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【読書日記】自分に向けられない愛への愛(トーマス・マン『トニオ・クレエゲル』と『ヴェニスに死す』)

柳田国男が主催するイブセン会という文人の集りで、イプセンの『野鴨』を論じたことがあった。1908年のことだ。

冒頭、柳田は出席者に次のような問いを投げかける。「四人の作中人物のうちのどれかにならなければならないとすれば、誰を選ぶか?」

イプセンはノルウェー出身の劇作家で、その頃ヨーロッパを席巻したヴィクトリア朝的価値観を批判する写実主義的な作風で知られる。上流階級の人々の家族関係や男女の恋の機微を描いて、道徳的に正しい人が勝利して終わるのがヴィクトリア朝期の作風。イプセンは戯曲を通じて、こうした偽善的な社会観を揺るがそうと試みたらしい。

『野鴨』ではグレイゲエル、ヤルマアル、レリング、ギイナという四人の登場人物の異なる人生観や生き方が対照的に描かれる。

グレイゲエルの父は使用人のギイナを孕ませるが、それを隠してグレイゲエルの親友であるヤルマアルと結婚させ、金を与えて写真屋を開かせる。

ところが、ヤルマアルはまるで甲斐性がない男。写真屋の仕事は実はギイナが切り盛りしている。ヤルマアルは自分が発明家であると思い込んで、無為に日々を過ごしている。

グレイゲエルは真の幸福は真実からしか生まれないと信じる理想家。それで、真実を隠して平和に暮らしているヤルマアルとギイナの家庭に入り込んで、真実をあばこうとする。

ヤルマアルの下宿人である医師レリングは、そんなグレイゲエルを嘲笑するニヒリストで、幸せというのは嘘の上でないと築けないと思っている。人間は真実に耐えるほど強くないと思ってる。実は、ヤルマアルに自分は発明家だと思いこませたのも彼である。

それに対して、ギイナは嘘でもなんでもいいから、とにかくその上になんとか幸せを築こうとする庶民の女。真実などにかまけている暇がない。

イブセン会には当時の文壇の若手文士が揃っているのだが、田山花袋はグレイゲエル、長谷川天渓はレリングを選ぶ。柳田の選択はギイナである。

その理由を示唆する柳田と岩野泡鳴のやり取りがある(読みやすいように現代語風に書き直した)。

柳田氏。何べんも言うようだけれども、イブセンはこんな風に破壊しておいてどうするつもりだろう。New World はないのであろうか。

岩野氏。ただ破壊だ。

柳田氏。破壊したら破壊したで、やはり何らかの形式が残らなくちゃならんと思う。

岩野氏。悟りという事はすでに一つの迷いに入るんだ。どうせ弱い者は破壊される。ただ力だ。

柳田氏。力さえあれば――ギイナの様な者はいなくてもいいだろうか?

岩野氏。ギイナがあっても何にもならぬ。なくても済むと思う。

柳田氏。僕はそうは思わぬ。蟻や鳥、馬だの牛だのも皆それぞれ生活の権利もあるし価値もある。ギイナの階級を皆ヘドヴィッヒ(ギイナとヤルマアルの娘の名。実はグレイゲエルの父が実父である。グレイゲエルのおせっかいのせいで最後に自殺?する――引用者)にしてしまってはならぬ。そうなると社会という大事実を否定しなければならぬ。

岩野氏。社会はいつでもできる。

これだけだとなんだかよくわからないやりとりだ。しかし、柳田が文学を棄てて民俗学に向かっていく動機を読み取ることもできる。そういう解釈もなされている。

*****

前置きが長くなったが、『トニオ・クレエゲル』や『ヴェニスに死す』というトーマス・マンの初期の作品を読んで、自分はこのイブセン会の話を思い出した。

このやりとりが行なわれた当時は、イプセンやゾラの影響で自然主義文学というのが隆盛していて、醜かろうがなんだろうが現実をそのまま描くのが文学であるという風潮があった。漱石や鴎外の書くようなものは「拵えもの」として批判された。

しかし、このやりとりからは、もう一つ柳田と泡鳴ら自然主義者との対立軸となっているものがうかがえる。以前もどこかで書いた市民と芸術家のあいだの対立だ。

どういうわけか、19世紀の西洋思想(特に日本でも影響の大きかったドイツ思想)は、美学でも歴史学でも天才というものに訴える部分が大きかった。真に創造する者としての天才と、その天才の発明を模倣し堕落させるだけの市民・俗物の対立が先鋭化される傾向があった。

どうやら、芸術の名を借りて社会の破壊も辞さない自然主義作家たちに、柳田は違和感を感じている。「社会という大事実」なんていう言葉を口にしている。そうして、いやでも社会で生きなければならない「常民」の側に立とうとしている。そう解釈すれば、ここに柳田が文学を棄てて民俗学に移っていく予兆を読み取ることもできる。

トーマス・マンはワーグナーやニーチェなどから影響をうけ、19世紀の天才美学を受けついだ。だが、自分のなかに市民と芸術家が住んでいることを誰よりも自覚し、その葛藤に悩んだひとである。彼の小説には自伝的要素が多く含まれるが、この市民と芸術家の自己分裂が『トニオ・クレエゲル』や『ヴェニスに死す』のテーマである。

前者の題名となってる名前からして分裂している。トニオは情熱の南方、クレエゲルは倫理的北方の名。芸術家と市民の分裂に重なっている(マンの母方にはポルトガル系ブラジル人の血が入っている)。

この「市民」のドイツ語は「ビュルガー」であるが、自分が読んだ岩波版では実吉捷郎が同じ語を「俗人」と訳している。これも以前にどこかで書いたが、19世紀に芸術家と市民が対立させられるようになると、市民には「俗物」というネガティヴな意味が付け加えられることになる。真善美などは顧みずに、物質的享楽や低俗な趣味を追求するひとびとである。

マンは富商の家に生まれながらも作家になった。つまり市民ではなく芸術家になった。そうして彼の家は没落した。彼の家が代々かかわってきた都市の政治からも疎外された。自分に対して以外には責任を有さない自由な個人になった。だが、自分が何者であるかという拠りどころも失った。そのことに心のどこかに罪悪感みたいなものを感じている。芸術家の生活にいかがわしさを感じ、堅気の市民生活に憧れる部分がある。

芸術家のいかがわしさは倫理的ないかがわしさである。ワーグナーのように返す当てのない借金を重ねたり、親しい人の妻を寝取ったりしても、これもみな芸術のためだと平気な顔をしている。岩野泡鳴も乱脈な女性関係を小説で赤裸々に暴露しているが、自分の堕落した生活をありのままを小説にしたのか、それとも小説を書くためにわざと堕落した生活を試みたのか、よくわかんないところがある。

平板な市民生活では小説が書けない。日々の小さな幸せに満足してる凡庸なひとびとは小説の主人公にならない。此岸を超えて彼岸にある真善美への情熱をもつひとびとがいなければ、書く価値がない。なんだかそういうことになっている。

日本に小説が輸入されたときにも、これが問題になった。われわれが日常に営んでいる生活では小説の題材にならない。だが、社会のどこに目を向ければ小説の題材がころがっているか、よくわからない。だから、泡鳴のように、小説の題材になるような生き方をを自ら行ってみせる、という自己犠牲だかなんだかわからないようなことにもなった。

私小説と呼ばれたようなジャンルであるが、一般市民の道徳感情を逆なでするようなことが書いてある。しかも、ただ書いてあるだけじゃない。著者自身がそんな生活をしているのである。

『トニオ・クレエゲル』では、内気で芸術家気質の青年が、明るく屈託のない同級生に同性愛に近い感情を抱いたり、中身は軽そうだけどやはり陽気な女の子に惚れる。本好きの主人公に対して、彼らは乗馬やダンスなどを好むんだから、やっぱり話が合わない。

彼のような変わり者に惹かれる女の子もいるのだが、どうしてか自分に惚れるような子は好きになれない。そうではなくて自分などをけっして愛してくれそうもないひとを愛したい、けっして愛してくれないようなひとから愛されたい。

結局、彼は芸術家の道を踏み出して、故郷である北方の商業都市リューベックから去る。そして南ドイツにある芸術の都ミュンヘンに住んでいる。そうやって市民生活からは脱落してしまう。それでも彼は自分が「道に迷った俗人(市民)」であるという感覚が抜けない。「芸術家の中にまぎれこんだ俗人(市民)、よき子供部屋への郷愁をいだいているボヘミアン、やましい良心をもった芸術家」、自分の考えるようなことには頓着しない普通の人々に恋する芸術家である。

だが、彼はかつて愛した二人同士が婚約したことを知る。そして、俗人・市民生活を蔑み自分の内面に見いだせる美を追求しようとする唯美主義ではなく、彼らの生活を外から愛情をもって観察し描く市民的芸術家たろうと決意する。

ここに自分は、イプセンの『野鴨』でギイナを選び、詩や文学と決別し民俗学に向かった柳田に相通ずるものを感じた。ちがいは、マンには懐古する19世紀のリューベックの市民社会があったが、柳田にはない。だから農村社会に市民社会に相当するものを求めたとも言える。

ところが、次作の『ヴェニスに死す』では、逆の結末になる。『トニオ・クレエゲル』で市民的芸術家たろうとする決意を示したマンは、本作では一転して「奈落の底に転落していく市民的芸術家」を描く。

市民的な労働倫理と分別が認められ、貴族の称号まで得た初老の作家が主人公だ。しかし、近年は創作活動が徒労に感じられて、思うように筆が進まない。

この老作家が滞在先のヴェニスで美少年に出会い、同性愛的な感情を抱く。市民的作家の消えかけていた情熱に火がつく。老人が少年に抱く愛。市民・俗人の鼻は、そこに背徳の匂いしかかぎつけないだろう。だが、芸術家にとってはこれほど純粋な愛はない。ソクラテスの哲学も、やっぱり彼が美少年を好むエロ爺であったことと無関係じゃない。愛のためなら、死でさえも彼は厭わない。

そして、アポロ的分別がディオニュソス的欲求に圧倒されてゆく。分別も倫理も、死の恐怖でさえ、もう彼を止めることができない。しかし、この恋も成就しない。芸術家気質の暗い側面の解放は、死によって罰せられざるをえなかった。

だが、死がなんだというのか。哲学者や芸術家にとって死は、無限なるもの、認識の到達しえない巨大なもの、海に象徴されるものへの帰還である。褒賞であり、解放であり、贖罪である。だが、俗人・市民にとっては、それは罪に対する報い、罰である。

『ヴェニスに死す』では、死はどちらにもとれるようになっている。芸術家と市民のあいだの葛藤が、著者の内面でまだ未解決であるらしい。どうやら、マンの自己分裂は『トニオ・クレエゲル』を書くことによっては収まらなかったらしい。

「最も多く愛する者は、常に敗者であり、常に悩まなねばならぬ」

これは『トニオ・クレエゲル』の中の言葉である。自分の同類を屈託なく愛することができる人は勝者になりやすいが、自分が何を愛しているかを知ることはない。だが、そういうひとたちを外から愛する立場もありうる。自分を愛さないであろうひとびとを愛し、自分にはけっして向けられないであろう愛の意味を明らかにしようというあり方がありうる。

柳田が日本の農村社会に向けた旅人の視点に相通ずる。つかず離れずの立ち位置であり、芸術家の誇り高き孤立を否定し、ギイナのようなひとびとに温かい視線を向けながらも、彼らのなかには入らない。入れない。入れてもらえない。やっぱりなんとなく旅人の孤独につきまとわれてる。民衆というものに片思いをする知識人特有の孤独かもしれない。保守主義とは「イロニー的エロス」であるというトーマス・マンの主張と重ね合わせると、なかなか深い意味がありそうだ。

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