保健室登校から少し経った頃、私とは全く接点のない体育の先生が保健室へやってきた。どしんと椅子に座り保健室の先生と軽く会話を交わしたあと、私の方へ振り向き「君か」と言った。続けて「よう勇気持って学校来てくれたな。ゆっくりやりな」そう言うと保健室を出ていった。 自業自得でこうなった私に優しく言葉をかけてくれる先生や自宅まで様子を見に来てくれるクラスメイトに申し訳ない気持ちになった。私は変わらなきゃいけない、そう強く思った。 保健室登校に少し慣れてきた頃だった。辞める前に部活が
私の人間関係のつまずきは遡ること6歳、保育園の年長さんからだ。 引っ越しに伴い隣の市町村にある保育園へ年長の年に転園した私は異様な空気に戦いていた。年長ともなれば、未満児あるいは年少から共に過ごした時間が既に仲間意識を作り上げている頃。所謂わたしは“よそ者”なわけだ。 この保育園ではこういうルールだ、このクラスでは、友達の間では、こういうルールで生活しているのだと同じ年の子たちに強く教えられる。 ある日、しずかちゃんというクラスメイトが園児の手拭いかけの中で体操座りをし
高校1年生。 私は八方美人だった。ここは女子校、うまくやらなければ地獄へ落ちる。人間関係に悩んだ過去がそう思わせた。そしてその八方美人体質が当然悪い方へと作用し、結局過去に悩んだ人間関係なんて屁でもないほどの地獄へ落ちたのだった。 それは自業自得、因果応報という言葉にぴったりの結末だった。私は嫌われるターゲットになりたくない余り典型的な腰巾着と化していた。そこで調子に乗ったのだ。 クラスに15歳とは思えないほどスタイルも良く一際大人びていている女の子がいた。やっかみからだ
母は私のことを褒めない人だった。 褒められた記憶は二回程しか、無い。 その根底に私は母に愛されていなかったのか。 結論から言うと愛されていたし大切にされていたと思う。 私が褒めない母を憎んだりするに至らなかったのは、母は私を褒めはしなかったが何かと比較した評価もしなかったからだ。「○○ちゃんはできているのにてかりは何故できないのか」とか「100点満点中のあと5点が何故取れないのか」とか、そういった評価をされたことはないのだ。 父もそれは同じだった。母や兄弟から言わすと一
幼少期、親に褒められた記憶がほぼない。 確実に褒められたという記憶が一つ。 おべっかで褒められたと認識しているのが一つ。 当時はおべっかで褒められたと気付きもしなかったが、大きくなってあれはおべっかだったのだと認識したのは「字が上手!」という言葉だった。いつもなら母がそれをやるのだが、遠足に持っていく真新しいリュックサックに小学校一年生の私が自分で名前を書いた時だった。 言い出したのは兄だった。習いたてのひらがなを母のように上手に書けないことが悔しくてもどかしくて「な