なぜ「お茶が好き」と言えないのか。
好きだという自覚がなくとも熱中できたり,考え続けることができたり,気分が最悪な日もお茶を点て続けたりできる。1日の過ごし方を考えることは,1日のどこにお茶の時間を設けるかを考えることであり,プライベートでもお茶がきっかけの人々と会っている。
しかし,別に「お茶が大好きです」と話したことはない。少なくとも,自分からそのようなポジション取りをしたことはない。
ではなぜ現代茶道を(学士から修士まで)論文の主題にしたかというと,茶道を手放しで好きだと言えないことに対する疑問が根底にある。
例)茶道教室の料金システム
私が体験した例だが、茶道教室にはお中元とお歳暮の金額が先生に指定される季節の挨拶(現物ではなく現金払い),生徒によって金額の異なる退会金などがある。(現金システムや退会金は,私のいた茶道教室だけだと思いたい)
全く納得できない料金体系だったのだが,そこには「好きでお茶を習ってるんだから払うのが当然だ」という前提がある。「趣味」でありながら辞めるにもお金がかかり,納得しがたいものにお金を納めるというビジネスモデルが,現代でも普通に存在していた。
その教室に通いながら茶道を好きだと発言することは,その料金体系に納得することと同義になる。
ただし月謝プラス謎の会費は,遅れることなく1年納め続けた。当時は学生だったが,払い続けられなくなったというよりは,それ以上はその先生に払いたくなくなったというのが正しい。
そこに通い続けていたら,茶道を嫌いになるだろうと思ったのだ。
環境に恵まれなかったせいか,どうもお茶のことを好きと言えない人生が続いていた。茶道や「お茶」自体が悪かったというより,私のいた場所がよくなかった。それは認める。(※通常は複数の教室を見学してから入門できます)
あの時すべきだったのは,一つ目で決めずに,いい教室を探し続けることだっただろう。
ちなみに1年通ったその教室は,問い合わせの段階で住所を聞かれ,見学の段階で入会金を払わされ即日入門する形式だったので,他の茶道教室巡りはできなかったのだが。
入学金だけ払いその場は帰宅し,その後一回も来なかった人の数は,毎週通っていた生徒数よりも多い。
そのトラウマもあり,茶道教室の門を自ら叩くことはもうないと思う。
(私もすぐに「この教室はまずい」と思い指導教官に相談したら,「今どきそんな教室は珍しい。よく見つけた」と逆に褒められ,修論の肥やしにする思いで,1年間はそこでフィールドワークをすることにした。だからそういった教室でも,すぐに辞めることはなかった。)
そうやって研究もプライベートも茶道に費やしてきて,端から見れば茶道が大好きな人だった。でも実際には,「好き」だけで突っ走ってなどいない。
好きだから引き受けたいと思うような苦労だったわけでもなく、逐次その苦労を苦労として,不快なものとして受け取っていた。
好きの度合いによって,嫌いな部分が嫌いじゃなくなるようなことはなかった。
東京五輪のボランティアがなぜ「搾取」なのか
立場の弱い側の払う対価があまりにも大きいとき,なんらかの経験と労働力を引き換える行為は「搾取」だと言われる。
「好きなんだったらいいでしょう」「好きでやってるんでしょう」という一言で,一方的に不利な条件を引き受けることになったり,理不尽な理由で金銭的にもマイナスになるのは,オリンピックのボランティアなどと変わらない。少なくとも私は,納得がいかない。
つまり自分にとって,上述の内容を把握しつつお茶が好きだと発言することは,理不尽を取り込み,自分の尊厳や意志を失うようなものだった。
換言すると,ただ好きというだけで「お茶」という世界にぶらさがっているのではない,と示し続けるところに自分の意志があった。
だから,「好きでやってるんでしょう」という他人からの言葉は,好きという気持ちと,好きでいる意志を削ぐものなのだ。
茶道教室で起こったことを茶道を習っていない人に話せば,お茶ってネズミ講でしょと,(茶道教授者本人ではなく)私が言われてきた。相手が茶道修練者であればあるほど,「よくあること」「お茶はそういうもの」の一言で片付けられる。
茶道教室の生徒とは,「お茶はそういうもの」と納得できた人々だ。私も他の茶道修練者のようにそこで納得できたら,茶道教室に大人しく通うことはできた。
それと引き換えに,あの修論は1行も書けなかっただろう。
私一人が教室に通わなくても茶道教室ビジネスは続く。
茶道なんてお金と時間に余裕がある人がやればいいものだからこそ,私は違うものは違うと言いたかった。「好き」などという言葉で違和感を誤魔化したくなかった。
教室を探し回る代わりに,毎日家でお茶を点て始め,現在まで続けてきた(下記インスタ参照)。お茶を続けるには茶道教室にお金を払わなければいけない,という決まりはないのだ。
「好きでやってるんでしょ」とか「好きなら納めるお布施」とか,そんなものを気にしなくていいお茶は,家の中の1畳のスペースにしかなかった。
だから,私とお茶との関係とは,好きだと言えるか言えないかのせめぎ合いだった。それは,お茶自体が良いものだとか悪いものだとか,そういう議論ではない。ただ私がハズレの教室に当たっただけ。
ただし運試しのようにクジを引き続けるよりは,教室の中に理想の世界を見出すことを諦め,「無い世界は自分で創らなければならない」と感じた。
今も家で「お茶」はしていますが,茶道教室に関してはもう門を叩くことのない世界なので,個人的な話は避けてきました。
その教室の先生であれ誰であれ,もう誰のことも恨んではいません。修論のあとがきに書いたように,好きなほうのお茶も好きになれなかったほうの茶道も,どんなお茶も等しく現代のお茶だと思えたのは,もう恨む段階を超えたことを意味しています。
お茶をする理由が,「お茶を好きだから」で収まらない思いであることと,周囲の「お茶を好きでやってるんでしょ」という認識のズレがずっとあったので,書きました。
↑ そうやって書き上げ,全文無料公開中の論文はこちら。
私なりの「好き」の示し方です。
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