おくのほそ道をたどってみた〜松島編〜
まとめ
氷河期が明け、海面上昇によって山々が残され、松島の絶景を生んだ。
松尾芭蕉一行は、瑞巌寺、五大堂を訪れた。
弟子は句を残したが、松尾芭蕉は松島の絶景に魅了されていた。
8月19日は俳句の日
8月19日は俳句の日です。京都教育大学名誉教授の坪内稔典さんたちが1992年、提唱しました。
俳句という単語の名付け親は、正岡子規と言われています。俳句とは、「俳諧の発句」の略語です。俳諧とは、みんなで楽しむ言葉遊びのことです。発句とは、「短歌、連歌の最初の句(五七五)」のことを指します。短歌は、七七を追加します。連歌はさらに、五七五、七七を続けます。
俳句とは、「五七五という17文字だけで創られる詩」です。季節の言葉を入れることが多いです。しかし、入れなくてもいいです。
俳句は、だれでも楽しむことのできる言葉遊びでもあります。最近では、テレビ番組の企画でも取り上げられるなど、親しむ機会があります。新聞でも応募できる機会があります。
週1程度は俳句を創って、つぶやきに公開したいものです。
2024年俳句の日は、松尾芭蕉一行の旅、松島編について記事を書く。
2024年俳句の日は、旅する俳人(と思っている)、松尾芭蕉一行が訪れた松島について話します。
2024年山の日は、松尾芭蕉一行が山形県の山寺(宝珠山立石寺)を訪れたときを話しましたので、ぜひ、下の記事をお読みください。
松島
松島は宮城県東部にあります。京都府の天橋立、広島県にある宮島に並んで日本三景と呼ばれています。島々が生み出す絶景、名物の牡蠣、伊達氏ゆかりの寺院が特に印象に残ります。
松島はどうやって絶景を生み出したのか?
2~3万年前の氷河期は、現在の100〜120mほど海水面が低く、松島付近は陸地が広がっていました。7000年前に氷河期が終わると、気温が上昇します。氷河などが融けて海面が上がり、元々山だった場所のみ残りました。その結果、松島湾に260もの島が誕生しました。
長い時間、寒暖差、日光、風、波にさらされました。島々の岩盤がもろくなって砕けたり、削られました。自然によって、現在のような絶景を生み出しました。
おくのほそ道と松島
おくのほそ道によると、松尾芭蕉一行は塩釜から船で松島へ向かいました。雄島、瑞巌寺、五大堂を訪れて熱田屋(現在の松島離宮、旧松島水族館)に一泊したと伝えられています。
「松島やああ松島や松島や」は有名な句です。しかし、おくのほそ道には松尾芭蕉の詠んだ句は書かれてません。松島の絶景に魅了されて句を残さなかったと言われています。
「松島やああ松島や松島や」という一句は、松尾芭蕉ではなく、同行した弟子が詠んだと言われています。
松尾芭蕉が訪れた場所
瑞巌寺
奈良時代、慈覚大師円仁(山寺の創建にも関わった最澄の弟子)によって天台宗延福寺として創建されました。平安時代、平泉を拠点にしていた奥州藤原氏によって保護されました。鎌倉時代、禅と共存し、室町時代に臨済宗(禅の宗派の一つ)に属することになりました。
江戸時代、伊達政宗によって人々の心の拠り所として改装しました。その後、伊達氏代々の菩薩寺(葬式、法要を執り行う寺院)となります。現在は、寺院だけではなく、美術館、歴史博物館の役割も果たしています。
瑞巌寺の見どころは、広大な本堂です。法要が行われる部屋、皇族を迎える部屋もありました。安土桃山時代に描かれた襖絵は、金箔をベースとして、大きな孔雀も描かれて圧倒させられます。宝物館には、平安時代に創られた仏像も眠っていました。
五大堂
島の上に創られた小さなお堂です。瑞巌寺を構成する建物の一つです。
1609年、伊達政宗によって建てられました。建物の中には、五大明王像が安置されています。五大明王像は、不動大名を中心に、東西南北にそれぞれ1体ずつ明王が置かれます。土台五大明王は、慈覚大師が手彫りで造ったと伝えられています。33年に一度、直接拝むことができます。次回、2039年に公開される予定です。
五大明王は千葉県の成田山新勝寺、京都府の東寺などで拝むことができます。
松尾芭蕉一行は、一関で宿泊してから平泉に向かいました。平安時代、奥州藤原氏の拠点として栄えていた平泉。600年もの時を経て何を思ったのでしょうか?
参考文献
河合敦,(2023),宮城の教科書,JTBパブリッシング