非網膜的VR体験としての『鍼を打つ』──百瀬文『鍼を打つ』評
田中みゆき(キュレーター/プロデューサー)
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私はバーチャルリアリティ(VR)が苦手だ。VRの代名詞である、あのヘッドマウントディスプレイの重さや装着時の違和感は言わずもがな、自分の手を見下ろして解像度の低いCGの「手」が見えるとき、私はそれを自分の手と思い込むことがどうしてもできない。視覚に依存した私にとってVRは、ここにいながらここではないどこかに連れて行ってくれる装置ではなく、頭に重しをつけてここに取り残された自分を強烈に意識させられてしまう映像体験だ。そんな私にとって、百瀬文の『鍼を打つ』は、特別なデバイスを必要としないにも関わらず、VRの本質とは何かを問い直すような上演だった。
6台ほどのベッドが円形に並んだ部屋に入ると、6枚の問診票に回答するよう指示される。その問診票は、「喉の奥に痛みがある」「頭痛がある」などの問診票らしい質問と、「始まりと終わりがある物語は安心する」「過去と未来を行き来している」など、身体と直接関係がなさそうな質問によって一見脈絡なく構成されている。私はベッドに腰掛け当てはまるものにチェックをつけると、鍼師が来るのを待つ。やってきた鍼師は男性だった。鍼師はベッドの側の椅子に腰掛け、私がチェックした問診票を黙読する。私は促されるままにイヤフォンをつけてベッドに横になると、やがてヘッドフォンから女性の声が聞こえてくる。そして鍼師は施術の準備を始める。
百瀬は、人間の関係性における不均衡さやそこに潜む政治性と、映像というメディアが常に孕む、見る/見られる関係の非対称性を重ねる映像作品をつくってきた。今回は音声と施術(物理的な接触)のみで、映像は用いられないようだ。しかし、連続した質問と応答という構成は、百瀬の作品に度々登場する。そのうちのひとつ、『The Examination』(2014年)では、視力検査を題材に、医師と被験者の間の応答が扱われている。主従関係が一見明確な二人の関係性は、被験者が通常では行われない応答をし、医師がそれを解読する立場に回ることで、反転していく。検査中、二人の間に言葉のやり取りはなく、視覚的な記号によって主が徐々に被験者側に移行するさまが、端的かつ鮮やかに表象されていく。医師と被験者の関係が今度は鍼師と私であるならば、記号に代わる共通言語は何でありうるのだろう。
女性の声は、先ほど問診票で答えた覚えのある質問を、違う順番でゆっくりと読み上げていく。つい先ほど自分が心の中で読み、応答した質問が、異なる声を伴うことで、もはや自分から離れた物語のように思える。イヤフォンのため確かめようがないが、他の体験者も同じ音声を聴いているのだろう。読まれる順番にどのような意図があるのか思いを巡らせているうちに、施術は両腕からお腹、両足と進んでいく。鍼師との言葉のやり取りはない。私から鍼師に働きかける術もないので、問診がどれくらい施術に影響を与えているかを知る由もない。
鍼師は、鍼を打つ前に、私の身体に触れる。鍼師の手は目の代わりに触ることで見えないものを見ているようにも感じる。全盲の鍼師の友人が、見えなくなってからの方が鍼の腕が上達した気がする、と言っていたことを思い出す。患部に鍼を打つ感覚は、目の焦点が合うような感覚なのだろうか。鍼を打たれる度に、痺れるような感覚を覚える。それは思っていたよりも深く、鍼の細さから想像するよりも意外な重さを伴っている。熱を持っているように感じる箇所もある。私の身体は鍼師に何らかの応答をしているに違いない。言語や記号では記述し得ない、身体のことばによって。
人は痛みには精神性を感じる傾向があり、それゆえ痛みと芸術との縁は深い。しかし痺れや痒みなど、その他の身体の感覚は同等の尊重や敬意を得ていないように思う。痛みはその背後にある社会や時代と関連づけやすく、物理的な現象としてだけでない表象やイメージを獲得している。一方、痺れなどは極めて個人的な感覚と片付けられるだろう。視覚や聴覚と比べて触覚を表すボキャブラリーが驚くほど少ないように、私たちの身体には言葉で掬い上げられていない、あるいは知覚すらされていない無数の感覚が眠っているのだろう。
感覚と知覚は混同されがちだが、異なる機能であるといわれる。感覚は、刺激に応答してタンパク質が神経を興奮させることであり、知覚は、神経にもたらされた情報が大脳に至って意識することを指す。つまり、感覚機能は作動していても、知覚していないことは人間には多くあるようだ。たとえばVRがテクノロジーで感覚を擬似的に拡張し対象を知覚させる手法なのに対して、鍼師という媒介者がもともとある感覚の様子を伺いながらそれが知覚されるよう呼び起こすこのやり取りは、とても生成的なものに感じられる。
鍼師の手、そしてそれが媒介する鍼が、私自身も普段は知覚し得ない感覚に働きかけていくのと並行して、イヤフォンからの音声は、私の意識に語りかける。私は次第に、声を聴くことと、身体の感覚に身を委ねることを同時に行うことの難しさに気づく。声が読み上げるテキストの意味を追おうとすればするほど、身体さえも自分から離れていくような気がする。所々痺れている点が、私の身体を物質として現実に繋ぎ止める。意識と感覚が徐々に内側から分離されていき、私は迷子になる。
声がイヤフォンではなくスピーカーから流れ、他の体験者とも公に共有されるものだったなら、感じ方は変わっていただろう。声はイヤフォンによって空気を介することなく私の耳に直接入り込み、私はイヤフォンを外さない限り知覚することから免れず、声が立ち上げるフィクションから逃れることはできない。また一方で、人間の意識もフィクションである。それは、視覚や聴覚などの体性感覚や過去の記憶をもとに、「過去の自分と今の自分、そして未来の自分が同一の存在であるとするフィクション」と皮膚科学研究者の傳田光洋は語る。最初は度々身体に引き戻されていた意識は、次第に身体を構うことなく、声と戯れていく。[1]
これらの知覚の変容を、まなざす対象なしに、いやまなざす対象を自分自身の身体として起こすこと。そしてテキストが意識と感覚を結ぶと同時に引き剥がす役割を果たしていることが、この体験を演劇足らしめていると言えるだろう。高山明は『テアトロン』の中で、演劇とは「わたし/わたしたち(観客)の知覚の場」であり、演劇の実質とは「わたし/わたしたち(観客)の受容体験」[2]と述べている(話は逸れるが、高山の作品においても一問一答という形式が度々採用されてきた点も興味深い)。『鍼を打つ』は、当初紙に書かれた質問であったテキストが、誰かの声を伴ったり、順序を変えたり、消えたり、それ自体も姿や意味を変容しながら、体験者の受容する感覚器を媒介者の介入によって変容させることがパラレルに進行するという野心的な試みだ。
ここで改めて、VRとは何なのかを確認したい。VR研究の第一人者である舘暲は、「人間が捉えている世界は人間の感覚器を介して脳に投影した現実世界の写像であるという見方にたつならば、人間の認識する世界はこれも人間の感覚器によるバーチャルな世界であると極論することさえできよう」[3]と言う。人が受け取る情報の約8割は視覚情報が占めると言われ、VRにおいても多くの場合、視覚提示が最重視されてきた。つまり、従来のVRは、現実世界の視覚情報を遮断しながら別の写像を投影することで、バーチャルな世界を提示してきた。しかしVRの本質に立ち返った時、私たちそれぞれが知覚する世界はすでにバーチャルであり、今ここにいる私たちの感覚を塞がずとも、それぞれの個別的な感覚が別のリアリティを立ち上げることは可能なはずである。必要なのは、むしろ意識や同一性が重んじられる現実世界において閉じてしまった感覚を開く技術なのかもしれない。それこそまさに、演劇が脈々と行ってきたことであり、演劇ができるケアでもあるのではないだろうか。
施術が終わろうとした時、鍼師から私に強いまなざしが送られた気がした。それはおそらく実際の時間よりもとても長く感じられた。見つめ返す準備ができていなかった私は、何となく虚空を見つめてやり過ごした。それは、その体験の中で初めて、終始見られる身体でもあった自分の存在を意識した瞬間だった。私はその時、ここではないどこかからベッドが置かれた部屋へと戻ってきたのだった。
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[1] https://toyokeizai.net/articles/-/433382
[2] 高山明『テアトロン 社会と演劇をつなぐもの』河出書房新社、2021年、pp.110
[3] https://vrsj.org/about/virtualreality/
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田中みゆき(たなか・みゆき)
「障害は世界を捉え直す視点」をテーマにカテゴリーにとらわれないプロジェクトを企画。表現の見方や捉え方を障害当事者や鑑賞者とともに再考する。近年の仕事に、『大いなる日常』展(2017年、NO-MA)、『音で観るダンスのワークインプログレス』(2017〜19年、KAAT神奈川芸術劇場)、映画『ナイトクルージング』(2019年公開)、『オーディオゲームセンター』(2017年〜)、『視覚言語がつくる演劇のことば』(2020年〜、KAAT神奈川芸術劇場)など。大阪万博日本館基本構想クリエイター。展覧会ディレクターを務める21_21 DESIGN SIGHT企画展『ルール?展』が現在開催中。https://miyukitanaka.net/
©︎シアターコモンズ ’21/撮影:佐藤駿