自由社VS学び舎 8、満州事変(1)
学び舎の満州事変のページには、なぜか「満州事変」の見出しがありません。大見出しは、「鉄道爆破から始まったー日本の中国侵略―」です。
小見出しも「満鉄の線路を爆破」と「国際連盟からの脱退」で、2ページの記述です。学び舎は、日本は、満州を侵略したと記述しています。
これに対し自由社は、「中国の排日運動と協調外交の挫折」、そして「満州事変と満州国建国」の大見出しで4ページに渡って記述しています。そして侵略の文字はありません。
満州は、そもそも中国領だったのでしょうか?
学び舎は、231ページ側注で「多くはこのように現地農民の土地を買収したり、土地から追い出したりして、日本人を入植させるものだった。」と記述しています。これを読むと満州の土地は中国人のもので、それを日本が奪ったということになります。本当にそうなのでしょうか?
自由社228Pは次のように記述しています。「日本が年号を昭和と改めたころ、中国では、各地に私兵をかかえた軍閥が群雄割拠していた。」1925年ころです。満州もそうでした。
また、229Pでは「昭和初期の満州にはすでに20万人以上の日本人が住んでいました。その保護と、関東州および満鉄を警備するため、1万人の陸軍部隊(関東軍)が駐屯していた」と記述しています。日露戦争は、明治37年でした。満州だけではありません。当時すでにアメリカにもハワイにもブラジルにも多くの日本人が移住していました。
【昭和5年当時の満洲の人口】1930年(ねずさんのひとりごと)より
満蒙人 300万人
支那人 2600万人
朝鮮人 100万人
日本人 23万人
朝鮮人100万人は、日本の朝鮮併合後の人口増加により満州に移住したためです。人口構成が圧倒的に支那人が多くなるとその土地の支配権は、支那人に移ります。満州も同じでした。
しかし、もともと満州は、満州人以外は立ち入を禁止されていた神聖な土地だったのです。
満州とは、いうまでもなく清帝国を建国した満州人(女真ジュシェン族、後に満洲マンジュ族と改める)の故郷の地です。1616年にヌルハチが、明から独立して建国した「後金国」が清朝の前身です。1636年ヌルハチが大清皇帝として即位して「清」が建国されました。ヌルハチとその子太宗ホンタイジの陵墓が奉天(今の瀋陽市)にあります。ホンタイジの後を継いだ順治帝は、北京に遷都し、中国統一を進めていったわけです。
満州人は、北京を都に定めると、故郷である満州を西洋でいう「王領」、つまり「封禁の地」とし、厳しい移民法令を定めて、漢民族の満州への立ち入りを禁止じました。立ち入ると死刑でした。さらに満州人と漢人の婚姻を禁止し、最後の清皇帝が退位する数年前までこの禁制は続いていました。
そうした清国の権利を明記し、確認した退位協定が、「支那」の根本法となったのですが、支那人は、この協定は守りませんでした。
清朝が安定していた時代は、漢人も入れず、満州の地も平和でした。しかし清朝が衰え、ロシアが南下してくると治安は乱れます。もともと満州人の小作人として働いていた漢人が土地を奪うようになります。満州にロシア人のほかに漢人の難民や匪賊も流れ込んできます。日露戦争後、山東出身の匪賊の頭領のような人物が、日本を後ろ盾に満州をしだいに支配するようになります。張作霖です。私兵を雇い、逆らうものは見せしめに皆殺しです。辛亥革命のときの漢人による満州人の虐殺行為は、1週間続いたといわれています。このときの恐怖を知っている満州人は、張作霖にどんな重税を課せられてもにさからうことはできなかったのです。
長親子は、70憶ドルもの金の準備がない不換紙幣を発行し、住民から生産物を取り上げ、阿片の栽培と売買で軍隊を養っていました。長親子と満鉄は、互いに利用しあう関係になります。
このような記述は教科書にはありません。中国がいやがるからでしようか?それとも文科省が忖度しているのでしょうか?そうあの近隣諸国条項です。
昨日は、文科省、歴史教科書調査官が、北朝鮮の工作員だという報道が流れSNS上で大騒ぎでした。
続く