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全ての購買行動は推し活であるという考え方

高給取りが図書館で話題の小説本を借りていたら、モヤモヤする。
その本が20人待ちとかいうと、本の定価×0.1×20みたいな数字が頭に浮かぶ。
さらにそれを延滞していたりするとモヤモヤは厚みを増して壁になる。

モヤモヤの正体はつまり、軽蔑。
図書館利用は市民の権利であるとはいえ、経済的に恵まれた人が本が持つ豊かな世界をただで搾取していると考えたら、その視座の低さに蔑みを感じずにいられないんである。それは哀れみにも近い。
私がその本の著者だったら人目を憚らず歯軋りしてしまうと思うわ。

作り手であろうとする私は、作り手にリスペクトの気持ちを込めて課金したい。
消費者としての私は、供給を止めてほしくないから紙の本に課金したい。
生活者としての私は、本屋さんは空間として好きなのでできるだけ実店舗に課金したい。
それはつまり推し活とほぼ同意。
他にも、映画館の大画面が好きだから劇場に観にいく、気に入った醤油は1リットル500円でも買い続ける、愛する定食屋には足繁く通う、ガムは板ガムを買うし人にもあげたり薦めたり、、、
そんな感じで毎日の地味な推し活は続いていく。推したちが供給し続けてくれることに期待を込めて。
資本主義に属する限り、「支払う、または支払わない」ことには一様の意味があるんである。

安いことは一番大事な事でしょうか。
お金は一番大事なものでしょうか。
節約は美徳でしょうか。
我慢は美徳でしょうか。
便利は最高でしょうか。
システムによる利益獲得は最高でしょうか。
消費しないことはエコでしょうか。
エコの名の下に繰り返される生産や破壊や妨害は正義でしょうか。
生産しないことはエコでしょうか。
SDGs=エコでしょうか。
権利は最大限使うためにあるのでしょうか。
権利主張で誰かが搾取されないでしょうか。
合理的な判断、それ本当でしょうか。

考え出したら止まらないことがいっぱいあるんである。

Amazonの台頭と共に街の小さな書店はどんどん姿を消した。
サブスクではアーティスト本人は大した金銭を受け取れないことを訴えたミュージシャンがいた。
声援では物理的にお腹を満たすことはできないし、お腹が減りすぎたら生きていけない。

未来に残って欲しいものはなんですか?
残って欲しいその価値にあなたは適切に支払いをしていますか?
今買うそれはどこで誰が作って、支払われたお金を受け取るのは誰ですか?
どんな購買行動も推し活であるとして、わたしは今日も意気揚々と推しに課金するのである。

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