煮詰まるタイミング
黒豆を煮る。
他の調理がてら煮詰めていて、頃合いかなというところで火を止めました。頃合いというのも何の目安もないのだけど、ある程度火にかけていて、ある程度煮汁が減っていて、それでいて黒豆が煮汁から顔を出さない程度までとしたのでした。
ほんのり甘く、黒豆の美味さも引き出され、おいしくいただいています。
と行き詰った事態を嘆く様子によく使われる言葉ですね。でも、どうなんでしょう。黒豆が味をふくんで煮詰まっていく様子を鑑みると「煮詰まる」の意味ってそうなの?と疑問が湧いてきます。
頃合いを見計るのは難しいです。慣れた人にはどうということもないでしょうが、幾度かの失敗はありましたし、幾度かの大成功もありました。今回は大成功です。
煮詰まり加減が時機に早ければ味が物足りず、遅ければ焦げ付いてしまいます。ちょうどよいところで火を止めたいのだけど、その「ちょうどよい」を感じる心地に在るかどうかというのも、なかなかの秘訣だったりします。
息詰まるのは、ちょっとアレですけど、煮詰まるのはいいんじゃないかしらね。
いい味、出せてますか。
Essence:言葉は文化
日常のふとしたときに「語源」を不思議に考えることがよくあります。
古い書籍を読んでいると、今ではすっかりカタカナか平仮名で表記されている言葉が漢字になっていて、(なるほど!そういう意味か!)と知る機会があります。江戸っ子口調で書かれた大衆の聞き取り記のそれはリズム感よく、物騒な話であるのにどこか面白可笑しく読める不思議な言葉の力がありました。
言葉は変わっていきます。
言葉はその時代の文化を具現化しています。
標準かされ、言語を持たず、文化を現すことができないと、なにかが抑圧されていくように感じます。方言を無くしてはならない理由はそこにあるでしょう。方言でしか表現できないことがあることは、たぶん誰もが実感しているはず。
その土地柄と人柄が地続きであるように、土地と文化が地続きであるように、言葉もそれらと地続きであって、切り離しては理解が深まっていかないように思えます。そこに3年、5年と住み、感じ、味わうことでやっとなんとなく見えてくるものがあります。学生時代か、社会人時代か、子育て時代かによっても出会うもの、見えてくるものが違っています。
そんなわけでどういうわけかよく県を越えて転居をする機会の多かった私は旅行よりも、誰かにとっての旅行先であるこの場所を旅するのが好きです。自宅に住み、自宅で料理し、ご近所さんと会話する旅です。
自分が住んでいる町と同じように、どの町にもドラマがあると思えるから、日常のなんでもない一日の暮らしを大切に大事に思うのです。同じ思いの人がここそこに居るのだと感じるために、やっぱり自分が感じること・思うことを知っていること・わかっていることの積み重ねが、人への思いやり、人との関わりの基盤になるような気がしています。
世界のどこかを追っていこうとする前に、足元を知ると、世界のどこかに居る人を想像できるようになる気がします。きっと同じ、思うという行為は同じです。同じ空を、太陽を、月を眺めて、それぞれの場所で思いを募らせているのだと見知らぬ人を近くに感じる心地がします。
その思いは言葉で伝えるのではなく、日ごろの言葉使いで伝わるものと思います。気持ちが、心構えが、言葉と態度にあらわれるというのですから。
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