占いも運転も最後の決断は自分にかかっている模様
7月だ。
一斉に占い界隈が2024年下半期占いを掲載してくれるので読む。読み物が増えてくれるのでスマホ中毒としてはとてもありがたい。
そして大体結果を忘れて生きていく、無意味なことの繰り返しの人生だがそれが楽しい。点々とは覚えている。10月に金運が良くなるはずとか、ノーメイクでパーティしようって気になる、とか。
後者については比喩的な表現だとは理解しているが、私にとって人混みにいくだけでも精神がダメージを受けるのに果たしてノーメイクで「楽しんでますか?」などと人に声をかけるなんてできるだろうか。未来の自分の変化に期待する。
車の運転の練習が滞っているので7月は強化月間にする。8月には九州で車を運転するのだ。友人ら3人もの命を預かって。自由な時間は週末くらいしかないので焦る。
とにかく高速に乗り、駐車場に止め、ガソリンスタンドでガソリンを入れられるようにならなければ。基本的なことすぎて書いていて泣ける。
運転の練習ともなると、ある程度遠くなければならない。目的さえあればカーナビを触る訓練もできる。そう、カーナビをまともに操作できないのだ。
あんなに感覚的で簡単なシステムもそうない、と知人には言われるが、私はどうもカーナビと相性が良くない。目的地の設定を3個くらいしてしまって、どうやって戻ればいいのか途方に暮れた。
操作性だけではない。たまにガイドされる「斜め右」の表現も緊張させる。斜めの概念は人それぞれなので斜めがどのくらいのものかわからない。
またある時は踏切がないところで「まもなく踏切です」と言われずっと走りながらビクビクしていたこともある(地図データのアップデートがされていないとそうなることもあるらしい)。
運転は元来孤独なものだ。最後の最後には自分の決断が全てとなる。どんなに占いに「右折し続けると快便になるかも」と書いてあっても、右折するかしないかは最後は自分の決断にかかっている。
占いを読み耽る夜も、助手席で眠りこける友人や家族を乗せて運転する夜も、同じくらい幸せな夜だ。その幸せな夜の間中も私は決断をし続ける。
決断と書くとかなり大げさで、なんだかすごい責任が伴うように感じるけれど、みんな毎日やっていることだ。大丈夫。占いよりは精度は高い。なんたって経験がこの手にはある。
過信せずに道を行けば、自分だけが見ることのできる景色がきっと、待っているはずだ。