「菜の花の沖」最終巻 胆力と誠実の巻
北方船のことを知りたい、と読み始めたこの本。
最終巻は圧巻だった。
主人公高田嘉兵衛は、淡路島の貧しい家で生まれ、口減らしのために隣の集落の血縁を頼り、働いた。
そこで、命を覚悟するような村社会のいじめに合い、遂には島を逃げ出し、神戸の血縁の廻船問屋を頼った。
立場は低かったが、船の動かし方や天候の見方、世の中の道理を鋭い視線で観察し、力をつけていった。
廻船問屋は、既得権益があり新参者は軽々しく入っていけない。
その中で、自分なりの道理で物事を進め、恩知らずと言われようと、彼なりに新天地を拓いていった。
海運を目指すものは「板子(船底)一枚下は地獄」と言われ、何かあれば死ぬリスクの高いものだった。
蝦夷地での新しい航路を見つける作業は、今で言えばまるで世界的に難しい山の新しいルートを確立するアルピニストにも似ていると思った。
彼は、既得権益の中の使い走りに満足せず、自分の五感と方法で、メキメキと、彼らと互角になるほどに力をつけていった。
恵まれた環境で育っていない分、自分の目で見て、頭で考えて、自分の足で立つ、ということを幼少の頃から、どんな時もずっと続けてきた。
その積み重ねで大きな新興勢力となった高田嘉兵衛の存在感と、蝦夷との本州の交易を増やそうとしていることに、幕府は着目した。
当時、ロシアが蝦夷に現れるようになってきたからだ。
ロシアと日本の国境の線引をするために、今で言う北方領土に幕府側で産業を興し、日本の領土であるとアピールする活動が、必要だった。選ばれた高田嘉兵衛がその活動に注力している時に、ロシア側との衝突が起きてしまった。
非礼な幕府側の態度と、それに反応して北方領土を攻撃するロシア艦長。
解決のために蝦夷に降り立った、別のロシア人を拉致する幕府。
今度は拉致者を解放するための交換条件であり情報収集のために、別の日本人を拉致するロシア人。
最後に拉致されたのが、高田嘉兵衛だった。
彼と同船の数名は、オホーツクの町に連れられていく。
彼は覚悟を決めた。
五里霧中の未航海の地を、小さな船でさまようほどに、何が起こるかわからない未知のロシア極東の小さな港町という世界に幽閉され、希望を失わず、何が問題の本質であり解決ができるかを考えた。
ヨーロッパの常識を持った国と、鎖国をして全く異次元の常識を持った日本の間で、唯一の日本側の考えを伝えられる代表である日本人だった。
彼は、1年弱の拘束の中で、ロシア語も覚えた。
つたないロシア語かも知れないが、そこに胆力と誠実さをいつも持って、ロシア側と接した。
彼が判ったのは、ロシア側の絶対的な使命は拉致されたロシア人を解放することであり、高田嘉兵衛自身はそれを可能にできる唯一の立場であるということ。
彼らとの信頼を作るために、言葉が伝わらない場面でも、あらゆる方法で自分の意見を伝え、少しでも問題解決に繋がらない考えをロシア側が持っていれば、命をかけて、その間違えを指摘し、大きな喧嘩の末に、よりお互いの信頼関係を作り上げてきた。
高田嘉兵衛と相手側の日記が残っていることから、当時の意見のぶつかり合いと、それができるゆえの信頼関係が生まれてきたことがリアルに分かる。
最終巻を読んでいて、思い出したことがある。
「そうだ、司馬遼󠄁太郎はいつもこういう人を描いていた」
形式主義を見限り、自分の目で見て、自分の頭で考えて、本質を見極めて自分の足で立ち、世の中を変えて行く人を。
第一巻の感想でも書いたが、司馬遼󠄁太郎は太平洋戦争を戦車隊の部隊で終えた。
敗戦の直前、「米軍が本土に上陸して、日本人が逃げて道が塞がった時にどうすれば良いか」上司に聞いたところ、「轢き殺して行け」と命令したそうだ。
この時の怒りや不条理感が、小説を書くきっかけになったという。
その上司は、きっといわゆる形式主義を守るエリートの象徴だ。
ゼロから自分で見て、考えて、行動する叩き上げの人間ではなく、言われたことを善悪考えずに、上司に褒められるためにのみ動く人間として、そのようなエリートが、司馬遼󠄁太郎の様々な小説の中で書かれている。
無思考になっている、彼らに対する怒りが、小説の主人公に託されている。
低い身分ながら、物事の道理を極め、古い常識を廃して、人として、人種を超えて普遍的な生き方をした稀有な人間像を描くことで、批判しているとも言える。
話は少し飛ぶが、正義という言葉がある。
ある人の言葉に納得した。
人それぞれに正義がある。
例えば、ある人は自分の子供を守ることであったり、信じる宗教を守ることであったり、国に殉じることであったり、誰にも理解できないことであったり。
人にとって、自分の正義とは自分の命よりも大切なものであり、命を落とすことも厭わなくなるという。
生きていくうえで、正義は大切なものであるが、宗教戦争やイデオロギーの戦争のように最終的にお互いの正義を振りかざして殺し合うのでは、正義は人類最高の価値観ではないはずだ。
なんだろう、と考えていた。
高田嘉兵衛とロシア側長官との、ギリギリの、命とお互いの正義とのせめぎ合いの中でも、失わなかったものがあり、司馬遼󠄁太郎はそれを伝えたかったんじゃないだろうか。
誠実であることだ。
正義は、その正義を破壊するものを命をかけて、破壊する。
しかし、究極の誠実さは、お互いの異なる正義をぶつけ合い、解決策を見出し、その解決のために、命と信頼をかける。
この誠実さを、一人の日本人と一人のロシア人が、ギリギリの所で持てたからこそ、幕府とロシアとの戦争を、江戸時代に免れた。
司馬遼󠄁太郎は、それを日本人に問いかけている。
本当の誠実さとは何か。
私自身の胸に当てて見れば、高田嘉兵衛のような立派な人間にはなれない。
それでも、そのエッセンスの一滴でも受けて、生きていきたいとは思う。
彼らのような胆力も、誠実さもないが、少しでも意識して。自分の目で見て、自分の頭で考えて、自分の足で立つことはできる。
日々の暮らしの中で、それは実行していきたい。
天ぷら屋として、旅人として。