なぜ縄文人はフォッサマグナ沿いに集まったのか?
結論:良質なヒスイ、黒曜石が採れたため、それらを求めて多くの人々が集まった
1月4日は石の日。語呂合わせから誕生しました。2024年の石の日は、縄文時代、人々を魅了した石について取り上げます。
縄文人
日本列島の先住民の一部で主に東日本に住んでいました。現在の日本人の多くは、朝鮮半島から西日本を中心にやってきた弥生人と東日本を中心に日本列島に住んでいた縄文人が交雑して誕生したと考えられています。
東西の文化の違いは、5000年前から発生していたと考えられます。
フォッサマグナ
フォッサマグナとは、ドイツ語で大きな割れ目という意味。ドイツ出身の地質学者ナウマン博士が発見しました。糸魚川から、国道148,147号に入り姫川、高瀬川に沿って、大町市、安曇野市付近を通過し、国道19号線を通って松本市街地に入り、塩尻から国道20号線に入って〜韮崎まで行きます。韮崎から国道52号線付近を通って山梨県身延町、南部町を通って静岡市へ抜けます。途中、長野県の真ん中あたり、岡谷市から茅野市付近でズレています。ズレた部分に諏訪湖があります。
糸魚川のヒスイ
ヒスイは、緑白色の美しい石です。2016年9月、国の石に選ばれました。日本では、糸魚川周辺で主に採れ、5000年前には、世界最古のヒスイ文化が糸魚川を中心に誕生しました。
ヒスイがどうやってできたか?
5億年前、現在の姫川上流、青海川上流付近で海洋プレートが大陸プレートに沈み込んで、地中深くの低温高圧下でマントルを構成するカンラン岩が水と反応してヒスイが誕生しました。ヒスイの大きな原石が土砂崩れなどによって砕かれ、川によって青海海岸など下流付近にも運ばれたと考えられています。
糸魚川市にある青海海岸、姫川、青海川沿いで今もヒスイが見つかります。川沿いのヒスイを削ったり、割ったりして採取してはいけません。ただし、海岸線沿いに漂流してたどり着いたヒスイのかけらは、拾っても大丈夫です。
糸魚川フォッサマグナミュージアム
糸魚川駅からバスで10分ほどでフォッサマグナミュージアムに到着します。フォッサマグナミュージアムでは、糸魚川でヒスイが採れる理由、フォッサマグナの成り立ち、地球の歴史、ナウマン博士の功績について解説されていました。
博物館に隣接する長者ケ原遺跡では、縄文時代のヒスイの加工場が残っています。縄文時代、ヒスイはお守りとして勾玉に加工され、神の祈りのときに使用されていました。また、権力者のシンボルとしても扱われていました。勾玉とよばれるアクセサリーを身につけていました。全国各地の大王につけられていました。どのように加工されたか、遺跡によって分かります。
ヒスイルート
ヒスイは、糸魚川から、現在の姫川、高瀬川沿いに南下し、松本盆地を通過し、諏訪盆地へ降ります。岡谷(諏訪湖の西側)付近で天竜川に沿って伊那谷を南下するルート、八ヶ岳南麓、甲府盆地、多摩へ抜けるルートがあります。現在の中央自動車道のルートに近いです。また、海岸沿いへ走り、柏崎市付近から十日町、六日町経由して高崎市付近で東に折れ曲がり、東北道に沿って北上しました。青森から渡島半島へ抜けていました。西は九州から朝鮮半島へも運ばれました。
八ヶ岳周辺の黒耀石
火山が生み出した天然のガラス。火山活動によって地表に出てきたマグマが急激に冷やされて固まることによって黒耀石ができます。叩くと一定方向裂けて切り口が鋭利になるため、ナイフ、矢じりとして重宝されました。黒いイメージがあります。しかし、ガラスのように茶色、透明なものもあります。
和田峠
和田峠はフォッサマグナの北側にあります。諏訪地域と上田地域を結び、長野県における交通の要所の一つです。足元に光る黒曜石のかけらを人々が空から降ってきた星のかけらだと信じたことがきっかけで、黒耀石が盛んにとれる場所に星という字の地名が多く見られます。和田峠周辺には、星糞峠、星ケ台など星がつく地名が多くあります。太陽に透かすと幻想的な光を放つことから、黒曜石にまつわる神話も誕生しました。
黒曜石は金属の加工技術がなかった時代において、最もよく切れる石器の材料でした。特に八ヶ岳周辺でとれる黒曜石は純度が高く高品質で割れ口が鋭く加工しやすい特徴がありました。矢じり、包丁代わりに使われることが多かったです。黒曜石の分布は、和田峠や八ヶ岳山麓から、山梨、群馬、長野県北部へ伸びていきました。
八ヶ岳山麓
特に八ヶ岳南麓で遺跡が多く見つかり、4人に一人は住んでいたと言われるほど、日本有数の人口密集地帯でした。当時の日本は現在より平均気温がやや高く、八ヶ岳山麓も現在の九州くらい温暖でした。落葉広葉樹の森林が広がり、ドングリ、クルミなど木の実も豊富に取れました。当時の人々の生活は、中央に大きな広場を作り、周辺に2,30軒の竪穴住居を建てて大きな村を作って暮らしていました。春夏は山菜、秋は木の実、冬は落とし穴を掘ってイノシシ、鹿などを狩猟して食べていました。
八ヶ岳山麓で出土された土器は紋様が複雑かつたくさんあり、特に美しく、世界一豪華な土器と陶芸家バーナード・リーチさんは語りました。また、岡本太郎さんも、作品の発想は縄文土器から得られていると話しています。栄養失調で亡くなる方が多く、当時の平均寿命は30歳前後だったと言われています土器の紋様は、無事に生活できますようにという願いも込められていたと考えられます。
富士見町の井戸尻遺跡、茅野市の尖石遺跡など遺跡が多いです。縄文のビーナスは日本で始めて縄文時代の遺跡から見つかったものとして国宝に選ばれました。縄文のビーナスは、妊婦女性の様子を表しており、祭りのために作られたと考えられています。茅野市では仮面の女王という国宝の土偶も発掘されました。
原料を求めて人はいつの時代も移動する
縄文時代、人々はヒスイ、黒曜石を求めてフォッサマグナ沿いに住んでいたことが分かりました。重要な原料の集まる場所に人が集まることは、5000年経っても変わりません。金山の見つかった佐渡島、伊豆半島西部の土肥町、石炭で栄えた北海道空知地方、福岡県筑後地方など、歴史をたどっても、需要のある資源を求めて採掘するために、人々が集まり、街がつくられる歴史がありました。
青森市にある山内丸山遺跡を訪れたときの話もぜひ、お読みください。