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「光る君へ」第33回 「式部誕生」 その1 道長の考えるこの国の未来への射程とは

はじめに

 「知に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は住みにくい」ということわざは、かの夏目漱石「草枕」の冒頭の一文「山路を登りながら、こう考えた」に続く冒頭部分から来たものです。「草枕」は明治期の作品ですが、この一節に書かれた人間関係の難しさは、2020年代を生きる私たちにとっても経験済みの「あるある」ではないでしょうか。会社、学校、地域といった他人との関係は勿論のこと、家族間でも起き得るでしょう。

 当然、平安期を舞台にした「光る君へ」も例外ではありません。まひろなぞは、土御門殿の学びの会の頃から「知に働けば角が立つ」を地でいっていますし、実際の紫式部に宮中に再出仕したとき漢籍を知らないふりをしたという逸話があるのも「知に働けば角が立つ」経験をしたからです。一方、「情に棹させば流される」苦しみを味わうという場面も描かれています。例えば、第9回で直秀を死なせてしまった道長は、まさに直秀を助けたいという情が先行した結果、中途半端な介入をして逆に彼らを死に追いやる結果となってしまいました。

 こうした難しさが人間社会にあるのは、人は理と情の二つのなかであがいているからでしょう。この場合、理とは道理、理屈、論理、知性などを指し、情とは感情、人情、感性などを意味すると考えてもらえるとわかりやすいでしょうか。無論、どちらも必要なものです。理屈ばかりあっても、それを運用する人の心が伴わなければ物事は始まりません。一方、やる気ばかりあっても、何をどうやるべきなのかという方法論がなければやりようがありません。動いたところでめちゃくちゃになるだけです。

 ただ、その適切なバランスが難しいところ。理が勝ちすぎれば、融通が利かない、非情、冷酷、石頭、杓子定規と言われるでしょう。逆に情を優先させすぎれば、情に流されやすい、感情的、わがまま、一貫性がないと言われるのがオチです。じゃあ、どうしろって言うんだ…と叫びたくもなりますよね(笑)

 結局、論理的、理屈っぽいと言われるタイプの人と直感型、感情的と言われるタイプの人の違いとは、情と理のバランスが、人様からどう見えるかという差異でしかないと思われます。だとすれば、相手の情を受け入れられる自分の情の落としどころを見つけて、そこに理を通して筋道を立てることが、人間関係を上手くやっていくということなのかもしれません。もっとも、言うは易く行うは難し。お互いの感情や欲望が強ければ、その駆け引きと落としどころはかなり難しく、理屈だけでは説き伏せることはできません。

 「光る君へ」において、道長が直面している政争とはまさにその情と理の問題なのでしょう。道長の強い志、帝の自分の意を汲まないことへの不満、各公卿らの欲望と野心、伊周の復讐心…どれも道長の志の根底にある道理、法理だけでは解決し得ず、また道長自身の志もその強い感情でもあるがゆえに意地となって角が立つ…そんな状況にあるように思われます。


 絶対権力者の道を歩まざるを得ない道長は、それでもさまざまな人々の情と理の落としどころを見出し、政を進めなければなりません。それでは、この観点から見たとき、まひろの「物語」はどういう役割を果たすことになるのでしょうか。今回は、道長の政への志を改めて見ていくなかで、道長が、まひろの「物語」の重要性をどう思っているのかを考えてみましょう。


1.行成への信頼

 まひろの「物語」が、道長の政治工作の一環であることは言うまでもありません。そこで、まず道長の現状を先に見ておきましょう。現在、道長が一番困っていることは、過去に囚われた帝と政について齟齬が起きていることです。帝の意が道長の考えと同等以上に理に叶うものであるならば、喧々諤々と議論することですが、将来を見据え政をしたい道長に対して、今の帝は過去の栄光にすがることだけです。
 その結果、今や絶大な権勢となりつつある道長の権勢を削ぐ牽制ばかりに、帝の関心があるようにも見えます。無論、その裏には、自身と中関白家の凋落を道長のせいと逆恨み、何年も呪詛に勤しむ伊周の野心があります。

 さすがに伊周の呪詛こそは知らない道長ですが、伊周の野心がさまざまな政策の足を引っ張りかねないことに対しては、警戒を怠るわけにはいきません。前回、帝に「中宮中宮と繰り返されると疲れる」と邪険にされた道長は、入れ替わるように意気揚々と帝との拝謁に参る伊周とすれ違っています。二人のつながりが自分への対抗であることを意識せざるを得ないでしょう。

 ある日、敦康親王別当でもある行成が、敦康親王にかかる費えについての概算を報告します。その生真面目な仕事ぶりに全幅の信頼を置く道長は、ざっと見ただけで申告どおりに裁可を与えると「中宮さまと親王さまは仲睦まじくおわすのか」と藤壺の様子を問います。まひろについてでもなく、帝についてでもない…というところに、道長に別の意図が窺えますね。同時に帝の件は、まひろに任せるより他ないという覚悟もあるのでしょう。

 道長の問いに、「はい、そのようにお見受けいたします。親王さまは中宮さまをいたくお慕いでございます」と素直に、そして微笑ましそうに答える行成。元来、人の好い行成はありのままを見、意地悪な物言いをしません。その公正さも、道長が信を置く理由でしょう。

 ただし、前回見られたように、隆家についてだけは別で、嫌悪感を隠さず感情的になりますが。これは、隆家が伊周の弟ゆえに道長が籠絡されることへの危惧が表向きの理由ですが、前回、隆家が看破したとおり「道長が好き」だから、でしょう。別の言い方をすれば、野心も隠さず、悪びれもせずに道長の懐へ飛び込んでくる隆家の屈託の無さと傍若無人さが許せず、嫉妬しているということです。
 品がよく、人様の心の機微に通じて繊細な行成には、その振る舞いは決してできないことだからです。真面目で献身的な人物が、調子よく人に取り入っていく人物に感じるモヤモヤ感が近いでしょうか。


 話を戻しましょう。行成の報告に納得しつつも浮かない顔の道長は、腹を割るように「藤壺に伊周が訪ねてくることはないのか」と本題を切り出します。行成は「伊周どのは目立った動きは控えておるやに思われます。藤壺に出入りすれば他の者の目にも止まりますゆえ」と来訪がない事実とその理由について見立てます。
 道長は「そうか、されど伊周の位を元に戻したのは敦康親王の後見を見据えてのことであろう」と、帝と伊周の動きが連動していると推察しています。その伊周が、行成の見立てどおり、目立った動きを控えているのであれば、逆に陰で企みがあると言っているようなものです。

 そして「このまま中宮さまにお子ができねば…伊周の力は大きくなるやもしれん」という言葉には、彼の政権基盤の脆さが窺えます。父と同じことをしたくない道長ですが、藤原氏が昔より行ってきた帝の外戚が権勢を振るうという仕組みの強さは抗い難いものがあります。一先ず自身の権勢を維持するためには、敦康の貢献するしかないのが道長の現状なのですね。

 しかし、道長が、ここまで自身の苦境を詳らかにしたのは「気は抜けんな」…この一言を行成に伝えるためです。この声掛けには、言外に「お前を当てにしている」という信頼があります。左大臣である道長は、政そのものに関する難事が山積みです。「民を救う」、「この国の未来の安寧」…まひろや晴明との約束を果たす大きな目的へ向けて、一つずつ対処しなければいけない。近視眼的な伊周との権力収奪の駆け引きにばかりしてはいられません。信頼できる者を頼みにするしかないのです。

 言外に滲む道長の信頼を感じ取った行成は、「親王さまを伊周どのの手に渡すことはいたしません。この身をとして御守りいたします」と力強く答えます。「頼んだぞ」との道長のダメ押しで、二人の謀を通じた絆は再確認されました。道長がどれほど意識したかは定かではありませんが、前回、隆家を優先し、感情的になった行成を下がらさせた件でわずかに鈍った二人の関係は上手く取りなされたように思われます。


2.道長の諫言に対する公卿らの動揺

 ただ、道長と帝との主導権を巡る静かな駆け引きは、あらゆるところから噴出します。それが1006年正月に起きます。内裏の正月と言えば除目の儀です。為時の散位以降、ドラマではあまり話題にならなくなりましたが、任官には欲や思惑が絡み合い、除目前には政治的な駆け引きがあるものです。逆に言えば、除目の儀そのものは、帝が申文や周りの意見を参考に出した結論であるため、通過儀礼でしかありません。したがって、今回も慣例どおり、すんなり終わるはずでした。

 しかし、左大臣道長が「伊勢守。平維衡(たいらのこれひら)に任じるなど、もっての外に存ずる」と敢えて異を唱え、顕光らを驚かせます。除目の儀での異論は、帝の意に背くことにもなりかねませんから、朝廷の安定に心を砕く道長らしくない言動。帝も怪訝な表情。とはいえ、左大臣の発言を無碍にはできません。

 道長は続けます。「維衡はかの国の支配を巡り、一族の平致頼(たいらのむねより)と幾度も合戦を起こした者。武力による力争いを許しては…瞬く間に戦乱の世となってしまう」と、道理や徳ではなく、武力による解決の仕方を問題視します。平維衡は、源満仲、源頼光などと並んで「天下之一物」と称された一条帝の御代の代表的な武辺の者。この件に限らず揉め事のエピソードが残っています。そして、彼を祖とした伊勢平氏から後々に現れるのが、武士にして太政大臣にまで上り詰めた平清盛です。因みに維衡の兄、維将は、まひろの親友だったさわの父です。

 さて、道長の異論に「されど、帝がそうお望みなのです」と珍しく意見したのが、右大臣顕光です。後の行成の発言からもわかりますが、維衡は元々、顕光の家人。便宜を諮り、維衡を推挙したのは顕光自身ですから、道長に苦言を呈するのは利己的な理由を含むからです。
 因みに聡明な帝が、顕光のこうした縁故推挙に気づかないはずがありません。帝が公明正大を曲げ、顕光の推挙に乗ったのは、右大臣に配慮した人事で道長を牽制する狙いがあったのでしょう。先に述べたとおり、除目もまた帝と道長の政争の具となりかけているのですね。


 ただ、普段から愚かな言動の多い顕光に、そうした帝の心中を察してはいないでしょう。そんな彼の反論は、単に帝の威光に阿るだけのものにしかなりません。当然、彼なりの政への信念や理屈に基づくものでもありません。ですから、道長は顕光の振りかざす帝の威光にも怯むことはなく、「そういう者を国司とすれば、やがてどの司も武力にものを言わせようといたします」と滔々と理屈で返します。
 道長の予想外の強い意思に、驚き慌てるような気配を見せる行成、黙して語らず沈思静観の実資…様子を窺うばかりの周囲の反応のなか「右大臣どのはそれでよいとお考えなのかな?」と問い質します。


 フッと息を漏らすように笑った顕光は「維衡一人くらいでそのような…」と、国の行く末を憂う道長の言葉を大袈裟だと笑います。要は道長の異論は、詭弁だと揶揄しているのですね。しかし、その呑気な物言いを「すべては!」と語気を強め遮った道長は「些細ないことから始まるのだ」と断じ、顕光の大局を見ない事なかれを逆に非難します。
 面罵するかのような物言いに色めく顕光を隣の公卿が「まあまあ」となだめます。その様子を横目で見ながらその諍いを、笑いをこらえるようにしながらも、なお、ほくそ笑むのは、道長への復讐しか頭にない伊周です。彼にとって、この人事の正否にかかわらず、道長が掌握したはずの陣定に楔が打たれ、その声望に陰りが生まれそうなこの事態は歓迎すべきことだからです。


 そうした反応に動じることなく道長は「除目の大間書(おおまがき)には伊勢守の名を入れずにおく。本日の除目の儀はこれまで」と強引に打ち切り、立ち去ります。これまた議論を尽くすことを旨とする道長らしからぬ行為ですが、この件は譲れないとする道長の強い意思の表われとも言えます。それだけに公卿らも去っていく左大臣に一礼はするものの、道綱は神妙、公任はポーカーフェイス、行成は訝る…とその意図を計りかねるがゆえにさまざまな反応です。
 一方、道長の越権的な言動に不愉快な面持ちの帝と面目丸潰れで憮然とする顕光の二人は、不機嫌さを隠すこともなく立ち上がります。そして、あからさまに空気が悪くなり、道長の人望が失われた事態に伊周は、声には出しませんが、ますます笑い顔が止まりません。


 道長が去った後、道綱は「道綱、左大臣どのの言うことはなるほど、と思ったが」と弟に賛同を示しつつも、周りに「ねぇ」と尋ねるあたりに不安が滲みます。公任も道長の意見自体には反対はなく「されど、左大臣さまらしからぬ怒りようであった…」と彼らしからぬ強引さに彼の心中を心配そうにします。多少、事情のわかる行成は、恐らくは縁故人事を問題にされたのではないかとの推測を述べます。実は行成の推測は誤りで、道長が強硬に意を唱えた理由は、道長の文言通り、ただし根底に深謀遠慮がある理由ものです。

 ただ、もっともらしい理由に一同は得心したようで、斉信は「そこまで知っていて、そなたは何故、帝の仰せのままにと言ったのだ?」と公正を重んじる道長の意を汲まなかったのかと逆に問い質します。すると行成は申し訳なさげに「帝が仰せなら致し方ございますまい」と、公的な場における帝の権威を犯せなかったと返します。

 その行成の優等生な答えに慣例にうるさい実資も「わしもそう思った」と同意します。その上で実資は、「されど、左大臣さまは流されなかった。さすがである。わしは今、激しく己を恥じておる」と、政の本然を見失わなかった道長の志の高さを高く評価します。
 実資も、道長の諫言の理由を行成と同じと見ているように思われますが、一方でその根底にあるのは道長の政の信念の強さまで察している点はやはり他の公卿よりも頭一つ抜けていると言えるでしょう。ともあれ、公卿らの道長に対する評判は、好意的なものであるのは救いですね。

 ここで、一人座したままだった隆家が、「恐れながら、帝には朝廷も武力を持つべきというお考えが、おありにならないのでございましょうか」と、一同とはまったく違う視点から意見します。今回の除目における道長の意見具申の要諦は、物事の解決に武力を用いること自体を否定したことにあります。その点からすれば、皆が違和感を覚えた道長の言動も「民を救う」のは、法律による道理と為政者の徳の両輪と信ずる彼らしい言動だと言えるでしょう。

 隆家だけが、道長の強い諫言を腹芸的なものとしては捉えず、言葉の意味合いそのものを考えたことが興味深いところです。勿論、その後の道長と帝とのやり取りからすると、帝には「朝廷も武力を」との考えはなく、あくまで道長への牽制であることが窺えます。しかし、隆家は道長の言葉から、彼の平和主義的な政治信念を見抜き、その反対の意見について考えを巡らしたのですね。隆家は道長の権勢が揺るがないと早々に悟るなど、世情を読むことに長けていますが、実は時代を読む洞察力もあるのかもしれません。


 ただ、隆家の意見は、長らく戦のないこの時代においては物騒なもの。その突拍子もない物言いに、兄の伊周すら「やめておけ」と釘を刺すほどです。隆家は「ご無礼いたしました」と、一応、一同に詫びはしますが「されど、この先はそういう道を選ぶことがあるいは肝要となるやもしれません。よくよく考えるべきと存じます」と、道長の話したことは、今後の朝廷の成り行きを考える上で重要な問題であると指摘します。彼がここまで言ったのは、この先には武力が必要になる時代が来るとの予感があるのだと思われます。


 かつて、花山帝の一行に矢を射かけ、長徳の変のきっかけを作ってしまった隆家ですから、道長に比べると粗野な面があるのは否めません。その一方で、隆家は、女真族の侵略を撃退した刀伊の入寇で、外敵を駆逐する武功を上げもします。
 武勇の二面性を感じさせる隆家のキャラクターは、理想主義の道長とは対照的な現実主義なのかもしれませんね。今後、何らかの意見の対立を予感させますが、両極端の意見を持つ道長と隆家だけが大局を見るというスケールの大きさがあるというのも面白いですね。本作の隆家は、伊周よりも遥かに優秀なようですね。


3.時代の流れに対する道長の懸念

 あれほど強く諫言し、わざわざ大間書から伊勢守を空欄にしたにもかかわらず、いつのまにか官位には平維衡の名が書き加えられてしまいます。帝の裁可まで得たため、道長は、それ以上、手出しできなくなり、万事休すとなります。維衡の名がいつの間にか書かれていたことは、史実では何らかの手違い、事故だとされており、本作でもそれを踏襲するナレーションが入りますが、ここまでの経緯、そして、忸怩たる道長の静かな怒りが滲んだ真剣な表情からは、帝の意図的な仕業であることが窺えます。
 おそらく帝は、帝の威光を傷つけてまで我意を通そうとした道長の強引さを、彼の傲慢と横暴と見て不快に思ったのでしょう。そこで、改めて帝の威光を示し、道長を牽制することで政の主導権を渡さない意向を示したのだと察せられます。

 してやられた形になった道長ですが、彼が敢えて強い口調で異論を唱えたのは、帝の威光を傷つける、あるいは帝の牽制に対抗するといった次元のものではありませんでした。そのため、再び参内し、「除目の伊勢守の件、叡意により平維衡をこれに任じることといたします」と、書き加えが帝の仕業と知っている旨をほのめかした上で、「されど、速やかに交代させたく存じます」と、改めて自身の意向を通すと宣言します。

 さらに「恐れながらお身内にも厳しく接してこられたお上とも思えぬ此度のご判断、政に傷がつかぬうちに取り消さねばなりません」と、そもそもこの人事が自分の牽制であることを察した上で、公明正大さを曲げてまで政争の駆け引きをすべきではないと釘を刺します。これは非難というよりも、帝に政の正道に戻ってほしいという懇願でしょう。
 「政に傷がつかぬうちに取り消さねば」という言葉には、帝を守るという道長の意思が感じられます。前回、居貞親王の野心に対しても、ひたすら一条帝を庇う発言をしたことからも、道長の気持ちは察せられます。敬愛した姉の息子であるという情も、そのなかには含まれているでしょう。


 しかし、帝にはここまでして、伊勢守への平維衡任官に反対する道長の意図が読めません。どこまでも我意を通す傲慢にしか聞こえないのではないでしょうか。「さほどの由々しき過ちを犯したと思えぬが…」と、やや道長に配慮しながらも譲ろうとはしません。
 頑なな帝の態度に、道長は意を決したような表情をすると、きっと帝のほうへ目を向け、「お上に初めて申し上げます!」と穏やかですが凛とした声で呼びかけます。相手が帝ゆえに回りくどく、慮るような言い方しかしてこず、自身の内心を明かすようなことをしてこなかった道長。それは、角を立てないための配慮だったのですが、事ここに至っては直言より他ないと思ったのでしょう。

 ここで、御簾とその先の帝の姿がぼんやりと見えます。これが、今、道長の見えるものです。御簾越しの帝が、この道長の進言をどう聞いているのかは窺い知りようがありません。それでも、道長は、ここまでする自分の真意を告げなければならないと思っている…その決意が、そのワンカットの挿入から伝わります。


 まず、道長は「今は寺や神社すらも武具を蓄え、武力で土地を取り合う世となりつつあるのでございます」と、寺社勢力が力を持ちつつある現状を訴えます。当時、配下の祇園社が京の鴨川周辺に巨大な境内(領地)を持っていた延暦寺、そして、今回の終盤に登場した興福寺に至っては大和国の荘園のほとんどを支配していました。一大経済圏を持つ彼らは、それを広げ、守るために軍事化を図っていたのです。この彼らの力の一端は、今回の終盤、そして次回に示されることになりますが、この寺社勢力の力はその後、100年後の院政期にはさらに強大なものとなっていきます。

 道長は、こうした現状を踏まえた上で「加えて、この先、国司となるような者たちが、弓矢を専らとするようになれば、いかが相成りましょうか。やがては朝廷を蔑ろにする者が出て参らぬとも限りません」と、武力による暴力的な解決が朝廷の末端にまではびこることを危惧します。国司たちは領国、領民を正しく導き、慰撫すべき存在です。そのために、領内を法と徳をもって政で治めるのです。しかし、それが武を誇るようになれば、弱肉強食の論理が罷り通るようになります。争いばかりでは政が疎かになるのは必至です。そして、武力が法や徳を超えてしまったとき、最も大きな犠牲を強いられるのは、弱者である民たちです。

 また、力をつけた国司たちは、そのことに味を占め、自分たちの勢力を伸ばそうとするでしょう。その覇と欲望が朝廷を揺るがせば、世の中全体が乱れることになる…道長は、歯止めの利かない武力による未来をそう読んでいます。自分たちの将来、この国の未来そのもの憂いているのです。


 道長の時代は、平将門や藤原純友が乱を起こした天慶の乱から60年ほど経っています。国司を襲撃したこともあり、教科書的には大きく取り上げられていますし、特に将門は伝説も多く創作物でも出番が多いため印象深いかと思います。ただ、実際のところ、彼らの乱は限定的なもので、中央への影響は少なかったと言われています。
 ただ、この時期に地方豪族の謀反はいくつか散見され、その鎮圧の功績で力をつけていく軍事貴族もいました。今回、問題となった維衡は、その将門を討った将の一人、平貞盛の四男です。ですから、武力をもって解決を図る者が国司になっていくことを憂慮する道長の危惧もまったくの杞憂とは言えない…ということなのでしょう。


 また、本作の道長は極力、戦になることを避けようとしており、それは外交でも徹底されています。宋人が越前にやってきたとき、最も彼が警戒したことは、彼の台詞から抜粋すると「越前と都は近い。都に乗り込む足掛かりとなることも考えられる(中略)彼らは商人とは偽り、真は官人、それどころか戦人であるやもしれん」(第21回)ということでした。宋人の正体は、戦人ではなかったものの、国交を開こうとする官人でした。道長の危惧は、半分当たり、半分外れたというところでしょう。

 彼らはさまざまな脅しを当時の国司、為時にしかけていますが、道長は為時にすべてを任せる形で、この交渉をのらりくらりとかわし続け、宋人らは諦め、太宰府へと移ることになりました。一見、弱腰とも言える道長の対処療法は、都を戦場にして政を滞らせない、この点にあったわけで、その意味では実は成功したと言えるでしょう。


 結局、史実の道長は、この維衡を含む道長四天王など多くの軍事貴族を手元に抱え込みます。彼の懐に飛び込んだ維衡たちの世渡りが上手かったのか、道長が利用したのかはわかりませんが、道長自身も時代の流れには逆らえなかったと言えます。そして、道長の御代から100年後の院政期には、寺社勢力に対抗するため、軍事貴族たちが北面の武士、西面の武士として力を持ち、やがて武家政権、平氏政権が生まれ、朝廷は道長の危惧どおり蔑ろにされていきます。その後、明治維新まで500年ほど武家政権が続くことを考えれば、今回の道長の予見は慧眼ということになるでしょう。

 また、道長にこうした発言をさせたことには、一般に戦なき平穏な時代とされる平安中期が、実は武士たちが出現する土壌へ変わる過渡期だったという「光る君へ」なりの歴史解釈が示されていて、興味深いところですね。


 話を戻しましょう。道長が危惧を語ったところで再度、道長主観の御簾のカットが挿入されます。相変わらず、御簾の奥の帝の様子は窺い知れませんが、道長は「そうなれば、血で血を洗う世となりましょう。そうならぬように…世を導くのが正しき政」と滔々と続け、「お上の御ため、この国のためを思えばこそ、敢えて申し上げております」と、この諫言が私利私欲によるものでも、権力争いを意図したものでもなく、あくまでこの国の未来の安寧を願う一心であることを語り切ります。

 道長はこれまで周りの意見を尊重するため、自身の意見を言うことを避ける傾向がありました。「そなたの意見はないのか」と帝に問われても体よくかわすほどです。それは、為政者である自らの言葉はそのまま他者の意見を圧迫することをよくよく理解していたからでしょう。議論を重んじる彼としては、彼の言葉はどうにもならないときに限っていたのです。しかし、そうしたはっきりしない態度が、かえって帝の憶測と不審を招いた面もあるでしょう。だからこそ、今回は自身の考えを率直に語ったと思われます。

 この国の未来を考える道長の深謀遠慮と無私の真摯さ…その志と論理を前にしては、聡明な帝は返す言葉を失います。元より、「民を救う」政は彼の初心ですから。道長の正しさを認める他なくなった、思案するように深く呼吸をすると、渋々ながらも「わかっ…た…伊勢守は交代させよう」と言います。「わかった」の「た」に力が入るところに、帝の複雑な心境が表れていますね。

 道長が、ほっとしたように「ありがたき叡慮。恐れ入り奉りましてございます」と深い謝意を述べたことで除目を巡る道長と帝の駆け引きは、一応の終わりとなります。道長は、帝の聡明さをあてにして、理をもって、彼を納得させたということになります。しかし、道長の諫言を渋々受け入れたと見える帝の言葉尻には、気持ちの面でわだかまりやしこりが残っていることが窺えます。

 この除目の一件の流れを見るとわかるのは、残念ながらここが道長の限界だということです。それは、彼が不器用ということもありますが、根本的な問題はそこではありません。そもそも、道長は、政に対して一家言ある人です。その上で左大臣という現状、彼が人臣の最高位。こうなると、道長は、立場的に帝とは緊張関係にならざるを得ません。つまり、理を説くことはできても、彼の心を解きほぐし、穏やかにしていくことは無理なのです。しかし、今、帝に必要なのは、情の部分を救い、癒す存在なのです。彼が、どうしてもまひろを必要とするのは、この部分なのです。


おわりに

 物語、終盤、大和国の事実上の国守である興福寺の別当、定澄が3000もの僧兵を引き連れて都へやってきます。先に述べたとおり、興福寺は大和国の荘園のほとんどを掌握しています。ですから、事実上の支配者だというわけです。無論、大和国も国司はいます。当時の大和守は赴任したばかりの源頼親です。定澄と頼親との間で、所領を巡って対立が起き、騒動にまで発展していることが、彼らの上京の背景です。

 先に言えば、酒吞童子退治で知られる源頼光の弟である源頼親も軍事貴族です。つまり、本作の道長が危惧する武力で事を解決するタイプの人間でした。清少納言の兄、清原致信を殺す指示を出すなど血生臭いには事欠かず、結局は息子が起こした興福寺との抗争で多数の死者を出し、配流されることになります。そういう人物ですから、この度の興福寺との争いにしても、押しかけた定澄だけに問題があるわけではなく、頼親にも大いに問題がある可能性が高いでしょう。


 しかし、興福寺側に非がないとしても、その解決のために自分たちの武威を誇って、朝廷を恫喝する形で訴え出ることは、論外です。武力を解決の手段にする点において、頼親や平維衡と同類なのです。道長は、こうした武力による弱肉強食の未来を危惧していましたが、それは既に眼前に迫りつつある出来事、手遅れだったかもしれません。

 定澄は、腹心の慶理を引き連れ、土御門殿を訪れ、道長への面会を求めます。こうした初登場ゆえに意外に思われるかもしれませんが、定澄はこれでも興福寺の高僧です。清涼殿にて講義を行う、朝廷や藤原家の仏事にもかかわるなど関係はあるのです(道長は初対面のようでしたが)。ですから、いきなり内裏へ押しかけるような無分別はせず、事実上の為政者である道長へ直談判をしにきたというわけです。


 果たして、定澄は、腹心の慶理に「興福寺の僧兵3000人が小幡山に集まっております」と告げさせた上で「我らの訴えを直ちに陣定におかけくださいませ。それが成らねば、この屋敷を取り囲み、焼き払い奉ります」と自ら恫喝します。彼らの訴えは、頼親の国司解任ですが、朝廷自体を敵には回さず、私闘のレベルで道長を脅すとは狡猾ですね。武力を擁した、頭のよい相手です。交渉相手としては難敵です。

 しかし、戦嫌いであること、武力による解決を嫌うということは、軟弱、弱腰を意味しません。「武」という字の成り立ちの一説に「戈を止める」という解釈がありますが、本当の強さとは安易に武力を使わない。我慢する胆力にあるのです。ですから、道長は、怯むことなく定澄を見据えると「やってみよ」と牽制します。
 隆家であれば、すぐに武力で対抗するでしょうが、道長はそれが泥沼になると考えています。ですから、武力をもって迫る者たちに、検非違使などを使わず、どこまで粘り強く交渉で解決に持っていけるか、今、道長はその志を試されるわけです。失敗すれば、道長の権勢どころか、朝廷の権威が脅かされ、この国は混乱することになりますから、責任は重大です。


 数々の天災や火事、飢饉、武力をもって迫る輩、次々と国難、あるいは不吉な出来事が起きている現状を見れば、朝廷内で権力争いをしている場合ではないのですね。政に邁進するためにも、一刻も早く、一条帝との無用な緊張関係を解き、帝にこの国の未来のために生きてもらうようになってもらわなければなりません。となれば、「物語」によって、帝の心を解きほぐすという、まひろに課せられた務めは、この国の未来の一部を担うことなのかもしれませんね。

その2に続きます


 

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