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オルタナティブスクールと整骨院

 家族が骨折しまして。鎖骨遠位端(さこつえんいたん)骨折です。
 《治療方針を決める》ときのお話です。

 それって、オルタナティブスクールに教育方針を決めるときと

(一緒だなぁ…)という実感でした。


整骨院で骨折の施術を受けるには

 医師の許可が必要です

 応急処置だけは医師の同意がなくても可能なのですが、以降の施術を受ける場合は、医師の許可(同意書もしくは口頭でも可、とのこと)が必要なんです。
 わたしたちは整骨院での治療を望んでいます。
 勝手に整骨院で施術を受けることはできないので、まず初めに整形外科で診察を受けないと始まらないんですね。


これって、オルタナティブ教育を受けるときと似てませんか

 日本の教育制度としては一条校への就学義務があるので、初めからオルタナティブ教育を受けるつもりでオルタナティブスクールやフリースクールに通う予定やホームスクールをおこなう予定であっても、まずは一条校に出向かなければなりません。事前に届いた「就学通知ハガキ」を持参して提出するためです。
 そこでオルタナティブ教育を受ける方針のため、在籍手続き(「就学通知ハガキ」を提出する)をおこない、子どもは在籍生徒となります。そして、その後、オルタナティブスクールやフリースクールあるいはホームスクール(もしくはインターナショナルスクールの場合もありますね)に通ったりするのは家庭の選択の自由があります。


患者の権利

 患者には権利があります。病院の待合室などに下記のようなことが張られているのを見ました。

沖縄県立中部病院

個別的な医療関係において患者自身の主体性を強調するという観点から、患者の人格が尊重されるとともに、患者が自らの意思と選択のもとに最善の医療を受けることができるという、患者としての権利を、特に「患者の権利」と言っています。

患者の権利オンブズマン

十分な説明を受けた上で、検査方法、治療方法を自由に選択し、決定する権利があります。

 治療方法について説明を受けました。要約するとこんな感じです。

手術か保存療法か
①痛みの具合による
②生活上で求められる回復への期待の程度による
③手術であっても機能回復に差異はないが、形の整えることができるので骨がつきあがって出ているでっぱりを直すことができる
④事故直後から1週間たっているので、レントゲンで確認し、経過による

 ちなみにこの時点で「レントゲン撮影」は必須条件になりました。怪我から1週間後のレントゲン撮影になります。加えてCT撮影も行われましたので3Dで骨の状態を確認することができました。結果、次のことが分かりました。

①骨が順調につくられつつある
②三角巾で吊っておくだけでつながる
③保存療法も可能である

 患者本人の意思で保存療法に決定しました。そこで、整骨院で治療を受けることについて説明を受けました。要点は以下の通りです。

①整骨院に通うのは患者さんの自由
②整骨院で骨を下手にズラすことがあると、後の対処を整形外科に丸投げされることがある(整骨院は責任を負わない、の意)
③連携はしない(②の理由から)
④保険は別にしてほしい(=保険は適用できない(※ここで許可があると保険適用が可能になる。)

これって、オルタナティブ教育を受けるときにも必要なことです

 選択の自由があること、そして、それを選択した場合に起こることの説明は必要ですね。

 ですが、この主観による「偏見」は困りものです。
 例えば②は、一方的に整形外科からみるデメリットですが、これは双方向で起こっていることです。整形外科で受けた手術で生じた不具合を調整する必要があって整骨院に助けを求める場合だってもちろんあります。
 「③連携はしない」は、整形外科および病院の方針であって、正しくは「連携したくない」の意です。法律や制度上に「連携しない」理由や制限はありません。ここに患者の選択権は《ない》ことになってますね。「④保険は別にしてほしい」も同様です。どちらも病院側の患者に対する希望やお願いです。

 学校の立場からの説明もこれに似たことが起こります。

 説明は、公正な立場でおこなわれることが重要です。そのための相談窓口は、教育分野にも医療分野にもないのでしょうか。

自由診療で保険適用にならない是非について

 「整骨院に通うのは自由です」ということは言ってもらえました。そこで整形外科での診察後すぐに整骨院に向かいました(予約制ですがちょうど時間が空いていたので。)。
 すると、そこでこんな説明を受けました。こちらも要点だけ書きます。

①保険適用するか、しないかではない
②骨折の施術は、医師の許可がないとできない
③骨がつき、固定がはずれたあとからの運動のアドバイスなどはできる
④固定帯の装着方法の相談は受けることができる

 調べたところ①について、「整形外科に通院しながら整骨院にも並行して通う場合には、保険は適用できない」と説明した整骨院もありました。

自由診療は保険が適用されません

 それについては、私は強い反対はしません。むしろ、自由診療も保険診療と同額で受けることができるようになると、自由診療を選ぶ理由に不安を覚えます。保険診療である病院の受診は、かなり「お任せ」状態になり、患者は医師の判断と決定に丸投げする傾向が強いように思います。よく言えば《信頼》ですが、(どうせ医療のことはわからないから)と思って、よく説明をきかなかったり、理解しないまま「すべてお任せします」となったあと、「思っていたのと違う」結果となったときに、「説明したじゃないですが」「知りません」といった水掛け論に発展するようなことになりかねません。
 いずれの場面でもそうですが、(専門外だから)とか、(専門知識は理解できないことだから)といった固定観念でいると、自分のことなのに、なにもしらないでいても平気でいられるんですね。(間違いや事故はおこるはずはない)と思っていられるようです。そんなことは決してありません。
 万が一ということはあります。絶対ということはありません。
 だからこそ、説明が充分になされ、理解と同意を得ることが大前提ですし、互いの安全と安心のためには必須なんです。それこそが双方の信頼関係を築くことですし、問題が生じた時の対応や対処もそれによって協力し合って問題解決に臨めるかどうかが決まります。

 その点、《自由》診療というのは、「選ぶ人の自己責任」が特に言われます。自己責任というのは「選んだのは自分なのだから、なにが起こっても、それは自分の責任だ」という意味では決してありません。

 自己責任とは、「充分に理解したうえで選択する」ということです。

 保険診療であっても、それは同じはずです。その意味では、自由診療も保険診療も違いはありません。けれども社会的に見て、特に「自己責任の意識」を持つことが重視されているのは自由診療だと思います。保険診療ではなにかしらの事故が起こった場合に「病院側の責任」を徹底的に追及することが、社会的に重く受け止められているからです。

 【社会的な認識】って…良くも悪くも、人の人生に大きく影響するんですね。

これって、オルタナティブ教育を受けるときと似ていませんか②

 似ていますよね。
 一条校(学校)は、国が定める機関ですから、社会的に「大きな責任」を追っています。公的な立場で問われる「保証」と「保障」と「補償」です。
 校舎や教科書が直接的には(※)保護者の負担とならない「保障」があります。(※税金から教育費に振り分けられますから、すべての国民は国公立学校の運営を支えています。税金を納めている保護者もそのひとりです。)
 教員免許を持った教師が学習課程を履修する授業を行い、学習を受ける「保証」があります。
 病気療養中には院内学級への転学や、特別支援で教育を受けることや、要保護世帯等への就学支援など「補償」もあります。
 こどもがどのような状況に置かれていても、一定の学習環境を整えることが「公教育」の要です。

 学校教育に対し、自由教育と位置付けることができるオルタナティブ教育にはそれらがありません。オルタナティブスクールやフリースクールそれぞれの教育理念や活動方針を充分に理解し、納得して選択することが最も重要なことです。それが自己責任です。運営は、利用する家庭とスクールとの間で協同することが大切です。スクールスタッフだけががんばっても、スクールの理念と運営を実現するのは難しいものです。運営を継続するために、スクールの教育理念とかけ離れた要望を受けいれることは、教育の自由、教える自由、学ぶ自由を失います。教育者の主体と学習者の主体それぞれの自治と自律性は守られなければなりません。だかこそ、保護者とスクール運営者は定めた指針を共に見据えて進むことに意義があります。そのうえでの「よりよい策」を互いに意見を述べて、語り合っていくことになるのでしょう。

 このような公教育とオルタナティブ教育(自由教育)の違いがあります。
いずれは、どちらを選択するにしても、選ぶことをあきらめる理由が、経済的なものでなくなる制度設計が望ましいのは確かなのですが、現時点では経済的格差が解消されてしまうことによって見失ってしまうことのほうが大きいのではと感じます。教育の自由よりも、自由な教育を受けた未来の可能性を見出す期待と寛容さよりも、学校教育の代替機能を求める声がおおきいからです。学校教育の教科学習の履修を認めることなどです。

「選ぶ」理由

 整骨院でお聞きした話ですが、「整骨院での施術の許可を受ける条件」みたいな話です。

整形外科の外来診療の受診を受けることが困難な理由がある

 「それじゃあしかたないよね」って感じですよね。
 整骨院のほうにも、「それなら」と受けいれるのであれば、なんとも消極的だなという印象です。(それで本当に骨折の施術をする技術があるのかな?)と一抹の不安を覚えます。
 整形外科では「鎖骨の骨折はたいして運動機能に影響がない」ようなことを説明されました。「腕が90度以上あがることはないけれど、それは手術をしても同じ」とも話されました。いかにも、「日常的に問題ではないから」といわんばかりの口調でしたが。腕が90度以上あがるかどうかが「問題か否か」を判断するのは患者本人です。
 将来、我が子から「高い高いして!」ってねだられたとき、してあげられないかもしれないってことですよね。非常事態にもしかしたら縄梯子を昇降しなくちゃいけない状況に陥った時に、できないかもしれず、危険地帯においてけぼりにされるかもしれないってことですよね?不安になることなんて人それぞれですよ。なにを大切にしているか、人それぞれ違うってことなんですよ。もっともらしく「普通は」みたいな感覚で他人が結論づけていいことではないと思います。
 そして、理由や根拠についても、他人が「それは正当だ」と判断したから認められるのだ、という考え方も間違ったことだと思っています。

オルタナティブ教育を選ぶ理由

 学校教育を選ぶときに、その理由は、社会通念上あまり求められていませんね。だれもが「あたりまえ」だと考えるからでしょう。ところがオルタナティブ教育を受けるとなると相応の「理由」を求められる場面が生じます。
 心配からでしょうか。デメリットが大きいと思われるからでしょうか。どちらもあることでしょう。けれど、それでは話が食い違います。理由を求める動機が大きな課題です。
 それは誰が納得するためですか。説得することができるのであれば許可しますか。オルタナティブ教育でも学校教育でも、「選ぶ理由を正当だと認める動機」がそれであっては、学習者の権利は守られていないように思います。
 「認める」主体は誰なんでしょうか。

「認める」とはなにか

 整形外科では、「整骨院での治療は許可できない」ということでした。これは個別の治療上の問題点を検討したことで導かれた結論ではありませんでした。社会認識上でのことで、整形外科医からみた「整骨院への不信」からくるものといえます。
 結果、「整骨院に通院するのは自由です」と言い渡されましたが、実際には、骨折の治療方法の選択肢は奪われています。整骨院での施術内容の説明を受けることができず、それを「受けるかどうか」の選択の決定権を奪われています。
 患者の権利が護られているとは、とても感じられませんでした。

 【保険の適用は認めることはできないが、通院と施術を受けるかどうかの選択権は患者にある】というのでしたらまだ分かります。保険の適用の有無が、被保険者によって無限に認められてしまうと社会保障制度が圧迫されるということでしょうから、決定権は今の所は医療機関にあるものだと思います。一定の判断基準が設けられています。

オルタナティブ教育を選ぶ権利、選ばない権利

 オルタナティブ教育を「選ぶ権利」が声高に叫ばれますが、「選ぶ」とは「選ばない」ことも同時に選択肢に並んでいないといけません。学校教育に関しても同様です。それが選択の自由です。
 「選ぶ行為」に、第三者の許可が果たして必要でしょうか。
 選んだあとの結果について、選ぶ主体者自身が自力ですべてを解決しなければならない理由があるでしょうか。

社会の寛容さ

 自由な選択を「認める」ことは、無関心でいるという意味ではないはずです。無関心であれば「だれが何を選んでもいい、その後の事には関係ない」という態度でいることができます。それは他人事です。
 ですが、いつか自分の身に降りかかるかもしれないのです。自身の身近な人、大切な人に降りかかる出来事かもしれないのです。どんなことも、そうです。社会への関心事は、どんなことも他人事ではいられなくなる可能性を秘めたすべてのことがあてはまります。「身近に感じる」基準はそれぞれにあるでしょう。だから気づいたことからひとつひとつ関心を広げていくことがはじめの一歩といわれます。とても地道な、ちいさなことですが、とても大切なことです。そして、多くのことに関心を広げ、多くを知るようになると、どんなことにも通じる本質があると気づきます。その本質というアイテムを使えば、初めて見聞きすることにも「通じる」なにかを感じることができるので、なにが問題点なのかを理解しやすくなるようです。

ひとつの正解をすべてにあてはめないで

 ひとつの正解を、共通した道筋で理解することが、これまでの教育だったのではないかと思います。それは、ひとりの人間から世界を見渡すことができる道具を持つようなことでした。
 そのことによって、目の前にいる人については、どうしたら見えるのか、理解できるのかは、かえって難しくなった気がします。

私が蜜柑を好きなように、あなたは苺が好きなのね

 それだけのことが、なぜかわからなくなっている場面が多い感じがします。

 個人を尊重すること
 基本的人権を護ること
 個人の尊厳を護ること…

 わたしたちは、これをどこで知り、学び、身に着けているでしょうか。

選択の自由を護る

 「だから言ったじゃないの!」。
 こどもが選んだ結果が、期待通りにはいかなかった時、困った結果になった時、おとなの口からは、心配する気持ちからついそんな言葉が出てしまいそうになります。でも、それを言ったら、元も子もなくなりますね。
 選ぶこと、そしてその結果まで知りえることで、分かること、知ること、納得すること、気づきと学びがあるからです。
 
 人はいつまででも学び続ける生き物です。
 完成して終わりを迎えることはないですし、時間を戻って進むこともありませんから。

 選択肢を並べるだけでも難しいことがあります。
 「選択する」を学び会得することから始まります。
 選択する方法もいろいろあります。繰り返しますが「選ばない」も選択肢のひとつです。
 そんなことを何度も経験していくと、「あなたらしい選択肢ね。あなたらしい選択ね」ということが見えてくるでしょう。時には、「意外な選択」にもであることだってできます。そこにはたぶんきっと《自由》があります。

 間違ったとしても、そのあとも、人生は続きます。
 そのときはベストだったとしても、次には条件が違っていて、ベストな選択も変更があるかもしれません。

 【最初から大正解】は選べません。次々と状況は変化するからです。「選んだことが大正解だった」と分かるのは、後になってからでしょう。「正解では無かった」こともあるかもしれないけれど、どちらにせよ、自分がどう判断するか、でしかないんじゃないかなとも思います。他人の評価より、自分の「満足」を選ぶのであれば。

 選択の自由は、「護るもの」なのでしょうね。
 与えられたら、奪われるのかもしれません。与える人によって。
 すでに自分が持っているものは、自分で護り、周囲も護ることで、失われないように努めるものなのでしょう。
 自由は、奪われもするし、自ら捧げてしまうこともあります。それによって得る報酬があるから。自由を奪われてはならないと強い意志を持つには、なにが必要不可欠なのでしょうね。

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