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【思い出ぼろぼろ】「物言わぬ存在」が教えてくれたこと
先一昨日、アトリエの前に植えてある 沙羅の木の枝で、蝉の抜け殻を見つけました。
近々、我が家の敷地角に立つ東北電力の電信柱にも、そこを居場所と見定めた蝉たちが張りついて、炎天を仰ぎながら己が存在を懸命に叫ぶ日が訪れるのでしょう。嗚呼、考えただけでも暑くなってくる … 。
さてと、本編に入る前にひとつだけ。
此度は、虫が苦手な方にとっては辛い写真が続くかもしれません。
さわさりながら、一つの造形美として捉えるか、さもなくば、生きとし生ける者の営みと捉えてご覧になっていただければ、克服の可能性もあろうかと … 。何はともあれ、お時間のある方はお付き合い下さいませ。
「物言わぬ存在」が教えてくれたこと
時は 2007年の7月27日 。
仕事を早くに終えた僕は、夏休み中の長男(当時6歳)を連れて、家から程近い場所にある里山へ向かいました。
僕ら親子は、この里山の豊かな雑木林の中を散策したり、麓にあるビオトープを観察することを習慣にしていました。ですから、長男にとっては「自分の庭」のような存在になっていたと思います。
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この日も、いつものルーチンよろしく雑木林の中を歩き廻り、数日前に蕾だった鬼百合が開花しているのを確認したり、大きなカミキリ虫を見つけたり、カブトムシのメスが集まっているクヌギの木を発見したり、落ちていたカモシカの糞の中身を調べたりと、里山の日常を一頻り満喫しました。
程なくして、夕刻の気配を感じてきたため、麓にあるビオトープの様子を見ようと下山してくると、登山口の目印になっているブナの木に、蝉の抜け殻を見つけました。
ところが、目を凝らしてみてみると、どうやら「いつもの抜け殻」とは雰囲気が違うのです。何かしら ” 身が詰まっている感 ” があって … 。
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事実、それは「ただの抜け殻」ではありませんでした。
そう、蝉が脱皮しようとしている真っ最中に出くわしたのです。それを認めた僕は「蝉が脱皮しようとしているよ!」と、長男に教えました。
がしかし、その言葉が口をついて出た途端に、僕は ” 軽率な失敗 ” をしたと思ってしまったのです。
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案の定、長男は「お父! 僕は、脱皮が終わるまで見てみたい!」と言ってきました。
それは当然の事だろうと。そうなるに決まっていたのだから。
されど、時計を見れば 午後16時 を回ろうかと言うタイミングだし … 。更に、嫁さんには「暗くなる前に帰って来てね。」と釘を刺されているし … 。
加えて本音を言えば、さっさと風呂に入って、ビールを飲んで、食事して、酔いがさめたら雑務の処理をして … みたいな心積もりがありました。
まぁ、有体な大人の都合って奴ですね。
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とは言え、母親の心配をダシに説き伏せたくはなかったので、学問担当重役ならではの悪足掻きで「お前さぁ、今日の分の宿題はやったの?」と問うと「午前中のうちに終わらせた。」とオウム返しで瞬殺。
もはや、脱皮完了の場面に立ち会わない理由はなくなったと … 。
いずれにせよ、蝉が脱皮に要する時間は短くない(概ね2~3時間)のだから堪ったものではありません。僕は「今からこの場所で2時間以上待つことになるのか … 。」と、草むらの中でヤブ蚊を追い払いながら立ち続ける自分を想像して、早くも往生してしまったのでした。
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時は夕暮れ。
仙台の市街地に食い込む様に派生したグリーンベルトの一隅とは言え、朝な夕なに野生動物が闊歩するエリアでもあり(僕自身が目撃多数)、加えて、夕刻からの長期戦ともなれば、あの忌々しいヤブ蚊の猛攻が、更に激化することは明らかです。
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こうした懸念に多少なりとも対応できる道具が車にあることを思い出した僕は、長男に「熊鈴と爆竹と携帯用の蚊取り線香を車から取ってくるから、お前はこの木の前から動くなよ。」と言って、その場を離れました。
(※駐車スペースから長男の姿が目視できたことから離れた。)
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車のトランクに積んである釣り道具の中から、熊鈴と爆竹と蚊取り線香を取り出し、ふと「写真でも撮影しながら時間を潰そうか … 。」と思いついた僕は、常備していたカメラの替えレンズ(望遠マクロ & 50㎜単焦点)も持っていくことにしたのでした。
そして、持参した熊鈴は、僕よりも動き回るであろう息子の腰に括り付け、僕は周囲の気配(ガサガサ音・動物の鳴き声・匂い)に留意しながら、カメラのファインダー越しに蝉の奮闘を観察し続けました。
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観察すること1時間余。
ちょうど17時を過ぎたあたりのことでした。それまで上半身をのけぞらした状態から微動だにしなかった蝉が、そぞろ動き始めたのです。
これには親子共々感動しました。
「生きている!」
その実感を強烈に伴う感情で心が満たされましたね … 。
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結果的に僕らは、この蝉の奮闘を3時間余り観察することになりました。
でも、この3時間の中には、有意義という言葉に通奏低音する健やかな充実感が沢山含まれていました。そして、この時間は「親となった自分」の有様を認識させられた機会にもなったのでした。
時刻は、午後19時近く。
奥羽山脈の向こう側に沈まんとする太陽は、最後の力を振り絞って、ブナの木の樹皮を照らしていました。
殻の横に移動した蝉の羽は、時間と共に硬さを持ち始め、体色の変化も認められてきました。
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その様子を見ていた長男は「お父、この蝉は、僕らが見ているから飛べないんじゃない?」と呟くように話してきました。
僕が怪訝な顔をすると、彼は「僕だって、絵を描いている時に、お父にじっと見ていられると、恥ずかしくて書けなくなるでしょ。」と、平素の鬱憤を交えて意見してきました。
それに応じるべく、僕は「お父の仕事で一緒になる腕扱きの大工さんは、お父がじっと見ていたって、気にしないで仕事しているぜ。」と返しました。
すると「それは、上手な人だからでしょ! 僕もこの蝉も子どもなんだから恥ずかしいんだよ。この蝉は初めて飛ぶんだよ。下手なところを見られたくないでしょ!」ともっともらしい意見をぶつけてきました。
この返答に ” 二の句 ” を失ってしまった僕は「じゃぁ、これで納得したんだな? 後悔はないな?」と問うと、彼は黙って頷いたのでした。
とまぁ、この様なやりとりの後、僕らは帰宅の途についたわけです。
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他人様から見れば、取るに足らない出来事かもしれません。
さわさりながら、僕はこんな些末な出来事から「寄り添って待つ」ことの大切さを教わりました。それは、物言わぬ小さな虫が与えてくれた機会であったとも言えるでしょう。
そして更に振り返ってみれば、識者と思しき人々が喧伝する有象無象の言説ではなく、一匹の小さな虫という「物言わぬ存在からの教え」であったからこそ、せっかちで短腹だった僕でも、素直に受け入れることができたように思われてならないのです。