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『終わるまではすべてが永遠』(木澤佐登志)感想/連想
表題の本を読みました。
著者(木澤佐登志)が直近5年間の間に様々な媒体で書いてきた原稿をまとめた著作集のようです。
『現代思想』で以前読んだことがある文章も収録されていて懐かしかったです。
本書全体の通奏低音にあるのは、「外部に到達するための手がかりはどこにあるのか」という問題意識。
著者が注目するのは「壊れ」のようです。世界の調和が意図せず壊れてしまっているという、ほころび/バグ/幽霊が到来することが、外部とのコミュニケーションの立ち現われの契機足りえるという希望。折しも世界の蝶番が壊れて久しいですし、とてもアクチュアルな感覚かもしれない。
現代社会にあっては、〈外〉は、彼方の世界は、もはやどこにも見出せない。だが、「壊れ」の只中において〈外〉とのコミュニケ―ション=交流が立ち上がってくるとしたら、どうだろう。何かに向かって完成していく生ではなく、ただただ壊れてゆくだけの生。
実際僕も、「外部に到達するための手がかりはどこにあるのか」というのはよく考えるので、その観点からこの本を読みました。
1.加速する世界の憂鬱
①まずはマーク・フィッシャーが登場。「気を付けろ、外は砂漠が広がっている マーク・フィッシャー私論」
フィッシャが資本主義リアリズムの外部を志向し、「何かalternativeがあるはずだ」と強く考えていたのはよく知られている。残念ながらもう亡くなられたが、晩年は「60年代カウンターカルチャー」、特に「LSD(サイケデリック)カルチャ」の潜在的可能性に注目していたらしい。
「世界はこうでなかったかもしれないのに」とか「これがTrue Endだとは思えない」といった思いが、ターニングポイントとしての60年代への回帰を駆動しているのだろう。ある種の人間はそれぞれに、世界のターニングポイントを直感し、そこに一生囚われるのかもしれないなとも思った。村上春樹にとっての「80年代(特に1984年)」とかが有名。「ゼロ年代の亡霊」とかも最近よく聞く。
薬物(アシッド)の力を借りて意識変革をすることで、外部に脱出する。
それだけ聞くと、「精神刺激薬(スマートドラッグ)を使用して生物学的自己を不断に高めこの現実に何とか適応しようとする現代人」と同じに見えるが、個人的ではなく集団的であり、適応的ではなく生成変容的であり、接続的ではなく切断的であるところに力点があるところが違いなのか。あるいは精神刺激薬とLSDの違いによるものなのか(薬のことはよく分からないが)
②「終わるまではすべてが永遠 永劫回帰と無為」では、ハイデガー=アガンベンの「開かれ」解釈を基に、無為の意義が語られる。下記のような話に接続されると理解した。
結局現代は歴史としての大文字の「未来」が喪失した時代であり、「未来」は個人の自己責任の中で自分だけの力で獲得する必要があるという世界観が跋扈している。一方で、フロイト的無意識・ニーチェ的力への意志・マルクス的下部構造・AI的アルゴリズムの先取り(エコーチェンバー)など挙げればきりがないが、個人として未来を意思決定することが果たして本当にできているのかが怪しい時代でもあるのが現代である。
こうした絶望的な時代状況に否応なく直面してしまったけれど、個人としての「未来」を志向する才がない人間(小市民的な「幸せ」をgetする才能がない人間)はどうなるのかと言われれば、「未来への希望なき人間」になるわけである。それは崩壊した現在を生きる者であり、別の言い方をすれば精神的にはゾーエの状態に置かれているという感じか。もっと簡単に言うと、無敵の人か。
こうなってしまったら線形的な時間感覚ではどうしようもない。ポストフェステゥム=後の祭り。そうではなくて、この瞬間を目的化し意味あるものとする「別の時間感覚」がここでは重要だ。手がかりとしての無為。つまりは、決して現実態にはなりえない可能態としての無為が。。。。
インストゥルメンタルの対としてコンサマトリーという語があるが、その解像度を一つの方向から上げたのがこの論考なんだろうなと思った。外部は無為の徹底によって到来される?
2.生まれてこなければよかったーではどこへ?
反出生主義に僕はあまりテーマとして興味が持てないのだが、それはなぜかというと、「人間は生まれてくるべきではない」のかどうかなんて人によるだろうと思ってしまうので。悪しきポストモダン的相対主義の影響を受けているのかもしれない。
「自分なんて生まれなければよかったな(××たいな)」と「人類は生まれなければいいんだけどな」では、全然レベルが違う話であるし。あるいは「主語がデカい」というSNS的禁忌を気にしすぎているだけなのだろうか。
少し話がずれるが、性や愛が外部に到達するためのトリガーであるという考え方は結構ありふれていると思うのだが、どうなんだろうか。村上春樹が小説でセクシャルな描写をよく描くのは、そういった意図(外部への志向)があるとかはよく聞く。あるいは生殖がそれに当たるとしたら、出生主義こそが外部への到達への可能性なのか?
3.外部へ
結局こういう本をちゃんと読もうとすると、否応なく自分を非生産的に掘り下げてたくなってしまうな。
(い)
結局この種の人文系の本を読むことが、「自分の今の苦しい現状を自己肯定したい」という欲望を満たすための惰性的消費になってしまう危険性がある。
加速主義・反出生主義・新反動主義といった「ダークな思想」を、その潜勢力を保持したまま思考する材料として受領するためには、方法的に自分の思考の逃げ道を先回りして閉じておく必要がある。あるいは閉じないにしても意識化しておくことが必要か。
それが僕の場合具体的には、「〈ベタ〉を徹底した先にある〈ネタ〉に到達することで、〈メタ〉に超越することができる」という構図。外部は、〈ネタ〉により束の間到来する、という幻想。
でも結局は〈ネタ〉だって、大衆動員のために使われているじゃないか。〈メタ〉に超越するための契機となる〈ネタ〉なんてものは本当に存在するのか、という疑惑。ポストモダンが言祝いだ「バタイユ的な〈笑い〉」は、結局ヘーゲル=新自由主義の弁証法をドライブするためのエネルギーに過ぎないのではないか。「束の間」という弁明は、「現実的には存在しえないが可能的には存在し得る」という苦しさ故なのか。
(ろ)
腰を据えて「日常の論理」=〈ベタ〉にまた向き合わないといけないのか。いまさらだけど。そのたびごとに。
結局日常の論理に異和を感じ始めたのが、いつからなのか。
修復不可能と思えるほどにずれてしまったのは、どのポイントなのか。
あるいは今僕はどこにいるのか。どこに向かうことが一番「理にかなっているのか」
(は)
結局僕は寂しいんだな。ただ人と能動的(=自分発信で)に関わりたくない。「人を助ける」という大義名分で、他者発信である限りで人と関われる。だから強制力のある場所でしか人間関係を築けない。
能力的なバックグラウンドとしての「コミュニケーションの不全」。本当に「わからない」。結果としての「抑うつ気分」。逃避の手段としての抑うつ。
寂しさと虚しさをどうにかして解消する以外には、この抑うつから根本的に解消されることはないだろう。
(に)
ナンセンスであることが、あるいは常識外れであることが、〈ネタ〉的存在であることが、〈束の間〉であったとしても「寂しさ」と「虚しさ」を癒してくれるなら、そこにすがり続ければいいのだろうか。
救いはどこにあるのか。
(ほ)
もしくはこれ自体が「外部になど行けない」という〈資本主義リアリズム〉への毒されなのか?
4.まとめ
面白かったです。
やはり木澤佐登志の文章は自分に合っているような気がしました。