犠牲になった味方、双方の血に塗られています。血塗られたその手で平和を唱えるのは、三成からすれば矛盾を通り越して滑稽という他ないのです。


 万が一、関ヶ原の戦いで三成が勝てば、家康に代わり、同じく敵味方八千の血に濡れた三成が「戦無き世」の実現を唱えることになります。その矛盾と本末転倒の愚かさに、純粋に夢を追った三成の心は耐えられません。ただただ絶望にうちひしがれた彼の目には、相変わらず涙が滲みます。苦しくて仕方がないのでしょう。

 絶望と苦悩の深さゆえに「戦無き世など成せぬ。まやかしの夢を語るな…」と吐き捨てる口調は恨みがましいのですが、それとは裏腹に「生き延びた貴方はどうする?それでも虚しい夢を語れるか」とすがる目つきをしています。三成は無意識のうちに、自らの絶望にわずかな救いを求めているのかもしれません。


 家康はそんな三成を静かに見つめ返します。若い頃の家康ならば、安土城で信長に対峙したときのように、三成の言葉を「そんなことはない!」と突っぱね、激昂したことでしょう。しかし、家康は、三成が初めて感じた矛盾と絶望を長い間、ずっと抱えてきました。理想を求める中で、信玄に「弱き主君は害悪」と大敗させられ、信長の要求に耐え続け、妻子を死なせました。理想なき力は愚かですが、力なき理想は役に立たない、それを家康は知っています。

 ですから、関ヶ原の戦いで三成が得た、自身の戦乱を生む心と戦無き世は世迷い言という絶望を受け止め、沈鬱な心持ちを匂わせながらも「それでも…わしはやらねばならぬ…」と答えます。その言葉には力強さはありませんが、静かな覚悟が窺えます。
 残念ながら乱世を終わらせることは、そのルールを飲み込み、勝ち抜いた者だけに許されます。

 志半ばで倒れた信玄や信長はその資格を得られず、資格を得た秀吉は「戦は終わらん」と決めていました。終わらせるには、乱世の全てを引き受け、改めて天下を取るしかないのです。ただ家康はこの覚悟を一人でしたのではありません。瀬名の願いを共有した家臣たちが家康に夢を託したからです。一人ではなかったから、天下人の孤独に耐え、恨みを買う覚悟もしたのです。


 そして、その覚悟の最後の後押しをしたのが、家康こそ乱世の申し子と断じた三成であるのは皮肉ですね。無二の友になるかもしれなかった三成からの断罪…家康に最早、退路はないのだと改めて思わせるには十分だったでしょう。家康は、「戦無き世」を求めた三成の無念と絶望をも引き受けて、「戦無き世」に進むのです。

 対する三成は、自らの絶望をぶつけても、「それでも…わしはやらねばならぬ」と言える家康に無念と悔しさを滲ませながらも目を閉じるのみです。家康の沈鬱だが静かな覚悟に、家康が武将として優れている点は戦巧者ではなく、その折れない強さと悟ったかもしれません。
 自らの器との差を自覚した三成は豊臣家を案じながらも敗北を認めるしかなかったのではないでしょうか。



おわりに

 関ヶ原の戦いの顛末を決めたのは、人心掌握に長け、深謀遠慮の布石を打った家康の調略でした。しかし、それは表面的な答えでしょう。その調略を成功に導き、あるいは失敗に導いたのは、その調略を支える人の心です。つまり、心の強さが、関ヶ原の戦いの勝敗を分けたのです。


 三成の信念は確固たるもので、その理想は気高いものでした。しかし、それは豊臣第一義という大義によりかかるものでしかなく、人の心が伴ったものではありませんでした。ですから、結局は人々の欲望や思いを理解できず、瓦解してしまいます。

 また一方で三成自身もその若さによる経験不足から、「戦無き世」を目指しながら、戦の高揚感に呑まれて大乱を起こしただけになりました。それ以上に問題だったのは、自身の戦を好む心に打ちのめされ、自身の起こした多くの人々の死を招いた事実に戦慄し、その矛盾と絶望を抱えきれなくなってしまったことです。戦国の世から戦を無くすためには抱えなければならない矛盾に耐えきれず、彼の心が敗北してしまいました。彼にとって大義は清いものです。しかし、その運用には清濁双方が伴います。戦もその一つですが、純真な三成はこの世の矛盾を呑み込めなかったのです。

 因みに自分の心に破れたのは、茶々も輝元も同じであることも見逃せないところです。



 一方、家康は、多くの犠牲を払いながら、三成の抱えた矛盾と絶望をずっと抱え、それに悩みながら生きてきました。生き残った者の使命として、逝った者たちの人生と思いを引き受ける辛さも十二分に知っています。
 その長年に渡る経験は、家臣たちや女性たち、あるいは領民たちと縁を作り、その関係性の中で物事を解決する術も家康に与えてくれました。彼は個人一人の力に頼むのではなく、人を信頼しきることで艱難辛苦を耐え抜いたのです。そのしなやかな強さは、年月と人とのつながりによって簡単に折れるものではありません。
 結果、彼は戦国の世が生み出す矛盾と絶望、この世の清濁を呑み込んでいけるような老獪さを身に着けていきます。この老獪さが、肝心な局面で、彼を有利に運んだ結果、彼は関ケ原の戦いを収めることができたのです。



 ただ、三成が最期につきつけた課題「人は誰しも戦を好むものであるということ」「家康こそが乱世の申し子であるということ」、この二つについて家康はまだ答えられていません。人に戦をさせないようにするためには、戦をできなくするしかありません。それには、結構な強硬策が必要になって来るかもしれませんね。

 後者の問題の解決は、後継者育成にかかってくると思われます。今回の戦を楽しめるような余裕を見ても家康はどこまでも戦国大名です。血塗られた手とその思考でやれることは限界があります。彼のできることは「戦無き世」の実現のレールを敷くところまでなのではないでしょうか。したがって、戦を知らぬ世代に後事を任せられるか、つまり、天下人の権力をどう手離すか、これが家康の一つの課題となってくるでしょう。

 因みに秀忠すら戦国の人なので、真に「戦無き世」を築くのは三代将軍、家光なのかもしれません。となると、最終回に家光が出ますかね?で、ナレーションはやっぱり春日局でしょうか(笑?講談調の口調はらしくはないですけど。

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