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ジェネレーションギャップ


小堀遠州。私の1番好きな茶人である。
桃山時代から江戸時代前期に活躍した大名茶人で、豊臣秀長・秀吉と仕え、徳川政権下では茶人としてだけではなく、日本の名だたる名城や、庭園の作庭を差配した、マルチタスクな超スーパー官僚だ。


遠州は後に、「綺麗さび」と称される美的概念を生み出したが、その概念は、「均整を重んじる・王朝文化の要素を取り入れる・高度に洗練されている」という特徴を持っている。

創元社から刊行された「小堀遠州」(森蘊 著 / 恒成一訓 写真)では、遠州の生い立ちから事績、茶の様々まで、余すことなく記されている。
建築・庭園・道具・エピソード等々、枚挙にいとまがない。


その中で強く印象に残っているエピソードがある。
晩年に、将軍用の公金1万両を流用したという嫌疑が遠州にかかった。
その一件が将軍の耳に入り、遠州、ひいては小堀家にお咎めが及ぶことに対して、「このような過失で、天下の名物を失うことは非常に残念だ」といい、酒井忠勝が奔走し、井伊直孝、細川忠興とで、その1万両を償った。
特筆すべきは、細川忠興は、必ずしも遠州に対して好意を抱いていた間柄ではなかったこと、それでもなお、遠州を助けたというところに、常日頃からの人柄の良さが伺える。
実際に、遠州が公金を流用していたかは分からないが、身を切ってでも、助けるに余りある人物であった遠州に、やはり感銘を受けた。


さて、遠州は少年時代に1度だけ千利休と出会い、青年期には古田織部から茶の手解きを受けた。
とはいっても、利休とは57歳の年齢差、直接の師匠である古田織部とも36歳の年齢差があった。
後世、遠州は利休や織部に遠慮して、それぞれの好み物を茶席で使用しなかったと伝えられているが、自分は単純に、流行の一時的な終焉(ジェネレーションギャップ)だったのではないか‥と勝手に考えている。
のちに遠州自身は、利休が現在(江戸前期)に生きていれば、「今の私と同じようなお茶をしたでしょう」と語っていることから、その時代時代に合った表現が求められていたことは確かであると思う。


自分の本職である長距離界でも、トレーニング理論やウェア、シューズなどの進化がめまぐるしい。「10年ひと昔」とよく言うが、もはや「3年ひと昔」だ。
どの業界においても、流行り廃りのサイクルがさらに加速している。

一時的な流れには乗りたくないが、先人たちが築き上げた、確かな美意識を大切にしつつ、今様を取り入れながら、常に進化していきたい。
そして、遠州のような人物に近づけるように精進したいと思う。

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