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【哲学小説】ギリシャ自然哲学時代③ エレア学派とヘラクレイトス | 雨音とウイスキー、あるいは変化と流転の迷宮について

 雨だった。それも、まるでバケツをひっくり返したような土砂降りだ。僕は行きつけのバーのカウンターで、ウイスキーを傾けながら、窓の外をぼんやりと眺めていた。灰色のカーテンのように降りしきる雨は、まるでこの世界全体を洗い流そうとしているかのようだった。

「こんな雨の日は、ヘラクレイトスの言葉を思い出すわね」

 隣に座っていた彼女は、静かにそう言った。彼女は、僕が時々会う、大学で哲学を教えている女性だった。名前は、確か、アヤだったと思う。彼女はいつも物静かで、何か深いことを考えているような、不思議な雰囲気を持っていた。

「万物は流転する」、ヘラクレイトスと燃え盛るロゴス

「ヘラクレイトス…? ああ、"万物は流転する"の、彼のこと?」僕は曖昧に相槌を打った。ヘラクレイトス。古代ギリシャの哲学者で、「人は同じ川に二度と入ることはできない」という言葉で有名だったはずだ。

「そう。彼は、万物の根源を「火」だと考えたの。火は常に変化し、燃え盛ったり、消えそうになったりしながら、絶えず流動している。彼は、この世界の全てが、火のように絶え間ない変化と流転の中に存在すると考えたのよ」

 アヤは、ウイスキーのグラスを軽く回し、琥珀色の液体を揺らしながら、静かに語り始めた。彼女の言葉は、まるで雨音に溶け込むように、僕の耳に届いた。

「火か…」僕は、グラスの中の氷をカラカラと鳴らしながら言った。「確かに、火は常に形を変えている。燃え尽きると、跡形もなく消えてしまう。でも、火が世界の根源だなんて、ちょっと想像しにくいな」

「そうね。彼の思想は、当時の人々にとっても、あまりにも斬新だったのよ。彼の故郷、エフェソスの人々は、彼の言葉を理解することができず、彼を狂人扱いしたと言われているわ」

 革新的な思想は、しばしば時代の波に飲み込まれ、理解されないまま消えていく。それは、いつの時代も変わらない悲劇だ。

「でも、ヘラクレイトスにとって、「火」は単なる物質的なものではなかったの。彼は、「火」を「ロゴス」―世界の秩序と理性を象徴するものと考えていたわ。「ロゴス」は、万物を生成変化させる原理であり、同時に、万物を一つにまとめる調和の原理でもあるの。まるで、音楽を奏でるための楽譜のようにね」

「ロゴス…」僕は、その言葉を繰り返した。どこかで聞いたことがあるような、それでいて、全く新しい概念のように思えた。

「ヘラクレイトスは、「一者」という概念も重要視していたわ。彼は、この「一者」こそが、世界の根源であり、すべてのものの源であると考えたの。そして、この「一者」は、「火」として現れ、世界を生成変化させていく。でも、その変化は、決して無秩序なものではない。彼は、「矩(のり)」という概念を用いて、世界の変化は一定の法則に従って行われると考えたのよ」

「矩…?」

「そう。「矩」は、尺度とか法則といった意味ね。ヘラクレイトスは、世界の変化は、まるで川の流れのように、絶え間なく動いているけれど、同時に、ある一定の法則に従って流れている、と考えたの。だから、人は同じ川に二度と入ることはできないけれど、川は、常に「川」として存在し続けることができるのよ」

「なるほど…」僕は、アヤの言葉に耳を傾けながら、グラスを傾けた。「でも、もし世界が常に変化し続けているのだとしたら、そこに、何か確かなもの、変わらないものを見出すことはできるんだろうか? 世界の変化は法則に従っているとしても、僕たちの周りにあるものは生成したり消滅したりしている。そこに、何か確固たるものを見出すことはできるのかな?」

「ヘラクレイトスは、まさにその「確かなもの」を「争闘」の中に見たのよ。彼は、「万物は争闘から生じる」と考えたの。例えば、昼と夜、熱と冷、善と悪…世界は、こうした相反するもののせめぎ合いによって成り立っている。そして、その争闘こそが、世界の変化を生み出す一方で、世界を「世界たらしめている」確固たるものなのよ」

「争闘が、確固たるもの…?」僕は、少し戸惑った。争いは、どちらかというと、不安定で、破壊的なイメージがある。

「そう。一見すると、争いは混沌と破壊をもたらすもののように思えるかもしれない。でも、ヘラクレイトスは、争いは同時に、新しいものを生み出す力であり、世界に秩序をもたらす力でもあると考えたの。彼は、「調和は対立するものの結合から生まれる」と言っているわ。まるで、音楽が、異なる音符の組み合わせによって、美しいハーモニーを奏でるようにね」

「なるほど…。争いによって、世界は変化していくと同時に、その変化の中で、ある種の均衡、あるいは調和が保たれている、ということか」

「ええ、そう言えるわね。ヘラクレイトスにとって、争闘は、単なる破壊的な力ではなく、世界を生成発展させる、創造的な力でもあったのよ」

エレア学派の影、あるいは永遠なる「存在」

「ヘラクレイトスの思想は、彼の弟子たちによって受け継がれていったわ。特に、エレア学派と呼ばれるグループは、ヘラクレイトスの思想を批判的に継承し、独自の哲学体系を築き上げた」

「エレア学派?」僕は、その名前を聞いて、かすかに記憶が蘇ってきた。「確か、パルメニデスっていう哲学者…?」

「そう。パルメニデスは、ヘラクレイトスとは全く逆の立場を取ったの。彼は、「運動は存在しない」と断言したのよ」

「運動は存在しない…?」僕は思わず聞き返した。「でも、僕たちは、確かにこの世界で、様々なものが動いているのを、この目で見ているのに…」

「パルメニデスは、私たちの感覚は、しばしば私たちを欺くものであり、真の知識は、理性によってのみ得られると考えたの。理性によって導き出される真理こそが、「存在するもの」は永遠不変であるということだったのよ」

「永遠不変…?」

「そう。パルメニデスは、「存在するもの」は、不生、不滅、不動、不可分、完全であると考えた。つまり、「存在するもの」は、時間や空間を超越した、永遠に存在し続ける、完全なものであると考えたの」

「でも、僕たちが見ているこの世界は、常に変化し続けているよね? パルメニデスの言う「永遠不変の完全なもの」なんて、どこにも見当たらない気がするけど…」僕は、アヤに疑問を投げかけた。

「パルメニデスは、「存在するもの」と「存在しないもの」を厳密に区別したの。彼は、「存在しないもの」は、考えることも、語ることもできないと考えた。彼は、「存在するもの」を「エオン」とも呼んだわ。「エオン」は、永遠に存在する、完全な球体のようなものとイメージされていたの」

「完全な球体…?」

「そう。球体は、どこから見ても同じ形をしているでしょ? パルメニデスにとって、「エオン」は、どこから見ても、いつ見ても、変わらない、完全な存在だったの」

「でも、もしこの世界が「永遠不変」だとしたら、僕たちが経験する「変化」や「運動」は何なんだろう? それらは、すべて幻想ってことなのかな?」

「そうね、パルメニデスにとっては、変化や運動は、理性的に考えると矛盾が生じてしまうものだったの。例えば、何かが「動く」ということは、ある場所から別の場所へ移動するということよね。でも、パルメニデスは、「存在しないもの」へ移動することはできない、と考えた。なぜなら、「存在しないもの」は、考えることも、語ることもできない、つまり「ない」のだから」

「運動は存在しない…?」僕は思わず聞き返した。「でも、僕たちは、確かにこの世界で、様々なものが動いているのを、この目で見ているのに…。例えば、このバーから家へ帰ったり、会社へ行ったり、確かに移動している感覚があるんだけど…」

「パルメニデスにとって、そういった日常的な感覚こそが、私たちを真実から遠ざけるものだったのよ。彼は、感覚はあてにならない、真の知識は理性によってのみ得られると考えたの。そして理性的に考えると、運動はありえない、と結論づけた。彼の弟子のゼノンが、その考えをさらに推し進めて、「ゼノンのパラドックス」と呼ばれる、運動の不可能性を示す逆説をいくつも提示したわ。ゼノンは、論理的に「運動は存在しない」ということを証明しようとしたのよ」

「ゼノンのパラドックス…? 例えば、どんなものがあるんだい?」

「例えば、「アキレスと亀」のパラドックスね。足の速いアキレスが、亀と競争をする。ただし、亀には少しだけハンデを与える。すると、アキレスが亀のスタート地点に到達した時、亀は少しだけ前に進んでいる。アキレスがその地点に到達する頃には、亀はまた少し前に進んでいる。これを繰り返していくと、アキレスは、理論上、永遠に亀に追いつくことができない、というパラドックスよ」

「なるほど…。確かに、論理的にはそうなるのかもしれないけど、現実には、アキレスは簡単に亀に追いつけるよね?」

「そう。ゼノンのパラドックスは、僕たちの常識的な感覚とは矛盾しているわ。でも、彼は、このパラドックスを通して、運動や変化というものが、論理的に考えると、いかに奇妙で、矛盾に満ちたものであるかを示そうとしたのよ」

多神教から一神論へ、クセノパネスの挑戦

「エレア学派の思想は、パルメニデス以前のクセノパネスにも遡ることができるわ。クセノパネスは、当時一般的だった、人間の姿をした神々の存在を批判し、唯一絶対の神の存在を主張したの。彼は、神は世界を超越した存在であり、人間のように感覚や感情に左右されることはないと考えたのよ」

「唯一絶対の神…?」

「そう。クセノパネスの思想は、後の西洋思想における一神教の概念に大きな影響を与えたと言われているわ。彼は、神は不生不滅で、世界全体を支配する、完全で不変の存在だと考えたの」

「エレア学派とヘラクレイトス。彼らの思想は、一見すると対立しているように見えるわね。でも、彼らは皆、この世界の根源的な原理を解明しようと、思考の限りを尽くしたのよ。彼らの格闘は、哲学の歴史における、重要なマイルストーンと言えるでしょうね」

 アヤはそう言って、静かにウイスキーのグラスを口に運んだ。窓の外では、雨はほとんど止んでいた。雲の切れ間から、月が顔をのぞかせ、街を銀色に染め上げていく。その光景は、まるで永遠に続く静寂のようでもあり、また、新たな変化の始まりを告げているようでもあった。

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