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かえたい、かわりたい

「自分をかえたい」。
「かわりたい」。

 どちらでも自分にしっくりくるほうでいいんだけどね。動機はなんでもいいですけど、やっぱり考える時はあるじゃないですか。「自分をかえたいな。かわりたいな。」って。ものすごくいいと思う。やってみて。
 まずは、やってみようよ。
 かえてみよう。かわってみよう!

 自分の何をかえたい?
 そこからですよね。何だろうなぁ。どんなとこかなぁ。

 あれ?どういうわけか、自分のいやなところ、きらいなところ、好きじゃないところが頭に浮かんできました。「かえたい」ところって、こういうことなんだろうか。自分にひっつけておきたくないようなところ、なんだろうか。あれ?私って、そんなに自分のことがきらいだったんだろうか。

 自分のいやなところ、きらいなところ、すきじゃないところは、いつ、自分の一部になったんだろう?どうしてだろう?

 そうでした。それは自分をまもるために「そうでなければいけない」ことだったのでした。例えば、良い子でいるために。叱られない子でいるために。つきあいやすい子でいるために。強い子でいるために。手のかからない子でいるために。優しい子でいるために。話のわかる子でいるために。褒められる子でいるために。仲間を裏切らない子でいるために。おもしろい子でいるために。個性がある子でいるために。他とは違う子でいるために。みんなと同じ子でいるために。そのために必要な仮面やコートや飾りをごてごてとつけていることに気づきます。
 それ、全部、脱いじゃえ!それでいいんじゃないかな。だって、そうしたいと今、思ったんだもの。今、思ったということは、今、そうしたいし、そうしなきゃいけないって感じてるっていうことだし、そうできるのが今だって知っているということだもの。チャンスなんだな。
 今までは、まだ少しそのエネルギーが足りなかっただけなのかもしれないのです。自分を守るべき渦中にあっただけのことかもしれないのです。でも、今はじめて「かわろう。かわりたい。」と考え始めたということは、そのための準備ができましたよ、と心が伝えてきているんです。心の声は、いつも叫んでいるわけじゃない。心の声はあきらめることも知っているし、今は届かないんだと判断するし、そして、その時をずっと一生待っていることだってできるものですから、いつその声を拾うのかは自分次第です。そして、今、聴こえてきてしまったわけです。準備ができたから。そうだよね。

 考えてみて、とことん自分とつきあって考えてみると、どうしても今は脱げないものがあるなってことにも気づくと思うの。それはそのままでもいいんじゃないかな。そして、それよりもっと変えられない自分にもきっと出会う。きっとあなたは本当の自分を見つけてしまう。本当の自分に出会うだけのちからがついてきたんだね。今までは「こども」だったから。世界のぜんぶが「あなた」だった。「あなた」と誰かほかの存在の境界にきづかないほど同化していたのは、あなたがそうやって守られてきたから。
 これからあなたは、あなた自身に、自分でなろうとしているところです。

 ねぇ、余計なことをいうようだけど。こんなに大切な時間に、もっとも「ひとりの時間」が必要なそのときに、あなたたちは何をしているんだろう?同じ時間に起きて、同じ顔ぶれに「おはよう」を言い、しなければならないこと、済ませておかなければいけないこと、気持ちを置いてけぼりにしてまでもこなさなければいけないことに追われている毎日を送っているのでしょうか。今という時間をどう使うのか、その自由はある?あるよね。勉強ならいつだってできるってそういうことだよ。私はいつだって勉強したい。知らないことを知りたい。おばあちゃんになっても「人生で初めて体験ですよ!」って言いたい。今だってそう。
 友人との語らいは、そうしたいと思うときに互いにインスピレーションで通じ合うような劇的なタイミングで出会うものだよ。離れがたい時間を知っているでしょう。いつまでもこうしていたいという時間があったでしょう。それは毎日じゃない。時間をどう使うのか、時間は人生そのものですよ。自分のものですよ。いつだって、間に合わないなんてことはない。どれだけ時間をかけてでもと思えることなら、ほとんどのことは始めた瞬間から続けていくし、それが断続的であっても、きっとずっと自分は続けているんだろうと想像している。

 周囲の優しさでつくられた自分の殻を脱ぎ捨てて、自分で自分を創りはじめるときのことを思春期というのです。そんな名前をつけられるとなんだか恥ずかしいものですね。つまり10才前後から始まるそんな大切な時間を奪ってまで、その時期の人格にさせなければいけないことなんて、およそ無いだろうということなんですよね。そこから先、本人が自分で、自分に必要なことを探して、やってみて、自分を育てていくチャンレンジを繰り返していくのを自立というのだと思うのです。どんな自分でありたいかと問い続け、「ひとり」である個をみつめながら進んでいくことを自分を律する自律というのだと思うのです。あとは任せるから。怖れず、進んでほしい。

 ひとつ、訊きたい。
「自分を替えよう。代わりたい。」そう思ってる?

 それでいいと思うんだ。やってみたらいいんだよ。
そしたら部屋の模様替えをします。私はね。本棚を眺めると、今までの私の気持ちが求めていたものがそこにずらっと並んでいることに気づきます。よし、片づけてしまおう。捨ててもいいなら、捨ててしまおう。誰かに譲ってもいいし、どこかにしまい込んだっていい。
 だって、これからまた別のものが増えていくからね。そのスペースをあけとかなきゃ!なんです。ワクワクするね。

 「違うな」って思ったら、軌道修正すればいいだけのこと。そんなに大層なことじゃない。


 いつだって、人生は選択の連続です。
「かえたい」。
「かわりたい」。
 そのたびに新しい自分を見つけるでしょう。
 そのたびに変えられない自分の根っこをみつけるでしょう。
 蒔かれた種は、すでにその内に育つ樹の姿の情報は詰まっていて、その葉の形をあとから変えることはできないでしょう。でも、どこまで大きく伸び、育つのかは、まだ決まってない。
 決まっていないんです。



 

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