『ふたりの距離の概算』『いまさら翼といわれても』感想(米澤穂信著)
今年の7月から米澤穂信の「小市民シリーズ」がアニメ化するようです。
大学生のときに、米澤穂信原作の『氷菓』を視聴していたことを思い出しました。もう10年以上前です。
原作の古典部シリーズは全6冊刊行されていて、2012年にアニメ化されたのは4巻まで。
最近それ以後の、5巻『ふたりの距離の概算』と6巻『いまさら翼といわれても』を読みました。
折木や千反田が2年生になっていました。
1.5巻『ふたりの距離の概算』
5巻『ふたりの距離の概算』は、古典部に仮入部してきた大日向がどうして本入部することなく古典部を辞めることになったのかということが大きな主題となっていました。
その理由の発端自体は大日向自身の中学時代の人間関係に起因するものだったにせよ、千反田の存在(言動)が結果的に大日向を追い詰めることになったという展開には驚きました。
アニメ版(1巻-4巻)での千反田は、その浮世離れした言動が〈古典部〉の4人の中だけで描かれていたこともあって、「神秘性」として肯定的に描かれていたと思います。〈古典部〉の外部の他者としての大日向にとって、千反田の「神秘性」が「底知れなさ」として恐怖を喚起するという展開は(それが結局は誤解だったにせよ)、青春のほろ苦さをうまく描いていると思いました。
「誤解による離反」こそが、青春を特徴づけると言えるでしょうから。
2.6巻『いまさら翼といわれても』
6巻『いまさら翼といわれても』はオムニバス形式で、〈古典部〉の4人の新たな一面を描く「いつかは書かれなければならなかった」(p.372)小話とのこと。
特に「長い休日」と「いまさら翼といわれても」が印象に残りました。
(1)「長い休日」
「長い休日」は、有名な折木のモットー「やらなくてもいいことなら、やらない。やらなければいけないなら手短に」が生来の性格に由来するものではなく後天的な気づき(悲しみ)によって得られた〈第二の自然〉であるということ、千反田がその〈第二の自然〉を打破してくれる(打破してしまう)という点で折木にとって特別であることが描かれていました。
折木にとって、社会適応された〈学習〉を打ち破るレッスンが、千反田の「私、気になります」だというのは、とてもいい話だなと思いました。
その一言は他の人間が想像しているよりも重大なものとして、新たな生の次元へと否応なく誘うものとして、体験されているということでしょうか。
(2)「いまさら翼といわれても」
折木にとって千反田が、その「休日」を終わらせてくれる存在(救世主)として思われたとしても、千反田自身も青春時代を生きる一人の人間であるということが「いまさら翼といわれても」で描かれていました。
5巻で描かれ始めた、揺れ動く人間存在としての千反田がはっきりとテーマ化されていたということです。
3.まとめ
2冊読んで気づいたのは、「折木と千反田が携帯電話を持っていない」という事実が作品展開上の大きな肝になっているということです。
もちろんその方が日常ミステリを展開するうえで都合が良いという話でしょうが、20年代に読んだとしても「折木と千反田なら持っていなくてもむべなるかな」と思える人物描写になっているのはすごいと思います。