「光る君へ」第44回 「望月の歌」 果たされた約束の先にあるもの
はじめに
このよをば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば
望月の歌…藤原道長という人物を語る際に必ず引き合いに出されるこの一首は、教科書的な日本史でもお馴染み、藤原氏の摂関政治を象徴するものとされます。近年では、この和歌の「このよ」は「この夜」、つまり「今宵は良い夜だ」ぐらいの意味で詠まれたと言われますが、「望月が欠けていないように、この世は私のものである」と、道長が我が世の栄華を誇った傲慢そのものという解釈で学んだ人も多いのではないでしょうか。
ですから、「光る君へ」で藤原道長が、準主役と知らされたとき、誰もが、この和歌がどういう扱いになるのか、気になったことでしょう。そして、物語が始まるにつれ、その戸惑いは大きくなっていった人もいらっしゃるでしょう。何故なら、本作の道長は、あまりにナイーブで優しい心根の人間だからです。おそらく、教科書的な日本史における道長イメージにもっとも近いのは、段田安則さん演ずる兼家でしょう。その兼家に強く反発するのが、本作の道長です。
ますます、望月の歌を栄華を誇る傲慢とする解釈から離れていきます。それだけに、道長が権勢に囚われた悪へ転じるのか、それとも、まったく違う心根で詠まれるのか…「源氏物語」の誕生と同じく、この一首が出てくるのを待ちかねている視聴者も多かったと察します。
そして、遂にそのときが来ました。これまでの回のnoteで、道長の心の流れはよくよく考察してきました。ですから、野暮なことは言いません。今回は、いかにして、望月の歌へと道長がたどり着くか、どのような解釈になるのか、そのまま味わっていきましょう。
1.三条帝、最後の抵抗の裏で
(1)頼通の一途に若き日を思うこと
内裏に響く「聞こえぬ!」の声、三条帝の病が一向によくならないどころか、寧ろ悪化していることが端的に仄めかされるなか、拝謁する公任が「お上に正しきご判断していただけぬとあれば政は進みませぬ。政が滞れば国は乱れます」と言上。これに俊賢が「速やかなご譲位を願い奉ります」と続き、二人して譲位を迫ります。1015年10月に二人が、道長を促して道長に譲位を迫らせたと言われますが、本作では道長との謀議がありましたから、道長の意向を受けての阿吽の呼吸というところでしょう。しかし、御簾内の三条帝は「ん?」という様子、言い直させた二人の諫言が聞こえていないのです。と言って、これ以上、重病と謗られるのを避けたい彼は再度聞き返すことが出来ません。無論、プライドの高さもあるでしょう。
前回、譲位やむ無しの空気を作り出すと道長に進言した俊賢は、既に調略を終えているのでしょう。「これは公卿の総ての願いにございます」というトドメの一言を念押しします。しかし、そもそも聞こえていない三条帝、効果がないばかりか「その件は、朕が左大臣に厳しく言うておくゆえ安心せよ」とトンチンカンな返答をする始末。え?と訝る俊賢は公任を、公任もまた俊賢を見て、こいつはおかしいという表情になります。二人は三条帝の病状を確信したことでしょう。
ただ、一方で、三条帝の返しは苦肉の策としては巧妙でしょう。おそらく彼は、聞こえないなりに公任らの諫言が道長の差し金と踏んだのではないでしょうか。それゆえに道長と直接話をするからお前たちは下がれ、と突っぱねてみせたというのが、この合っていない返答です。公任と俊賢は引き下がるしかありません。
とにもかくにも、やっと手に入れた帝の座を失いたくない三条帝は、譲位を引き延ばすため「我が皇女禔子(やすこ)を、左大臣の嫡男頼通の妻とさせたい」と新たな懐柔策に出ます。帝が自ら臣下と内親王との婚姻を勧めようとした先例はなく、異例のことです。更に言えば、禔子は当時、13歳になったばかり、裳着を済ませたばかりの娘を10歳以上離れた臣下に降嫁させようというのですから、三条帝の帝位への強い執着心、追い込まれた焦りが窺えます。
先例なき提案は、道長にも予想外で一寸、止まってしまいます。「あ…恐れ多いことにございますが…」と戸惑いを隠せないまま返す道長は、つっかえつっかえ、逡巡しながら「頼通は亡き具平親王さまの姫を妻としております」と既に嫡妻がおり道義的に難しいと返します。内親王を隆姫女王の下に置く、妾妻には出来ません。しかし、もとより死者への気遣いもなく、己の保身しかない三条帝は「構わぬ、我が姫が頼通の嫡妻となれば、真に喜ばしい」と、娘を嫡妻にすることを道長に強要します。
しかたなく道長と倫子は、頼通の説得を試みることにしますが、道長にとっても三条帝との融和を計ることはマイナスにはならないと見たのでしょうね。しかし愛妻家の頼通は「いやでございます」と断固反対。以前、妾妻を設けることを頑なに拒否した頼通のこの反応は予想の範囲内。理解を示しつつ「帝のお望みとあらば、断れん」と仕方ないと語ります。
倫子は「心は隆姫、お務めは内親王さまでよろしいではないの」と、建前と本音を使い分ければ、隆姫を傷つけることにはならないと助言します。妾妻を抱える夫の嫡妻である倫子の経験則からの言葉です。前回、道長に話したように、愛されていない嫡妻の辛さを彼女は知っています。一方で別の幸せも教えられました。どのみち権力者の妻とは全てを望むことはできないのだから…というのが倫子の理屈でしょう。
無論、それが本当に女性の幸せと言えるのかわかりません。何故なら、倫子の理屈は、かつて道長がまひろを妾妻にしようとしたとき(第10回)に語った言葉と相似をなしているからです。心はまひろ…道長の想いにまひろは「耐えられない」と答えました。万が一、頼通が禔子内親王を嫡妻としたとき、妾妻へ落とされた隆姫が、まひろと同じ気持ちを抱くことは想像に難くありません。
割り切ってまひろに妾妻を提案してしまった若き日の道長以上にお坊っちゃんの頼通は、さらに初心なようです。「いやでございます。そのようなことを父上と母上が私にお命じになるなら、私は隆姫を連れて都を出ます」と言い出し、両親を驚かせます。道長も倫子も呆気に取られていることは同じですが、二人の驚きの中身は違うものです。倫子のそれは思った以上の頼通の妻への一途な想いに対する純粋な驚きといったところでしょう。
しかし、道長が反応したのは頼通の頑なさではなく、「都を出る」というワードのほうでしょう。その言葉が誘う若き日の自分の記憶は、続く頼通の「藤原も左大臣の嫡男であることも捨て、2人きりで生きてまいります」という宣言によって、鮮やかに蘇ってきたはずです。「一緒に都を出よう。海の見える遠くの国へ行こう。俺たちが寄り添って生きるにはそれしかない」「藤原を捨てる。お前の母の敵の弟であることも止める。右大臣の息子であることも、東宮さまの叔父であることも止める!」(共に第10回)…かつてまひろの愛だけに生きようとした自分の姿を、デジャヴのように頼通のなかに見たのですね。
その夜、渡りをふらふらとそぞろ歩く道長は、月を見上げます。その夜の月は半月でしたが、脳裏に思い起こされたのは、若き日に二人で遠くの国で生きていこうとまひろに言ったあの夜のことでしょう。純愛を貫こうとし、二人に横たわる宿命を前に泣く泣く諦めた夜。そして、二人は結ばれ、そして、こんな理不尽な世の中を変えると誓ったはずでした。道長の「藤原を捨てる」との言葉は、「家」の宿命に耐えかねたからでもあったのですが…そうまで思った彼が、今、我が「家」のために頼通にその宿命を押しつけようとしている…頼通の頑なな拒絶は、そのことを道長に気づかせたと思われます。
「民のための政」を成す…その約束は身分差による理不尽な社会を変えたいという思いでした。だから、もっとも底辺の存在として虐げられる民を、政の基本としたのです。その思いは変わらず、今、頼通に内親王降嫁を説得しているのも「民のための政」へ我が「家」を薪としてくべるためです。我が「家」の繁栄という私利私欲ではありません。しかし、理由はどうあれ、やっていることは、かつての兼家が子どもたちに強要したことと同じです。まひろとの約束は、いつの間にか大きく外れ遠くまで来てしまったという寂しい感慨があるかもしれません。それとも、未だに足踏みをしたまま、まったく変わっていないという虚しさかもしれません。今、道長は自分が志に邁進してきたことの結果を、若者たちによって突きつけられているのですね。すべては自分に返ってくるのです。
その夜、同じ刻、まひろも月を見上げています。今、道長がどう思っているかは知る由もありませんが、道長を思っていることは確かです。道長が、権勢欲にまみれた我が「家」の恥を語った夜、共に月を見上げたとき、まひろは道長から「誰かが…誰かが今、俺が見ている月を一緒に見ていると願いながら、俺は月を見上げてきた」(第31回)と愛の告白を受けました。それは、自分が月を見上げているときの想いと通じ合うもの。二人の想いを確信し合えた夜から、こうして見るたびに間違いなく通じ合えている実感は二人にはあるでしょう。
どんなに虚しい半生、蟷螂の斧に過ぎない努力をしてきたとしても、まひろの気持ちと共にあり、ここまで来たと信じられることだけは道長の救いでしょう。
(2)娘たちの容赦ない批判
とはいえ、道長が感傷に浸っている場合ではありません。道長は内親王降嫁を「帝がお望み」と表現しましたが、実際は命令です。打つ手を間違えると、不敬を理由に失脚させられかねません。そこで、当時は頼通の高倉殿を出て土御門殿に滞在中の皇太后彰子に相談することにします。「あそこまで頼通が拒むとは思いませんでした。困り果てております」と情に訴えたのは、彰子の知恵を拝借したいのではなく、姉として皇太后として頼通を説得してほしいということです。
しかし、彰子が「頼通が帝の仰せに従ったとしても、禔子内親王さまは名ばかりの妻となってしまうであろう」と口にしたのは、父や弟のことではなく、嫁がされる禔子内親王のことでした。彰子と禔子内親王は、ほぼ面識はないでしょう。それでも彰子が内親王を気遣うのは、自分と重ねているから。
ここでショットは、彰子のバストアップに切り替わり、「かつての私のようで…お気の毒なことだ」と苦い表情で言い切る彼女の内面を追います。彰子は、中宮定子一筋、しかも8歳年上の一条帝のもとへ放り込まれる形で入内しました。即日、女御宣下は受けたものの、それは一条帝の拒絶の言葉と引き換え(第27回)。裳着を済ませたばかりの数え12歳の彼女に「仰せのままに」という以外に何が出来たでしょうか。
以降、約9年を寂しく過ごすことになります。敦康親王の養育という慰めがなければ、その牢獄のような暮らしは耐えられなかったかもしれません。13歳の禔子内親王が10歳以上歳の離れた愛妻家に降嫁する…彼女の先行きが彰子には確かなものとして見えているのです。しかも、禔子内親王には彰子の敦康親王のような存在は望むべくもありません。
直後、カメラが彰子ナメで道長を捉えるのは、彰子の言葉を道長がどう受け止めたかを見せるためですが、道長は目を見開き、固まります。自分が彰子に何をしたのかを、本人から改めて突きつけられたからでしょう。彰子入内、娘を政の犠牲にするこの選択は、道長にとっても苦渋の決断でした。当時の状況を打開する策は入内しかなく、自ら手を汚しました。その後、彰子が懐妊するまでの9年を道長は後ろめたさとやりきれなさで過ごしました。
ただ、その苦しみは年月こそ同じでも彰子のそれとは質の違うものです。娘へ感じる不憫さも親心ではあっても、彼女に寄り添ってのものではありません。そのことは、道長が、彰子と敦康親王との深い関係性に気づけていなかったこと(第40回)が象徴していますね。
道長は…(おそらく倫子もそうなのですが) 一条帝の寵を受け、敦成、敦良と二人の皇子を産んだ結果だけを見て、彰子は幸せを得たと思っている節があります。確かにそれは幸せですが、それはそれまで感じていたさまざまな哀しみ、寂しさ、詫びしさを帳消しにするものではありません。まして、政という大義を理由に娘の意思を蔑ろにして入内させた事実は変わらない…
彰子が幸せを得たとほっとするのは、ある種の親の身勝手でしかないのです。今、道長は同じことを頼通と禔子内親王にしようとしています。彰子の言葉は、家族を犠牲にする己の身勝手を自覚させられる一言だったと言えるでしょう。その衝撃に一瞬、固まったのが、道長の表情です。
彰子の言葉に驚いたのは、まひろも同様です。ただ、彼女の驚きは道長が感じたものとは別です。まひろは入内した経験はありませんが、思うままに生きられなかった哀しみや鬱屈は長年燻らせて来ました。それは恋愛や婚姻についても同様です。「物語」に登場する多くの女性たち、そのほとんどに容赦なく何らかの不幸を抱えさせるまひろ。その作家の残酷さをまひろが発揮するのは、現実の女性たちの哀しみを汲み上げているからでしょう。比較的、闊達で幸せに見える源典侍ですら、その外見の老醜を詳細に描かれています。
ですから、彰子の言いたいことは理解出来るでしょう。ただ、その哀しみを父であり、時の権力者である道長へ単刀直入にきっばり言える彰子の強さと成長に目を見張ったというところでしょう。
さて、彰子はなおも「帝も父上もおなごを道具のようにやったり、取ったりされるが…」と続けたところで振り返り、「おなごの心をお考えになったことはあるのか?」と道長を問い質します。いつにない厳しい彰子の物言いに、まひろが伏し目がちになってしまうのは、その言葉に共感しつつも、投げつけられた道長の心境を慮るからでしょう。優しい心根ゆえに心身病み尽くした彼を宇治で見ていますから。
まひろの窺う眼差しの先にある道長は、彰子とは目を合わさず、虚ろな表情で黙りこくっています。かつて入内した姉詮子の心を思い「入内はおなごを幸せにせん」と言った道長です。その自分が娘を入内させ、その娘に「おなごの心をお考えになったことはあるのか?」と聞かれるようになってしまうという因果応報。
入内しかない…そう決めたあのときから、道長は、いつか娘から批判されるだろうという予感は薄々あったように思われますが、実際に彰子から突き付けられた本音に予想以上に打ちのめされたのでしょう。娘の哀しみが想像を超え、それに比例するように自分の罪の意識も深いものになったように思われます。返す言葉などないのです。
道長がどれほど悩んで彰子の入内を決めたかは、彰子は知りません。また、その後の姸子をすんなり入内させている行為を見れば、逡巡があったとは言い難い。ですから、目を合わさない道長の虚ろな様子は、彰子から見れば薄い反応という以上ではないでしょう。そのことに焦れたような表情をした彰子は、「妍子とて父上の犠牲となって今は酒に溺れる日々である」と指摘し、父の野心が一体、どれだけの女性たちを不幸にしているのかと追及します。
そう、妍子も大きく年の離れた愛妻家の元に嫁がされたという点においては、彰子と状況はまったく同じです。彰子の場合、たまたま定子が亡くなったこと、まひろの「物語」が帝の傷心を解いたこと、出仕したまひろが彰子の相談相手となったこと、その幸運が重なり、帝の寵愛を受けました。そして、結果的に二人の皇子に恵まれた。まひろと「物語」の手配こそは、道長の手配に寄るものですが、それが功を奏すかどうかは賭け。つまりはたぶんに偶然に助けられた奇跡だったと言えます。彰子は運がよかったに過ぎません。
彰子は妍子を見るにつけ、それを痛感したのではないでしょうか。しかも、両親があれやこれやと気を揉んだ彰子に比べれば、妍子には倫子が贅沢を許すぐらいでそこまで心を尽くすような描写は見られません。また、道長が「前の帝と彰子さまの間には、「源氏の物語」があった。されど今の帝と妍子さまには何もない」(第42回)と語ったように、妍子には、心許せる同性の友人も帝と自分をつなぐ何かもないままでした。そして、生まれたのは周りの期待に反して皇女…
だからこそ、「仮に禔子内親王を妻にしたとしても、子か出来ると決まったわけではない」と、父の期待どおりになるとは限らないのに不幸を繰り返すのかと批判を重ねるのです。言外に、妍子に皇女が生まれ落胆した道長のことを非難も込めているのではないでしょうか。
すると、道長は急に「お前は…どう思うか?」とまひろに話を振り、助けを求めます。彰子の糾弾はもっともなものです。これまで娘に強いてきた非情の数々をこうして突きつけられた道長が、何を言っても嘘くさい言い訳にしかなりません。彼自身も良心の呵責がありますから、政の道理をもって強く押し通すことができません。道長とは志を共有し、彰子とは師弟関係にある公正なまひろの意見を問うのは、道長にとっては自然なことだったのでしょう。
無論、急に意見を求められたまひろのほうは、この緊迫した状況で私に振らないでよ、という気持ちでしょうね(苦笑)戸惑いながらも、少しだけ考えたまひろは「左大臣さまのように、倫子さまも明子さまも等しく慈しむお方は、そうはおられぬと存じます」と道長を立てるような言葉を慎重に選びながらも、彰子への賛同の意思を示します。
ただ、まひろにそういう意図があったかはわかりませんが、聞きようによっては道長を抉る言葉になっていますね。たしかに道長は、倫子と明子を「等しく慈し」んでいるかもしれません。嫡妻である倫子を立てつつ、双方に6人の子を成しています。しかし、実際は等しく扱えているのは、彼が二人の妻を愛してはいないから。しかも、そのことを二人の妻は感づいています。結局、道長が愛しているのは、まひろだけ。
つまり、女性を等しく慈しめる男性など存在しないと言っているようなものです。まひろはともかく、道長はそう思案を巡らせたのではないでしょうか。まひろの言葉であることも相まって、妙に得心した表情を浮かべます。
暫し思案しようとする道長に対して、すかさず、彰子は「この婚儀は、誰も幸せにせぬと胸を張って断るがよい!」と強く諫言し、道長を唖然とさせます。何としてもこの婚儀を食い止める、自分と同じ目に合う人間を不用意に作らせないという意思を感じさせます。父ではなく、左大臣に対して、皇太后として意見した言い方に、彰子の貫禄が窺えます。道長は、入内させた娘たちへの後ろめたさもあって、彰子の経験則から来る強弁に圧倒されてしまいます。
孫が践祚するかもというこの段になって、その母でもある娘から突き付けられた本音は、道長を動揺させたようです。その浪費癖だけが頭の痛い姸子のいる藤壺へご機嫌伺いをしに訪れたのも、彰子の話を聞いたからでしょう。浪費癖を含めた爛れた彼女の生活の原因は、道長が無理にさせた入内によるものだと彰子は指摘したのです。
兼家なれば、己の罪も飲み込み悪びれない強さがありますが、その父に反発した道長は善くも悪くも他人を思い遣る優しさが本来の性質(女心にはかなり疎いですが)。入内の結果、酒を煽るより他ない妍子のやるせない気持ちを彰子から聞かされたのは、堪らないものだったでしょう。まずはとにもかくにも、顔を見たくなったと思われます。
とはいえ、良心の呵責に耐えかねたとはいえ、思い付きのようにご機嫌窺いをしても逆効果。かえって妍子は、「いかがされましたの」と不審そうに用件を問います。「お顔を見に参りました、中宮さまと内親王さまの」と他意はないと伝える道長ですが、「かわいらしくお育ちになられましたな」という孫への褒め言葉は妍子を呆れさせます。
演ずる子役の子を見てもわかるとおり、道長の言葉に嘘はないでしょうが、これまでそんな声掛けなどしてこなかったのでしょう。妍子みは、道長が今更なことを、取ってつけたように言ったようにしか聞こえません。妍子は、「父上は禎子が生まれたとき、皇子でないのかといたく気を落とされたと聞きました」と詰り、道長の言葉を信用しません。
少し目を瞬かせ驚く道長は「そのような覚えはございませぬ」と返しますが、前回冒頭で落胆した道長の様子が挿入されており、この返答はその場逃れの嘘です。あるいは、道長は思わず見せてしまった落胆を忘れているのかもしれませんが。道長は、取り繕うように「これまでも幾度も藤壺をお訪ねしておりましたし」と根拠を並べようとしますが、妍子は「いらっしゃるときは、藤壺のかかりを少なくせよと仰せになるときだけではありませんか」とピシャリ。道長は「そのようなつもりはございませぬ」と同じことを繰り返す羽目になります。
自分の非を認めようとしない父は、娘から見れば、ああ言えばこう言う不誠実な人間にしか見えません。「父上の道具として年の離れた帝に入内し、皇子も産めなかった私の唯一の慰めは贅沢と酒なのでございます」と辛辣な言葉をぶつけます。三条帝に愛されないことはもとより、皇子を産まなかったことで父、道長からも見捨てられた自分は、宮中で生きる甲斐を術もないのだというわけです。すべては彼女を入内させるだけさせ、ケアをしなった道長の責任…彰子以上に自分の罪を感じさせる妍子の指摘に、道長の横顔は呆然としています。
そして、妍子は「お帰りくださいませ!」と冷たく拒絶すると、「私はここでこの子と諦めつつ生きて参りますゆえ」と道長の政に不必要とされた母子の絶望と諦観を告げます。現在の姸子の境遇は、彰子のそれと反転したものです。二匹目のドジョウとばかりに安易に三条帝に嫁がせた結果が、これです。下手をすれば、彰子もこうなっていたかもしれない。我が身の不明に、道長は返す言葉がありません。
結局、道長が、娘の不幸に心を痛め藤壺を訪れたことは、自己満足のための罪滅ぼしという独り善がりのものでしかなかったことが浮き彫りになっただけでした。彼は、子どもたちを誰一人幸せにはしていないのです。
(3)三条帝の譲位へ
頼通の頑ななまでの拒絶、娘たちからの非難を受けたたことは、道長に内親王降嫁を受けることを逡巡させます。それは、若き日の理想から離れ、父兼家のごとく家族を犠牲にする自身を突きつけられることだったからでしょう。実資との問答で揺らぎを見せた道長の心は、子どもたち本人から直接言葉をぶつけられたことで、なお自分の変質を感じたかもしれません。とはいえ、内親王降嫁は帝の願いという名の命令ですから、軽々しく拒否もできません。遣り方を間違えば、謀反と同様に扱われます。
三条帝の「禔子の件はいかがいたした?頼通は承知したか?」という問いも、頼通を説得したかという確認に過ぎません。道長は「申し訳ございませぬ。政務が忙しく、まだ頼通に会えておりません」と、はぐらかすしかありません。
そんな道長の懊悩を知る由もない三条帝は、ただただ道長がこの降嫁に乗り気ではないという事実だけを感じ取り「ふ、内親王を妻にしたくない者なぞおらぬと思うがのう…」と嫌味を口にしながら苛立ちます。そして、暫く思案した後、「左大臣!そなたを摂政に准ずる者として政を委ねる」と次の手を打ちます。前回、道長に譲位を迫られた折、「そなたが朕の目と耳になれ」との捨て台詞を吐きましたが、あのときのような癇癪ではなく、正式に爵位として任ずるというもの。伏しながらも驚く道長を後目に「そなたが政の代わりをすれば、譲位はせずともやってゆける」と、帝位を守りたい本音を口にします。
道長が訝るように三条帝を見るのは、その意を測りかねるからです。「民のための政」を志す道長にすれば、自らの権限を手放してまで地位を守ることの価値がわかりません。志のため政を行う権限を欲する道長には、有名無実の地位など無用の長物。帝位だけは守りたい一心の三条帝とは真逆なのです。また、そもそも帝の政務を代行する摂政とは、帝との間に信頼関係があってこそ成立します。人臣で初めて摂政となった藤原良房と清和帝、兼家や道隆と一条帝など摂政と幼帝という組み合わせが上手くいくのは、信頼せざるを得ない関係だからでしょう。しかし、道長と三条帝にあるのは、最早、不審と不和だけです。
ですから、「そなたは左大臣のまま准摂政となれ。朕にとっても、そなたにとってもよいではないか」と自信ありげに、最大限の譲歩をしてみせる三条帝に、道長は他の意図があるのではと猜疑心を抱いたのではないでしょうか。准摂政となったとしても、情動的な三条帝の意向に添わないことはまま起こるでしょう。そうなった場合、現状と同じく政が滞ります。それどころか、意向に添わないことを失敗と揚げ足を取り失脚させるつもりかもしれません。
これまでのことを考えれば油断ができない…というのが道長の考えでしょう。こうなっては、三条帝との和解の芽を潰すしかありません。道長はひれ伏しながらも、最早これまでと三条帝との完全な訣別を決意したように見受けられます。
頼通と教通の兄弟を呼び寄せた道長、目を瞑り思案げですが、それは三条帝が捨て身の策で来たようにこちらも苦肉の策を打つしかないからでしょう。唐突に、頼通に「病になれ、それしかない」と命じます。「内親王さまは戴かずともよい」と、頼通の希望に添う言葉も付け足します。その上で「されど、帝に内親王さまは要らぬとは申せぬ」と、重病にならなければならない理由を語ります。この縁談の起こりで、頼通が重病になったのであれば、それこそが天の配剤。縁談は勧めてはいけないことになります。天命だけは、三条帝も逆らえません。
ただ、仮病を疑われては意味がありません。ですから、「教通、内裏中に噂を流せ。兄は命の瀬戸際の病である。伊周の怨霊によるものだ」と念を入れます。頼通のこのときの病が、伊周の怨霊のせいであるらしい話は実資の「小右記」に見られるものですが、本作では道長自身が三条帝との駆け引きの流れで講じたものとされたようです。苦肉の策とはいえ、卑怯な手口に「父上!」と抗議の声を上げる頼通を「文句を言うな!」と一喝する道長ですが、すぐに「隆姫を傷つけぬためだと思って、やり抜くのだ」と宥めすかします。ぐずぐずはしていられないのです。
それにしても、散々、道長を逆恨みし、呪詛し続けた伊周でしたが、こういう形でその恨みを死後、道長に利用されるとは思いも寄らなかったでしょうね。人呪わば穴二つとは言いますが、さすがに気の毒ですね。
その後、久々に登場の女房ズまでが、頼通重病の噂をしているところを見ると、道長の策は功を奏したようです。「あのお美しい顔がお苦しみ…」「ちょっと見てみたいわ」とやっているあたり、相変わらずですよね。イケメンは苦しむ姿もいいもの…歪んだ願望がまた彼女たちらしいところでもあり、世の一部のイケメン好きの心中を言い当てていて妙なリアリティがあります(笑)
ここまで噂が広がってしまっては、婚儀を強引に進めることは三条帝にもできません。「万策尽きたか…」と自嘲すると「我が在位、わずか四年半…短すぎる…」と、ようやく手に入れた帝位で何をすることもできなかった悔しさを滲ませます。こうした悔しさを漏らせるのも、公正で頼りになる実力者、大納言実資だけでしかいません。
実資は、嘆く帝に阿る阿諛追従の輩ではありませんから、三条帝の言葉にも冷静です。事態の鎮静化を図ることも含め、三条帝へ「お嘆きになっているときではありません。左大臣さまの思いのままに譲位あそばすのではなく、今こそ奥の手をお出し、なさいませ」と叱咤します。最早、譲位が避けられない以上、せめて一番の願いを通しておくほうが賢明だからです。また、道長の権勢に楔を打っておくことは、政のバランスを取ることにもなりますから一石二鳥でしょう。
そして学才にも人の機微にも長けた実資は、三条帝が帝位にこだわる理由を正確に見抜いていたのでしょうね。「東宮に敦明さまに立てるなら譲位しよう…それ以外の皇子なら譲位はせぬと仰せになればよろしゅうございます」と、三条帝に一番の心配を言い当てた献策をします。この言葉には、改めて感じ入った三条帝は「そなたは唯一の朕の忠臣であるな。目も見えぬ、耳も聞こえぬが、そなたの顔はわかる。声もしかと届いたぞ」と、ただ一人、彼の気持ちを最後まで斟酌してくれた実資へ感謝の言葉を述べます。
孟子にある「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」との言葉は、天下を治めるのに最も重要なものは、人々の心が一つになっていることだという意味です。病に侵された危機的状況の帝の力になれるのが実資しかいなかったというこの現状は、三条帝は人心を得なかったことの表われです。人の欲だけを刺激し、駆け引きと情動的な縁故だけで人事や政を進めてきた三条帝は、人間性や能力を見るということを忘れていましたね。三条帝は病を得なくとも、道長と争うことがなかったとしても、やがて自滅したように思われます。
こうして、三条帝は、娍子との間の嫡男、敦明親王を東宮にすることを条件に譲位を承諾します。政治は結果だと月並みな言葉に当てはめるのであれば、愛する妻子のために道筋をつけることだけが、彼の政であったということになるでしょう。
2.上り詰めた国家の頂点、その虚しさ
(1)公任、親友ゆえの諫言と助言
1016年2月、敦成親王はわずか9歳で後一条帝として践祚され、母である皇太后彰子は国母に、そして祖父である道長は、遂に摂政となります。名実ともに国家の頂点に立つことになりました。それは、土御門殿が、貴族の頂点にたったことでもあります。愛娘である倫子に支えられながら月を見上げ、「我が家から帝が出るなんて…」と感慨深げな穆子は、満足そうです。第42回noteでも触れましたが、道長が政の頂に上る過程で、彼の気づかぬところで重要な役割を果たしたのが、穆子です。
彼女自身も、それは自負するところのようで「道長さまは大当たりだったわ。私に見る目があったからよ」と笑います。夫雅信は左大臣、娘婿道長は摂政、孫彰子は皇太后、ひ孫敦成は帝となり…四代にわたる栄華を見届けた穆子は、誰からも愛される86歳の生涯を閉じます。
さて、摂政に上った道長は、このとき数えで51歳…父兼家よりも10歳近く若くして、その座へたどり着いたことになります。老いてからようやくその座に就いた兼家よりも、時間があるとも言える道長ですから、可能性はあるように見えます。また、彼はこれまでどおり左大臣も務めます。摂政と左大臣を兼任する彼の権力は、兼家も道隆もとうに超えているのです。
こういうなかで、いよいよ、まひろとの約束、民が安心して暮らせる「民のための政」の始まるのです。これによって、多くの人を犠牲にし、自らの手を汚し、心を消耗させてきた長年の苦労がようやく報われるはずでした。
道長は、幼い帝の傍らで、公卿らが次々と奏上する案件につき、適切な処置を耳打ちして、政務をこなしていきます。形としては、助言するというものですが、その実態は、幼帝の権威を通して、道長の思いのままの政を行うというものにしか、他の公卿たちには映りません。前回、実資がその危惧を道長自身にぶつけましたが、まさにそれは形になりつつあります。ですから、御簾の外で幼帝の命を聞く、公卿らはその文言の内容に限らず、居心地の悪い、何とも妙な表情をします。
殊に「租税の減免を願い出ておる国には、使節を遣わすべきと存じます」と先例に従った対応を求めた実資への「遣わさずともよい、租税は減免せよ」という、民の暮らしを楽にするための施策については、即決即断、無駄な段取りを飛ばそうとするあたりは、まさに道長の考えが反映されていると言えるのではないでしょうか。
しかし、これまでの鬱憤を晴らすかのように、次々と改革を推し進めようとする道長の強引さは、普段、風見鶏で事なかれの右大臣顕光をして「あれもこれも変えては、皆の心がついていきませぬぞ」と苦言を道長に直接、言わせます。彼は、兼家が政を主導していた時代から、自らの既得権益を守ることに汲々としてきた典型的で旧態依然とした貴族の象徴のような人物です。道長の施策が、自身の利益に悪影響を及ぼしかねないことを危惧しているのです。
これに対し、道長は「悪しき先例は速やかに改めて当然である」とまったく動じません。「悪しき先例とは、決めつけが過ぎる!」とムキになって反発するのは、その先例を盾に利権を貪ってきた自覚があるからでしょう。わかりやすい顕光を「まあまあ」と宥める内大臣公季ですが、「公季どのはどう思われる?」と道長に問い返されると彼も戸惑います「私は顕光さまに同意ではありますが…」と、道長の顔色を窺いながら反論しつつもお茶を濁す始末。
道長は「お考えは、改めて陣定で詳しくお聞かせいただく」と明言すると、公卿らが詰めている部屋を後にします。それは、捨て台詞ではなく、彼なりの誠意です。道長は、かつて道隆の専横に反発しましたから、その在り方は反面教師にしています。人の意見を聞ける為政者であらねばならないということです。ですから、自らが摂政になった後も皆の意見を広く聞ける陣定を重視しようろします。それは、自らが専横に陥らぬよう、陣定を抑止力の装置とすることでもあったと思われます。
しかし、道長が去ったのち、「いつまで陣定にお出になるおつもりなのかのう」と愚痴る公季の言葉からは、道長の真意はまるで伝わっていないことがわかります。これまでも道長は、根回しなどもしながら陣定をある程度コントロールしてきました。皆の意見を取りまとめつつも、肝心なときは自分の意向を通せるよう図っています。それは、左大臣として老獪な公卿らの人心を掌握する術ですが、裏を返せばそれによって陣定を支配しているのだと言えます。
その上、摂政として陣定の埒外からも政を掌握する。二重に政を支配するそのさまは、権力の一極集中としか映りません。言うなれば、内閣総理大臣を務めながら、衆参両院の議長も務めているというのが、今の道長です。
理想の政に囚われる道長は、自身が権力の一極集中の弊害になっていることも、公卿らが道長に抱いている不平不満にも気づけなくなっています。こういうときこそ、持つべきものは友なのかもしれません。ある日、土御門殿へやってきた公任は「良い政を行うためにも、左大臣として、陣定で皆な意見を聞きたい、それがなければ政はできない。道長のなかでは筋が通った考え方なのであろう?」と確認するように道長に問います。
公任は、道長の公明正大さ、欲のない清廉さに真っ先に感服し、ライバルの座を降りた人です。ですから、道長の政への理想を正確に読み取っています。その上で、それは今も変わらないよな、とその理想を確認し、自分はお前の気持ちをわかっているよ、とまずは伝えているのでしょう。
道長は今更な質問に答えることはせず、妙な間が生まれます。もしかすると、道長の猜疑心が態度を慎重にさせているのかもしれません。病んでいる、疲れている可能性は十分です。妙な間に、わずかに逡巡したのち、公任は「だが、端から見れば欲張り過ぎだ」と言い切ると、意を決したように「内裏の平安を思うなら、左大臣を辞めろ」と諫言します。彼は、道長が私利私欲で権力に固執しているとは思っていません。だからこそ、「内裏の平安を思うなら」と彼の公明正大さへ、理想の高さへと訴えたのです。
公任をナメる形で映される道長の目は半眼です。公任の必死の訴えを虚しい心で受け止めているといったようにも見えます。静かに「摂政と左大臣、二つの権を合わせ持ち、帝をお支えすることが皆のためでもあると思ったが…」と語る道長の口ぶりは、かなり無理をしてきたことが窺えます。
わずかに言葉が途切れたのち、「…それは違うのか?」と確かめるように問います。「違うのだ…」と苦しげに断言する公任も、道長の精一杯の努力を察しているのでしょう。公任の言葉にそういうものかと無表情になっていく道長の心は、急速に政への情熱が冷めていくようであったでしょう。一体、自分は何をしてきたのかと…。
胸中を察する公任は、憐れむような眼差しを道長に向けると「道長のために言うておる。考えてみてくれ」と、これは強制でも脅迫でもなく、ただただ友人としての忠告だと告げます。公任は、この諫言をしたこと自体を見ても、今もなお道長の政治家としての清廉潔白、公明正大を信じているように思われます。だからこそ、道長が自ら意図しない形で、心ならずも変質を止めることができなくなっていることに心を痛めているのでしょう。理想に燃えた親友が、その理想ゆえに権勢の深みに嵌り込み、その無間地獄に苦しむのは見るに堪えないでしょう。
また摂政ではなく左大臣を止めろというのは、陣定は俺たちを信じて任せてくれとの意味合いもあったと思われます。少しでも道長の荷を軽くしてやりたい。お前は摂政として理想を追求しろというわけです。
行成は、道長の性質そのものが変わっていくように見え、それを憂いましたが、公任は変わらないからこそ苦しむのではないかと思っているのです。二人の道長に対する見え方の違いが興味深いところですが、どちらも若き日の道長をよく知っているからこそ心配しているのです。そして、公任は、若き日の仲間たちでリーダー格でしたから、これを言えるのは俺しかいない、そんな静かな決意があったと思われます。道長の前を退去する公任は、実に礼儀正しい振る舞いで辞去しますが、それは道長の政治家としてのこれまでの苦労に対する彼なりの敬意でもあったと思われます。
公任の忠告が、道長を思ってのものであること、その誠意は道長もよくわかります。だからこそ、その言葉は胸に刺さり、そして、「民のための政」のためにあらゆる手を尽くした自らの政の人生を振り返らざるを得ません。カメラは一人佇む道長を徐々にクローズアップし、彼のモノローグと共にその思索に焦点を当てていきます。道長が思うのは「何度も前の帝に譲位を促したが、今度は俺が辞めろと言われる番なのか」という権力者の宿命です。
権力闘争には終わりはありません。上を目指し続けるときは、望むと望まざるにかかわらずライバルとの戦いがあります。そして、全てのライバルを蹴落とし、頂点に立ったとき、闘争が終わるのかと言えばそうではありません。自らのいる頂点の座を目指して、新たなるライバルたちが群がってくる…永遠に戦いは続くのです。
道長は頂点に立てば、自らの思う政に集中できるようになれるとどこかで信じていたはずです。しかし、実際はそうではなかった。その座を守るために汲々として、変質していくのか。あるいは、その座からどう降りるのか。権力の頂に立った者は皮肉にも、その瞬間から終わり方を意識せざるを得ません。円融帝も花山帝も兼家も道隆も一条帝も三条帝も…皆、終わり方を考える羽目になっていきましたね。
道長の思いの深まりと共に外は暗くなっていきますが、彼の表情も虚ろになっていきます。逃れようもない宿命を、権力者になって初めて知ってしまった。専横を極めんとする権力者と皆に思われ始めた自分に残されている時間もやれることなど少ないことを突きつけられました。さらに公任の言葉は、自分が周りを信じなくなっていることを改めて知らされるもの。いよいよ「民のための政」をと臨んだ彼にとって、これらの事実自体が、残酷な最後通牒だったでしょう。
それでは、何をしたらよいのか…今までまひろとの約束を叶えることだけが人生だった彼に他の生き方は容易に思いつきません…やがれ辺りは夜になりますが、道長は微動だにしないまま、一人深く虚しい思索の底へと降りていきます。奏でられるピアノのBGMは、道長の理想の葬送曲のようにすら感じられますね。
(2)志は次代へ
年末、まひろの局に「暮れの挨拶に参った」と道長がふらりと現れます。いつものごとく座り込む道長ですが、珍しく周りに人がいないかを確かめます。内密な話と察したまひろも緊張の面持ちになります。鈍い道長ですから、二人の密会を見られたくないというような振る舞いではないでしょう(赤染衛門に釘を刺されているまひろは気にするかもですが)。
周囲に人がいないのを確かめると、道長は不意に「摂政と左大臣を辞そうと思う」と切り出します。まだ自分のなかの決意でしかない己の進退ゆえに人目を憚ったのです。最高権力者の進退は噂だけも、思わぬ影響を与えますし、家族も心配させます。時期を見て、つつがなく速やかに行い、政への影響を最低限に抑えるのが肝要です。
ただ、その前にまひろにだけは、その決意を話しておかねばなりません。そもそも、道長が摂政と左大臣の座に就いたのは、まひろとの「民のための政」という約束のためです。二人の志、夢の問題ですから、道長は誠意をもって話すのです。
道長の決意に「摂政におなりになってまだ1年にもなりません」とまひろが驚くのは無理ありません。長い長い苦労を重ねてようやく手にした絶対権力者の座です。しかも、道長がそのために多くの手を汚すなか片時も忘れなかったのが、まひろとの約束であることは道長から告げられています(第42回)。摂政と左大臣の兼任は、その約束が意味する志の通過点に過ぎず、事は始まったばかり…道長のお務めの辞任は、志半ばに放り出す、あるいは諦めたかののようにまひろには感じられたかもしれません。
それに対する「摂政まで上っても俺がやっておっては、世の中は何も変わらぬ…」と悟りきったように道長は返します。聡いまひろは、それだけで道長の置かれた状況と心境を察したようで「ははぁ~」と息をつきます。道長は政のあり方、世を変えようと陣定を重視し、専横せぬよう足枷としました。
しかし、現状を変えるには、自身が反発する現状に乗るしかないのが世の常。結局、彼は娘を犠牲にし、周りを踏みにじり権勢を目指すしかありませんでした。そのなかで、人を信じてきた道長は、いつの間にか猜疑心の塊にもなっていきます。
結果、道長は、権力闘争の理念のなかでしか、物を考えられなくなっています。そんな彼は、「民のための政」を行うには相応しくないのです。あまりにも手を汚しすぎ、また心ならずも理想はともかく、遣り方が従来の強権的なものにしかなりません。それゆえに、その性急な改革は公卿らの猛烈な反発にあっているのです。
因みに公任の忠告は「左大臣をやめろ」だけでした。彼が理想の政のために摂政に専念しろというものです。彼は、道長の理想そのものは知りませんが、それを否定していません。それでも、道長が、摂政と左大臣の双方を辞すると決断したのは、権力闘争に染まった自分には「民のための政」を直接、担う資質がないと見たからでしょう。
道長をとおして政の過酷さを感じているまひろは、こうした道長の懊悩を全てではないでしょうが、それなりに察知したと思われます。道長の辞意を返させよう、諫めようとすることはせず、「頼通さまに摂政を譲られるのでございますか」と、この先のことを確認します。当然のごとく「ああ」と答える道長に「頼通さまにあなたの思いは伝わっておりますの?」と思い詰めたような表情で、まひろは問い詰めます。「私との約束は?」というところでしょう。
まひろの真剣な表情に「俺の思い?」と返してしまうあたりに、公任からの忠告が相当に堪え、悩み、自身の理想が摩耗していったことが窺えます。パッと思いつけなくなる虚しくなっているのでしょう。「民を思いやるお心にございます」というまひろの間髪入れない言葉に、思い出したように苦笑いした道長は、「ふぅ…どうだろ?」と首を捻ると、遠い目をしてしまいます。
実際を言えば、道長は敦成を帝に据えるとの決意を固めたとき、頼通をわざわざ呼び寄せ、その存念を語り、その目的について「家の繁栄のため…ではないぞ。なすべきは、揺るぎない力をもって、民のために良き政を行うことだ」(第38回)と語り、「お前もこれからはそのことを胸に刻んで動け」と念を押しています。しかし、人を信用できなくなっている道長は、それがどれほど頼通に伝わっているかはわからないと思うのでしょう。無論、頼通がボンボンでまだまだ頼りないということも大きく作用しています。
思わず、道長を責めるような口調になってしまったまひろは「ふぅー」と大きくため息をつくと「たった一つの物語さえ、書き手の思うことは伝わりにくいのですから…」と不満はあれども、政の心労耐え難い道長の心中を察しようと言葉を選びますが、それでも「仕方ございませんけれど…」と、やりきれなさを滲ませてしまいます。自分が携わることができないゆえに晴れない政への鬱屈…まひろの抱える思いに筋道をつけるには、道長にすがるしかない。忸怩たる思いがすると思われます。
すると、道長は「俺の思いを伝えたところで何の意味があろう」と、所詮は志など虚しいものと諦めたことを口にします。人に伝えてもわかるものではない…長年の政で誰も自分の思いを理解しない…と道長は思い込んでしまっています。
思わぬ道長の諦めに訝るまひろへ「お前の「物語」も人の一生は虚しいという物語ではなかったか。俺はそう思って読んだが?」と真摯に見つめて、道長はまひろの意を探ります。そなたの「物語」が、俺に「虚しさ」を教え、辞意の決断を後押しした、思いは同じではないかと問うのです。「物語」には、まひろの虚しい思いや達観が投影されていますし、彼女自身、賢子に出家を口にしたこともあります。
ただ、一方でまひろは人生が無駄だったとも思ってはいません。例えば、「物語」は形として残りました。また道長と結び直された絆によって、新たな物語「宇治十帖」を書けたことも、彼女を人生の後半生を襲う無力感から救ったと思われます。虚しい…とは絶望だけを意味しません。
目を瞑り、気持ちを整えるとまひろは、「されど…道長さまがこの物語を私にお書かせになったことで、皇太后さまはご自分を見つけられたのだと存じます」と話し始めます。「物語」は私だけの成果ではなく、道長の成果物でもあるとし、私と貴方の競作が彰子を目覚めさせたと解きます。
道長の虚しさの原因の一端が、先日、彰子から受けた糾弾であることは、あの場にいたまひろは察しがつくでしょう。彰子は、娘の心を軽んじた道長の所業を批判しましたが、道長の行為はそればかりではありません。
道長が、まひろへ物語執筆を依頼したのは、事態打開の野心だけではありませんでした。一条帝を前向きにしたい、不憫な彰子を救いたいという思いがありました。「物語」のための情報収集として道長から彼の知る一条帝の話を聞いたまひろは、道長の真摯な願いをよく知っています。その願いもまた、「物語」を形作る言の葉になっているのでしょう。だから「物語」は一条帝の蒙を払い、そんな一条帝を思う彰子の心を成長へと誘いました。
まひろは、その後、指南役として彰子をさらなる成長へと導きますが、彰子の学びを単なる勉強で終わらせなかったのは、皮肉にも道長です。道長は「民のための政」という志を叶えるため、自身の理想とは真逆の強権を目指すことになります。その言動が、彰子に立ちはだかったとき、彰子はそれに負けまいとして、この世の理不尽に気づき、弱きを救う政…一条帝と道長が願った徳治を考えるようになりました。
つまり、道長の行為は、プラスの面では、まひろが書く「物語」が直接的に彰子の心を救うものになり、マイナスの面は回り回って、彰子の心に弱き者らを眼差しを向ける徳治に目覚めさせました。まひろと道長が願う為政者が持つべき「民を思いやるお心」は、紆余曲折を経て、皇太后彰子へと引き継がれていると言えるでしょう。道長の後継者は、頼通だけではないのですね。
ですから、改めて居住まいを正したまひろが「道長さまのお気持ちがすぐに頼通様に伝わらなくても、いずれ気づかれるやもしれません」と道長を諭すのは、頼通の若さに期待するだけでなく、彰子が頼通に関わるなかで、彼も目覚めていくことも含んでいるのではないでしょうか。まひろの進言もあり、彰子は既に頼通ら弟を味方にして横のつながりを持っています。それが、生きてくることもあるということでしょうか。
道長が真剣に話を聞き、まひろを見つめるなか、カメラが焦点を絞っていくまひろの話は「そして次の代、その次の代と。一人で成せなかったことも時を経れば成せるやもしれません」と、さらに熱を帯びていきます。「民のための政」、その大きすぎる志は、そもそも道長一人が背負うには荷が勝ちすぎました。世を変えるなど、為政者一人が成せる代物ではありません。それを背負わせたまひろの無邪気は罪深いでしょう。
しかし、まひろは、道長の苦しみに心を痛め、自らの罪を意識するなかで気づいたのかもしれませんね。それを成すには、多くの人が志を共有しなければならないということに。一つは、彰子や頼通のような横のつながりです。そして、もう一つは挫けることなく、その志を次代へと紡ぎ続けることです。きっと未来の若者たちはよりよいことを思いつくかもしれません。横と縦の人のつながりが、いつか自分たちの願いを叶えてくれる…まひろはそう言いたいのではないでしょうか。
因みにまひろが、こうした考えに思い至った一端には、為時の出家があったのではないかと察せられます。その年、御年69歳の為時は、飯を掻き込むと零すような粗相をしてしまい「すっかり老いぼれてしまったな」と笑いました。しかし、その笑いには後ろ暗い自嘲の影はありません。「賢子も立派に育ったし、まひろも内裏で重んじられておる。いとには福丸もおる」と話す言葉には、自分が守るべき女性たちが生きていく算段がつき自分の役割が終わったという実感が伴っています。
ですから、「そろそろわしは出家いたそうと思う」との言葉は、突然の思いつきではなく、そろそろよかろうという達観によるものでしょう。驚く、女性陣を前に「余生はちやはと惟規の菩提を弔いながら過ごしたい」と、前々から思っていた決意を語ります。直後に、いつも為時宅で毎朝、拝まれているちやはの仏像が映されます。
この言葉から、為時が嫡妻のちやはのことを片時も忘れてはいなかったことが窺えます。生活のため、その死を隠蔽したのも、まひろや惟規を育てることを優先した苦渋の選択だったはずです(それを理解する宣孝は、よい判断だったと述べています)。いつかきちんと弔う…そう胸のなかで秘めていたのでしょう。それが、ようやく叶うというわけです。まひろが泣きそうになったのは、為時が出家するということよりも、父が母をずっと思っていたことを今更に痛感したことによるものでしょう。
さて、為時は、己の「家」での役割を終え、出家する前に賢子へ「賢子はずっと爺の傍にいてもよいが、母上のように内裏に上がることは考えぬのか?」と、出仕することを柔らかく促します。かつて、裳着のとき、賢子は「宮仕えはいたしません。母上と同じ道を行きたくはございません」(第39回)で言い放っています。母への反抗心の強さが言わせたものとはいえ、それはなかなか強烈なものでした。当然、まひろは賢子に出仕を勧めたことはないでしょう。ですから、まひろは、為時の提案に目を丸くします。
しかし、為時は、まひろが賢子との関係に悩んでいたときから「あの子にもそのうちお前の立場はわかろう」(第37回)と励ましていました。また「お前がいない間、あの子の友は書物であった。お前によく似ておる」(第37回)「頑固なところは、まひろによく似ておる」(第39回)と、まひろの気質によく似ていること、そして実は母を慕っていることを見抜いていました。
ですから、まひろとの関係が改善された今だからこそ「よい女房になりそうだがのう」と言います。おそらく双寿丸との失恋も、頭にあっての提案でしょう。果たして、賢子は、為時の提案を拒絶しませんでした。それどころか、働く母まひろの顔を見て、思案げになります。
まひろが「家」を支える軸となり、今度は賢子の番だよと優しく背中を押した為時。為時の言動は「家」とは、その思いを次代へとつなげていくことで、つながっていくことが象徴されていますね。「家」の犠牲になるでもなく、家族としての絆というところです。まひろは、その夜、為時を労う際に「越前での父上のご誠実なお仕事ぶり感じ入りました」と一礼をしましたが、まひろは父から学んだのは学問だけでないということです。父の生き方を学び、そのことが回り回って「物語」のなかに生きています。
おそらく、賢子は賢子で、まひろから学んでいることがあるはずです。そして、彼女もまたいずれ「物語」から、あるいは出仕によって、母の生き方、魂を受け継いでいくことになるのでしょう。まひろは、為時が賢子を促し、そして出家していく、その流れのなかで、「次代へと受け継いでいく」ことの重要性を感じたのではないでしょうか。それが、道長への助言へと生きているように思われます。
さて、まひろが語る、志が縦へ横へとつながり、時代を超えていくなかでいつか、自分たちの目指した「民のための政」という志が叶うかもしれないという言葉…道長は、そうか、そんな考え方もあるか言わんばかりに泣きそうな表情になっています。もし、そうであるならば、今、ここで志を叶えられず、左大臣も摂政も辞めざるを得ない自分の人生も決して無意味ではない、そう救われるからです。「私はそれを念じております」と語るまひろをじっと見ると「そうか…」とだけ呟き、まひろをじっと見つめます。そう信じたい…ただ、あまりにも政に傷つき、絶望し、猜疑心を高めてしまった道長は、まひろの考えに容易に乗れない自分を感じてもいます。こればかりは、長年の倣いでどうしようもありません。
それゆえ、道長は態度を改めると「ならばお前だけは 念じていてくれ」と寂しそうに懇願します。やや捻じれていますが、道長はまひろだけは信じています。その彼女がいつか志が叶うと念じているのであれば、自分もまひろの念じていることを信じられるということです。こうして、道長はネガティブな考えからわずかに救われた形で、左大臣と摂政を辞する決意を新たにします。
と、ここで倫子が現れたのは予想外です。二人が局で話し込んでいるのを確かめた倫子は、一寸止まりますが、何事もないように「お二人で何を話されていますの?」と聞いてきます。道長は、あっさり「政の話だ」と答えますが、当たらずとも遠からじですから、道長の答えには余裕があります。実際は、お悩み相談のが近かったのですが。
しかし、倫子は、道長の悪びれない態度に誤魔化されません。それどころか「政の話を藤式部にはなさるのね」と真顔で詰ります。彰子の入内も相談ではなく宣告でしたし、政に関しては口を挟ませたことがない…その事実から的確に道長の言い訳の弱いところを突いてきます。これには、まひろのほうが狼狽えますが、視聴者もまひろ同様、ヒリヒリとしていますよね(笑)
ただし、倫子は、こういうとき、相手の女性を責める愚を決して犯しません。平安期であること、上司と部下という関係性からすれば、この問題は男性の側にあるのは明らかです。そして、倫子のことです。まひろから道長よりも、道長のほうがまひろに入れあげていることはお見通しでしょうね。だから、道長だけをチクチクと刺すのです…って書いていて怖くなってきました(苦笑)
長年、夫婦をやってきた道長は「皇太后さまのお考えを知っておかねばすんなりと政はできぬ」としらを切り通します。倫子はじっと見てから、にっこり笑います。道長は上手くやったつもりですが、まひろを完璧に守ろうとするその姿勢から、かえってまひろが道長の想い人であることを確信させたのではないでしょうか。
「そうでございますわよね。藤式部が男であれば、貴方の片腕になりましたでしょうに。残念でしたわ」と、嫌味たっぷりに応じます。もっとも、倫子の言葉は、ソウルメイト的になっていった二人の関係を半ば言い当てていますが。道長は一瞬、憮然としたものの、フッと笑い「そうだな」と腹芸を通して、その場をさも気がないようにして去ります。
さて、倫子がここに来た用件は、まひろに道長の伝記を書いて欲しいとのことでした。倫子の弁を借りると「清少納言が「枕草子」を残したように我が殿の華やかなご生涯を書物にして残したいのよ」とのことです。前回、道長に告白したように、道長が倫子にもたらした幸せは、我が「家」の繁栄でした。左大臣、摂政と上り詰めた今、そのことを残し、後世に伝えておくことが、嫡妻としての自分の満足であり、世のためと考えたと思われます。
まひろが呆気に取られたとのは、今、その栄光を捨てようとする道長の苦悩を知っているからです。まひろの感じる美は清少納言のものとは違います。必ず、その陰を書いてしまう。自分にできるかしらとの戸惑いがると思われます。
「今すぐに答えなくてよろしくてよ、考えてみて」と、かつての親友の顔をして去っていく倫子ですが、先にも述べた理由でまひろは書けません。この役目は赤染衛門へと移り、それは「栄花物語」になるのでしょう。
それにしても、道長の生涯を書けということは、道長のことをよく知らなければ書けません。まひろならば、道長のことをよく知っていると見込んで、この依頼をしたのだとすれば、倫子はやはり恐るべしですね(笑)
3.道長一族の権勢が盤石となるなかで
(1)道長が頼通へ摂政を委譲した波紋
道長は、公任の諫言に従い、まず左大臣を辞します。空席となった左大臣の座には顕光が、右大臣には公季が就くという慣例どおりのスライド人事が行われます。しばらくして道長は摂政の座を退き、1017年3月、道長を継いで頼通が後一条天皇の摂政となります。なお、頼通は内大臣も兼務します。
つまり、道長は「陣定にて広く意見を聞ける摂政」という自身の施政スタイルそのものは堅持したまま、権勢を嫡男に引き継いだという形になります。ただし慣例では大臣は自ら退くか、死ぬ以外は空席とはなりませんから、経験不足の頼通は、目の上にたんこぶがある状態で摂政を務めます。無論、道長が頼通を後見し、影響力を残しますが、官職もない彼の力は間接的で限定版なものになっていきます。
かくして公卿らが懸念した権力の一極集中による専横化は、その可能性を著しく減じたと言えるでしょう。老獪な公卿らと渡り合っての政務は、頼通にとっては大変な舵取りにはなるでしょうが、それは活発な議論がなされる政というあるべき姿へ戻ったとも言えます。
道長が権力の座を去ったことは、道長とまひろにとっては、「民のための政」の志を次代へと引き継がれることを願ってのことです。ただ、政治的決断は常に裏腹、反動を伴います。摂政が道長から頼通へと継承されたことは、道長の目の黒いうちに権勢を土御門殿の家系、血統のものとしたということでもあります。となれば、頼通の政は、その権勢を磐石化することへ向かわざるを得なくなります。
その様は頼通が摂政となった祝いの宴のなかで示されていきます。嫡妻隆姫と笑顔を交わし合う頼通は、高倉殿に集う母倫子、弟教通、そして妹の威子と嬉子を前に「私はまだ何事も不馴れゆえ、皆力を貸してくれ」としおらしく告げ、一族の結束を口にします。「そのようなお心では父上に言いようにされてしまいますよ」と、冗談とも本気とも取れる軽口を教通を「お控えなさい。父上あっての貴方がたですよ」と窘めるのも、宴の賑わいのうちでしょう。
一族の協力を願う頼通と倫子の言葉に、19歳と年頃の威子が「私も兄上のお役に立ちたいと思っております」と殊勝な物言いをします。この威子の申し出を快く受けた頼通は「では早速だが威子、入内してくれぬか」と、さもそれが当然であるかのように返します。「え?!」と驚愕したのは、威子のほうです。「帝は10歳、私は19歳でございますが…」と抗議します。年上女房の例は、一条帝と定子がありますが、彼らにしてもその差は4つ。この件とは比べるべくもありません。
おそらくは、よき殿御と婚姻し、それによって結ばれた縁をもって兄の政を支えようというのが、威子の腹づもりだったのでしょう。妙齢の彼女にとって、幼い子どもへ嫁ぐなど想定外だったに違いありません。土御門殿に生まれた以上、政略結婚になることぐらいは威子も覚悟していたでしょうが、これでは気持ちがあまりにも蔑ろにされていると彼女も感じたでしょう、
これに「数年もすれば帝も大人になられるわ」と諭し、頼通に賛成する倫子は、娘の気持ちを庇いません。彰子の入内を道長から持ちかけられたときは「あの娘には優しい婿をもらい、穏やかにこの屋敷で暮らしてもらいたいと思っております」(第26回)と言っていた倫子もすっかり変わってしまいましたね。自身が愛されていないと悟り、代わりに得た我が家の繁栄という別の幸せ。今や彼女にとって、道長が与えてくれたこの幸せを紡ぐことだけが生き甲斐なのでしょう。
威子は妙齢の娘らしく「母上、私はその頃 30近くになってしまいます!」と強く抗弁します。数年とはは3~6年ですから、19歳の威子にとって数年後は最大25歳…やや過剰な反応ですが、若い彼女にとって異性として意識できない子どもと過ごす数年は永遠にも等しい地獄というところでしょう。因みに年齢だけで話すと倫子が道長と結ばれたのが24歳。無意識に少し母をけなしてますね(苦笑)
これを見かねた妹の嬉子が「兄上、私が参ります。私は11、帝の1つ上ですので」と申し出ます。姉の心情を慮り、我が身の役割を悟る嬉子は幼くして大人びているところがあるようにも見えます。まひろの書いた「御産記」の教育効果による面もありそうです。この申し出に「嬉子には嬉子の役目がある。そなたは今ではない」と頼通は言います。入内させられる姫には限りがあります。何があるかわかりませんから手駒は手元に残しておきたいというのが頼通の本音でしょう。
庇った嬉子の行為が否定され、追い込まれた威子は、困り果て「いやでございます」と情に訴えるしかありません。倫子は「威子、帝が一人前になられるのを待って、最初のおなごとなり帝のお心をしかとつかむのです」と幸せになるには、それしかないと説得すると「それが威子の使命です」と宿命だから諦めるよう宣告します。
とはいえ、婚姻は理屈ではありません。我が「家」の繁栄のためという言葉は、うら若い威子の気持ちを納得させるものにも慰めにもなりません。泣きそうになりながら、再び「いやでございます」と訴える彼女は、結局、翌春に入内します。
この宴の一幕は、娘の心を無視し、その存在を犠牲にして作られた道長の権勢のあり方を、頼通は全く疑うことなくそれを受け継ぎ、権勢を維持するためにこれからも女性たちが過酷な運命を強いられることを仄かしています。彰子が語った入内する女性の哀しみ、その負の遺産は続くのですね。因みに後一条帝は威子以外の妻を持たないことになりますが、本作品では威子の哀しい運命を慮る彰子の意思が働くことになるのでしょうか?
さて、土御門殿の権勢が確定したその裏で、三条院は危篤に陥ります。「闇だ…」と呻く院に敦明が「ここにおります、私も母上も」と慰めます。その声が聞こえたか、聞こえないのか、「闇でないときは…あったかのう」と、光の当たることのなかった自分の人生を思い返します。
兼家と円融帝の力比べの末の談合によって、次期東宮の座を年下の懐仁親王(一条院)に奪われ、その後、慣例で東宮になったものの、一条帝の御代は四半世紀…つまり東宮になって25年間、誰からも見向きもされないまま過ごした。それが彼の人生の2/3です。やっと帝になったものの、道長が譲位を迫ることを恐れ、現実に眼病も患い、その御代にも光は差しませんでした。
ただ、今際の際に三条院が思うのは、暗い人生への後悔ではありません。娍子の手を取ると「闇を共に歩んでくれて嬉しかったぞ」と、暗い人生のなかで唯一の救いと慰めが愛妻との日々であったその感謝です。勿論、彼女に報いてやれなかった詫びも含まれているでしょう。ですから、娍子もまた「お上は、いつまでも私のお上でございます」と、変わらぬ想いを伝えます。二人にとって互いが暗い人生をわずかに照らす「光る君」だったのかもしれませんね。
こうして、三条院は愛する娍子と東宮、敦明親王に見守られながら42歳で人生を閉じます。その後、後ろ楯を失い、既にその狼藉で内裏での評判を落としていた敦明親王は自ら東宮の座を降ります。その見返りに、小一条院の院号と年官年爵を与えられた彼は上皇に准ずる待遇を受ける唯一の例となります。これは「源氏物語」で光源氏が、「太上天皇になずらふ御位」に就いた件とよく似ており、紫式部の政を見る目の確かさを窺わせます。
敦明親王に代わって、東宮に就いたのは、彰子の第二子、後一条帝の弟、敦良親王でせ。これによって、皇位の系譜は、道長の血統で固められ、道長が摂政、左大臣を退いたにも関わらず、その権勢はかつてないほどに磐石となります。いよいよ、我が世の春が訪れたと世間には見えますが、ここまでの流れからすれば、道長の胸中はそれほどに華やいだものではないでしょう。
(2)そして、望月の歌へ
1018年10月、彰子が太皇太后、妍子が皇太后、威子は中宮となり、三つの后を道長の娘が独占することになります。先の敦良親王が東宮となったことを含め、皇位が彼の血筋によって占められたことは、彼の権勢が最早、誰の及ぶものでもなくなったことを象徴しています。その夜、中宮となった威子のために土御門邸で宴が催されます。
宴の前、道長は三后となった娘たちに「今日の佳き日を迎えられましたこと、これに勝る喜びはありません。心より御礼を申し上げます」と慇懃に丁重に挨拶します。摂政を頼通に譲った後、道長は太政大臣に任じられましたが、これもすぐに辞し、太閤と呼ばれる身。人臣としての栄華を極めた後、今は形式的には一線を退いています。ですから、この挨拶、言葉とは裏腹に、藤原道長という一個人の、苦しめた娘たちへの謝罪のニュアンスがあるのではないでしょうか。善くも悪くも、極みに辿りつき、志を次代へ引き継がせた…その到達は自分の力でなしたものではない。道長には、その自覚があるでしょう。
もっとも道長の感慨も娘たちには形ばかりの挨拶に「父上と兄上以外 めでたいと思っているものはおりませぬ」と、早速、妍子は辛辣です。我が「家」の繁栄など、所詮は政に関わる男たちだけの栄華に過ぎないというわけです。妍子は、ただ藤壺という名の牢獄で無為に時を過ごすだけ。何も報われることはなく、鬱屈だけを抱えるのみです。そして、宴の主役、威子にいたっては、固い表情のまま道長をガン無視しています。現在進行形で犠牲を強いられる彼女が、寂しく日々を過ごしていることが偲ばれます。
道長は、妍子の揶揄に応えることはせず、淡々と「これで頼通がのびのびと政ができましょう。お后さま方のおかげにございます。心より感謝申し上げます」と挨拶を続けます。道長の言葉に嘘はありません。三后の存在は、未熟な頼通にとって強力な後ろ楯となるのは間違いありません。実際、無難に進められた頼通への権力委譲も、国母である彰子の存在は欠かせなかったでしょう。
この上、自分の揶揄を無視する悪びれなさ、頼通の政にまで自分たちを利用するかのような厚顔無恥さに、妍子は憮然とします。相変わらず、威子は道長を無視して黙りこくっています。かつて、「兄上の役に立ちたい」と言った健気さは消えています。頑なに沈黙を続けることで、望まぬ入内への抵抗を見せているのかもしれません。
ただ一人、彰子だけが「頼通がよりよき政を行えるよう願っておる」と、道長に応じます。妹らの頑なさを取り繕うためではなく、素直に一条院が思っていた民を思う政を願ってのことでしょう。敦成の東宮位、三条院の譲位など、とかく道長の野心を憂うことが多く、父の意向に反発し続けた彰子から見て、父の摂政と左大臣の辞任には、何か思うところがあったかもしれません。あるいは、前回、まひろが語った道長の立場を慮る言葉に納得する点があった可能性もありますね。
この上は、頼通がより息子である後一条帝を支え、良き政を目指す限りは、協力しようという意思の表れでもあるでしょう。それは、彰子と弟たちとの約束でもあります。
さて、「源氏物語』で光源氏と頭中将が「青海波」を舞ったシーンを彷彿させる頼通、教通の舞いから始まった宴、道長がここに至るまで協力的だった四納言たちは、こころゆくまで宴を楽しんでいる様子です。対して、道長一門の権勢が磐石となり、つけ入る隙がなくなった顕光は、左大臣まで上り詰めたとは思えないほど面白くなさそうです。因みにまひろは、何故か中途から参加したようです。
やがて、宴も酣(たけなわ)になった頃、ふとまひろが、一人酒を飲む道長へ向けると、道長は自身の盃を見つめています。盃…それは「栄える月」とかけて詠んだのは、まひろだったな…そんな思いがあったやもしれませんね。彰子出産の折、まひろが独り言のように詠んだ「めずらしき 光さしそう盃は もちながらこそ 千代にめぐらめ」を道長は「覚えておこう」と言ったものです。
ただ、道長の憂いの入り交じる表情からすると、彼の胸に去来したのは、まひろと月を見たときのささやかな喜びだけではないでように思われます。例えば、その盃に満たされた酒には、己の顔が映ったかもしれません。老い、苦悩、憔悴も刻まれた嬉しいとも哀しいとも言えないその顔が、道長の人生です。あるいは、酒の水面に月を思い浮かべたかもしれません。己の志など、水面の月を掬うような実のないものだったと感じることもありそうです。
とにもかくにも、志を次代へ渡し一区切りついたことへの悲喜こもごもの感慨を思う道長は、実資を呼び寄せると、「摂政に杯を勧めてくれぬか」と頼み、盃を渡します。自らの到達点を象徴する「盃=栄える月」を、息子たちと分かとうというわけです。「太閤さまからでこざいます」と実資から渡された道長の盃を頼通は受け取り、道長へ一礼し一口飲みます。その盃は、教通、左大臣顕光、右大臣公季…と公卿らへも一口ずつ回されていきます。道綱は嬉しげに、斉信はニヤリと笑い、公任は敬意を表するように、俊賢は神妙に、行成は労るように…
栄える月(盃)は、その場の人々のさまざまな思いと共に飲み干され、分かち合われていきます。それは、人と人とのつながりが環になっていくようにすら思われます…それを眺める道長は何を思うのでしょうか…この夜、ここに集う人たちのつながりが円をなす…それは道長が求めた誰もが分け隔てなく、幸せであることを象徴したものに見えたかもしれません。無論、それは道長の感慨が見せた幻なのでしょうが…
ふらふらと濡れ縁へと向かう道長。倫子もまひろも訝るなか、薄雲がかかる月を見上げ、「実資どの…今宵は真によい夜だ」と語りかけます。盃に、まひろがかつて和歌で掛けた栄える月を見、それを皆で分かち合い円環とした…薄曇りのなかにあっても今宵の月は、道長にとって望月であったのでしょう。「歌を詠みたくなった。そなたに返しの歌をもらいたい」と実資に頼みます。
官職から退いたとはいえ、実質、時の為政者の道長に対して、良すぎる返歌も不味い返歌も迂闊ですから、実資は「私のような者にはとてもとても」と、やや苦笑いをしますが、皆へ「これより太閤さまが歌を詠まれます」と声がけをします。今宵は気分のよい倫子はその余興に笑い、まひろは対照的に落ち着かない表情で、道長が詠むのを待ちます。
すると、道長の意を汲んだように、月にかかった雲が晴れていきます…為政者の天運がなせる業かもしれません。やがて、道長はゆっくりと…
このよをば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば
と詠みあげます。まひろがはっとした表情となったのは、道長の詠んだ望月の歌が、かつて彰子の出産のために詠んだ「めずらしき 光さしそう盃は もちながらこそ 千代にめぐらめ」へのオマージュであると気づいたからでしょう。二人だけしか知らないあの一首。これに込めたものを、まひろは「中宮さまという月の光に皇子さまという新しい光が加わった盃は今宵の望月の素晴らしさそのままに、千代も巡り続けるでありましょう」(第36回)と、彰子と皇子の未来への思いを語っています。
ですから、本歌取りのごとき、この歌の望月は娘たち三人であることに、まひろは気づいたはずです。犠牲にしてしまった娘たちの幸を願う親心、そして、皆の思いが一つの円環、月のようになった「この夜」が「この世」であってほしい…「民を思う政」を目指し、たどり着けぬまま、次代へと託した切なる願いが、その一首には込められている…まひろだけが理解出来るこの見立てが、「光る君へ」における望月の歌の解釈でしょう。
そして、まひろだけにそれが正確に伝わる…ということは、この和歌はまひろへの返歌だということも意味しているでしょう。それは、あの夜の和歌に対してでもあり、まひろとの約束の果てに、こんな遠くに来てしまったと万感の想いを告げるものであったのではないでしょうか。
道長の真意を知ってか知らずか「そのような優美なお歌に返す歌はございませぬ」と述べる実資、危うい歌を詠むことを上手く避ける狙いもあるのでしょう。「元稹 (げんしん) が菊の詩を詠んだとき白楽天は深く感じ入って返歌できず、代わりに元稹の詩に唱和したと申します。今宵も皆で唱和いたしましょう」と誉めそやします。
かつて、道長は、まひろへの恋心を、白楽天が元稹を偲んで詠んだ漢詩に込めたことがありました(第6回)。ですから、道長も元稹の逸話はよく知るところ、元稹と並べられれば、世辞でも悪い気はしないでしょう。
一同は揃うと、朗々と望月の歌を唱和し、振り返った道長はその様子を眺めます。唱和する人々の表情はさまざま…それぞれに思惑があることが見てとれます。それでも今、この一時だけは皆が一つでいる…この瞬間に浸ることだけは、許されるような気がしたのではないでしょうか。
30年かけ、まひろとの約束「民のための政」を叶えるために滅私して突き進んだ道長への労いとして。その苦悩と苦難を思えば、あまりにもささやかですが、道長はこれでよいのかもしれないと、また一人月を見上げます。
薄い微笑を浮かべるまひろの目には、そんな道長の姿が、「あの夜」の満月のなかにあります。「あの夜」…それはまひろと道長が心身共に響き合い、結ばれた夜、そして「民のための政」…約束という名の呪いをかけて別れることにもなった夜です。「あの夜」の月は、二人の純粋な想いを祝福するようにキラキラと銀の雫を舞わせました。それが、今また彼に降り注ぎ、月の光に包まれます。
それは、今なお道長が変わらぬ想いを抱き、まひろとの約束を、思ったような形ではないけれど、一区切り着く形で叶えたということでしょう。摂政に就いたときではなく、それを捨て、志も次代へ託したときが、約束を果たしたとき…というのが、二人の約束の気高さと言えるかもしれません。
約束を叶えた想い人が、まひろへ眼差しを送っています。これで良かっただろうか、ここまでで許してくれるか…そんな万感にも見えますし、あるいはあの歌を上手く使って返歌しただろ?という得意にも見えるあたりがかわいい道長です。約束を果たそうとした道長にまひろの心は嬉しさが溢れます。
しかし、それは約束の終わり…つまり道長を見続けると言ったまひろの役割が終わったということです。勿論、道長が生き続ける限り死なないという、新たに結ばれた川辺の誓いはあります。ただ、若き日から自分たちの約束が一区切りつくことは、嬉しい反面、寂しさもあるでしょう。まひろの目に涙が溢れるのは、そのためです。そう…まひろもまた「あの夜」と同じく、今も「嬉しくて哀しい」のですね。
おわりに
「光る君へ」というタイトルが公表されたとき、皆さんは何を思ったでしょうか。光源氏そのもの、あるいはモデルの一人とされる藤原道長のことだったでしょうか。回が進むにつれ、「光る君」とは、それぞれの登場人物にそれぞれあるものだということが見えてきました。倫子にとっては道長、清少納言にとっては定子、彰子にとっては一条帝、敦康親王には彰子、寧子には兼家などなどです。ただ、「光る君」という言葉のイメージは、太陽のように「光り輝く」というものが強かったように感じられます。
しかし、まひろにとっての「光る君」とは、そのようなものではなかったようです。若き日の夜の月下の光に照らされる老いた道長こそが、まひろにとっての「光る君」だったようです。「人には光もあれば影もあり(中略)複雑であればあるほど魅力がある」…これがまひろの人間観ですが、同時にこれはまひろの美意識そのものです。こういう彼女が、太陽のような燦燦とした光は美しいけれど、単調なものと映ったことでしょう。
多くのことに悩み、傷つき、年老い、それでもなお、まひろとの約束を果たそうとあるところまではたどり着いた道長をぼうっと照らす月影…これこそが、まひろにとっての美しい君だったように思われます。そう、今回ようやく、道長はまひろの「光る君」となったのかもしれませんね。
ただ、月の満ち欠けは宿命です。この夜、集った者たちが環をなしたことは、道長の治世が、志が多くの人の存在でできあがったものであることを象徴しています。そして、今夜がその臨界点であったことも…この先、その望月が徐々に欠けていくことになるのでしょう。それは、道長自身が一番わかっていることです。だからこそ、望月の歌を詠み、今宵だけは浸ったのです。権勢や傲慢とは真逆の虚しさゆえの願い…そんな望月の歌となりましたね。残り4話…終わりが見えてきたような回だったと言えるでしょう。