3つのふるさと
第1の故郷
私の故郷は神奈川県横浜市保土ヶ谷区で、東海道の保土ヶ谷宿があったところです。横浜開港前からあった宿場町の誇りからか、横浜と呼ばれることを好まない人も昔は居ました。実家は宿場からは少し離れていますが、やはり旧東海道がすぐ近くを通っています。安売りで有名な近所の松原商店街は、東海道沿いの海に面した松の原だったといいますし、町にある橘樹神社はたいへん古い由緒あるもので、東海道を永らく見守って来ました。
橘樹神社の狛犬
熊襲大和南部の人の混ざりし者
家族の話 合わせた我は
2018.12.14.*
そんなところに生まれた私ですが、父は青森の野辺地町(旧南部藩)、一緒に暮らしていた母方の祖父は福岡県の飯塚の生まれです。父は南部人と大和人は違うと言い、母方の祖父は、九州人は熊襲の末裔だと言っていました。母方の祖母は横浜の人で生粋の大和人なので、僕は全くの混血です。家では蕎麦の汁は関東風、うどんの汁は関西風で、文化も混ざり合っていました。
実家には、私が子供の時には最高で12人が騒がしく暮らしていました。家の前には小さな公園があり、浮かれた学生が夜中に花火をして騒いだこともあります。お陰で私はうるさい場所でも平気で眠れます。まあ、よしわるしです。
平らだと何とはなしに落ち着かぬ
坂道ばかりの街に生まれて
2018.11.12.
横浜は坂の街です。私の通った幼稚園と中学校と高校は急な坂の上でした。お陰で足腰が鍛えられた部分もあるでしょうが、あまりに開けた平らな土地を見るとくらくらします。坂のない街には暮らせる気がしません。長崎に行った時にはまるで故郷のように感じました。坂が多いことと和洋中折衷の建物群がそう感じさせるのでしょう。それともう一つ、古い民家が並ぶ街並みがないという点も共通しています。どちらも空襲で焼かれた街だからです。これに気がついた時は胸が詰まりました。私には昔から古い街並みに何とも言えない違和感があったのですが、この事がその理由だと思ったのです。暮らしてきた環境とは全く恐ろしいものです。
街
細い坂道の多い
港町に育ったので
平らな土地は落ち着かない
同じように
古い街並にも馴染めない
空襲があった街に
生まれたからだろうか
青森で生まれ育った父は
敗戦の少し前
いっとき平塚にいて
そこで空襲を受けた
豪傑で遊び人だった祖父は
どうせ助からぬ
街が焼かれるのを見ながら死のうと
父を抱えて屋根に登った
父は見た
街の外縁を焼いて
逃げ道を塞いでから
徹底的に爆撃するその様を
父と祖父のいた家は
その円周の少しだけ外にあり
2人は助かった
長崎の港近くには坂が多い
横浜に生まれ育った僕は
故郷のような心地良さを
訪れた時に感じた
でもそれだけではない
息づく共通のもの
きっとそうだ
2019.2.25
第2の故郷
20年経っても胸で燻るは
2年過ごしたマサチューセッツ
2018.12.14
(2021.11.26改定)
東アジアを故郷と慕う人となる
2年のアメリカ暮しの故に
2018.12.14
(2021.12.17改定)
「しばれるなぁ」父が話した南部言葉
凍るBostonで肌身にしみる
2018.12.14
(2021.11.26改定)
アメリカに2年半ほど留学していたことがあります。2年はマサチューセッツ州のボストンの郊外、半年はワシントン州のシアトルです。どちらも横浜と同じ港町なのは何かの縁でしょうか?このアメリカでの生活は忘れられないものです。今でも懐かしく思います。
マサチューセッツでは、多くのアジア系の友人ができました。台湾人、韓国人、中国人、ボストン生まれの中国系アメリカ人などです。彼らとは価値観の違いから喧嘩もよくしましたが、それだけ多くの事を学びました。そんなこともあってか、日本に帰って来てからもう四半世紀以上経つのに、私は今でも自分を東アジア人と感じているようです。その事を特に強く感じたのは、オリンピックのフィギュアスケートで殆どの種目のメダルを東アジア人(日本人・韓国人・中国人)が占めた時です。どうしようもなく興奮してしまって、自分でも驚きました。日本の選手と韓国の選手の競り合いなどは、私にはどうでもよかった。メダルということだけでなく、東アジアにこんなに素晴らしい選手が揃っているということが、何とも嬉しかったのです。このような東アジアに対する強い「愛郷心」のようなものが、たった2年で醸成されるのかと思うと、何とも複雑な気持ちにもなります。自分が元々もっている生まれ故郷への愛郷心も、何か疑わしく思えてくるのです。そんなものは2年で出来上がるものだという冷めた気持ちがどこかにあるのです。そういった冷めた面も持ちながら、やはり何かあったら、また東アジアの為に熱くなるのだろうと思います。人とは何とも不思議なものです。
マサチューセッツの生活の影響で、もう一つ卑近な例を言うと、ぽそぽそして臭くてまずい米への郷愁の念があります。この場合のまずい米は、タイ米などの日本米とは異質なおいしさを持つ米の事ではなくて、おそらくどの民族もおいしいとは思っていない米です。これが時にボストンでは中華料理屋などでも出る。単に安いからです。その店の常連もおいしい米は知っているし、おいしい米を使った店もあるのですが、そういうところは値が張るので、そうしょっちゅうは行けないのです。
そしてその時は仕方がないから食べていたそういった米を、私は時に無性に食べたくなるのです。たまにですが、海外のホテルのビュッフェで、アジア人向けなのか、申し訳程度に米が出る時、この手の米のことがあります。そういう時、私は真っ先にそれを取りに行きます。そして食べると何とも言えない懐かしさを覚えます。他の日本人は誰も見向きもしない米なのですが。不思議なものです。
第3の故郷
緑陰にタンバクンダの茶の甘苦
酒二人 身振りで語る夜長*かな
2021.1.11
月天心* 祭の帰り野路の伴
2020.12.23
西アフリカのセネガル共和国のタンバクンダという街に2度滞在しました。ジェンベ Djembeという太鼓をやっていて、その太鼓の師匠の故郷に、太鼓とダンスを習う為に行ったのです。その為のツアーに参加したのですが、1回目はツアーが帰ったあと残り、2回目はツアーよりも先に現地に入りました。1人になるとツアーの間の教室的雰囲気はなくなり、教え方は途端に厳しくなります。言葉も英語を話せるのは先生以外にもう1人いるだけで、あとはバンバラ語で僕には分からない。主に身振り手振りの会話です。先生はいい音色が出るまで個人練習しろと言い残して数日姿を消し、戻って来て音色に一応のO Kが出ると、今度は言葉の通じない村の名人達のレッスンで怒鳴られたり呆れられたりの連続。夜は集まった踊り手に向けて叩き、祭りに連れ出されては皆の前で踊らされたりと、とにかく実践につぐ実践でヘトヘトになりました。そんな中でもアタヤというお茶や時にはお酒を飲みながら英語・日本語・バンバラ語が混じった言葉や身振り手振りで話し合い、愚痴を聞き、時に喧嘩もし、前よりも対話を楽しめるようになって来ました。1人になって最初は3日で帰りたくなったのが、だんだんと帰るのが残念に感じるほどになりました。
アタヤを飲みながら一息
ツアーの間にバラという祭りがありましたが、私は友人に付き添って病院に行っていたため参加できませんでした。その祭りの前日まで空はどす黒い雲に覆われて強い風が吹いていたのですが、祭りが終わった途端に不思議な程からっと晴れ渡りました。その様子と友人の回復していく過程とが重なり、忘れられない思い出となりました。祭りに参加できなかった悔しさは不思議とありません。今も強く風が吹くたびに、タンバクンダから吹いているように感じるのです。
旅に出て自分の愚さ身みに沁しみて
1週間の謹慎気分
長旅より帰り来たれば我が町が
おもちゃのように映り佇ずむ
2018.12.4.
初嵐旅居の匂い運びけり
2021.1.12
見出し画像の茅葺の白い家は、タンバクンダで私が過ごした部屋です。
ツアーを企画してくださったのは、西アフリカのダンスの優すぐれた踊り手である柳田知子さんです。↓
*短歌・俳句・詩に付したのはinstagram(philosophysflattail)に投稿した日付けです。思い出を詠んだものなので、内容とはずれています。留学をしたのは30年ほど前ですし、セネガルを訪れたのも昔の話です。
*とても暑いのですが、夜は涼しく長く感じたので、それを夜長と詠みました。月天心も秋で、緑陰は夏です。日本にはないタンバクンダの季節をあらわそうとして、同じ時期のことなのに季語が混ざってしまいました。私の下手糞なところです。