ホームスクールとこどもの病気や怪我のケア
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ホームスクールはおうち暮らしです。親と子、家庭を基盤にした暮らしですから、家族の健康もお互いにまなびあえる話題です。多岐にわたるホームスクール暮らしのエッセンス第1弾です。
Essence 死生観
こどもって、よく熱を出しますね。たぶん病気にもかかります。
ホームスクール暮らしですと園や学校からの病気の感染というルートがほぼ無いので、それほどの機会は無いように思いますが、こどもの成長過程で必要な症状を出すときはありますし、小さなケガも元気よく遊んでいれば、よくあることです。ケガをするにも「怪我をしやすい心の状態」というのもあって、その点ではリラックスできる暮らしぶりにあると大怪我や事故にはあまり遭遇しないとの実感があります。心も体もリラックスしていると柔軟性に富んでいる状態にいますから、危機回避や咄嗟の対処能力に優れているのだろうなと感じます。なので運もすこぶる良かったりします。
症状が起こる時というのは、なにが原因なのかと言われても決定づけることは困難で、それこそ複合的な理由が折重なって事態はそこに表出しています。我が家でこどもたちが幼い時、どういうわけか病院通いに止まることが無いというのもそのひとつでした。
「このままではいけない」と思い、病院に通わないようにするためには、と考え始めるようになりました。だって未就園児は医療費負担ゼロだけど、就学年齢を越えたら3割負担だったんです。こどもの人数分がかかってくることは容易に想像できました。おまけにその頃の私は喘息持ちでやはり通院が常でした。
そんな生活を変えるためにおこなってきたことがふたつあります。
薬なのだから安全だと思ったら大間違いで、大切なのはその管理と使用方法が基本なんですよね。
×高血圧の人が飲む薬→〇血圧を下げるクスリ
×熱を出したら飲む薬→〇熱を下げるクスリ
この理解なんですね。ある時、救急外来の場面に遭遇しました。隣のおじいちゃんの問診の声が聴こえてきました。高血圧でお薬を飲まれていたんだそうですが、その日は朝から何も食べていないのに薬だけは飲んでいたそう。倒れて運ばれてきた原因はそれだということでした。飲食後に上昇する血糖値を下げるためのクスリだったので、何も食べていないのにクスリを服用するのはアウトだったわけです。でも、おじいちゃんはご飯は食べなくても「高血圧の薬なのだから」と律儀に服用していたわけです。
解熱剤の話はもう最近では子育ち中のこどもと随時遭遇している保護者の方々の間ではもう周知のことだと思いますが「熱が出たら解熱剤を飲んで熱を下げなければならない」という理解だと、身体の中に潜む悪いウィルスをやっつけるための発熱といったような必要な発熱を止めてしまうということになり、なかなか治らない、あるいは悪化するという事態になりかねないわけですね。発熱は身体に必要な反応なので「解熱剤は熱を下げるお手伝いをするクスリ」な感じでとらえているくらいでちょうどいいんです。
薬とクスリの違いです。
薬は毒にもなるものですから調合と使い方が非常に重要です。漢方がその代表といえばイメージがしやすいでしょうか。体調により、個人の体質により、また状態により、組み合わせも使い方も違ってくるはずです。クスリのように症状が起こる仕組みに直接アタックしてコントロールする対症療法とは異なり、ホリスティック(全人的・包括的)に身体が自然治癒力を発揮するお手伝いをするという観点です。
例えば肩こり。
クスリであればそれは湿布です。痛覚神経を遮断することで痛みを緩和します。つまり痛みの原因は湿布では取り除かれていません。風邪薬も同じですが「痛みや辛さを緩和している間に必要な休養や措置を取りましょう」という考えが基本姿勢なのが伝統的な西洋医学です。西洋医療はですからあらゆる専門分野にわたっています。最近では統合医療といって各々の専門分野の連携を図って、いろんな角度から病気にアプローチしていると聞き及んでいます。
対して、東洋医学では先ほどのホリスティック観点から、肩こりが起こる原因を診るのですね。ちょっと想像してみてもいろんな原因が考えられませんか。重い荷物を運んだのが原因の筋肉への負担による物理的な痛みかもしれませんし、深刻な悩みがあってなにもかも一人で背負いこんでいるようなときに、気持ちと一緒に身体が凝り固まり、血流の滞りから起こっているかもしれない。そんな症状を診るわけです。
東洋医学も西洋医学も、もっと古い伝統医学から派生したものだといいます。その原型はインドにあるアーユルヴェーダに見られるのだということです。ひとことで言えば、暮らし方・物事のとらえ方・考え方・価値観・人生観等々がまるっとその人間性を造っているという観点で、その肉体的な性別や年齢別でも、それぞれに適した一日の過ごし方や症状の改善の方策までもが異なっていると教えてくれるものです。
日本に明治以降、伝わってきたのは西洋医学のほんの一部ということですから、薬という観点からの転換と伝統的な西洋医学への未熟な理解が曖昧なまま民衆に広まってしまった側面があると言わざるを得ません。
この基礎基本に立つと、医療やクスリ、薬との付き合い方も変わるというものです。病気に対する考え方も見方も違ってきます。なにより、こどもの回復力を信じることができるようになり、自分自身も不必要に不安になるということも減ります。医師にかかる必要な時という見極めと判断もおこなうようになっていきます。
お医者さんも小さい子の発熱では無理をして時間をかけて寒い外を連れて来たり、長い待ち時間をソファや車内で待たせるよりも、ある程度なら自宅で静養している方が良いですよとおっしゃっています。ただし、どうにも判断に難しい時や気になるときは遠慮せずに時間外であっても受診をしていいんですよ、というのも同時に覚えておいておきたいことです。
お父さんお母さんおじいちゃんおばあちゃんがどこまでこどもの状態をよく知り、その判断のしどころを抑えているかで、より善い対応につながるということですよね。ここで大切なのはやはり目の前にいるこどもの状態を普段からよく見ていて、その変化の見通しが立てられることです。なにかいろんな対処法を知っているだとか、民間療法を施術できるということではないのです。こどもの不安や親の不安をやわらげることが先決ですし、いちばん重要です。その相談相手が身近にいるといいですよね。
最近では誕生前からのおつきあいを続けてくれる助産師さんの存在の復活が望まれています。出産時だけでなく、出産前から誕生そして成長してまでも、長くつきあっていただける頼もしい存在がいてくれるなら、子育ち親育ちが家庭内で孤立しなくても済みますから、ありがたいことですよね。ただし助産師さんにも偏った現代医学の知識だけでなく、賢知の人であってほしいと期待します。それに妊娠出産時が判明した後だけでなく、妊娠前からのおつきあいもあってほしいものです。妊娠できない不安、こどもを持たない選択、それらを支える存在であってほしいですね。
健康について、病気との付き合い方について、そして自分の身体について氣を配っていると家族の間で共有の認識になっていると、それぞれの死生観を育むきっかけになるものと考えています。
共通した死生観を家族全員で持つ必要は無いと思います。それは個人の価値観ですから、家族とはいえどそれが同質である必要はありません。ですが死生観を持つことは必要不可欠だと考えています。自分自身にそれが核にあることで、他人のそれも尊重するという姿勢が育まれると思えるからです。死生観を持たない人には、人それぞれの死生観が在るのだ、いろんな観念を有している人がいるのだということに気づかないでしょう。
《死生観を持つ》というこの目的は、アンスクーリングが持つカリキュラムといえるかもしれません。そして家庭教育が持つ家庭哲学といえます。各々の家庭で、どのように家庭教育の指針を持つのかということは恋人時代から話しておいてほしいな…と思うのは、将来、共にふたりのこどもを育てるという心構えと覚悟の確認でもあると思うから。
そして人の生と死の尊厳を守ろうという心でもあります。
我が家では保険証に記載する臓器提供についてたびたび意思を確認しています。保留もアリで、考える機会であるということです。自分の肉体を健康に管理維持する責任の所在、死んだ後の肉体への始末までをも自分で考えてみようということです。葬儀はどうするか、という話題もあがります。
死に方について考えることは、同時に生き方についても通じるんですね。
ホームスクールでは既存の決定づけられた年次カリキュラムに必ずしも従いませんから、こういった話題は必要な時にあげる(ホームスクーリング)、あるいはあがってくる(アンスクーリング)もので、その時の年齢もタイミングも全員異なっています。ホームスクーラー(親)として、我が子にとっての最良のタイミングを見計らっておこなわれることでしょう。
家族で一緒に暮らしている間に明確な答えがこども自身に出ていなくても、どこかで心に残っていけば良いと思いますし、大人になってから再び考える機会につながったり、芯にあるものになっていけばいいなと思います。家庭教育における教育の種ですね。いつ芽吹くかはわかりません。それがいつ蒔かれた種であるのかをはっきり自覚するのも難しいでしょう。ホームスクールで過ごしているうちに、いつのまにか蒔かれている種です。
ホームスクールと家庭教育は同義ではないですが、きわめてよく重なっています。家庭教育はやはり教育の部分です。親や保護者がこどもに与える、与えたいと思っている、孫にまでも伝えたいと思っているような信念の部分であると思います。これらを意識して、普段の暮らしにちりばめることが容易なのがホームスクールというまなびの環境だといえます。そして不用意にこのような信念の部分を侵害される事態を避けるという利点もあります。こどもによりけりですが、他人に影響されやすい、また優柔不断であったり、優しすぎて逆に自分の意思がゆらぎやすいようなこどもには安心して、自分の価値感や概念をじっくりと丁寧に育むことができる時間となることでしょう。やがて他者の価値観に触れた時には、さらに自分が持っている価値観や概念の理解を深めることになり、人として大いに成長していってくれるでしょう。
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