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太宰治の実家にやってきた

まとめ

  • 生活に困らなくても、周囲の家庭環境とは異なることが気がかりだった

  • 寺院は子どもたちの教育の場でもある。

  • 執筆部屋は必要最低限のモノしか整えないミニマニズム。


今回は、太宰治のふるさと、金木で太宰治のルーツを探った話をします。

金木町へ、津軽鉄道に乗って津軽五所川原駅から20分ほどで行くことができます。その模様は、下の記事をお読みください。

太宰治のふるさと、金木町

太宰治は、1909年6月19日、金木町(現在の五所川原市金木地区)で生まれました。本名、津島修治です。作家として15年間活動しました。人間失格、走れメロスなどの作品を生み出しました。国語の教科書にも採用されているため、いくつかの作品のストーリーを何となく覚えている方も多いでしょう。

地主の家庭から誕生した。

太宰治は大地主の津島家の6男で生まれました。津島家は、曾祖父が油、布類などの商人を営んでいた頃、金木町の水田を買い集め、大地主になりました。土地の所有だけではなく、経営にも携わり、金木銀行、金木電燈という電力会社も設立しました。さらに、父、津島源右衛門さんは、県会議員、国会議員として活躍しました。兄の津島元治さんは、金木町長を経て、戦後、青森県知事、衆議院議員を務めました。

斜陽館

1907年6月、父が4万円で新築しました。現在の価値に換算すると、約8億円です。1階11室、2階8室、宅地600坪の豪邸です。東側の通りを挟んだ場所にあった田畑も津島家のものでした。現在は、住宅地になっています。

津島家の持っていた土地は、小学校の体育館2つ建てられるほど広いです。東京銀座にあるOKストアにも匹敵します。

豪邸のデザインは、堀江佐吉さんに依頼しました。和洋折衷な建物、青森ヒバをふんだんに使用しました。青森ヒバは、青森県を代表する木材です。

堀江佐吉さんは、弘前市に、続々と洋式建築を導入したことで知られています。弘前市にある洋式建築について、下の記事をお読みください。

9人兄弟(実際は11人兄弟、2人は誕生後まもなく死去)かつ母の妹夫婦の4兄弟も同居していました。さらに、父親は国会議員のため、単身赴任で上京し、金木に帰るときが少なかったです。母と妹夫婦、祖母だけで、13人の子どもたちを育てることと家を管理していくことが大変でした。そのため、家に10人ほどのお手伝いさんを雇っていました。その結果、常に家の中には30人ほどいました。このような特殊な家庭環境に反発することもありながら、太宰治は、青森中学進学まで、13年間を過ごしました。

戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によって、地主制度が見直しされました。地主は一定以上の広さの土地を手放さなければならなくなりました。津島家も土地を手放しました。1950~1996年、旅館斜陽館として利用されました。当時の金木町が建物を買い取って、1998年から、太宰治記念館 斜陽館として利用されています。

斜陽館を見学した。

玄関を入り、受付で600円払います。受付では、お土産も買うことができます。太宰治作品の初版の表紙のデザインを再現したクリアファイル、ノートを買いました。ノートは、持ち運びが便利なA5サイズかつ、アイデア出しにピッタリです。

広大な土間で靴を脱いでから、部屋に入ります。展示室には、太宰治直筆の原稿、愛用していた衣服など貴重な資料が展示されていました。太宰治が産まれた部屋も残されています。

特に目をひいた部屋は、応接室です。お客さんを迎える部屋は洋室になっており、椅子、棚、ベッド、絨毯も洗練されていました。

新屋敷

1922年、父から兄の文治が結婚したときに建てた新居でした。元々、斜陽館と渡り廊下でつながっていました。

1945年、東京、甲府から疎開のため、妻と子どもを連れて故郷に戻りました。終戦後、1年間で23作品を執筆しました。

1948年、津島家が所有していた土地を売り払いました。しかし、津島文治が金木町の自宅として利用するために、家ごと現在地に移動させたため、現在も残っています。

新屋敷を見学した。

新屋敷の前の建物はアトリエになっており、壁となっています。アトリエでは、太宰治をモチーフにした、おみやげだけではなく、陶芸作品も並んでいます。500円払うことにより、内部を見ることができます。

太宰治一家が暮らしていた家、太宰治が執筆に利用していた部屋を見学できます。執筆する気分を味わうことができます。執筆部屋が空いていれば、太宰作品を読むこともできます。机と座布団、火鉢のみ置かれた部屋で、集中して執筆したいときにピッタリです。

斜陽館の寺社仏閣も訪れた

斜陽館の周辺には、太宰治が幼少期に訪れた寺院も残っています。幼少期、太宰治は、叔母のきゑ、子守のタケによって育てられました。祖母が信仰深い方だったため、読書、寺院を通じて、教育をさせていました。

今回は、雲祥寺と南臺寺を訪れました。太宰治の小説「思ひ出」に登場します。

南臺寺

1593年に創建しました。斜陽館と同じく、赤いトタンが目印です。大きな栗の木がシンボルになっています。

太宰治と本をつないでいました。学校がお休みの日曜日に、「日曜学校」を開いて、本の貸し出しを行っていました。

津島家のお墓もあります。太宰治は埋葬されてません。

雲祥寺

1596年に建てられました。太宰治も見たという地獄絵図があります。太宰治は、タケから、雲祥寺の地獄絵図を通じて、道徳を学びました。罪を犯したり、悪いことをすると、死後、地獄に落ちて一生苦しむことになります。絵の迫力から、泣き出したと太宰治は振り返っています。

境内には、地蔵堂もあり、さまざまなファッションで着こなされたお地蔵さんがズラリと並んでいました。

山門

思い出広場で太宰作品の一覧を知る。

太宰治の長女が書いた看板の題字が目印です。公園のように整備されていました。1934~1948年に発表された作品名が年ごとに並べられています。年代ごとの作品を読むことにより、時代の流れとともに変わる太宰治の心境を読み取ることができるでしょう。


今回は、太宰治のふるさとを訪れた話をしました。暑さが和らぎ、日も短くなった秋の夜は、読書には、うってつけの季節です。走れメロスなど、太宰治の作品を読みながら、物思いにふけることも粋だなと思いました。

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たびてく@一人旅ガチ勢
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