忘れることのない日に、私はnoteを始めた
一年前の今日、私はnoteを始めた。
どうせ始めるなら自分にとって忘れることのない特別な日に、と思って11月15日スタートになった。
その日は親父の命日。
毎年この日が来るたび、親父のことを思い出す。だから、私がnoteを続ける限り、毎年この日は親父のことを書こうと決めた。親父が私に遺してくれたものを、親父の生きた証としてnoteに残していこうと思う。
これは今から30年近く前に母から聞いた話。
私の田舎はとても雪深く、スキー場も多い。当時、私の地元にはまだ高速道路がなかったために、スキー場へ行くには国道とは名ばかりの田舎の一本道を通るしかなかった。
なので、スキーシーズンになると毎年大渋滞が起こる。もしどこかで事故などが発生したら何時間も足止めされるような状態だった。
ある冬の日の夕方近く。
スキー帰りの車で国道はその日もかなり渋滞していた。車列はずっとノロノロ運転だったが、しばらくして全く動かなくなってしまった。どうやら渋滞のどこかでトラブルが発生したようだ。
国道沿いで飲食店をやっていた両親は、渋滞の様子をお店の窓越しに見ていた。30分経っても40分を過ぎても全く動かない車列。そんな時、親父がおもむろに大きなやかんを取り出して、お湯を沸かし始めた。
───何やってるんだろう?
訝りながらも、頑固で変わり者の親父のやることを母は黙って見ていた。
すると今度は茶葉を用意し始めた。どうやら、その大きなやかんでお茶を作るようだ。ただ、その日は団体の予約が入っているわけでもないし、日頃お茶は飲むが、そんな大量に作る必要はない。
つまり、お客さんに出すためのお茶ではないということ。では、その大量のお茶をどうするのだろう?
変わり者の親父のすることを黙って見ていると、今度は紙コップを引っ張り出してきた。そして───
左手に紙コップを持ち、右手に温かいお茶の入った大きなやかんを持って親父は外に出た。
「やかん持って何しに行くの?」
いよいよ母も、謎すぎるその行動の理由を訊いた。
すると親父は
「大変そうやし、かわいそうやで」
そう言って、少し先で立ち往生していた大型観光バスへと歩いていった。そして運転手さんにバスのドアを開けてもらい、バスに乗っている人たちにお茶を振る舞い、さらにそのあとに続く車にも同じようにお茶を配ったのだ。
しばらくして、空になった大きなやかんを片手に親父は満足げに帰ってきた。
「人がいいにもほどがある」
母はそう言って呆れながらも、つい笑ってしまったらしい。
親父はちょっとはにかんだ笑顔を浮かべつつ、料理の仕込みを始めた───
自分に何の得がなくても、自分が多少損をしても、誰かが喜んでくれたらそれでいい。まんが日本昔ばなしに出てくるような場所で本当にあった、まんが日本昔ばなしに出てくるような話。
その物語の主人公が自分の父親であることを、私は今も誇らしく思っている。
気持ちが優しすぎて、絶望的に商売には向いていない人だった。原価300円のものを300円で出そうとする人だったから、母がいなかったらとっくにお店は潰れていただろう。
晩年はお酒に溺れ、お酒に呑まれてしまったけれど、心優しい人だった。
今思えば、気持ちの優しさゆえにいろんな人に利用され騙されることも多かった。もしかしたら、その悲しさや、やるせなさをお酒で忘れようとしていたのかもしれない。
田舎にいた頃も、都会へ出てきてからも、私は私利私欲にまみれた人は死ぬほど見てきたが、親父ほど心の優しい人には会ったことがない。
「ボロは着てても心は錦」
振り返ればそんな人だった。そして図らずも、親父は身をもって私にそのことを教えてくれた。
世の中、優しいだけでは生きていけないけれど、人としての心の優しさと豊かさなくして人である意味はないと私は思う。
その思いを胸に、一年後の今日、また親父の話を書くのを楽しみに、私は今日も前を向いて生きていく。
ただ、命日だからとしんみりするのはなにか違う気がする。だから、出来るだけ面白おかしく、そして明るく、親父のことを語り続けていきたい。
来年はたくさん笑える話を書こうと思う。